ロンドン軍縮会議
昭和二年八月二十四日、日本海軍に不幸な事件が起きました。演習中の重大事故です。
ワシントン軍縮条約によって主力艦を対米六割に制限された連合艦隊は、その劣勢を術力と精神力で補うべく猛烈な演習を敢行していました。島根県美保関沖において夜間索敵訓練中、軽巡洋艦「神通」が駆逐艦「蕨」に追突してしまいます。このため「神通」が大破し、「蕨」は沈没しました。さらに、軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」が衝突し、「那珂」が中破、「葦」が大破しました。死者百名を超える大事故です。軍法会議では軽巡「神通」の艦長だった水城圭次大佐が「自分の責任である」と証言し、責任の所在を明らかにしました。十二月、判決の前日に水城大佐は自ら命を絶ちました。
この事件は日本の新聞紙面を賑わしましたが、ワシントンの海軍武官事務所でも話題になりました。夜間索敵演習の方法、当時の気象、演習の日程などが論じられ、さらには水城大佐の自決が話題となりました。伊藤整一少佐は、水城大佐に同情しつつも個人的意見としては生きるべきだったと思い、それを口にしました。
「死んでしまっては仕方あるまい。生きて償いをつけるような働き方をされた方がよかったのではないかなあ」
「なにっ!」
怒声を発したのは五十六です。伊藤少佐はビクリとしました。いきなり噛み付かれたような気がしたからです。五十六は伊藤少佐を真正面から見据え、しかし、声音には抑制を効かせて言いました。
「死を以って責に任ずるということは我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の上に立つ者としてのお勤めができるというものである。そういう人が艦長にいればこそ、日本海軍は磐石なのだ。水城大佐の自決は立派とも言えるし、自分としては当然のことをやったと思っている。君のような唯物的な考えは、今どき流行るのかも知れぬが、それでは海軍軍人としていざという時の役には立たぬ。死を以って責を負った人に対しては、たとえその所業が悪いと見えても軽々しく批評するものではない」
五十六が本気で怒るのを伊藤少佐は初めて見ました。気を呑まれ、反論もできず、ただ五十六の訓戒を聞きました。言われてみれば五十六の意見もよく解ります。伊藤少佐とて日本人であり、帝国軍人です。それなりに武士道を心得ています。しかし、人前できつく叱責されたことが心外でした。
(なぜ、山本大佐はあれほど厳しく俺をとがめたのか)
五十六に心服していた伊藤少佐は、この後、五十六の譴責を折にふれては思い出し、その真意を考え続けました。
五十六と伊藤少佐には六才の年令差があります。たいした違いではありません。にもかかわらず、このふたりの倫理観や死生観には隔たりがあったようです。おそらく、それは敗戦というものを経験したか否かの違いだったでしょう。五十六の心中には長岡藩敗北の歴史が色濃く刻まれています。五十六は、敗者を結果だけから判断することを嫌悪します。そんな五十六に比べれば、伊藤少佐には精神的な屈折がなく、結果から原因を追及することに躊躇がなかったようです。だから、伊藤少佐の態度が五十六には唯物的に見えたのでしょう。
「君のような唯物的な考えは」
こう言って五十六は伊藤少佐を批判しましたが、伊藤少佐にしてみれば自分が唯物論者だという自覚はありません。おそらく両者とも日本人としてごく当たり前の汎神論的人生観の持ち主であったにちがいありません。それは要するに祖先崇拝の心情です。日本人は大きな決断をするときには必ず祖先というものを考えました。人生の選択をするときはもちろん、どんな行動をとるか、どんな発言をするか、それを決めるとき、先祖や郷土や家族を考えました。一国として国策を定め、一民族として進路を定めるに際しては当然に国史を考えます。死者の言葉に耳を傾けたのです。祖先の意思や先輩の遺訓こそ、前途を策するうえに力強い決定力を有していたのです。死者の残した教訓は燈台のごとく暗夜の航路を照らしてくれます。死せる者を以って地下に眠るとのみ解することは、浅薄な考えであるとされました。死者の魂は日夕を問わず生者に乗り移り、生者の行動を指導している。因襲から脱離して行動していると本人が思っている場合でさえ、死者の遺言によって何となく束縛と圧迫とを感じている。それは国家と先祖を信頼し、国史の中に自身の生死を位置づけ、その意味を確信する感覚です。
これは長い歴史を有する日本人特有の精神性のようです。その精神性の濃淡が、五十六と伊藤少佐とでは少しだけ異なっていました。そのことに思い至るまで伊藤整一は十年以上を費やして考え続けました。
そんな伊藤整一の最期は悲劇的です。昭和二十年四月、伊藤整一中将は第二艦隊司令長官として戦艦「大和」に座乗、沖縄への海上特攻を陣頭指揮しました。当初、伊藤中将は無謀な特攻作戦に反対しましたが、翻意して出撃しました。その間、どのような思索や苦悩があったかは想像するしかありません。おそらく億万の死者と対話をし、連合艦隊の残存艦艇を国史に位置づける最善の方法を考え尽くしたのだと思われます。
昭和三年三月に帰国した五十六は、十二月、航空母艦「赤城」の艦長となりました。五十六は「赤城」飛行隊の錬成に邁進します。この頃、航空母艦への発着艦は搭乗員にとって神業に近い名人芸とされていました。巨大な航空母艦の飛行甲板も海上ではまことに小さく頼りないものです。しかも波に揺られて上下したり左右に傾いたりします。その飛行甲板から発艦し、また着艦するのは実に難しい技でした。だから、これができる搭乗員は名人とされ、周囲は賞賛し、本人も誇ります。しかし、これを五十六は不可としました。
「名人芸では近代戦の戦力にならない」
一定の訓練を受けた海軍パイロットなら誰でも空母への発着艦ができるようにせねばなりませんでした。五十六は厳しい訓練を搭乗員に課し、飛行技能の向上に努めさせました。技術士官に対しては整備面や運用面の工夫を要請し、さらに海軍工廠を尋ねて機体材料や航空燃料や計器類の改善を求めました。
海軍航空隊の錬成に邁進して一年後、五十六は陸に上がります。軍令部出仕兼海軍省出仕を命ぜられたのです。この人事は海軍省軍務局長の堀悌吉少将によるものでした。
堀悌吉と五十六とは海軍兵学校の同期です。堀はクラスの中でも出色の人物で、クラスメイトの誰もがその頭脳と人徳を認めていました。五十六と同様、堀悌吉も海軍少尉候補生として日本海海戦に参加しました。乗艦は旗艦「三笠」でした。東郷艦隊の放つ砲弾によって火炎に包まれて沈んでゆく敵艦の凄惨な光景を見たとき、堀は歓喜よりもむしろ虚無を感じ、その感情を次のように詠みました。
執れば憂し 執らねば物の数ならず 捨つべきものは弓矢なりけり
堀は平和思想へ傾斜します。厭戦的な思考に傾いた堀悌吉は海軍大学校の学生時代に戦争善悪論なる文章を著わしています。
「戦争そのものは明らかに悪であり、凶であり、醜であり、災である」
堀は海軍官僚でありながら、平和論や非戦論、さらには軍縮論を堂々と述べるようになりました。こうした堀の思想傾向は、偶々、世界の軍縮思潮と合致しました。そうした時代の要請もあって堀悌吉は軍縮時代の海軍を抜群の才覚でリードしていました。
海軍はロンドン海軍軍縮会議に臨むにあたり、対米七割という目標を掲げ、海軍部内はもちろん、政府とも入念に事前の打ち合わせをしました。これはワシントン会議の反省です。ワシントン会議の際には全権団内部でさえ意見の統一ができていませんでした。
昭和五年一月から始まるロンドン会議では、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦といった補助艦艇の軍縮が議論されます。日本は対米七割の確保を主張しますが、アメリカは日本を六割に抑え込もうとしています。困難な交渉になることが予想されました。堀悌吉軍務局長は交渉団の人選に悩み、同期の五十六を見込んで海軍次席隨員に抜擢しました。
「海軍の若い連中は強硬論者ばかりだ。貴様が手綱をとってまとめてくれ。席を蹴って帰らぬように」
「何だ、そんなことでいいのかい」
海軍からは首席随員の左近司政三中将をはじめ二十名ほどが交渉団に参加します。次席随員というのはその若頭格です。
「そんなに簡単ではない。対米七割ならば我慢もできようが、アメリカは六割を主張してくる。最悪の場合、六割でも呑まねばならぬ。ともかく軍縮条約の締結そのものが日米間の安全を保障することになるのだからな」
真剣な顔で話す堀大佐をからかうように五十六は笑いました。
「わかっている」
日本海軍が対米七割にこだわる理由は、過去の海戦研究から得られた知見に基づいています。既にワシントン軍縮条約によって主力艦は対米六割に抑え込まれました。このうえ補助艦までが対米六割に抑え込まれてしまうと、漸減邀撃作戦という海軍の伝統戦術が空文化してしまうのです。はるか太平洋の彼方から来寇するアメリカ艦隊に対し、日本海軍は補助艦艇による波状攻撃を仕掛け、損害を強いることで敵の戦力を弱め、そのうえで主力艦隊が決戦するのです。その図上演習によれば、補助艦艇の戦力として対米七割が必要不可欠でした。七割を下回った場合、戦術をどう工夫してみても勝てないのです。だから日本海軍は対米七割にこだわっています。逆にアメリカにしてみれば、日本を六割に抑え込んでしまえば太平洋で不敗になるのです。その意味で軍縮交渉は海戦と同義です。
この時期、日米は双方ともに無条約の自由建艦を望んでいませんでした。自由建艦競争となれば国力に劣る日本には勝ち目がありません。アメリカは自由建艦競争には勝てます。ただ、アメリカ連邦議会は概して海軍拡張に消極的でした。このため無条約となってもアメリカ海軍が思うままに軍拡できるとは言えません。だからこそアメリカ政府は軍縮条約で優位を保とうとしました。
「難しい腹芸になるぞ」
堀は五十六に言いました。部下に不満を呑み込ませて納得させるのは、よほどの人望家でなければできない芸当です。幸い五十六にはその人望がありそうでした。その点を堀悌吉は見込んだのです。五十六としては、いつもどおり猛烈果敢にやるのみです。海軍随員の意見をよく聞いてやり、時には自ら過激な言論を吐いてみせ、随員たちの心をつかんでおき、最後には条約締結を納得させるのです。
ちなみに五十六が部下から衆望を得ていた理由は、ごく単純なことだったかもしれません。余計なことは口にしない五十六ではありましたが、常に機嫌よく部下に接し、不機嫌な顔を部下に見せませんでした。部下にとって上官の機嫌に左右されることほど理不尽で不愉快なことはありません。その理不尽と無縁だったのが五十六という上官でした。部下にとっては話がしやすい。五十六は部下の話を十分に聞いてやり、速やかに判断しました。速断にもかかわらず、いちいち的確な訓戒や注意を与えてくれます。勉強家の五十六は、部下の考えよりも常に一段高い次元から判断を下してみせ、時には部下の度肝を抜くような大胆な考えを示しました。そのため部下たちは「わが意を得たり」と感じ入り、快哉を叫びつつ五十六の命令に従うのです。これに加え、五十六には日常の職務に命を賭けているような気迫があり、しかも溢れるように精力的で、いつ寝ているのかと誰もが不思議に思うほど元気です。その元気さには部下の方が舌を巻きました。そうしたことが人望の要諦だったようです。
日本全権団は昭和四年十一月にロンドンに入りました。同時に五十六は少将に昇進しました。ロンドンでの五十六は、議論に逸る部下たちに気分転換を促しつづけます。「対米七割」と過剰に思い詰めさせないためでした。ガキ大将のように茶目っ気を振り回し、冗談で部下を楽しませました。若い随員には食事をおごりました。食べきれないほどの量を注文し、無理に食べさせて面白がりました。交渉経過に対する部下の不満を緩和するため五十六自身が悪口を言うこともあります。その対象は海軍の上官や外務省の官僚、さらには交渉相手国です。
「イギリス代表は言を左右にして真摯な議論を避けている。実にけしからぬ。こうなったらオレがイギリスの国力を疲弊させてやる」
珍しく暖かい一日、五十六はホテルの部屋の窓をすべて開け放し、ヒーターを全開にしました。すでに四十五才を過ぎた海軍少将でしたが、そういう悪ふざけが似合いました。
日本全権団のなかに大蔵省主計課長の賀屋興宣がいました。賀屋は、東京帝大を卒業して大蔵省に入り、主計畑で陸海軍の予算を扱ってきました。ですから海軍の編制をよく知っています。賀屋は大蔵省の立場から国家財政を救済しようと考えていました。軍縮の実を挙げ、保有艦数を減らし、財政負担を軽減したい。何しろ軍艦の建造と維持には莫大な経費が要るのです。「軍艦で国が沈む」と言われるほどでした。賀屋は頻繁に五十六の部屋を訪れ、その持論を語りました。賀屋の話を五十六は「そうか、ウム」と機嫌よく聞きました。その感触の良さから、賀屋は自説に自信を持ちました。
(海軍の連中は聞く耳を持っている)
そう思い込んだ賀屋興宣は、ある日の隨員会議において持論を提示しました。思い切った軍縮案です。軍縮によって国家財政を助け、国際的信用をも高めることができる、と賀屋は主張しました。
「これを叩き台として大いに議論して欲しい」
賀屋は議論を促しましたが、海軍随員は苦い顔をして沈黙しました。軍事に詳しい賀屋の説明には説得力があります。海軍とて国家財政が破綻して良いとは思っていません。ですが、保有艦数を減らしたくないという腹もあります。軍縮とは、海軍軍人の首切りでもあるからです。このジレンマが海軍隨員を黙らせました。さらにいえば縄張り根性もあります。
(海軍の問題に大蔵官僚が口出しをするな)
こうした感情が沈黙となりました。
「なぜ意見を言わぬか」
賀屋興宣は声を荒げます。賀屋は文官ながら豪傑の気風を持っています。海軍隨員は気圧されそうになりました。その沈黙を破ったのは五十六です。
「賀屋だまれ」
五十六が立ち上がり、仏頂面で賀屋をにらみつけたので、賀屋は驚嘆しました。
(何たる態度の豹変か)
五十六は言います。
「この会議は海軍軍縮が主題であるから、原案は海軍から出す。大蔵省がこれ以上よけいな口をはさむならば、全海軍が鉄拳をもって制裁する」
ずいぶん乱暴なことを言ったものです。しかし、これも堀悌吉との約束を果たすためでした。全権団内の主導権を大蔵省が握ってしまえば海軍隨員団は面子を失い、不満を高め、軍縮会議そのものから降りてしまう可能性が出てきます。五十六は海軍随員の面子を守ることで海軍隨員を軍縮会議のテーブルにとどめようとしたのです。
とはいえ論外の暴言です。賀屋も負けずに怒りました。随員会議は紛糾し、隨員団内に亀裂が生じました。結果、隨員会議は二度と開かれなくなり、全権団は分裂しました。しかし、主導権は海軍の握るところとなりました。
(あの愛想と物わかりの良さは嘘だったのか)
たばかられたと感じた賀屋は、五十六の顔を見ても挨拶ひとつしなくなりました。五十六も五十六で言い訳ひとつしません。
東京では軍務局長の堀悌吉少将が苦心惨憺の周旋に忙殺されていました。なにしろ海軍軍令部長の加藤寛治大将が軍縮条約の締結に反対していたからです。堀の苦労は並大抵ではありません。やむなく海軍省は、実質的な交渉作業から軍令部を隔離させざるを得ませんでした。堀悌吉は、海軍次官山梨勝之進を補佐しつつ、きわどい国内調整を進めました。
こうした努力の甲斐あって、若槻礼次郎首席全権は軍縮条約をまとめることに成功します。内閣総理大臣経験者でもある若槻主席全権は、老獪な米英の代表を向こうにまわして見事に交渉し、政府訓令の対米七割をほぼ達成しました。厳密には六割九分七厘五毛です。成功といってよいでしょう。ほんのわずかばかり七割には届きませんでしたが、そこで手を打つのが交渉術というものです。
この結果に関して海軍随員の大部分は不満でした。総括的には対米七割を達成したとはいえ、重巡洋艦に限れば対米六割に抑え込まれました。これにより戦艦、空母、重巡という海戦の主力艦種がことごとく対米六割という劣勢にされたのです。
交渉成立後、日本全権団総勢七十余名が集まって慰労の晩餐会が開かれました。全員そろっての会食が終わると、三々五々、自由な座談の輪があちこちにできました。若槻首席全権は海軍隨員らの非難の的となり、海軍士官の面罵に曝されました。
「これでは帝国の安全を保つことができません」
激昂のあまり鼻血を出す者さえいました。軍艦の隻数がそのまま国際競争力だった時代です。若い士官が興奮するのも無理はありませんでした。若槻全権の属官は心配し、若槻に自室に戻るよう促しましたが、若槻全権は逃げませんでした。
「政府の訓令に不満があるなら政府に言え。ワシのまとめた条件に異論があるなら受けて立つ」
若槻は海軍士官の言い分をいちいち聞いたうえで反論し、全員が去るまで一歩も引きませんでした。
五十六に「だまれ」と一喝された賀屋興宣は、海軍隨員の山口多聞や桜井忠武と別室で痛飲するうち、互いの鬱憤が爆発し、大喧嘩をはじめてしまいました。朝、気がつくと賀屋のワイシャツは血に染まっていました。
ロンドン海軍軍縮条約の成立は、一応、日本政府の成功です。目標の対米七割をほぼ達成したのです。日本を六割に抑え込もうとしていた英米から譲歩を勝ち取ったのです。英米両国は、日本に七割を許すことで日本を抱き込み、世界体制の一翼を担わせようとしたようです。この無言のメッセージを感じたからこそ若槻全権は軍縮条約の調印に踏み切ったのです。
とはいえ国内の反対論は根強いものでした。しかも、その反論には明快な根拠があります。そもそも軍縮条約が不平等条約だからです。なぜ日本の海軍軍備が英米の六割ないし七割に抑制されねばならないのか。幕末に結ばされた不平等条約をようやく改正したのも束の間、新たな不平等条約を結ばされてしまいました。不満を感じても無理はありません。
軍縮条約反対の最右翼は海軍軍令部長加藤寛治大将です。加藤寛治大将は、よほど腹にすえかねたらしく、ロンドン軍縮条約批准後、天皇に単独拝謁して辞表を捧呈しようとしました。かといって加藤寛治大将は決して狂信的軍拡主義者ではありません。むしろ合理的な現実主義者でした。
「八インチ砲搭載の一万トン級巡洋艦の出現した今日、帝国の地理的地位の価値は減少してしまった。したがって帝国防衛のため、同型艦種の対米七割確保が絶対に必要である」
これがロンドン軍縮交渉直前における海軍軍令部の判断です。
「東洋の一隅に隔在し、守るに易く攻むるに難し」
と言われてきた日本列島の地政学的条件は、一万トン級重巡洋艦の出現によって根底から変化したのです。もはや安閑とはしていられない。だから対米七割を確保すべし、という軍事合理的な主張でした。加藤寛治大将の不満は英米にではなく、むしろ日本全権団の生温い交渉ぶりに向けられました。
加藤寛治大将には、かつて英米濠海軍との協同作戦に従事した経験があります。そのころ大佐だった加藤は戦艦「伊吹」艦長として第一次大戦に参戦し、船団護衛やエムデン号捜索などの共同作戦に参加していました。そのとき加藤大佐はアングロサクソンとの交渉術を体得しました。
「英米人相手に遠慮は無用。正義公道をもって説き、数理的根拠を突きつければ彼らは納得する」
加藤寛治大将はすぐれた国際感覚の持ち主でした。その加藤大将から見ると、日本全権団の交渉ぶりはきわめて日本的です。まず自らが譲歩をし、次いで相手の譲歩を待つ。この日本的交渉方法が外交舞台では通用しないことを加藤寛治大将は体験的に知っていました。
「根拠を示して正々堂々と論ずれば英米人とてイエス・サーと言うのだ」
加藤寛治大将は、日本全権団の交渉ぶりに不満であり、だからこそ条約調印に強硬に反対したのです。各国の平等を前提とするなら対等の軍艦保有量が認められてよいはずであり、まずは十割を要求すればよい。それがなぜ最初から七割の要求なのか。万が一、米国が日本に挑戦してきた場合、劣勢海軍では勝利を保証できない。実際に負けてから臍を噛んでも遅いのです。海軍力が七割に抑え込まれれば、外交力も七割に抑制される。最悪の場合には隣国の侮りを受け、敵国からの侵略を誘発するかもしれません。このことを最も強く憂慮したのが加藤寬治大将でした。後世、加藤寛治は艦隊派の首魁とされ、軍国主義者のレッテルを張られていますが、これは著しい謬見というべきです。
歴史のこの段階において、すでに日本は八方ふさがりになっていたと言えなくもありません。軍拡競争をすれば負ける。軍縮条約を結べば六割に抑え込まれる。出口がありませんでした。加藤寛治大将は、たとえ財政的に苦しくとも条約上の平等だけは確保せよ、それがダメならせめて七割を確保せよと訴えました。一方、堀悌吉は、たとえ不平等ではあっても条約を締結すれば条約の効力によって安全保障が保たれると考えました。どちらも正しいというしかありません。
賛否両論のなか、ロンドン軍縮条約は軍事参議院、枢密院、帝国議会での審議を経て批准されました。ただ、軍事参議院は政府に対して条約批准後の対策を要求しました。浜口雄幸総理は対策実施を約束します。そのなかに航空兵力の整備充実という一項が盛り込まれていました。
ロンドン海軍軍縮条約は昭和五年四月二十二日に調印され、全権団はそれぞれ帰国の途につきました。記録によれば山本五十六少将は六月十七日に英国を出発、九月一日に海軍省出仕となっていて、数ヶ月間の空白があります。反町栄一著「人間山本五十六」によれば、この間、五十六は鎌倉の自宅に閉じ籠もり、航空建軍の構想を練ったとされます。
軍縮条約によって日本海軍は主力艦を対米六割、補助艦を対米七割に抑え込まれました。この劣勢をいかに補うか。これが海軍の課題です。優勢を勝ち取るためには制限外の兵種を活用するしかありません。この頃、航空技術は未成熟でしたが、長足の進歩を遂げつつありました。その航空戦力によって主力艦の劣勢を補完できないか。いや是が非でも補完せねばならない。主力艦保有量で優位に立つ英米が航空戦力においても優越を確保してしまえば、日本海軍は手も足も出なくなります。軍事的劣勢が決定的になれば、その劣勢は外交にも波及し、ついに日本の自主独立が脅かされることになるでしょう。
(海空軍の強化)
これが五十六の結論でした。五十六が考えたことのひとつは、空母機動部隊を錬成し、世界最高レベルに精強化し、これをもって漸減作戦の主役たらしめることです。しかし、航空母艦の隻数はワシントン条約によって制約されています。空母の隻数では優位に立てないのです。そこで五十六は、基地航空部隊の創設を考えました。海軍が陸上基地を保有し、基地から海軍機を飛ばし、海上の敵艦隊を攻撃するのです。これなら空母の隻数に制約されません。当り前の理屈ではありますが、当時の海軍としては斬新な構想でした。
昭和五年十二月、海軍航空本部技術部長となった五十六は、海軍航空の充実に邁進します。早くも翌年には海軍基地航空部隊十四隊が新設され、昭和七年には横須賀に航空敞が設立されました。同時に五十六は、国産機の開発に取り組みました。海軍はすでに軍艦を国産化させていましたが、航空機はまだ外国製に頼っていました。木骨羽布張りの外国製複葉機を、全金属製低翼単葉の国産機へ進化させる努力が続きます。