膨張の天命
軍政学教官として海軍大学校に通っていた頃の五十六は、束の間の家庭生活を楽しんでいました。海軍士官は、いったん海上勤務となれば長く家庭を離れねばなりません。ですが、この時期の五十六は家庭の味を漫喫することができました。ちょうど長男の義正が生まれた頃です。五十六は子煩悩を丸出しにした文章を日記に書き残しています。
「坊やはだんだん大きくなり、手を口の方に持っていく様になる」
その坊やが這い始めた七月、五十六は欧米出張へと旅立ちました。井出謙治中将とともに欧米事情を見て回るための九ヶ月におよぶ出張です。
井出中将は海兵十六期ですから五十六の十六期先輩になります。井出中将は潜水艇に誰よりも早く着目したことで知られ、また加藤友三郎海相のもとで海軍次官を務め、ワシントン軍縮条約調印に尽力しました。井出中将は五十六の印象を次のように語り残しています。
「頭脳の鋭さはあったが、別に天才とか秀才とかいうものではなく、むしろ敢闘の精神に充ち満ちて、全力を尽くして事に当たるという熱烈なる努力家であった」
五十六は用意周到に視察を計画し、旅程を滞らせることなく添乗し、視察報告の作成も期限内に終えます。五十六らしい逸話のひとつは、モナコに滞在した際にカジノで大勝ちし、カジノ側から出入り禁止にされたことです。カジノ賭博は確率の問題であると同時に腹の読み合いでもあります。ディーラーの動作や表情から微妙な癖を読み取らねばなりません。もちろん容易ではありません。最初は負け続けることになります。しかし、いったん癖を見破れば勝ち続けることができます。五十六には人並み優れた観察力があったようです。
その視察旅行中、ロンドンで驚くべき情報に接しました。
「日本が全滅した」
大正十二年九月一日、関東大震災が発生したのです。ロンドン在住の日本人は大いに驚愕し、前途を悲観しました。そんななかで不思議にも五十六だけは動揺しませんでした。
「日本は必ず復興する」
五十六は断言し、金融街シティに出入りする実業家連中に「日本の株式をたくさん買っておけ。儲かるぞ」と勧めたりしました。五十六は逆バリの名人だったのかも知れません。
その後、井出中将と五十六は欧州からアメリカに渡り、テキサス州オレンジ郡のオレンジ油田会社を訪れました。この会社の設立者は岸吉松という名で、五十六とは旧知です。五十六と同じ長岡出身で年令もほぼ同じでした。明治三十九年にアメリカへ移住した岸は、稲作の適地を探し求めるうち、テキサス州オレンジ郡を気に入りました。岸は土地を購入してキシ・コロニーを設立し、四十名ほどの日本人を雇って稲作を試みました。稲作は軌道に乗るかに見えましたが、塩害によって立ち枯れてしまいます。やむなく岸は綿花、とうもろこし、キャベツ、牧畜、石油掘削などに手を広げました。大正八年、キシ・コロニーの土地から石油が出ました。岸はオレンジ石油会社を設立して財を成し、テキサス開拓史に名を残すことになります。
しかしながら、岸吉松の後半生は苦難の連続となります。不運にも大正十四年頃から石油が枯渇して経営が悪化しました。そこへ世界恐慌が重なり、キシ・コロニーは倒産します。さらに日米戦争が始まると日系アメリカ人強制収容所に収監されることとなりました。
井出中将と五十六は、大正十三年三月、長い欧米視察旅行を終えて帰国しました。この間に五十六は大佐に進級していました。
同年九月、五十六は霞ヶ浦航空隊に赴任し、初めて航空の現場に身を置きます。赴任の当初、五十六は無役でした。この期間を利用して五十六は海軍航空を精力的に研究するとともに、霞ヶ浦航空隊の内情を探りました。当時の霞空隊員は命知らずの飛行機野郎の集まりで、上官を上官とも思わぬ無頼の気風に満ちていました。
十二月になり、教頭兼副長になった五十六は、その初日に総員集合の号令をかけます。
「本職は本日より当隊の副長兼教頭の職を執る」
そう宣言すると五十六は無言になり、総員の顔を順々に鋭い眼光で射貫いていきました。全員を見渡した後、いきなり命令しました。
「下士官兵にして頭の毛を伸ばして居る者は皆切れ。一週間の余裕を与える。終わり」
五十六は、そんなところから風紀の改善に取り組みました。ちなみに五十六はいつも坊主頭です。すでに四十才ながら、中尉ほどの若さに見えました。見えただけでなく実際に若々しく元気であり、若い隊員に混じって参加したマラソン競争では二位になりました。
五十六は風紀改善のために数々の改革を断行する一方、知ったかぶりをせず、謙虚に勉強しました。搭乗員や整備員や兵器員らと机を並べて学びました。
「おい、これは、どういうことになっているんだ」
解らないことはなんでも質問しました。教頭みずから見張り番となって脱営者を取り締まったりもしました。練度向上のためなら命を部下に預けることもありました。五十六は、技能最劣等の搭乗員に大湊までの訓練飛行を命じ、その練習機に自身が乗り込み、劣等搭乗員の勇を鼓舞しました。下北半島の大湊まで霞ヶ浦から直線距離でおよそ六百キロです。この距離を飛ぶことは、この時期の航空機にとって一種の冒険でした。
五十六は試作機にも乗りました。テストパイロットは上下左右に激しく機体を揺らし、急上昇、急降下、急旋回を繰り返します。性能の限界を確かめるためです。五十六は顔色ひとつ変えません。
「遠慮するな、もっとやれ」
五十六はテストパイロットに発破をかけました。こうした猛烈な教導ぶりに、当初は反抗的だった搭乗員たちも心服するようになり、やがて喜んで働くようになりました。
やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ
話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず
やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば 人は実らず
五十六は、この言葉どおりの態度で部下に接したようです。
霞ヶ浦時代の五十六は単身赴任です。土浦の神竜寺境内の一軒家に住んでいました。そこへ姪の高野京が訪ねてきたことがあります。五十六は、ひとつ年上の京には世話になってばかりいます。呉海軍病院での看護だけではありません。赤痢、肋膜炎、腸チフスなど、若い頃の五十六は病を得るたびに京に面倒をかけました。そのうえ京は、高野家の貧窮を支えるために働き続け、すでに婚期を逃しています。彼女は生涯独身でした。
その高野京が、五十六の好物の水まんじゅうと土産話をどっさり持って訪ねて来ました。五十六は歓待せねばならないところです。ところが、五十六は笑顔ひとつ見せず、無愛想に型どおりに挨拶すると、いきなり命令しました。
「今日は何も言うな」
命令に説明はありません。五十六は無言のまま神棚に向かって正座し、何事かを祈っている様子です。京は腹が立ちました。そもそも客に対して無礼です。やがて夜になり、深夜になっても五十六は動きません。京のことはほったらかしです。京は、初めて訪れた他人の家で寝ることもできず、ただ座っていました。夜が白々と明けてきた頃、玄関を叩く音がしました。五十六は跳ねるように玄関に向かいます。
「そうか。それはよかった」
大きな声が聞こえました。戻ってきた五十六は、ケロリと普段の人懐こい五十六に戻っています。京はますます腹が立ちました。
「どうしたんです?」
「はい、実は」
五十六は事情を説明しました。昨日、霞ヶ浦から樺太に飛んだ飛行機があり、その無事をひたすら祈っていたというのです。樺太の大泊飛行場までは霞ヶ浦から千二百キロの距離があり、失敗する心配も多分にありました。しかし、たった今、その飛行機が無事に樺太に到着したとの報告が届いたのです。
「もう祈りはすんだ。さあ、話そう」
京の立腹は氷解し、正反対の感情が涙とともにあふれてきました。部下の身を案ずる五十六の真情もさることながら、この頃の海軍航空の技術水準がその程度でしかなかったという挿話です。
昭和元年、五十六は在米日本大使館附武官に補せられ、霞ヶ浦を離れます。一月二十一日、五十六は日本郵船「天洋丸」の甲板上から空を見上げました。上空では霞ヶ浦航空隊が訓練飛行をしています。編隊飛行を終えた航空隊は「天洋丸」を標的として爆弾投下訓練を開始しました。その後、しばらく上空を旋回してモーレツ副長の門出を祝しました。
日本大使館は、首都ワシントンのマサチューセッツ通りにあります。大使館内の駐在武官事務所に五十六は着任しました。
駐在武官の任務は広義のスパイです。五十六は、日系人を中心とした諜報網を構築し、それをできるだけ拡大しようとしました。アメリカ国内で普通に暮らしている日系人のネットワークを活用するのです。特別なことは必要ありません。日常生活の中で目にする風景を報告してもらえばよいのです。例えば、貨物列車の行き来が普段より多いとか、飛行場の離発着機数が目立って増えたとか、ホテルが兵隊で満員だとか、どこそこの港湾に艦隊が集結しているとか、そんな断片的な情報が重要です。こうした個別情報を諸々の情報群と付き合わせ、組み合わせることによって情勢判断に結びつけることができるのです。
日本の情報活動は陸軍、海軍、外務省によって個別に実施されていましたが、対米諜報は主に海軍と外務省が担当していました。その実態は必ずしも明らかではありませんが、日本側の情報活動は決して無能だったわけではないようです。ただ、日米開戦後、米国内の日本側諜報網は根こそぎ破壊されました。アメリカ政府による日系人の強制移住によってです。この措置は、戦後になって人種差別的な人道問題として認識されましたが、日本の諜報網を一網打尽にすることも目的だったようです。米本土の情報を完全に喪失した日本軍は、アメリカ軍の本格的反攻時期を見誤ることになります。
とはいえ昭和初年のこの時期、五十六は、まさか日米が戦うことになるとは思っていません。むしろ、五十六が直面していたのは金欠病です。駐在武官の俸給は必ずしも潤沢とは言えず、生活に余裕がありませんでした。それでも参考資料を買い漁り、自動車を購入して各地を旅行し、諸施設を視察し、アメリカ人と積極的に社交せねばなりません。五十六は貧困をむしろ快事とし、私費をも惜しまず任務に投入しました。
部下の指導監督も任務のひとつです。昭和二年五月、伊藤整一少佐、小林謙吾少佐、中野実中尉の三名が駐在武官事務所にやって来ました。挨拶を受けた五十六は即断即決します。
「伊藤、小林の両君はすでにできあがった人格者であるから放任する。しかし、中野中尉はまだ若くて見込みがあるから思い切り指導する」
渡米直後の三人には知りたいことが山ほどありました。五十六はいちいち懇切に応答してやりました。このため会合は長引きました。午前中から始まって、すでに午後二時になりました。一時間ほど前から空腹を感じはじめていた伊藤整一少佐は思いきって切り出してみました。
「昼飯は食わないですか」
「ふん?」
五十六は不思議そうな顔をします。
「昼飯を食うのか?」
「もちろん食います。腹が減ってやりきれんですよ」
「なんだ。それならもっと早く言えばいいのに。ランチタイムは過ぎているから近所のイタリア料理にでも行こう」
スパゲティを食べながら伊藤少佐は疑問を感じました。伊藤少佐は五十六とは旧知です。海軍大学校では学生と教官の関係でしたし、霞ヶ浦航空隊では部下として三ヶ月ほど仕えたことがありました。だから五十六の人となりを知っています。大胆さと緻密さを兼ね備えた武人であり、厳しい反面、あふれるような思いやりを持っています。遠来の部下の空腹を放っておくような鈍感な人物ではないはずでした。そこで伊藤少佐は質問を投げかけてみました。
「山本大佐は二食主義ですか」
これに対する五十六の答えが奮っていました。
「いやちがう。駐在官が一日に三度の食事を、しかも定刻に食べるなどは贅沢このうえない。三度の食事をするのは日本での話さ。君たちもアメリカに来た以上は是非とも自動車を持たねばならぬ。海軍士官としての体面も保たねばならぬ。何を勉強するにも高い月謝をかけねばならぬ。生活費の高いアメリカでは貧乏するに決まっている。それでも滞米中には可能な限り視察旅行をする必要がある。米国の隅々まで踏破してもらいたい。旅行こそ将来のため何よりもためになる勉強であり、研究である。部屋に閉じ籠もって本を読むのも勉強だが、それは日本でもできる。駐在中はこの国にいる時でなければできないことに主力を注ぐべきで、なかでも旅行が一番重要だ。ところがアメリカは旅費がかさむことは世界一だ。だから日常あらゆる節約をして、旅費を蓄えることだ。そのためには食事なども我慢して、いよいよ空腹でやりきれなくなったら、昼夜を問わずそのとき食べるのだ。それで栄養不良になることもなければ元気の衰えることもない。僕がすでに体験ずみだから間違いはないよ」
五十六の助言のおかげで、伊藤少佐は下宿先や語学の家庭教師を早々に決め、アメリカでの新生活を安定させることができました。伊藤整一少佐は再び五十六に質問してみました。
「語学の勉強に役立つ良い本はないでしょうか」
「おお、それならリンカーンを読みたまえ。リンカーンは実に偉い男だよ」
そう言って五十六はリンカーンを称賛しました。このあたりが日本人の甘さかもしれません。リンカーン伝を読んで無邪気に信じてしまいます。アメリカ合衆国の歴史は実に短く、しかも陰惨です。その実態を白日の下に曝してしまえば、略奪と差別と虐殺の連続でしかありません。その恐るべき事実を糊塗するため、虚飾に満ちた偉人伝が数多く書かれていました。プロパガンダです。リンカーン伝もその類いであるに過ぎません。リンカーンは奴隷解放を宣言しましたが、政略上の必要からそのように宣言しただけであり、奴隷を解放したという実績はありません。とにもかくにも隠蔽してしまいたい歴史的事実が星の数ほども存在するのがアメリカです。だからアメリカの歴史は、対国民プロパガンダでしかありません。
長岡出身の五十六は、歴史の持つ二面性を充分に体感しているはずでした。明治政府の教える歴史は必ずしも真実ではありませんでした。長岡藩は決して賊軍ではありませんでした。そのことを充分に知っている五十六でしたが、アメリカの歴史に対しては意外なほどに無警戒でした。これは五十六ひとりの問題ではなく、世界に対する日本人の基本的態度に内在する迂闊さだったようです。
アメリカ合衆国は、大英帝国から独立して百五十年ほどしか経過していません。この間、急速に膨張しました。もとは東部十三州から始まり、今では北米大陸からカリブ海、アラスカ、フィリピン、太平洋の諸島にまで勢力圏を拡大しています。しかも経済、金融、軍事、外交のあらゆる面で大英帝国を追い抜き、世界の覇権を握りつつあります。
アメリカは実験的な人工国家です。種々雑多な移民たちが憲法のみを拠り所にして結束した珍しい国です。国の始まりは憲法であり、その根源はイデオロギーです。アメリカ政府はプロパガンダによって国民を結束させねばなりませんでした。その意味でアメリカはソビエト連邦とよく似ていました。
長い歴史を持つ国々は、憲法制定以前から国としての領域を有し、領民というべき人々がいて、統治者を戴いていました。そして、長い歴史時間を経たのちに憲法を持ちました。つまり、各国には長い憲法前史があります。その前史には専制君主や貴族階級や封建領主や騎士や武士や富裕商人などが登場して活躍しました。それらの人々は善も悪も併せ行いながら国の歴史を紡いだのです。したがって、歴史を持つ国々は、民主や自由というイデオロギーを相対化して受け容れましたし、封建制度の総てを頭ごなしに罪悪視するような荒っぽい歴史理解をしません。封建時代にも名君や名臣がいて、そこに麗しい主従関係が存在したことを知っています。
ところが憲法前史を持たぬアメリカでは君主制や封建制は一顧だにされず、ただただ邪悪なものと決めつけられています。極端なまでに自由と民主のイデオロギーにこだわる視野狭窄の傾向がアメリカにはあります。アメリカ人にとって自由と民主は、多くの思想の中のひとつではなく、絶対的な価値となっています。新生国家アメリカは、そうしておかなければ国家的結束を保つことができないからです。このためアメリカ人の思想傾向は極度に先鋭化しています。民主国家や共和制には無条件で声援を送る一方、封建国家や全体主義を問答無用で嫌悪するところがありました。
アメリカには非干渉主義という政治思想も存在しましたが、対外拡張主義が力を得ます。自由と民主のイデオロギーを世界に広めることに疑いを持たず、侵略することに躊躇がありません。それをマニフェスト・デスティニー(膨張の天命)といいます。機会さえあれば膨張しようとし、しかもそれを善と信じて疑いません。周辺国にとっては迷惑このうえない拡大性向こそアメリカの特性です。
矛盾は数えきれません。自由、平等、権利、民主といった概念は、あくまでも白色人種のものであり、黒人やインディアンなどの有色人種は容赦なく差別されました。アメリカに限らず、世界中の白色人種国家がそれを不思議と思わなかったのが、この時代です。差別が社会の秩序でさえあったのです。アジアやアフリカや南米の有色人種は骨の髄まで奴隷化され、その差別体制を受忍させられるのみでした。
もともとアメリカは大英帝国の流刑地だったに過ぎません。凶悪事件を犯した罪人が流されてきたのです。そして、アメリカを建国したのは有力な奴隷商人たちでした。アメリカは、インディアンを虐殺し、黒人を奴隷として酷使して成長しました。その事実を赤裸々な歴史にしてしまえば国家など成立しないでしょう。そんな忌まわしい過去を持つ国家の国民に誰がなりたがるでしょうか。そこでプロパガンダが必須になります。アメリカの大義として自由と民主が叫ばれ、そのイデオロギーを補強するために歴史が創作されるのです。アメリカ建国の偉人たちは大いに脚色され、神格化されています。捏造美談によって国民は洗脳されています。この洗脳を抜きにしてアメリカという国家は成立し得ません。だから歴史の修正を極度に嫌います。歴史の修正はプロパガンダを破綻させ、イデオロギーへの不信を呼び起こし、ひいてはアメリカという国家の崩壊をも意味しかねないからです。
トマス・ジェファーソンの独立宣言がアメリカという実験国家の紐帯です。アメリカ人にとって自由と民主は単なる政治形態ではなく、国民統合の原理であり、国権伸張を正当化する論拠です。それだけにアメリカは自由と民主を極端なまでに神聖視しています。アメリカ国民の思い込みは強く、政治家は演説ひとつで国民の怒りに火をつけることができました。
アメリカはすでに広大な国土と資源に恵まれています。だから他国を侵略する必要はありません。にもかかわらずアメリカは西方へと膨張し続けました。何のためにアメリカは膨張するのか。その理由は「膨張の天命」です。この天命を信じきっているアメリカ人には侵略も当然のことでしかありません。アメリカ大統領は、その時々の国家戦略に応じて標的を定め、演説によってアメリカ国民を納得させ、世論を煽動します。自国の統合原理を自国民に信じ込ませるためには、異なる統合原理を有する国々を侵略せざるを得ないのです。海外から発せられる対米中傷をアメリカ政府は敏感に感じとり、攻撃本能を発動させます。それがアメリカという大国でした。したがって、ベルサイユ講和会議において日本が人種差別撤廃条項を提案したことは、アメリカにとって明確な敵対行為でした。しかし、日本人には敵対の意図などはありません。ここに日米双方の致命的な誤解があったと言えます。
国家として若すぎるアメリカは、他国の歴史に対して理解がなく、不寛容です。歴史的な経緯というものを外交上の弁解もしくは釈明として認める度量がなく、ひたすら自己の原理を主張して押しつけます。この一面的な独善性が外交交渉の強さになりました。例えば、大東亜戦争直前の日米交渉にはアメリカ外交の独善性が極端なまでに現れています。
人種差別の深刻さはアメリカ社会の宿痾といってよいでしょう。もちろん人種差別は世界的な問題であり、欧州諸国にもアジアやアフリカの植民地にも深刻な人種差別が存在しています。ただ、アメリカの人種差別問題はいっそう複雑で根が深いものでした。
移民国家のアメリカでは、新顔の移民は常に苦労を強いられます。かつてはアイルランド移民が差別され、次いでドイツ移民が蔑視されました。移民たちは苦難に耐え、代を重ねて富と実力を蓄え、そうすることで差別から解放されていきます。
しかし有色人種の場合には、差別からの解放が容認されませんでした。勤勉な黄色人種は、支那人排斥法や排日移民法などによって移民制限の対象とされました。それでも、黒人に比べればマシな方でした。奴隷として売られてきた黒人の運命はあまりに過酷でした。でっちあげの理由によって私刑にかけられる黒人が多く、それが見世物になりました。白人の人種的優越思想は抜きがたく、黒人女性は文字どおりの性奴隷でした。その酷烈な差別に黒人はあえいでいます。
それ以上に悲惨だったのはアメリカ大陸の先住インディアンです。推定で三百万から五百万の人口があったインディアンは二十万人にまで激減しました。驚くべき大虐殺というしかありません。
五十六も差別というものをしばしば身を以って体験させられました。差別は目でわかります。差別する者の刺すように冷酷な眼差しと侮蔑的な表情は無言のうちに鋭く伝わり、自尊心を失わせます。それが差別感情の特性です。戦術家の五十六でさえ、これには打つ手がありません。にらみ返して立ち去るのみです。いまでは信じ難いことながら、帝国主義全盛のこの時代、人種差別を行なうことこそが国際秩序であり、国際正義でさえあったのです。
恐るべきは、アメリカの膨張のはやさです。もともとは北米大陸東岸の十三州に過ぎなかったのです。その頃、北米大陸の中部はフランスの植民地でしたし、西部はメキシコ領でした。アメリカはフランスの支援を得てイギリスとの独立戦争に勝ち、その後も戦争により領土を拡げ、また買収によって領土を得ました。アメリカがまだ北米大陸の東半分をようやく版図にした頃、アメリカ大統領モンローは欧州列強諸国に対して不敵な宣言を行ないました。
「南北アメリカ大陸をもって欧州諸国の植民地と認むるを許さず」
いわゆるモンロー主義です。この勇ましい宣言とは裏腹に、この頃のアメリカは欧州列国の干渉に苦しめられていました。まして欧州の複雑な利害関係に首を突っ込むような実力はありませんでした。アメリカ軍は、英領カナダ軍やメキシコ革命軍にさえ負ける程度だったのです。
しかし、アメリカは急速に力をつけていきます。移民による人口増加と産業振興とによって国力を蓄え、「膨張の天命」を大義名分としながら版図を拡大させます。インディアンを征服し、メキシコとの戦いに勝ち、テキサス、アリゾナ、コロラド、ネバダ、ユタ、ワイオミングの諸州を獲得し、さらにカリフォルニアとニューメキシコの二州を買収しました。アメリカが北米大陸の西海岸にまで領土を拡張したのは日本の弘化三年です。
奇しくもこの弘化三年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビドル准将が二隻の軍艦を率いて日本の浦賀に現われています。ビドル准将は大統領親書を奉呈して通商を要求しましたが、強圧的な態度はとりませんでした。このため徳川幕府は通商を拒否し、ビドル准将の上陸を許しませんでした。
日本中が驚天動地の大騒ぎになるのは七年後のペリー来航時です。ペリー准将の黒船に日本の庶民は驚愕しましたが、むしろ幕府は冷静でした。露骨な恐喝によって開国を要求するペリー准将に対し、幕府は冷静な対応をしました。アメリカの実力を見抜いたうえで、その要求を容れたのです。幕府が恐れていたのはアメリカよりもむしろ大英帝国とロシアでした。英露はともに大国で、世界覇権を巡って争っており、日本に開国を迫っていました。大国と不用意に条約を結べば、日本はいきなり植民地化されかねません。だから、ちょうどいい相手がアメリカだったのです。この頃のアメリカは、まだ大英帝国を懼れる小国でしたから、アメリカとの条約ならば釣り合いがとれ、日本が併呑される恐れはありませんでした。幕府がアメリカとの条約締結に踏み切ったのは、その背後に国際情勢に関する深い洞察があったからです。それでも、日米間の条約は不平等条約でした。だからこそ、維新後、明治政府は不平等条約の改正に大汗をかくことになります。
アメリカは、北米大陸の征服を終えると海外征服へと向かい、サモア諸島、ハワイ、フィリピンへと征服を続けました。大西洋方面に対してはモンロー主義、太平洋方面に対しては侵略主義という二重政策です。
太平洋方面に対するアメリカの海外征服が一時的に中断したのは南北戦争の間だけです。南北戦争はアメリカ分裂の危機でした。南部十一州が連邦離脱権を主張してアメリカ連合国を建国したのです。つまり南北戦争はアメリカ合衆国とアメリカ連合国との国家間戦争でした。足かけ五年に及ぶ戦争の末、合衆国(北軍)が連合国(南軍)を打倒しました。
南北戦争はアメリカの内戦であり、奴隷制度を維持しようとする南軍に対して、奴隷解放を訴える北軍が勝利したと説明されます。しかし、これは誤解、というより合衆国のプロパガンダです。北軍の指導者は白人至上主義だったし、奴隷を使っていました。奴隷解放宣言は、南軍に邪悪なイメージを塗りつけ、北軍の正当性を装うためのレトリックだったに過ぎません。黒人を解放する意志など北軍にはありませんでした。北軍は南軍を完膚なきまでに撃ち砕き、消耗させ、無条件降伏に追い込みました。南軍の指導者は裁判にかけられ、奴隷制度を推進した悪魔として処刑されました。アメリカ連合国は完膚なきまでに解体され、歴史から抹消されました。徹底した敵国の解体がアメリカの戦争文化だといってよいでしょう。こうしてアメリカ合衆国は統一国家としての基盤をかためたのです。
アメリカと日本は、太平洋の両岸でほぼ同時期に勃興しました。アメリカの東は大西洋であり、欧州です。欧州には多数の国家群が密集していて膨張の余地がありません。だからアメリカは西を目指しました。日本もまた地政学上の要求から西を目指しました。アメリカは太平洋へ、日本は朝鮮半島から満洲へ。それでも広大な太平洋が両国の衝突を猶予していました。
最初の日米摩擦はハワイを巡って発生します。アメリカの経済的侵略を恐れたハワイ王国が日本に援助を求めてきたのは明治十四年三月です。世界歴訪の途上、来日したハワイ国王カラカウアは、単身秘かに明治天皇に面会して重大事を相談しました。日本皇室とハワイ王族との間に婚姻関係を成立させたいというのです。
ハワイ王国の独立はすでに脅かされていました。ハワイ王国は経済的にアメリカ資本に依存していたし、行政府の要職も白人によって占められていました。アメリカへの併合論が現れては消え、消えては現れる状況でした。カラカウア王は独立を守るために日本の力を借りようとしました。日本の皇室と姻戚関係を結べば、アメリカへの対抗勢力をハワイ国内に形成できます。
しかし、この提案は日本の皇室にとってあまりに唐突でした。明治天皇は親書を以ってこの申し出を謝絶しました。その後、様々な曲折を経て、明治三十一年、ハワイはアメリカに併合されます。米布併合といいます。時の外務大臣大隈重信は駐米公使の星亨に訓令を発し、併合への反対を表明せしめ、日本人移民の権利保護を要求させました。星公使は国務長官シャーマンと激しくやり合いました。気性の激しい星公使は、米布併合が避け得ないと知り、大隈外相に建言します。
「艦隊を派遣してハワイを占領せよ」
対外硬で知られた大隈外相も、さすがにこの献策を却下し、あくまでも外交交渉の範囲内で問題を解決するよう訓令しました。ハワイ併合問題は日米初の本格的外交摩擦でしたが、日本にとっての第一優先課題はあくまで朝鮮半島方面でしたから、ハワイ問題には深入りできませんでした。
米布併合と同じ年に米西戦争が始まります。その戦争の始め方は典型的なアメリカの謀略です。ハバナ沖でアメリカ海軍の戦艦「メイン」が突如として爆沈しました。その原因は不明でしたが、アメリカ世論はスペイン軍に疑いの目を向け、そうと決めつけました。プロパガンダです。
「メイン号を忘れるな(リメンバー・メイン)」
世論に推されるかたちでマッキンリー大統領はスペインに宣戦を布告します。瞬間的な世論の盛り上がりを政治的に利用するのはアメリカ政府の常套手段です。
スペイン政府はメイン号沈没の原因を究明しようとしましたが、アメリカ政府によって執拗に妨害されました。そうこうするうち米西戦争は終わってしまいます。なお、メイン号爆沈の原因には諸説があり、いまだに解明されていません。
アメリカの恐ろしさは、戦争の口実を得るためならば自国民や自国軍を平気で犠牲にすることです。アラモ砦もメイン号の乗客も犠牲にされました。そうしておいて、その犠牲を相手国の罪だとするプロパガンダをまき散らし、アメリカ国民を開戦へとかき立てます。こののちに起こる真珠湾奇襲という事件もアメリカによる開戦のための謀略でした。
「リメンバー」というフレーズは、戦争を正当化するためにアメリカ大統領が利用する常套句です。すでにメキシコ戦争時の「リメンバー・アラモ」があり、「リメンバー・メイン」があり、後に「リメンバー・パールハーバー」が叫ばれることになります。
スペインとの戦争に勝利したアメリカは、プエルトリコ、キューバ、グアム、フィリピンを領有しました。スペインは大航海時代の覇権国でしたが、米西戦争によって凋落しました。スペインの植民地だったフィリピンでは独立気運が盛り上がりました。新宗主国アメリカがフィリピンの独立を認めたからです。しかし、アメリカは約束を反故にします。このため米比戦争となりました。フィリピン独立運動の指導者アギナルドに率いられたフィリピン軍はゲリラ戦を展開しました。これに対してアメリカ軍は徹底した殲滅戦で応じました。この戦争は十五年の長きに及び、ニ十万人ものフィリピン人が殺害されました。アメリカがハワイとフィリピンを領有したことで日米間の距離は接近しました。
日露戦争に勝利した日本は、満州の鉄道権益を得ました。これに目をつけたのはアメリカの鉄道王ハリマンです。ハリマンはユーラシア横断鉄道の夢を持っていました。一方、日露戦争直後の日本政府は多額の外債を抱えていたため投資余力がありませんでした。このため桂太郎総理はハリマンに対し、南満洲鉄道の日米共同経営についての内諾を与えました。桂総理の判断は必ずしも間違っていなかったでしょう。ですが、ポーツマス交渉を終えて帰国した小村寿太郎外相は強硬に反対し、ハリマンとの共同経営案を潰しました。
小村外相は日米の衝突を懸念したのです。もし日米が南満州鉄道の共同経営をすれば、資金力と技術力にまさるアメリカが主導権を握ってしまい、日本は後塵を拝するに違いなく、日本国民の不満が高まります。アメリカが満洲に勢力を扶植すれば、日本の国防上の脅威ともなります。それでは苦労してロシアを満洲から追い払った意味がなくなります。また、日本はロシアの満洲権益を引き継いだものの、これは日露間の約束でしかなく、日清間の交渉はまだこれからでした。満洲の主権者はなお清国だったのです。その清国政府との交渉が始まってもいないのに、ハリマンと共同経営の約束をしたのは桂総理の勇み足でした。すでに病状の重かった小村寿太郎外相は鬼気迫る態度で閣僚を説得しました。
結局、桂総理はハリマンに与えた内諾を破棄します。ハリマンは大いに悔しがりましたが、だからといって日米関係に直ちに亀裂が入ったわけではありません。事はあくまでもビジネスのことでしたし、アメリカ財界は日本から十分に利益を得ました。南満洲鉄道株式会社は、建設資材や機関車などを米モルガン財閥から調達したのです。
大正三年に始まった第一次世界大戦により、アメリカは世界最強国になりました。大戦後、世界の体制はアメリカ主導の下に構築されたのです。欧州のベルサイユ体制と、太平洋のワシントン体制です。アメリカは例によって高遠な理想を掲げて各国を幻惑しておき、自己中心的な利益追求を実現しました。アメリカの太平洋戦略は「白い太平洋」という太平洋経済圏の確立です。太平洋を「アメリカの湖」にするためにアメリカは着々と手を打っていきます。
アメリカでは、戦争で武勲を立てた将軍が政治家として選出され、やがて大統領になります。それがアメリカの政治風土です。民主主義は見事に帝国主義と共存しており、その好戦性は疑いようもありません。
「吾輩はこんど欧米を漫遊してデモクラシーはミリタリズムの隣にあることを発見した」
こう喝破したのは後藤新平です。民主主義と軍国主義を特性とするアメリカの眼前に日本という国家が現れました。アメリカの資本家が垂涎の的としたのは支那大陸の市場です。しかし、その前面に日本列島という防波堤が横たわっています。四億からなる支那市場の隣接地に忽然と登場した近代国家日本、これがアメリカの資本家には邪魔に見えたようです。支那市場を征服するためには日本を屈服させねばならない、日本にとっては実に迷惑な思い込みでした。
太平洋をはさんで一万キロ以上離れている日米両国が、なぜ戦う必要があったのか。少なくとも日本側には米国侵略の意図はありませんでしたし、その能力もありませんでした。日本経済は、アメリカから石油やクズ鉄を輸入し、生糸を輸出することで成り立っていたからです。そんな重要な貿易相手国を敵にする理由がありません。したがって日本陸軍は対米戦の研究を等閑視しました。海軍は、万が一に備えて対米艦隊決戦の研究と訓練に明け暮れましたが、それはあくまでも防衛的発想に立脚したものです。
結局、アメリカの拡張主義と支那市場への欲望こそが日米戦争の主因であったとしか考えられません。典型的な帝国主義的侵略です。アメリカが平和国家であれば、日米戦争は生起しなかったでしょう。しかし、現実のアメリカは侵略国家でした。
大正十三年、アメリカ軍は対日戦争計画いわゆるオレンジ計画を初めて策定しました。アメリカ軍は日本への渡洋征服作戦を研究しました。勝つことが前提であり、アメリカ軍の作戦家は誰ひとりとして負ける心配などしませんでした。
とはいえアメリカ軍にとっても日本の陸海軍は強敵です。ロシア陸軍を撃ち破った日本陸軍と正面から正規戦を戦えば甚大な被害が生ずるに違いありません。また、アメリカ艦隊を日本近海へ進出させればバルチック艦隊の二の舞になりかねません。不用意に戦って大きな損害を生ずればアメリカ世論は厭戦に傾き、継戦が困難になります。そこでアメリカ軍は、陸上の会戦と日本近海での海上決戦を避けながら勝つ方法を研究しました。その方法とは、まず比較的に優勢な海軍力を利して日本海軍を撃滅し、日本列島を海上から封鎖し、兵糧攻めを実施し、陸上決戦を避けながら日本を降伏させるというものです。これが基本的な対日戦略となりました。この戦略が現実性を持つか否か、それがオレンジ計画の研究課題だったのです。
一方、日本でも大正十二年に帝国国防方針の改定が行なわれました。仮想敵国はアメリカ、ソ連、中国となっています。
「主として米国に備え、我と接する支露両国に対しては、親善を旨として之が利用を図るとともに、常に之を威圧するの実力を備うるを要す」
海軍は日本近海における艦隊決戦を対米戦略の基本としました。アメリカ西海岸への侵攻どころか、ハワイへの攻撃さえ想定していません。あくまでも防戦戦略でした。それ以上に重要だったことは、対米戦略の徹底的研究を海軍大学校が避け続けたことです。対米戦を研究すればするほど戦力不足が明らかになります。そうなれば軍縮条約を廃棄せよ、増艦せよ、という意見が生まれます。しかし、日本の財政はその負担をまかなえません。つまり、日本海軍はアメリカとは戦えないのです。その実情を海軍大学校は明確に言語化して教えませんでした。ただ日本近海における艦隊決戦を繰り返し研究させ、それ以上には研究を踏み込ませず、あとは察してくれという教え方でした。その不徹底を責めることは容易です。しかし、徹底してみたところで最後は財政の問題に直面して堂々巡りになります。
とはいえ日米関係が良好である限り、日本海軍は対米戦略を突き詰めて研究する必要から猶予されます。その猶予は十数年間つづくのですが、昭和十四年に至って突然に消失します。奇しくも同年、山本五十六は連合艦隊司令長官となります。