ワシントン会議
第一次世界大戦は足かけ四年におよぶ大戦争となりました。日本軍も参戦しました。日本陸軍は、ドイツ軍の立て籠もる青島要塞を攻略しました。海軍は太平洋からインド洋、地中海、大西洋にわたる広大な海域で輸送船団の護衛にあたりました。
休戦条約が締結されたのは大正七年十一月です。欧州では幾つかの帝国が消滅し、戦勝国も疲弊し、戦場となった欧州大陸は焦土と化していました。一方、戦禍を免れたアメリカと日本が新興勢力として頭角を現わすことになりました。この後、広い太平洋によって緩衝されていた日米の角逐が顕在化していきます。日本海軍は八八艦隊の整備に着手し、アメリカも海軍拡張計画を推進します。さらにアメリカはパナマ運河を開通させ、大西洋にも太平洋にも大艦隊を展開できるようにしました。日米の建艦競争です。
この時期、山本五十六少佐はアメリカに駐在していました。五十六は滞在先としてボストン市を選びました。ボストンはアメリカ合衆国発祥の地です。ボストン近郊の住宅にホームステイした五十六は、英語習得のために家庭教師を雇い、またハーバード大学の英語講習に通いました。
「米国の物価はおおよそ日本の二倍ないし三倍にて、洋服や靴などは二倍にて、最も高きは下宿代と食事に御座候」
五十六が兄の高野季八に宛てた手紙です。このころハーバード大学には四十人ほどの日本人学生がいました。そのなかに小熊真一郎という人物がいて五十六と意気投合します。ふたりは渡航中の船内で知り合い、ボストンでもよくつるみました。将棋が共通の趣味でした。
「どちらかがへたばるまで勝負しよう」
ある日、ふたりは午後九時から将棋を指し始め、延々二十六時間、将棋を指し続けました。さすがに飽きてしまい、七十五番まで差したところで終了しました。将棋のあと、ふたりはそのままカードゲームに参加します。元気というしかありません。
翌年、中佐に昇進した五十六はワシントンの日本大使館勤務になりました。ワシントンでの五十六の精勤ぶりについては幾多の証言があります。
「いったい、いつ寝ているのか」
周囲の誰もがいぶかしがるほどの精励ぶりです。それでいて疲れた様子ひとつ見せません。しかも食事となると周囲が驚くほどにたくさん食べました。
「寝溜め、食い溜め、軍人の常」
これが五十六の口癖です。大正九年六月に開催されたワシントン国際通信会議予備会議では、駐米大使の幣原喜重郎を補佐し、精力的な働きをみせました。最終報告のとりまとめを買って出た五十六は、角砂糖を舐めながら三日三晩の徹夜でやり通しました。
そのような激務の一方、五十六は自動車と航空機と石油に強い関心を寄せ、そのアメリカ事情を調べては本国に報告していました。フォード・モーターがベルトコンベア方式による大量生産を実現したのはすでに十年前です。広々としたハイウェイを疾走する大量の自動車を見れば、興味が湧くのは当然だったでしょう。
砲術畑の五十六が航空に開眼したのは、駐米海軍武官たる上田良武大佐の薫陶によるものです。上田大佐は一貫して航空技術畑を歩んだ海軍士官であり、地政学にも深い造詣をもっていました。上田良武は、地政学的考察に基づいて航空の必要性を五十六に説きました。
自動車と飛行機は石油を燃料としています。五十六は研究の焦点を自動車、航空機、石油に定め、文献の収集と読破に努め、金と時間を惜しまずに視察旅行をしました。米国内の油田、精油所、自動車工場、飛行場、飛行機工場を可能な限り見て回り、さらにはメキシコにまで足を伸ばしました。メキシコ視察には官費が支給されなかったので五十六は私費で旅行しました。懐具合の乏しかった五十六は極端な貧乏旅行をします。宿泊は治安の悪い安宿の一番安い部屋、食事はパンと水とバナナだけ。そんな五十六の姿はメキシコ官憲の眼に怪しく映ったらしく、メキシコ政府から日本大使館に問い合わせが届きます。
「日本からの亡命者ではないか」
もちろん誤解です。そうまでして五十六が熱心に石油を研究したのは、おおげさにいえば時代の要請でした。ちょうど内燃機関の燃料革命が起きていた時代です。内燃機関の燃料が固体から液体へ、つまり石炭から石油へと移行しつつあったのです。
明治以来、日本海軍は軍艦の燃料を和炭、英炭、練炭と変えてきましたが、それをさらに石油へと転換させつつありました。
日清戦争の頃、日本海軍の軍艦は日本産の石炭、いわゆる和炭を燃料としていました。カロリーが低く、濛々たる煤煙を吐き出す和炭は優良な燃料とはいえませんでした。世界で最も良質な石炭は英国カーディフ産の英炭です。カロリーが高くて煤煙が少ないのです。日英同盟のおかげで日本海軍は日露戦争を英炭で戦うことができました。日露戦争後、海軍は石炭自給態勢の確立を図り、これに成功します。日本産の石炭から適性成分を人工的に抽出配合し、英炭と同じ成分の練炭を製造したのです。
大正期に入ると軍艦の燃料は石炭から石油へと転換します。石油は石炭に比べてカロリーが高く、しかも無煙です。加えて液体燃料は石炭に比べて格段に扱いやすいのです。石炭時代、水兵や水夫を最も苦しませたのは石炭の積み込み作業です。頭のてっぺんから爪先まで煤で真っ黒になります。煤は目や鼻や喉にまで容赦なく入り込みました。何かの拍子に皮膚が石炭に触れると火傷をします。石炭を焚くためには灼熱の罐焚口に立ち、角スコップでいちいち石炭を投入せねばなりません。殺人的な重労働です。そんな厄介な石炭に比べると液体燃料は貯蔵、運搬、焚燃の各作業が格段に容易でした。このため石油が世界的に普及していきます。
大正初期に建造された「金剛」級巡洋戦艦に石炭石油混焼缶が採用されました。以後、日本海軍は石油専焼缶をすべての軍艦に採用していきます。時を同じくして航空機が発達してくると高カロリーの航空燃料が必要になりました。さらに戦車にもトラックにも石油が要り、民間産業も石油を必要としはじめます。
石油という鉱物資源が重要な戦略物資として急浮上してきたのが、この時代です。列強諸国は石油資源確保に血眼になりました。アメリカは、カリフォルニア州やテキサス州に豊富な油田を持ちつつも、さらにサウジアラビアの石油権益を確保しました。大英帝国は中東の油田を確保し、オランダは蘭印から石油を得ました。後塵を拝した日本は、満洲や樺太などの外邦領土で石油を探索しましたが、採掘にはいたりませんでした。そこで、やむを得ず、主にアメリカから石油を輸入して需要をまかないました。
(石油さえあれば)
日本の近代史を振り返るとき、石油という黒い液体に特別の感慨を抱かざるを得ません。石油という鉱物資源に恵まれなかったことが日本の運命を決めたといってよいでしょう。帝国陸海軍がいかに精強であっても石油がなければ機能しません。どれほど堅固な山城でも水の手を断たれれば陥落するのと同じです。とはいえ、この時期の日本人には、さほどの危機感はありません。移民排斥問題などを抱えながらも日米関係は良好だったからです。
大正十年五月、山本五十六中佐に帰朝命令が下りました。七月に帰国した五十六は軽巡洋艦「北上」の副長となり、同年十二月には海軍大学校教官に補せられました。五十六は軍政学教官となり、航空戦備の充実を学生に説きました。学生といっても若僧ではありません。海軍大学校には三十才を超えた大尉や少佐クラスの俊秀が集められます。すでに十年ほどの軍歴を持つ彼らは誰もが一家言の持ち主です。
五十六は熱烈に持論を説きましたが、学生たちは航空の重要性を容易には理解してくれません。それも無理はありません。なにしろ当時の海軍の航空機は木製の複葉機であって、実に頼りない代物だったからです。その対艦攻撃能力は未知数でした。ただ、偵察能力だけは実証されていました。偵察機が敵艦の位置を把握すれば艦砲射撃の命中精度が向上するのです。これは大艦巨砲主義者にとっても重大な事実でした。
「制空権下の艦隊決戦」
五十六は簡明短節な表現を用いて学生の理解を促しました。ですが、艦砲射撃の命中精度は測距儀や射撃盤の性能向上によっても追求することができます。このため砲術科出身の士官たちには航空機の重要性に対する理解がなかなか広がりませんでした。
一年後、海軍大学校教頭として山本英輔少将が赴任してきました。山本英輔は、初代の海軍航空本部長になるなど、海軍航空の生みの親ともいうべき人物です。五十六は大いに啓発されました。
国際政治の舞台では、第一次世界大戦後の世界秩序を構築する会議が開催されました。大正七年十一月に第一次大戦の休戦条約が締結され、翌年のパリ講和会議において戦後秩序が議論されました。パリ講和会議には三十ヶ国以上の国々が参加しましたが、日本は主要国の一角を占め、文字どおり一等国に位置づけられました。幕末に不平等条約を結ばされ、半文明国とされた日本は、ほぼ半世紀で一等国にまで成りあがったのです。このことは世界の常識を覆す奇跡でした。日本は、国際法や条約を厳格に遵守することで信用を高め、富国強兵に励み、数度の戦争に勝利することによって国際的地位を得たのです。
しかしながら日本は、国際ルールを主導的に構築することに関しては消極的でした。人種差別撤廃条項という世界史に残るべき提案をし、議決において賛成多数を得ておきながら、米濠両国の理不尽な反対に呆気なく屈してしまいます。また、概してメッセージを発することが少なく、一等国という地位を十分に活用できませんでした。「訥弁国家」という言葉のとおり、日本の外交的不器用さが日本の国際的立場を徐々に悪化させていきます。
国際連盟が発足したのは大正九年一月です。史上初の常設国際機関には四十ヶ国以上が加盟しました。しかし、もともとの提唱国たるアメリカ合衆国は連邦議会の批准を得られず、加盟しませんでした。このアメリカの身勝手さは、しかし、アメリカの国益には適っていました。この時代、アジアやアフリカや南アメリカのほとんどは植民地です。そのため独立国家のほとんどが欧州諸国です。その結果、国際連盟とはいいながら実質は欧州連盟に近いものでした。つまり、一国が一票の投票権を持つならば欧州の発言力が強くなるのです。
「参加したところで国益にならない」
モンロー主義のアメリカ連邦議会は国際連盟への加盟を承認しませんでした。むしろ国際連盟による南北アメリカ大陸への介入や干渉を警戒したのです。
日本とてアメリカと事情は似ています。国際連盟は日本にとって必ずしも有益な存在ではありません。アジア事情に疎い欧州諸国がアジア問題に容喙しかねないのです。しかも、中華民国政府にとって国際連盟は格好のプロパガンダの舞台になります。そのような不利益を承知の上で国際連盟に加盟した日本は、道義心が極めて篤かったといってよいでしょう。もちろん自惚れや自信過剰が皆無だったとはいえませんし、単なるお人好しだったのかもしれません。とはいえ、帝国主義の全盛時代に日本のような利他的な国家があり得たことは称賛されてよいでしょう。欧米列強が世界に植民帝国を展開していたこの時代、アジアの代表として、あるいは有色人種の代表として国際道義を国際社会に訴え得る国は日本しかありませんでした。
第一次大戦後、アメリカは世界最強国の地位を獲得しました。第一次大戦中、アメリカ軍は二百万もの大軍をフランスの戦線に展開させ、驚異的な渡洋動員能力を世界に示しました。長い戦乱によって疲弊した欧州諸国は財政難に陥り、大英帝国でさえ莫大な戦費を自弁できず、戦時国債を発行して戦費を調達しました。その主な購入国はアメリカです。フランスその他の国々も同様です。その結果、世界最大の債権国となったアメリカの発言力は圧倒的に強まりました。
そのアメリカは、国際連盟を脇に置き、アメリカの名において関係各国に呼びかけてワシントン会議を主宰します。アジア太平洋地域の国際秩序を構築するためでした。
大正十年十一月に始まったワシントン会議では、海軍軍縮条約、九国条約、山東還付条約、四国条約などが成立しました。
アメリカが海軍軍縮条約を提議した理由は、まったく自国の都合からです。第一次世界大戦中、アメリカ政府は大規模な海軍拡張計画を立案し、これを推進しようとしました。三年のあいだに戦艦十隻、巡洋戦艦六隻、巡洋艦十隻、駆逐艦五十隻、潜水艦九隻など、合計百五十三隻を建造しようという大計画です。明らかに第一次世界大戦後の世界覇権を狙っていました。ところが、この建艦計画は連邦議会の反対によって遅々として進みませんでした。そこでアメリカ政府は、欧州大戦後の平和希求熱を利用し、建艦ではなく軍縮によって海上権力の優位を得ようと考えました。
海軍軍縮条約は、主要海軍国の主力艦(戦艦および空母)の総保有排水量と保有艦比率を定めました。むろんアメリカに有利なように、です。英米日の比率は五対五対三とされました。英米が同等比率になったことは大英帝国の退勢とアメリカの強勢を雄弁に物語っています。なにしろアメリカは、かつて大英帝国の植民地だったのです。そのアメリカが大英帝国に肩を並べました。
日本全権団は対米七割を主張しました。しかし、六割に抑え込まれました。このことを当然と思ってはなりません。これは明らかに不平等条約です。本来ならば自由建艦が当たり前であり、保有艦数を制限される理由はないのです。まして海上戦闘の原則は「優勢艦隊が勝つ」です。このことは数々の海戦によって証明されていました。だからこそ日本海軍は対米七割にこだわりました。機力が七割ならば術力と精神力で劣勢を補えます。
交渉は難航しました。しかし、最終的に首席全権の加藤友三郎大将が決断して対米六割を呑みました。加藤友三郎大将は、日本海海戦で連合艦隊の参謀長を務めた人物です。累進して第一艦隊司令長官に昇りましたが、以後は軍政家となり、戦艦八隻と重巡洋艦八隻からなる八八艦隊の整備を推進しました。しかし、日本の財政が莫大な建艦費用に耐えられないことを悟ります。だからこそ軍縮条約の調印に踏み切ったのです。この間の事情は、加藤友三郎首席全権が井出謙治海軍次官に宛てた次の電文から読み取れるでしょう。
「日本と戦争の起こる可能性のあるのは米国のみなり。かりに軍備は米国に拮抗する力ありと仮定するも、日露戦役のごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見あたらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途はふさがるるが故に、日本は自力にて軍資をつくり出さざるべからず。この覚悟なき限り戦争はできず。英仏ありと雖もあてにはならず。かく論ずれば、結論として、日米戦争は不可能ということになる」
ひとつの見識です。とはいえ別の見方もありました。財政上の制約がどうであれ、少なくとも条約上は対米七割を確保しておく方が国益に適います。このことを強く主張したのは首席随員の加藤寛治中将でした。加藤寛治中将は強硬に対米七割を主張し、加藤友三郎と激論を交わしました。その議論の激しさは、ときに周囲が割って入って止めるほどでした。それでも加藤友三郎大将は対米六割の軍縮条約に調印しました。軍縮条約を締結することが太平洋の和平を保証すると考えたからです。
大激論を交わしたふたりの加藤には何らの私怨もありませんでした。ワシントン軍縮条約成立後、加藤友三郎海相は秘かに加藤寬治中将を呼び、潜水艦戦隊の充実と戦術研究を命じました。軍縮条約適応外の補助兵力で劣勢を補おうとしたのです。
平和という、誰もが反論できない理念で軍縮条約の締結を迫られると、どの国も断れません。断れば平和を乱す悪者とみなされます。仕方なく条約を結んでみると、その内容は不平等な内容に満ちている。それでも条約は条約だから、締結した条約を破った国は非道国家として非難されます。アメリカの狡猾なホッブス的外交手腕に日本を含めた世界列国は絡め捕られました。
ホッブスは、大英帝国が東インド会社を設立した頃の思想家です。社会契約説の開祖とされます。人間には自然権としての自由がある。だから、自然状態の人間は、万人の万人による戦いに陥る。これを避けるには平和のための契約を結ばねばならない。この契約を結ばぬ者は悪である。また、結んだ契約を破る者も悪である。そして、悪は殺しても良い、という思想です。善と悪とを無理にでも創り出す悪魔の論理です。
この七面倒で陰惨な理屈は、いったい何のために考え出されたのかといえば、それは侵略を正当化するためでした。イギリス人は世界各地の原住民にラム酒を飲ませ、酔いに乗じて契約書に署名させ、巧妙に土地所有権を奪いました。酔いを覚まして事実を知った原住民が怒り、契約を反故にします。すると、イギリス人は待っていましたとばかりに契約違反を責め、殺戮しました。このホッブス式侵略は見事な成功をおさめ、やがてアメリカに受け継がれます。日本も、ペリーによる砲艦外交以来、この巧妙なホッブス式外交から逃れる術を知りません。
ワシントン条約を成立させたアメリカは、日本征服の自信を深めたに違いありません。日本が対米六割に応じたという事実は、日本がアメリカに対して「勝てません」と白状したようなものだったからです。外交力は軍事力によって決まります。保有艦比率は、そのまま日米の外交力の比率になりました。
海軍軍縮条約には要塞化禁止条項が盛り込まれていました。この禁止条項により、日本は南洋諸島の要塞化を禁止されました。驚くべき事ですが、この条約をバカ正直に守った日本軍は、昭和十九年、サイパン決戦を要塞なしで戦うことになりました。もし、陸海軍が十年の歳月をかけてサイパン、テニアンの二島を要塞化していたら、日本軍は大東亜戦争の当初からマリアナに防衛線を敷き得たかも知れません。そうであれば、わざわざ遠くソロモン諸島にまで進出する必要はなかった可能性もあります。
一方、すでに要塞化されていたフィリピンのコレヒドール島と香港島は、その要塞の現状維持が認められました。また、ハワイとシンガポールは要塞化禁止条項の例外とされました。米英の既得権が完全に守られたわけです。
日本はあまりに気前が良かったといえます。日本は国力の差を気にしすぎ、あるいは太平洋方面の防備に無関心なあまり譲歩しすぎました。
「世界世論が平和希求に傾いている今だからこそ、交渉を決裂させても戦争にはならない。だから強い態度で交渉できる」
この程度の初歩的な駆け引きさえ日本外交には欠けていたのです。加藤寛治中将の不満はここにありました。日本政府はひたすら世界世論に迎合するばかりだったのです。そのことを批判されると日本政府は言い訳します。
「日本は世界五大国に列したのだ」
日本外交は、単なるお題目に過ぎない国際協調主義なるものを信奉しすぎ、当然あるべき駆け引きを放棄し、隠忍自重して条約を成立させることが国際貢献であるとバカ正直に考えすぎたようです。
これと対照的なのがアメリカ外交です。アメリカ外交の特色は、高邁な理想を大上段に掲げつつ、実質的な国益を手中にするところにあります。高邁な理想は、結局のところ、その場かぎりの屁理屈でしかなく、まさに外交辞令です。そして、条約が成立してしまうと、決して熱心に条約を順守しようとはしないのです。
油断ならないことに、アメリカの掲げる理想の裏には必ず現実的な打算があります。例えば、アメリカ大統領ウィルソンは民族自決の原則を掲げました。なぜかといえば、民族自決原則がオーストリア・ハンガリー帝国とオスマン・トルコ帝国とを解体させる原理になるからでした。実際、この二大帝国は崩壊しました。欧州の大国が消滅することはアメリカの国益だったに違いありません。
九国条約も典型的なホッブス式外交の所産です。その大義名分は支那大陸における門戸開放と機会均等でした。支那事情に暗いアメリカは、旧清朝の支配領域を中華民国の領土であると頑なに主張しました。これほど馬鹿げた支那認識はありません。清朝は、満洲族の王朝です。その満洲の清朝がウイグル、チベット、モンゴルと同盟し、支那を植民地化したのが清帝国だったのです。その清帝国が崩壊すれば、満洲、支那、モンゴル、ウイグル、チベットに分裂するのが当然です。そころが、アメリカは、その程度の知識すら持っていませんでした。支那大陸の現実をまったく無視したアメリカの対支認識は、日本政府を驚かせました。
さらに、清朝崩壊後の支那大陸は軍閥割拠の内乱状態でしかなく、中華民国は名ばかりの国家であり、内政統治能力などありませんでした。それなのにアメリカは中華民国を過大評価しました。この現実離れしたアメリカの極東情勢認識が奇妙な九国条約を生みます。正式には「中国に関する九国条約」というものです。中華民国における機会均等、門戸開放、主権尊重の原則を確認したものです。しかし、九国条約の理想は当初から破綻していました。そもそも支那大陸は軍閥割拠の混沌状態であって、中華民国には憲法もなく選挙もありませんでした。蒋介石の独裁軍閥政府には国内統治の能力が欠如していましたから、当然に条約遵守能力もありません。その中華民国政府に条約を締結させるという行為そのものが矛盾でした。
また、ソビエト連邦の存在が棚上げにされていたことは、後になって日本を苦しめることになります。ソ連はワシントン会議に参加しなかったおかげで行動の自由を得、日本だけが行動を抑制されるという結果になりました。
極東情勢に無知な欧米諸国の介入が九国条約を生んだといえます。この条約に調印した日本は、支那大陸の利権を長期的には手放さざるを得ないと覚悟していたのかもしれません。それでも国際的に孤立するよりは良いと考えたようです。この考え方を代表していたのが国際協調主義で知られる外交家の幣原喜重郎です。日本政府の国際協調主義は、国際社会から歓迎されました。それは当然です。なにしろ日本は、自らの国益を毀損してまで他国の利益に貢献してくれたからです。なんとも驚くべき外交感覚です。そんな日本外交のお人好しをいいことに、アメリカは日本を抑圧しようとしました。日本政府は、まともな準備もないままノコノコとワシントンに出掛けてゆき、まんまとしてやられたと言えるでしょう。
この九国条約に関連して、日本と中華民国は山東還付条約をワシントンで締結しました。第一次大戦中、日本軍は山東半島の旧ドイツ租借地を占領し、軍政下においていましたが、これを日本は中華民国に無条件で返還したのです。
「国際歴史に前例を見ざる大々的義挙」
この時代の代表的外交官である石井菊次郎は書き残しています。帝国主義の常識からいえば、何かと理由をつけて居すわったり、賠償を要求したりするのが当然でした。それを日本は無条件で返還したのです。日本ほど支那の領土保全を実践した国はありません。
しかしながら、類まれなる日本の義挙は国際的にも国内的にも称賛されず、当の中華民国にさえ感謝されませんでした。日本の善意を中華民国は日本の弱みと邪推し、以後、ますます排日姿勢を露骨にします。日本ほど国際道義を重んじる国はありませんでしたが、帝国主義時代の国際慣行に照らしてみれば、日本は単なるお人好しのバカ正直者でしかなかったのです。
ワシントン条約成立後、日本は懸命に条約を守りましたが、中華民国は一向に守りませんでした。このため満洲や支那の各地では日本人居留民が殺人、強盗、強姦などの被害に遭いました。日本政府が抗議をしても中華民国は無視しました。そもそも内乱状態の支那大陸は無政府状態だったわけです。この状態が十年ほども続いたため、日本人の堪忍袋の緒が切れて、ついに満洲事変の勃発となります。
四国条約は、英米仏日の各国が太平洋地域に有するそれぞれの領土と権益を相互に尊重し合うという抽象的なものでしたが、この条約の本質は第四条です。
「千九百十一年七月十三日、ロンドンにおいて締結された英国及び日本国間の協約はこれと同時に終了するものとする」
四国条約の成立とともに第三次日英同盟が終了しました。これは英米日の三国にとって大きな選択でした。アメリカは見事に目的を果たしました。日英という二大海軍国の同盟は、アメリカにとって不都合だったのです。もし日英両国によって挟撃されれば、アメリカは大西洋と太平洋に海上戦力を二分させねばならず、勝利を得がたく、海上権益の多くを失うに違いありませんでした。アメリカ世論は日英同盟を怨嗟していました。ワシントン会議を取材するために渡米した時事新報特派員の伊藤正徳は驚きとともに書いています。
「真に憎悪す。米国が日英同盟を憎悪することは想像以上なり。余が当地に来たりて最も驚きたるは、米国政府及び国民が、深く深く日英同盟を猜疑して、衷心よりその消滅を祈りつつあることなり。(中略)廃棄一点張。実に米国が日英同盟を嫌うの情は、宿痾と言わんほどに強烈なり」
アメリカが日英同盟廃棄を企図した直接の動機は、日本による南洋諸島の委任統治にあったようです。第一次世界大戦後のベルサイユ条約によってマリアナ、マーシャル、ミクロネシアなどの南洋群島が日本の委任統治領となりました。これは日英間の協議によって成立したものです。この決定に驚愕し、かつ恐怖したのは第一にオーストラリアであり、次いでアメリカでした。米濠は日本の太平洋進出を嫌悪すること甚だしく、その被害者意識の強さはおそらく白人優越主義の裏返しだったでしょう。ちなみに日本がパリ講和会議において提案した人種差別撤廃条項を協力してつぶしたのも米濠二国です。
日本が南洋諸島の委任統治を始めると、アメリカ軍はただちに珊瑚礁島嶼への上陸作戦を研究し始めました。同時に、米国務省は日英同盟を廃棄しようと画策し、ベルサイユ条約から二年後のワシントン会議においてその目的を達します。
すでに金融面から大英帝国の首根っこをおさえていたアメリカは、日英同盟の廃棄をまず英国に認めさせました。大英帝国は現実的でした。英国にとって日英同盟にはまだ十分な価値がありました。支那大陸中南部の英国権益保護に日本の力を借りることができるからです。しかしながら、日本とアメリカを天秤にかければ、アメリカの方が重かったようです。
もし日米の戦争が勃発した場合、日英同盟が存在していれば英国はアメリカと事を構えねばなりません。しかし、その場合、果たしてカナダやオーストラリアが英本国の命令に従うかどうか確信が持てませんでした。大英帝国の分裂を招きかねない日英同盟を穏やかに解消したいというのが英国政府の思惑でした。その意味で四国条約は英国にとって理想的でした。アメリカを満足させることができ、かつ日本の怒りを買うこともありません。
大英帝国の栄光はもはや過去のものです。英国はその現実を受け容れ、アメリカの優位を認めて世界覇権を譲りつつ、アメリカと巧妙に取り引きして自国の国際的地位の保全を図ろうとしました。この後、第二次大戦が始まると英国は恥も外聞もなくアメリカの助力を乞うまでになります。そこに勇壮さはありませんが、しぶとく堅実な外交方針と、現実を冷静に受け容れる度量がありました。
日本は、いかにも唯々諾々と米英側の要求を呑んでしまいました。日英同盟の廃棄は日本にとって実に大きな出来事です。なにしろ国難ともいうべき日露戦争に辛うじて勝利し、満洲の利権を確保でき、日本の政策を国際世論に承認させ、世界の五大国に列し得たのは、ひとえに日英同盟という外交関係があったからです。世界は常に日本の背後に大英帝国の存在を見ていたのです。その日英同盟の意味を、ワシントンで交渉に臨んでいた全権団は誰もが充分に認識しており、日英同盟の継続を望みました。しかし、すでに米英間の同意が構築されていたため日本には打つ手がありませんでした。
日英同盟の消滅は大日本帝国の国際的影響力を殺ぎました。日本は極東の局地勢力でしたが、覇権国家の大英帝国と同盟することによって「力の実体」たり得ていました。日英同盟があったればこそ日本は苛烈な帝国主義世界を遊泳し得たのです。その同盟を失ったことの意味の重大性を、日本人は必ずしも深刻に受け止めていませんでした。
「一等国になったからにはもう安心だ」
そういう気分でした。ワシントンで調印した諸条約が日本の安全を保証してくれるはずだという安堵もありました。しかし、結果的に、これは幻想でした。日本を取り巻く外交環境は、日本が頭角を現した分だけ厳しくなっていました。正念場はこれからだったのです。この後、日英の分断に成功したアメリカは、次いで日支離間の策謀に着手していきます。
ワシントン条約批准の可否を巡って、日本の国内世論は割れました。一方には国際協調の立場から同条約を評価し、批准に賛成する意見がありました。太平洋の安全保障が確立され、海軍予算が縮減され、国家財政が大いに助けられるのなら文句はありません。他方、同条約を軟弱外交、屈辱外交と非難し、対外強硬論の立場から批准に反対する意見も喧しいものでした。あくまでも対等にこだわり、たとえ財政が苦しくとも軍備に抜かりがあってはならないとする意見です。この観点からいえば、対米六割の主力艦保有比率に同意できるはずがありません。不平等だからです。軍備が劣勢になれば外交力も弱まり、平時の交渉においても譲歩を迫られます。こうした国内世論の分裂は日本社会の不安定要因となっていきます。
ワシントン条約は内政的にも外交的にも日本の転機となりました。ワシントン条約の成立を分水嶺として、日本の政戦略環境はゆっくりと悪化していきます。