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天佑凱旋の日

「薩の海軍に入って、戊辰の仇を討つつもりだ」

 そんな冗談とも本気ともつかぬことを言って高野五十六(たかのいそろく)は海軍兵学校に入学しました。卒業は明治三十七年十一月です。ちょうど日露戦争の最中でした。平時ならば卒業生は半年間の遠洋練習航海に出るところですが、戦時中のため遠洋航海はとりやめになり、二ヶ月の近海巡航が実施されました。そして、明治三十八年一月、高野五十六少尉候補生は装甲巡洋艦「日進」への乗組みを命ぜられました。息子の出陣に際し、母の峯は和歌を詠みました。


  君のため国のためには尽くせかし 散りても(かお)るもののふの花


 父の貞吉が純白の大きなハンケチーフにこの歌を墨書して五十六に贈りました。

「死んでこい」

「死んできます」

 海軍士官の出征というより、若武者の初陣のようでした。文明開化といい、近代化といっても明治日本にはまだ江戸時代の余韻が濃く残っていました。法制度、交通機関、都市施設、軍備などは近代化していきましたが、それらを運用する日本人は江戸期の死生観を受け継いで生きています。特に士族の家系にあっては武士道が崇高な理念として存在しつづけ、人々の行動と精神の規範となっていました。


 日露戦争はすでに最終段階です。旅順要塞はすでに陥落し、日本陸軍の主力は満洲へと北進しています。そして、ロシア極東艦隊の仇を討つべく、バルチック艦隊がはるばる北欧から極東へと航海しつつあります。

 明治三十八年四月下旬、東郷平八郎中将の率いる連合艦隊主力は朝鮮半島の鎮海湾にあってバルチック艦隊を待ち構えました。その主力は第一戦隊です。第一戦隊は、戦艦「三笠」、「敷島」、「富士」、「朝日」、そして装甲巡洋艦「春日」、「日進」の六隻からなっています。

 この時期、連合艦隊はひたすら射撃訓練を繰り返していました。標的になった小島の地形が変わるほどの猛訓練です。そして、訓練が終われば各艦の将兵は、飽きもせずひとつの話題を語り合いました。

「バルチック艦隊は、いつ、どこから来寇するのか」

 「日進」の士官次室でも毎夜、若手士官たちが侃々諤々の議論に花を咲かせます。すでにバルチック艦隊のシンガポール沖通過が確認されており、敵の出現は間近であるに違いない情勢です。議論は白熱します。連合艦隊司令部の方針に不満を表明する士官がたくさんいました。

「どうしてわが艦隊は鎮海湾を動こうとしないのか」

 ただちに出動して南シナ海に進出し、索敵捕捉のうえ敵艦隊を撃滅すべし、というのが多数意見でした。

「神州に敵を近づけてはならぬ」

 こう言って激昂する者もいます。敵の接近を嫌悪するのは自然な感情です。その感情に立脚した戦術論に誰もが共感し、賛成しました。

「階級に関わりなく自由に発言すべし」

 海軍の伝統です。もちろん稚拙な意見を口走れば厳しい反論に曝され、完膚なきまでに論破されてしまいます。それでも勇気を奮って発言し、意見を吐くことが推奨されていました。声高な論議の続くなか、生来の無口からか、新参者ゆえの遠慮からか、少尉候補生の五十六は静かに傾聴するのみで沈黙していました。

 ある夜、夜間当直当番の市川恵治少尉と五十六は後甲板を歩いていました。五十六より一年先輩の市川少尉は、歩きながら南シナ海への出撃論を口にしました。返事を期待していたわけではありません。なにしろ五十六は極端に無口な後輩だったからです。独り言のつもりでした。ところが、

「そうは思いません」

 と、五十六が口を開いたので市川少尉は驚きました。

「なに?」

 市川少尉は、反論されてムカッときました。

(この黙りっ子が何をほざくか)

 まだホヤホヤの少尉とはいえ、市川恵治少尉には実戦経験があります。戦艦「初瀬」に乗り組んで旅順港外の海戦を経験し、戦友の戦死をその目で見ました。三等巡洋艦「和泉」では日本海の激浪と寒風に苦しめられ、霧中航行の恐怖を味わいました。市川少尉は、新参者の五十六をペシャンコに論破してやるつもりになりました。

「貴様、どういうことだ。話せ」

 市川少尉は話の先を促します。すると、海軍兵学校を卒業したばかりのヒヨッコ士官ながら、五十六は生意気なまでに堅牢かつ重厚な意見を吐き始めました。

(いく)さを長引かせることを許さぬわが国力の現状においては、今回は是が非でも一挙に敵艦隊を全滅させる目的で作戦が立てられているものと思います」

 艦内の誰もが敵艦隊撃滅の戦術に心を奪われているときに、この少尉候補生は「国力」などとほざきます。日本の国力には余裕がないから連合艦隊司令部は短期決戦を考えているはずだと言うのです。

(なんだ、此奴は)

 市川少尉は驚くほかありません。

「戦場をどこに求めるべきかという問題ですが、すでに多く意見が出ているように機を見て鎮海湾を飛び出して遠く南方に敵を要撃した場合、たとえ我が艦隊が勝利したとしても敵艦隊は四分五裂となり、広い南シナ海を支離滅裂に敗走することになるでしょう。それをいちいち捕捉して全滅させるとなれば長い月日が費やされるに違いありません。戦闘が長引いた分だけ国力を消耗してしまいます。これを思うとき、敵艦隊を日本海に誘いこむことが最善の策だということがわかります。対馬、津軽、宗谷の三海峡を開放し、敵を日本海に誘い込むのです。それまでわが艦隊はいっさい動かず、ジッとしていなければなりません。そして、いよいよ日本海に敵を誘き入れたならしめたものです。三海峡を封鎖して敵の退路を絶ち、その進路に立ちふさがって一挙に袋だたきの全滅をさせる。袋の鼠にするのです。日本海は実に天与の必勝戦場です。問題は、敵艦隊が三海峡のどこを選んで突っ込んでくるかです。敵は次第に北上して台湾の北端を過ぎるでしょう。それでもなお日本艦隊の出現を見ない。敵は不審に思うでしょう。なぜ日本艦隊は攻撃してこないのか、と。ここで敵艦隊が、さすがの東郷艦隊もわが大艦隊の艦数と砲力に怖れをなして手を引いたのだ、とでも自惚心を起こしてくれたらしめたものです。おそらく敵は対馬海峡を突破しようとするでしょう。ウラジオストクまでの最短経路だからです。したがって、ここ鎮海湾は敵を待ち受けるには絶好の位置です。万一、敵が対馬海峡を避けて北海道方面に向かった場合、わが連合艦隊は急遽発進、日本海を直線距離で北へ急行します。そうすれば太平洋を大回りしてくる敵艦隊を津軽あるいは宗谷の海峡で捕捉できます。したがって我が艦隊はこのまま現在位置で悠々と敵を待てばよいのです」

 まるで連合艦隊司令長官のような大局観を少尉候補生の五十六が語りました。市川少尉は舌を巻いてしまいました。

「貴様、なぜそれを発言せんか」

「必要がありません」

 五十六は生真面目に言いました。連合艦隊がここに腰を据えている限り、黙っていればよいのです。しかし、もし出撃するというのなら命がけで反論する覚悟です。


 戦況は五十六の予想どおりに進展しました。バルチック艦隊はウラジオストクを目指して対馬海峡を北上してきました。明治三十八年五月二十七日、東シナ海を哨戒中だった信濃丸がバルチック艦隊を発見しました。

「敵艦見ゆ」

 信濃丸からの警報を受信した連合艦隊はただちに出動します。五十六の乗る「日進」も第一戦隊の殿艦として日本海を進撃しました。この日、風が強く、波が高いため、艦体が大きく揺れました。五十六は艦長伝令として艦橋に待機しました。

 午後一時四十五分、バルチック艦隊が海上の濛気を突き破って姿を現わしました。連合艦隊司令長官の東郷平八郎中将は、海戦史に名高い敵前回頭を命じました。東郷艦隊の各艦は同一航路をたどって逐次回頭していきます。これを狙ってバルチック艦隊は艦砲射撃を開始します。回頭中の東郷艦隊は撃たれる一方でしたが、回頭終了と同時に反撃を開始しました。

「勝敗は最初の三十分で決まった」

 と後に言われましたが、激しい艦砲射撃の応酬は四時間以上つづきます。第一戦隊は機敏な艦隊運動を繰り返して敵艦隊の行く手を制し続けました。その艦隊運動のなかで「日進」はときに先頭艦となり、ふたたび殿艦にもどることをくり返しました。このため「日進」は、旗艦「三笠」に次いで激しく被弾しました。

 昼戦がようやく終わろうとしていた午後六時五十分、「日進」の前部砲塔に巨弾が命中しました。砲弾が艦体に命中すると激しい衝撃が起こり、装甲を破壊し、無数の金属片を撒き散らします。火薬の爆発によって生じた真空は、あらゆる物質を瞬間的に吸引し、次の瞬間、猛烈な気流を巻き起こします。たくさんの金属破片を含んだ突風が艦上を襲います。轟音とともに「日進」の艦橋が硝煙に包まれ、金属片の奔流に洗われました。

 五十六は瞬間的に意識を失いました。我に帰った時、まだ立っていました。しかし、首に掛けていた記録板が半ば吹き飛ばされており、左手の人差し指と中指とが皮一枚でぶら下がっています。さらに気づいてみれば右脚大腿部から激しい出血があり、その鮮血が床を濡らしています。身体を動かそうとしましたが思うようになりません。

「やられたな。しっかりしろ」

 艦長の竹内平太郎大佐が五十六の負傷に気づき、その身体を抱きとめます。竹内艦長は五十六を励ましながら横臥させ、無傷の部下に命じて包帯を巻かせました。やがて五十六は、「簀巻(すま)き」と呼ばれる(すだれ)状担架に身体を固定され、医務室へと運ばれました。

 医務室はすでに凄惨な光景となっています。室内は負傷兵で満ち、通路にまであふれています。戦場では回復見込みのある負傷者を優先的に治療します。戦闘力の維持が最優先であり、見込みの薄い重傷者は後に回さざるを得ません。瀕死の重傷者は応急措置を施されたまま放置され、ある者は苦痛に呻き、ある者は黙ったまま息を引きとり、ある者は「おっかさん」とつぶやいて事切れます。

 そんな凄惨な場所にひとりの提督がいました。第一戦隊司令官の三須宗太郞(みすそうたろう)中将です。三須中将は、午後四時十分頃に大量の金属片を浴びてしまい、両眼および頭部を負傷しました。医務室で応急手当を受けましたが、両眼と頭部を包帯で巻かれてしまいました。視界を奪われたため戦闘指揮ができません。それでも首から下は健全です。三須中将はなお将帥としての使命を果たそうとします。視野を失った三須中将は従兵の手を借り、治療を待ちながら横たわっている負傷兵に声をかけ、励まして回りました。身動きひとつできず、ひたすら苦痛に耐えている負傷兵は心細いものです。そんな負傷兵にとって提督の親しい励ましは何よりも心の糧になりました。三須中将は五十六のところへも来てくれました。

「貴様の名前は」

「高野五十六少尉候補生であります」

「出身はどこか」

「長岡であります」

「見てのとおりわしは目をやられた。貴様はどうした」

「右脚と左手であります」

「気をしっかり保て」

 幸い、と言うべきでしょう、五十六は午前二時頃になってようやく治療を受けることができました。軍医は、五十六の身体各所から大小百二十以上もの金属片を摘出しました。とはいえ艦内のことであり、十分な治療はできません。

 日本海海戦の初日はこのように暮れましたが、海戦はまだ続いています。装甲巡洋艦「日進」は負傷兵を艦内に抱え込んだまま翌日の海戦に臨みます。負傷した将兵たちは最下甲板に横たえられ、苦痛に耐えながら海戦の気配を感じ取りました。艦内に響きわたる伝令の声、全速で進む蒸気機関の振動音、わが砲門の発射音と敵弾の着弾音。

「打ち方やめ」

「敵艦降伏」

 竹内艦長の号令に続き、万歳の声が最下甲板にも聞こえてきました。横たわっている負傷兵たちも万歳の声をあげました。「日進」では死者六名、重軽傷者九十名の被害が出ていました。


 五月二十七日の夕刻に重傷を負った五十六が佐世保海軍病院に入院できたのは五月三十日です。石炭搬出口から担架で移送されていく五十六を市川恵治少尉が見送りました。ようやく入院できた五十六ですが、その容態は悪化していました。発熱があり、浮腫が各所に診られ、二本の指は残ってはいたものの、ひどい状況でした。右脚大腿部の損傷部は壊死しており、腐肉が広がっていました。五十六の苦悶の表情が激しい痛みの存在を物語っています。ただちにクロロホルムによる全身麻酔が施され、手術が行なわれました。

 術後の経過は良好でした。五十六は入院九日目に病院船「西京丸」に移されました。佐世保海軍病院は負傷兵であふれかえっており、混雑を極めていたからです。さらに五十六は呉海軍病院へと移されました。呉では発熱、化膿、浮腫などの病状が現れ、五十六の容態は一進一退しました。偶然ながら、五十六の姪にあたる高野(みやこ)が看護婦として呉海軍病院に勤務していました。京は重篤な五十六を看護し、見舞い、励ましました。

 にもかかわらず、五十六の左腕がひどく腫れました。傷口から黴菌が侵入して化膿したのです。腐臭を発するほどの病状だったため軍医は切断をすすめましたが、五十六は拒否しました。その理由を五十六は京だけに語りました。

「志を立てて海軍に入った以上、切断はしない。このまま死ぬか、回復して軍務に復帰するか、運命を賭ける」

 五十六は賭けに勝ちました。左腕の腫れがひき、快方へ向かいました。この我慢強い青年は、負傷体験を手紙に書いて家族や友人に送りました。

「大負傷は決して思うほど苦痛のものにあらず。敢えて恐るるに足らざるなり」

 五十六は呉から横須賀海軍病院へと転院し、さらに静養しました。病床の閑暇に五十六は絵を描いたり、手紙を書いたりして日を過ごしましたが、さらに戦争というものについて考えました。

(なぜ日本は勝ち得たか。そして、なぜ長岡藩は敗れ去ったのか)

 東洋の小国でしかない日本がロシア帝国に勝利しました。この戦勝をもたらした一因は、もちろん陸海軍の戦術的勝利です。遼東半島、満洲、黄海、日本海などで帝国陸海軍が敗北してしまえば、万事休す、でした。戦争の勝利に戦術的勝利が必要なのは当然です。

 しかし、戦術的勝利は必ずしも戦争の勝利を意味しません。戊辰戦争における長岡藩がその例です。長岡藩軍は戦術的な勝利を重ねたにもかかわらず、最終的には敗北しました。その理由は、五十六の見るところ政戦略条件にありました。長岡藩は孤立無援だったのです。それに比べて日露戦争を戦った日本には大英帝国との同盟があり、アメリカとの友好関係がありました。要するに戦争の勝利は、有利な政戦略条件の下で戦術的勝利をあげてこそ得られるのです。

 戦術的勝利を獲得するのは軍人の役割ですが、有利な政戦略環境を構築するのは外交官や政治家の仕事です。明治日本の指導者は、ロシア帝国と戦いうる政戦略環境を懸命につくりあげました。大英帝国と同盟を結び、アメリカとの友好関係を維持し続けたのです。英米二国の支援がなければ、いかに日本軍が満洲や日本海で戦術的に勝利しても、ロシア皇帝の戦意を挫くまでには至らなかったでしょう。

 これに加えて重要だったことは、清国やドイツやフランスなどの第三国が中立を保ち続けたことです。これも抜きがたい勝因です。かつてロシアとともに三国干渉に参加した独仏二国の動向を日本政府は注視しました。日本にとっての幸運は、独仏両国が日露戦争に参戦しなかったことです。これは日英同盟の効果といってよく、日露戦争の勝利は陸海軍の勝利であるという以上に、日本外交の勝利でした。


 五十六が退院したのは九月二十六日です。ほぼ四ヶ月間の入院生活でした。この間に五十六は少尉になっていました。日露講和条約が成立して平和が回復していました。退院した五十六は長岡に帰りました。高野家には親類縁者ことごとくが集まり、質朴ながらも賑やかな晩餐が催されました。貞吉は、わが子が生還した喜びを漢詩にしました。


  百万皇軍 遠く北征

  飢寒の日は尽き 盛名成る

  今に如かず 天佑凱旋の日

  満酌の祝杯 汝と共に傾く


 滞在五日にして早くも五十六は長岡を発ちました。駅には大勢の親類縁者が集まって五十六を見送ってくれました。日本海海戦に参加して負傷した五十六は、少尉にしてすでに郷土の英雄です。

 その後、五十六は時に病気に悩まされながらも平穏な海軍官僚生活を送ります。明治四十年に海軍中尉となり、その二年後には海軍大尉に任官しました。この間、海軍砲術学校を卒業し、二度の遠洋航海を経験し、さらに海軍大学校乙種学生にも選ばれました。順調な昇進といってよいでしょう。

 日本は平和になりました。ただ、日本国民は日露戦争の勝利に必ずしも酔えませんでした。なにしろ賠償金が一円もとれなかったのです。日本政府は莫大な戦費を外債に依存しましたから、このさき数十年がかりでコツコツと償還していかねばなりません。その財政負担は当然に国民の上にふりかかってきました。

 それでも日本をとりまく国際情勢は良好になりました。日露協約が成立して北方の脅威は薄らいだし、大英帝国との間には日英同盟があります。貧乏を別にすれば、日露戦争後に訪れた平和を国民は謳歌することができました。

 その平和裏に貞吉は死にました。大正二年二月です。八十五才の大往生でした。三等巡洋艦「新高」に乗組んでいた五十六は、任務を離れることができず、はるか海上から手紙を書き送るのみでした。悪いことに、貞吉の看病に疲れた峯が病床に伏しました。五十六が母の病床を見舞ったのは八月です。五十六はたくさんの土産物を持って帰省しましたが、その中には赤穂義士銘々伝のレコードもありました。浪曲好きの峯に聞かせるため手に入れたのです。暑い盛り、器用な五十六は茶筒の缶を利用してアイスクリームを作り、峯に食べさせたりしました。峯は大いに喜びましたが、海軍士官の休暇は短いものです。出立の前日、五十六は海軍大尉の大礼服で正装し、勲功を表わす勲章を胸につけ、峯の病床に立ちました。

「母上様、それでは行って参ります」

「おまえは御国に差し上げた人です。私が死んでも決してお帰りなされず、一生懸命御奉公を頼みます」

 五十六が長岡を発った五日後、峯は自死しました。五十六に心配をかけないためだったようです。


 大正三年七月、欧州大戦が始まり、八月には日本もドイツに対して宣戦布告しました。しかし、五十六が戦地に出ることはありませんでした。五十六の一身上に大きな変化が起きたのは大正四年五月十九日です。五十六は山本家を相続し、山本五十六となりました。

 五月十九日というのは長岡落城の日です。慶応四年のこの日、長岡は官軍の手に落ちました。五十六の祖父、貞通(さだみち)が死んだのもこの日です。貞通は当時七十三才の隠居でした。長岡陥落の日、貞通は家人をことごとく退去させると、ひとり高野邸に踏みとどまり、父祖伝来の火縄銃で敵兵を狙い撃ちました。老骨ながら貞通は十数人を殺傷しました。が、ついに肩を斬られて戦死しました。この間、父の貞吉は長岡藩兵として転戦しており、祖母や母は縁者を頼って難を避けていました。以上は、子供のころから繰り返し聞かされてきた高野家の物語です。

 五十六が相続する山本家は、長岡藩上席家老の家柄です。世が世ならば、家禄百石の高野家から山本家の跡取りを出すことは、大いなる名誉だったはずです。しかし、五十六が実際に相続したものは、古ぼけた(かみしも)と、荒れ果てた山本家の墓地だけでした。

 戊辰戦争時、山本家の当主だった山本帯刀(たてわき)は一隊の将として勇敢に戦いました。しかし、その忠勇がかえって災いし、維新後、家名断絶の処分を受けました。明治十七年に山本家は再興を許されましたが、ついに後嗣が絶えました。これを残念に思った旧長岡藩主の牧野子爵は、五十六に相続を懇請しました。五十六はこれを承けました。

 山本家の墓地は荒れていました。雑草の中に倒れ伏していた山本家の墓石を抱え起こしながら、五十六は長岡藩の歴史をあらためて想起します。

(郷土の先達たちは単なる敗者ではない。敗れたとはいえ長岡藩士は勇敢に戦ったし、天下に主張すべき正義もあった)

 そもそも官軍、賊軍という呼称からして屈辱です。官軍は行く先々で略奪や暴行を繰り返していました。その実態を見た長岡藩は、官軍を薩長の私兵と判断したのです。

王師(おうし)に非ざるなり」

 よって長岡藩は薩長軍を西軍と呼びました。幕末の長岡藩を指導した河井継之助は、藩主の信望を得て総督に登用されるや、長岡藩七万四千石の藩政改革を断行し、わずか数年の間に長岡藩を近代国家にしました。軍制も改革し、近代化した長岡藩軍を整えました。

 大政が朝廷に奉還され、徳川慶喜がひたすら恭順の態度を堅持していた時、世の趨勢に便乗するなら官軍に帰順すればよかったでしょう。しかし、長岡藩牧野家は三河以来の譜代であり、徳川家への篤い恩義がありました。人情として徳川家を裏切ることができませんでした。総督河井継之助は佐幕側にも官軍側にも(くみ)せず、一藩の独立独歩を藩外交の基本としました。

 結果から言えば、この判断が誤っていました。日本中が勤王と佐幕に分裂している動乱期に、わずか七万四千石の長岡藩だけが中立を保ち得るという理屈はありません。中立とは孤立無援と同義であって、超絶的な大国のみが採用しうる政策です。例えば全盛期の大英帝国が「光栄ある孤立」を保ち得たのは、世界最大の帝国だったからです。それに比べれば長岡藩はゴマメに過ぎませんでした。小藩には不釣り合いな近代軍備を整えてはいたものの、その動員可能兵力は千五百名程度に過ぎませんでした。総督河井継之助は、近代軍備を背景とした外交力に自信を持ち過ぎたようです。

 河井継之助は官軍軍監の岩村通俊と談判し、長岡藩の中立を認めるよう要求しました。そして、会津藩と官軍との仲介を長岡藩が引き受けると提案しました。岩村軍監は、この提案を頭ごなしに蹴り、恭順せよと命令し、軍資金と兵力の供出を要求しました。このため談判は決裂してしまいます。

(長岡を救うにはどうすればよいか)

 河井継之助は大いに悩みました。ひそかに川島億次郎という藩士を呼び出しました。川島は長岡藩内勤王派の中心人物です。河井は川島に談判の決裂を報告し、驚愕すべきことを言いました。

「わしの首と藩庫の五万両を持って西軍に差し出せ。そうすれば(いく)さは避けられる」

 川島は驚いてしまいました。そもそも川島億次郎は河井の政敵です。独裁的な河井の藩政を批判し、官軍へ恭順すべきだと主張してきました。その政敵の川島に「首をとれ」と河井は言ったのです。川島は迷います。河井の無私と赤誠を見てしまったからです。

「それでこそ総督だ。河井、腹を切れ」

 川島がそう言いさえすれば長岡藩は救われます。しかし、長岡藩は薩長のイモ侍に頭を下げ、河井の首と軍用金を供出し、会津攻略の露払いをせねばなりません。いかに勤王派の川島億次郎といえども、そのような屈辱は耐え難いものでした。

「戦おう」

 決断は苦渋に満ちていました。戦う決意をかためると、河井継之助は戦略的要衝の榎峠を迅速に奪還し、なけなしの戦力を同方面に集中させました。この作戦は効を奏し、官軍を十日十晩くぎづけにしました。

 長岡藩軍の主力は長岡城の南およそ二里の榎峠にいます。そのため長岡城の守備はガラ空きに近い状態です。それでも雪解け水を集めた信濃川の激流が天然の外堀となって長岡城を守ってくれていました。柏崎方面から北上してくる官軍将兵は榎峠の戦闘に心を奪われ、さらには信濃川の逆巻く激流を目の当たりにし、頭から「渡れるはずがない」と思い込みました。

 それでも何日か経過するうちに長州藩兵の一部が信濃川の渡河に挑戦し、やがて成功します。官軍は長岡城に迫りました。長岡藩軍の守りは薄く、ついに長岡城下への官軍の侵入を許しました。長岡城下は大混乱に陥りました。五十六の祖父貞通が奮戦し、戦死したのはこの時だと思われます。このとき総督河井継之助は城下を騎行しつつ大音声で領民に詫びてまわりました。

「皆の者、気の毒であった」

 長岡城は落ちました。河井継之助は鬼と化し、長岡藩軍は死兵となって反撃を開始します。長岡城から十キロほど北に進出すると、しばらく戦線を維持し、秘策を準備しました。長岡城の北側に広がる広大な沼地を夜間ひそかに徒渉し、長岡城の官軍に奇襲をかけ、長岡城を奪還するのです。この沼地は八丁沖と呼ばれ、長岡城の外堀として機能しています。官軍も城北の防備には油断があるにちがいありません。この沼を夜間ひそかに渡ろうというのです。

 後世、八丁沖の奇襲と呼称されるこの作戦は見事に成功しました。しかし、わずか七万四千石の長岡藩軍の戦力はすでに消耗しきっていました。新兵器ガトリング砲の威力も虚しく、やがて官軍の反撃を支えられなくなり、長岡藩軍は会津に向けて敗走しました。長岡城下の戦闘で銃創を負った河井継之助は敗走中に死にました。河井総督の死後、長岡藩軍をまとめて奮戦したのは山本帯刀です。長岡藩軍は会津にまで転戦しましたが、ついに敗れます。山本帯刀は捕えられ、斬首されました。

(賊軍ではない)

 長岡藩と山本家の名誉回復が山本五十六の念願です。その夜、五十六は山本家先祖代々の法号戒名を浄書しながら、郷土の先人たちの果断と勇気と智略と敢為とを心に刻みました。


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