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南溟の消耗戦

 第一段作戦の目的は南方資源地帯の確保でした。日本軍は首尾よく南方資源地帯を制圧しました。資源を得たのです。ところが、輸送船の船腹量が不足しました。アメリカ海軍の潜水艦による通商破壊のためです。南方資源地帯を首尾よく占領したものの、輸送船不足のために南方からの補給が滞り始めました。昭和十七年八月に海軍軍令部から連合艦隊司令部に伝えられた情報は実に寒々しいものです。

「艦船用重油は昭和十七年十一月以降は心許なし」


 ガダルカナル島に対する夜襲突撃作戦に戦艦「武蔵」、「大和」は動員されませんでした。後世、このことが批判を招いています。確かに世界最大の巨砲が火を噴けばヘンダーソン基地を粉砕することができたかもしれません。にもかかわらず連合艦隊が両艦を活用しなかった理由は、速力不足のほか、心細い石油事情があったようです。

 ソロモン諸島の東部海域で日米の空母決戦が生起したのは昭和十七年十月二十六日です。第三艦隊司令長官の南雲中将は新戦策のとおり、戦艦二隻と巡洋艦三隻からなる前衛部隊を先行させ、その後方百キロに空母四隻を配置しました。各空母は被弾に備えて防火態勢を整え、飛行甲板上には直掩戦闘機を待機させ、二段索敵を実施し、見張りを厳にしました。

「敵空母見ゆ」

 午前四時五十分です。第一次攻撃隊はおよそ十分間で発艦を終えました。その後、間もなく、南雲艦隊上空の雲間からアメリカ軍の急降下爆撃機が現われました。空母「瑞鳳」が被弾し、戦列を離れました。南雲長官と草鹿参謀長は焦りました。第二次攻撃隊の発艦準備中に敵弾を喰えばミッドウェイの二の舞になってしまいます。幸い、残りの三艦は被弾を免れ、午前六時十分、第二次攻撃隊を発艦させることができました。この後、死力を尽くした日米の攻防戦となります。

 午前六時四十分、空母「翔鶴」のレーダーが敵影をとらえました。前衛艦隊からも敵機来襲の報が届きました。アメリカ軍機の攻撃は「翔鶴」に集中しました。日本側の懸命の防御戦にもかかわらず、米軍機はついに「翔鶴」をとらえました。被弾四発を受けたため「翔鶴」の飛行甲板が破壊され、発着艦不能となりました。それでも防火態勢が機能して火災も誘爆もありません。

 日本軍の攻撃機隊は敵空母を攻撃し、空母「ホーネット」に魚雷二本、急降下爆弾四発を命中させました。「ホーネット」は航行不能になりました。また空母「エンタープライズ」には急降下爆弾二発を命中させ、発着艦を不能にさせました。着艦すべき飛行甲板をすべて失った米軍機は、全機が海上に不時着しました。

 攻撃を終えた日本軍機は、空母「瑞鶴」の飛行甲板に殺到しました。南雲中将にとっての不運は、旗艦「翔鶴」の通信設備が故障したことです。これでは指揮がとれません。やむなく「翔鶴」は北上して安全圏へと退避しました。第三艦隊の指揮権は第二航空戦隊司令官の角田覚治中将に移りました。積極果敢な角田中将は「瑞鶴」と「隼鷹」を指揮し、日没まで可能な限り攻撃を反復しました。日本側の攻撃は第六次にまで及びました。

 この南太平洋海戦は日本側の勝利といえます。主な戦果は空母「ホーネット」沈没、空母「エンタープライズ」中破です。日本側の損害は空母二隻中破にとどまりました。ただ、アメリカ軍の激しい反撃のため数多くの航空機を失い、かけがえのないベテラン搭乗員を失いました。その損失は決して無駄ではありませんでした。この瞬間、アメリカ太平洋艦隊は稼働可能な航空母艦をすべて失ったのです。日本海軍にとっては追撃の好機です。しかし、日本側の損耗も大きく、追撃余力はありませんでした。南太平洋海戦は、日本海軍の機動部隊が勝利を獲得した最後の海戦です。日米の機動部隊は、ともに深く傷つき、再建競争に入ります。日米の機動部隊がふたたび海上で相まみえるのは、昭和十九年六月のマリアナ沖海戦においてです。


 陸軍はガダルカナル島への第三十八師団投入を決めました。十一月十日に先遣部隊が送り込まれ、師団主力の輸送は十四日から開始することになりました。この輸送作戦を掩護するため、連合艦隊は再び大型艦艇による挺身夜襲作戦の決行を決めました。敵飛行場を使用不能にするためには戦艦の巨砲を使うしかありません。五十六は、第二艦隊、第三艦隊、第八艦隊から高速艦艇を選抜し、夜襲の敢行を命じました。また、第二航空戦隊の空母二隻を輸送船団の護衛につけました。連合艦隊としては精一杯の布陣です。

 五十六は作戦の成功を願いましたが、全く楽観はしていません。むしろ、ここ数ヶ月の経過を思い起こせば失敗の公算が大きいと思いました。アメリカ軍は、ヘンダーソン基地を中心とするルンガ川流域のおよそ二十平方キロの範囲に頑強な防衛陣地を構築し、あらゆる兵器と人員と物資を集積し、ひたすら防御戦闘に徹しています。これを力攻めしている連合艦隊の方が息切れしているのです。第三十八師団の輸送作戦がいよいよ始まる日、五十六は長官私室で書簡をしたためました。

「漫然たる増援にては、敵も同様以上の増援を為すべく、小職としては成算を有せず」

 軍令部に対してガダルカナル島からの撤退を進言する内容です。書簡を書き終えた五十六は、それを机の引き出しに収めました。

 十一月十三日午前一時、戦艦「比叡」および「霧島」を主力とする第十一戦隊が鉄底海峡へ突入しました。同海域にはアメリカ海軍の巡洋艦群が待ち構えていました。近距離の砲雷撃戦となり、双方に損害が出ました。続いて十五日、戦艦一隻、重巡二隻を主力とする日本軍挺身隊がサボ島の北から突入しました。アメリカ軍は新鋭戦艦二隻を主力とする艦隊でこれを迎え撃ちました。

 これら一連の海戦は第三次ソロモン海戦と呼ばれます。日本側は戦艦二隻喪失という大損害を被り、敵飛行場への砲撃はできず、第三十八師団の輸送船団は、全十一隻のうち十隻が撃沈されるという大失敗となりました。日本軍の作戦意図は完全に挫かれました。連合艦隊には、もはや輸送船団を護衛する能力がありません。

 十一月十七日、三和義勇大佐と渡辺安次中佐がトラック島から東京へ向かいました。軍令部との作戦協議のためです。このふたりに五十六はガ島撤退を建言する書簡を託しました。

 ガダルカナル島のアメリカ軍はますます増強していきました。半永久陣地が構築され、艦艇と航空機と物資が夥しく集積されていきます。やがて連合艦隊はガダルカナル島に近づくことさえ難しくなります。


 昭和十七年八月以来、ソロモンの海空では毎週かならず数度の航空戦と海戦が生起しました。連合艦隊は勇戦奮闘したといってよいでしょう。航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など、あらゆる艦種が活躍しました。ガダルカナル島への殴り込み作戦は総計四十六回も繰り返され、空母機動部隊同士の航空戦も数次に及びました。戦果は大きく、撃沈した敵艦艇は、正規空母二隻、重巡洋艦九隻、駆逐艦十三隻です。しかし、連合艦隊の損害も大きく、小型空母二隻、戦艦二隻、重巡洋艦三隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦十三隻、潜水艦九隻を失いました。

 ラバウル海軍航空隊も奮戦しました。片道千キロの距離をものともせず、ガダルカナル島への爆撃をくり返しました。連合艦隊の戦いぶりは日清・日露の戦役とくらべて遜色なく、小国ながら大国を相手に十分すぎる健闘をみせました。しかし、善戦までは為し得ても、圧倒はできませんでした。圧倒しない限り、勝利はないのです。

 この状況は日露戦争と似ています。帝国陸海軍は善戦し、戦術的勝利を重ねました。しかし、ロシア帝国を完全に征服することからは程遠い小勝でしかありませんでした。それが日本の実力でした。それでも日露戦争に勝利し得た理由は、政戦略条件に恵まれていたからです。覇権国家たる大英帝国との同盟があり、仲裁可能な第三国アメリカの存在がありました。さらに、敵国のロシア帝国中枢に厭戦気分が生じるという幸運のおかげもあって、明治日本は早期講和を成立させ得たのです。

 大東亜戦争では事情がまったく違っています。日本は覇権国家との同盟関係を失っていましたし、講和の仲裁者たり得る第三国は存在しませんでした。世界大戦という状況下では講和は成立し得ず、交戦国のどちらかが敵国を圧倒して制圧せぬ限り戦争は終わらないのです。勝っても、勝っても、勝ち切れぬ消耗戦が支那大陸につづいて、太平洋でも始まってしまいました。


 十一月三十日に生起したルンガ沖夜戦の快勝も、全般状況から眺めれば虚しいものでした。ガダルカナル島ルンガ岬の沖合で生起したこの海戦では、田中頼三少将が水際立った指揮を見せました。田中少将の率いる第二水雷戦隊の駆逐艦八隻は、陸軍部隊に食糧を届けるためにドラム缶を海中に投下していました。ドラム缶には食糧と衛生用品が詰め込まれています。日本軍の苦境を象徴するような、みじめな補給作業です。そこへ重巡洋艦四隻を主力とするアメリカ艦隊が現れました。第二水雷戦隊は、敵艦隊の砲撃に曝されつつ補給物資を投下し続けました。田中少将はギリギリまで忍耐した後、突撃命令を下しました。

「揚陸止め。戦闘、全軍突撃せよ」

 敵は重巡洋艦です。通常ならば駆逐艦に勝ち目はなく、逃げるのが常識です。しかし、第二水雷戦隊は魚雷戦を挑みます。結果、敵重巡一隻撃沈、敵重巡三隻大破という奇跡的な戦果をあげました。味方の損害は駆逐艦一隻沈没です。見事な勝利でした。

 この快勝の報に接しても五十六の心は弾みませんでした。アメリカ軍にとって、この程度の損害は蚊に食われた程度であり、数日後には戦力を回復させるでしょう。それどころか増強させるでしょう。戦術的勝利では戦勢の転換を為し得ないのです。戦局転換のためには、大型戦略爆撃機の大編隊でアメリカ本土の工業地帯を空襲するしかありません。しかし、日本軍にはそもそも戦略爆撃機がありません。それが日本の国力だったのです。

 この頃、トラック泊地の旗艦「大和」を訪れた軍令部参謀山本祐二中佐は、愚痴とも本音ともとれる五十六の言葉を聞かされました。

「自分は第一線部隊の指揮をしているから、そんなことができる立場ではないが、このままズルズルと戦争が長引けば、到底、勝ち目はない。だれか中央にいる者が戦争の収拾をやらなければならないのだがなあ」


 ラバウルの後方およそ千三百キロに位置するトラック諸島は、総延長二百キロメートルの珊瑚礁に囲まれた巨大な環礁です。そこは天然の泊地であり、連合艦隊の全艦艇を収容しても余りあるほどの広さがありました。島々には海軍の陸上施設のほか民間の飲食宿泊施設などがあり、内地同様の生活ができます。

 トラック環礁の自然は美しく、平和そのものです。それでも、頻繁に出入りする軍艦や輸送船の船腹にドス黒い被弾痕が見えることがあり、戦況の酷烈さを感じさせました。

 五十六は事情の許す限り、トラック泊地を出入港する艦船を見送り、また出迎えました。たとえ潜水艦一隻でも、その艦影が見えなくなるまで、旗艦「大和」の甲板上に立ち、熱帯の炎天のもと第二種軍装に身を包み帽子を振り続けました。トラック島の海軍病院や病院船を見舞うことも頻繁です。ソロモン海域では激戦が続いています。そのため負傷者が絶え間なく後送されてきます。五十六は、全ての負傷兵に声をかけてまわります。

「大丈夫か」

「お大切に」

「お大事に」

「早く良くなってくれよ」

「また海上で会おうよ」

 時間がたつのもかまわず、隅から隅まですべての負傷兵に声をかけます。病院側が気をきかせ、衝立を立てて順路を短縮したりします。しかし、五十六はその衝立をどかし、どんどん奥の奥まで入っていき、すべての傷病兵を見舞いました。

 三和義勇大佐の転任が決まったのは、この頃です。連合艦隊司令部から第十一航空艦隊司令部へ移ります。トラックからラバウルへ行くのです。その申告のため三和大佐は五十六のもとへ顔を出しました。申告が終わると五十六は黒い手帳を見せて言いました。

「この手帳もいっぱいになって数えるのも難しくなったよ」

 その手帳には、戦死した航空機搭乗員の氏名、住所、本籍地、家族などが書いてあります。

「はい」

 三和大佐には返す言葉がありません。


  ひととせを かへりみすれば 亡き友の 数えがたくも なりにける哉


 開戦一年の昭和十七年十二月八日に五十六が詠んだ歌です。戦死者数は海軍だけでもすでに一万五千名に達していました。戦死者数は心理的重圧となり、湿気を含んだ長岡の雪のように五十六の心に積もっていきます。

(自分もいずれは死ぬ)

 死を決意することでようやく心の平衡を保ちました。それでもなお心が揺らぎます。そんなとき五十六は、御製を詠んで心を慰めました。


  荒波をけたてて走るいくさぶね いかなる仇か砕かざるべき


  いかならむ薬あたへて国のため いたで負ひたる人をすくはむ


  はからずも夜をふかしけり国のため 命をすてし人をかぞへて


  戦ひの庭にも立たであた波に 沈みし人の惜しくもあるかな


 御製を読み、誦していると、高遠な無心に触れるかのような心地がし、いつしか心が浄化されるように感じられました。


 第三次ソロモン海戦後、日本海軍の攻勢は下火になりました。十二月中旬、連合艦隊は駆逐艦によるネズミ輸送を中止しました。駆逐艦の損害があまりに大きく、海軍作戦全般に支障が生じてきたからです。連合艦隊としても断腸の決断でしたが、陸軍の衝撃はそれ以上に大いものでした。補給の途絶を意味したからです。潜水艦によるモグラ輸送は続けられたものの、ガダルカナル島への補給量は減りました。当然の帰結としてガダルカナル島では餓死者が増えました。

 参謀本部からの派遣参謀は、ガダルカナル島の驚くべき惨状を視察し、その実態をありのまま大本営に報告しました。陸軍部隊はただ生存しているだけであり、もはや戦う力はありませんでした。海軍の損害も甚大であり、加えて輸送船や軍需物資の驚異的消耗も明らかでした。昭和十七年十月から十一月にかけて十六万総トンの輸送船が沈みました。日本の造船能力は月産三万総トン未満でしたから政府も統帥部も青くなりました。

 東條英機総理は全般状況から判断し、ガダルカナル島からの撤退を決断しました。このとき東條総理が示した決断と指導力は評価されて良いでしょう。十二月中旬まで参謀本部はガダルカナル島奪回の方針を堅持していました。年が明ければ新たに一個師団をガダルカナル島に投入する予定でした。これを急転直下の決断で撤退へと転換させたのは東條総理です。現地軍の惨状、ニューギニア方面の苦戦、民間徴用船の激減、中部ソロモンでの苦戦、国内産業の保護など、種々の条件を総合的に勘案した結果です。

 十二月二十八日、大本営陸軍部から第八方面軍に対して戦線整理の命令が出ました。そして、大晦日、御前における大本営政府連絡会議が開催され、ガダルカナル島からの撤退が正式に決定されました。

 この間、東條総理の苦労は並大抵ではありませんでした。あくまでもガダルカナル島の奪回を主張する軍内の強硬派に手を焼かされました。東條総理は異例の御前会議を開くことで、ようやく反対論を抑えつけました。戦略的撤退は日本陸軍史上初の出来事でした。

 昭和十八年一月四日、ガダルカナル島撤退作戦がラバウル所在の陸海軍各司令部に伝達されました。以後、陸海軍の参謀たちにより実施計画が検討されました。当初、海軍は駆逐艦の使用をためらいました。消耗を恐れたのです。しかし、鈍速の雑舟艇では撤退作戦の成功はおぼつきません。陸軍参謀は憤激して海軍側に抗議しました。

「ガ島の将兵を見殺しにするのか」

 その経緯を知らされた五十六は駆逐艦の投入を命令しました。

「出し惜しみするな」

 結果、二十二隻の駆逐艦が撤退作戦に投入されることになりました。これで陸軍側も撤退作戦の成功に一縷の希望を見出しました。

 撤退作戦は緻密に計画され、実施されました。敵に撤退を悟られぬよう、海軍は駆逐艦によるネズミ輸送を再開し、ガダルカナル島への夜間爆撃を強化しました。陸軍は、ガダルカナル島に増援部隊を送り、攻撃再興の姿勢をアメリカ軍に見せつけました。

 撤退作戦は二月一日、四日、七日の三次にわたって実施されました。撤退は敵軍の妨害を受けることなく成功し、一万名以上の生存者がボーゲンビル島に脱出しました。

(三割が生きて帰れば良い方か)

 撤退作戦の失敗を覚悟していた五十六には予想外の成功です。撤退した将兵のうち特に病状の深刻な者は直ちにトラック泊地へと後送されました。ガダルカナル島からの生還者を、五十六は旗艦「武蔵」の舷側に立って出迎えました。純白の第二種軍装に身を包み、両手は白手袋で包んでいます。傷病兵は駆逐艦の船室に収容しきれぬほど多く、甲板上に隙間なく身を横たえています。その凄惨な甲板上に五十六は視線を送り、敬礼を続けました。そこにはボロボロの着衣のままミイラのようにやせ衰えた敗残兵が身を横たえています。多くが火傷を負っており、アメリカ軍の火力の猛烈さを物語っていました。兵站途絶のもたらす凄まじい結末がそこにありました。生還者はかろうじて生存しているだけです。ものも言わず、動くこともほとんどありません。五十六は、そのひとりひとりに視線を定め、丁寧な敬礼を送りました。

「ご苦労」

「ご苦労」

「ご苦労」

 視線を移す毎に五十六は小さくつぶやきます。その声は傷病兵に届きはしません。ただ脇に立つ従兵長だけが聞いていました。


 ガダルカナル島のアメリカ軍を支えたのは圧倒的な兵站力です。海戦や空戦では日本軍に圧されましたが、その戦術的な敗北を補給で穴埋めしました。アメリカ西海岸からハワイ、仏領ポリネシア、サモア、フィジー、ニューカレドニアなどを経て濠州東岸へと至る長大な兵站線は、大小の輸送船団と無尽蔵とも思える軍需物資であふれかえっていました。その充実ぶりは日本軍の比ではありません。

 たとえば航空母艦の航空隊は三直体制です。つまり、現に空母に乗り込んでいる航空隊が一隊、いつでも補充可能な航空隊が濠州の基地に一隊、そして六ヶ月後に実戦配備可能になる航空隊が米本国に一隊と、三隊が常にそろっていました。あらゆる軍需がこのような方式で貯蔵され準備され輸送され供給されていました。

 日本軍が南方作戦を遂行していた開戦直後の六ヶ月間、アメリカ軍は懸命にこの重厚かつ長大な兵站線を構築し続けていたのです。そして、その兵站線が完成するとともに反攻を開始したのです。

 太平洋を舞台とした日米戦争は、一面、兵站戦争でした。ガダルカナル島への兵站線の距離からいえば、むしろアメリカ軍の方が不利です。オーストラリア東岸の都市ブリスベンからガダルカナルまでは二千キロ以上あり、北部のケアンズからでも千七百キロ程あります。また、ニューカレドニアからはおよそ千五百キロ、フィジーからは二千キロです。兵站線の延長からいえば日本軍の方が有利でした。しかし、アメリカ軍の兵站態勢はこの遠距離をものともしませんでした。日本軍の攻撃によって生じた損害は数日を経ずして充填され、ガダルカナル島のアメリカ軍は日に日に戦力を強大化させていきました。

 日本軍とて兵站を軽視していたわけではありません。日本軍の兵站は支那事変においても南方作戦においても十分に機能し、最前線に兵器弾薬や糧秣を送り届け、また傷病兵を後送しました。そもそも兵站なくして近代戦争は実施できません。国内の集積基地から海運基地を経て、外地の海運主地、集積主地、兵站主地、兵站地、兵站末地、野戦倉庫、そして作戦部隊へと至る兵站線に軍需物資は流れていました。帝国陸海軍は兵站を重視していたのです。

 とはいえ、戦域の爆発的な拡大に伴って兵站が滞りがちになったのも事実です。加えて、アメリカ軍の圧倒的な物量に比較すれば日本の兵站力は劣等でした。兵站能力は国力そのものといってよいのです。保有軍艦比では対米七割に肉薄した日本ですが、国力はアメリカの二十分の一に過ぎず、総合的な兵站能力もおそらくは二十分の一程度だったでしょう。このため、例えば日米戦争中にアメリカが十万機もの輸送機を製造したのに対し、日本は二千五百機を生産するのがやっとでした。自動車も同様です。世界で最初にモータリゼイションを達成したアメリカは、昭和元年の時点で一千五百万台以上の自動車保有台数を誇っていましたし、昭和十五年には総延長五千キロの有料高速道路網を整備していました。だから、アメリカ陸軍の兵站補給機材の主力は貨物自動車でした。これに対して日本陸軍は二百万頭の馬匹を兵站の主力として大東亜戦争を戦いました。陸軍が怠慢だったわけではありません。そもそも日本では舗装道路そのものがまだ珍しく、都市の一部を除けば馬匹輸送の方が合理的だったのです。

 日本軍は国力相応の兵站力を懸命に発揮しようとしました。ガダルカナル島への困難な輸送作戦を幾度も試み、悪戦苦闘しました。ガダルカナル島こそは、日本軍の兵站線がアメリカ軍によって完膚なきまでに粉砕された最初の戦場だったのです。


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