ガダルカナル
連合艦隊の主力部隊は六月十四日、柱島泊地に帰投しました。南雲部隊の各艦艇も母港に帰りました。ただ、負傷兵のみは四国沖で病院船氷川丸に移乗させられ、呉海軍病院の裏口から夜間ひそかに隔離病棟へと移送されました。情報秘匿のためです。大本営発表の虚偽は珊瑚海海戦から始まっていましたが、ミッドウェイ海戦の敗北は勝利として、六月十日、「敵空母二隻撃沈、我が方の損害は空母一隻」と発表されていました。負傷兵に対しては徹底した鉗口令が布かれ、隔離病棟で働く看護婦でさえ外出を禁じられたほどです。
その隔離病棟を五十六が訪れたのは七月末です。副官ひとりだけを連れていました。かつて日本海海戦で負傷した経験のある五十六は、病棟の隅から隅まで隈無く巡り、全ての負傷兵に声をかけて歩きました。
ミッドウェイ海戦の敗北により、日本海軍の攻勢は頓挫しました。勝利したアメリカ太平洋艦隊にも追撃余力がありませんでした。このため、ほんの二ヵ月間ながら休戦のような状態になりました。
この間、日本海軍は空母機動部隊の再建を最重要課題としました。日本軍中枢は、アメリカ軍の本格的反攻開始時期を昭和十八年と予想していましたので、空母部隊再建の時間は稼げると計算していました。
アメリカ軍も目立った作戦行動をひかえました。しかし、休止していたわけではありません。むしろ大々的に動いていました。作戦にではなく大規模兵站線の構築に、です。アメリカ本土からハワイ、ニューカレドニア、サモア、フィジー、オーストラリアへと至る長大かつ重厚な兵站線が構築されつつありました。兵站線上の要地には大規模な港湾や飛行場が続々と建設され、物資集積基地が整備され、それらを結ぶ航路上には莫大な船腹量の輸送船群が行き来し、航空路には輸送機が飛び交いました。
その動向は日本海軍にも推測できました。海軍軍令部は、空母機動部隊を再建する間の補助作戦として大規模な通商破壊を考えました。高速水上艦艇と潜水艦の全力をあげて敵の兵站線を襲えば、敵側の反攻準備を遅らせることができます。艦隊決戦は生起しないものの、通商破壊には戦略的効果があります。
軍令部の通商破壊作戦案は潜水艦部隊には即座に支持されました。しかし、水上艦艇部隊の賛成が得られませんでした。
「丸腰の商船など沈めて何になるか」
巡洋艦戦隊も駆逐艦戦隊も通商破壊という作戦を嫌悪しました。
「軍艦が丸腰の商船を沈めるなど卑怯である」
常に強敵を求め、強敵と戦いたがるというのが日本軍の特質です。これは欧米各国軍隊との大きな違いでした。日本特有の戦争文化といってよいでしょう。勝敗を度外視して憚らぬほどの倫理の高さは、武士道精神という言葉で説明するしかありません。この気高さは美しくはあったものの、軍令部の作戦指導を拘束しました。結局、通商破壊作戦の是非をズルズルと検討しているうちにアメリカ軍側から反攻の一手が差されます。それがガダルカナルです。
ガダルカナル島はソロモン諸島南部にあります。ガ島に先鞭をつけたのは日本軍でした。第四艦隊は、昭和十七年五月、ソロモン諸島南部のツラギ島に水上機基地を設置しました。これは米濠遮断作戦の準備作戦です。ツラギ島は日本を隔てること五千五百キロに位置する小島ですが、そのすぐ南にガダルカナル島という大きな島がありました。航空偵察の結果、ガダルカナル島の北辺に飛行場適地が発見されました。第四艦隊は連合艦隊に対して飛行場設営の許可を求めます。
連合艦隊司令部はこれを却下しました。理由は、距離が遠すぎたからです。ラバウル基地からガダルカナルまで千キロもの距離があります。新飛行場は、ラバウルから五百キロ程度の位置が望ましかったのです。そこで第四艦隊は中部ソロモン諸島で適地を探しましたが、これが難航しました。日本海軍の設営隊は人力頼みの土工部隊でしたから飛行場適地は容易には見つかりません。アメリカ軍の工兵隊のように機械化されていれば適地を見つけることは容易であったかも知れません。
「ほかに適地なし」
という消極的な理由から連合艦隊司令部はガダルカナル島での飛行場設営を認めました。もし、ラバウルから五百キロ程度の位置に飛行場の適地があったなら、あるいは日本軍設営隊に機械力があったなら、ソロモン諸島における日米の攻防戦は様相を異にしていたかもしれません。
昭和十七年七月、ガダルカナル島では海軍設営隊による飛行場建設が始まりました。延長八百メートル、幅六十メートルの飛行場が完成したのは八月五日です。設営隊の隊員が都々逸を唄いながらツルハシ、もっこ、シャベルなどを使い、人力で建設したのです。新飛行場は地元の地名からルンガ飛行場と名付けられました。設営隊長の岡村徳長少佐は、ルンガ飛行場の完成をラバウル基地の第四艦隊司令部に報告し、一刻も早い航空部隊の進出を促しました。しかし、ラバウル航空隊には余裕がありませんでした。ポートモレスビー攻略に全力を傾けていたからです。もちろん数機の零戦をガダルカナルへ飛ばすだけなら容易ですが、それでは意味がありません。武器弾薬、整備機材、燃料、施設資材、通信機器、工兵、整備員、兵器員、通信員、基地司令部要員などを移送せねばならず、輸送船による兵站が必要です。このためルンガ飛行場への即時進出は不可能でした。
その二日後、空母二隻、戦艦一隻、重巡三隻、駆逐艦十五隻、輸送船四十隻からなるアメリカ艦隊がガダルカナル島沖に出現しました。この輸送船団には米海兵隊およそ一万九千名が載せられていました。日本軍守備隊と設営隊はアメリカ軍の空襲と艦砲射撃に蹴散らされ、避難するほかありませんでした。やがて、ガダルカナル島とツラギ島にアメリカ海兵隊が上陸し、完成直後のルンガ飛行場をあっけなく占領しました。
その情報はツラキ島の通信基地からラバウル基地に伝えられました。ラバウル海軍航空隊は迅速に対応します。その日のうちに戦爆連合の四十五機を出撃させ、ガダルカナル島に向かわせました。
この日、ニューギニア方面の敵航空基地を爆撃するため爆装していた中型爆撃機隊は、慌ただしく雷装転換の命令を受けました。しかし、魚雷装填のための兵器員と機材が不足していました。やむなく艦船攻撃用の二百五十キロ爆弾二発と六十キロ爆弾四発を装填してガダルカナルへと出撃しました。
日本軍航空隊が千キロもの長距離を飛んでガダルカナル島上空に達した時、搭乗員は上陸中のアメリカ軍部隊を眼下に見ました。ルンガ岬の沖合は敵船団によって埋まっています。輸送船と陸地とを盛んに行き来する舟艇群の白い航跡が幾条も連なって海を白くしていました。日本軍の爆撃機は直ちに敵船団への爆撃を敢行しましたが、敵に与えた損害は軽微でした。
同日、重巡洋艦五隻を主力とする第八艦隊がラバウル基地を出港しました。長駆機動してガダルカナル島の敵泊地に夜襲を仕掛けるのです。この夜襲作戦は実に冒険的でした。ラバウルからガダルカナルまで千キロもの距離を踏破しなければなりません。途中、敵の索敵機に発見されれば待ち伏せを受けるでしょう。
この大胆な機動夜襲作戦を立案したのは、第八艦隊先任参謀の神重徳大佐です。軍令部と連合艦隊は、この殴り込み作戦を危ぶみ、積極的には支持しませんでした。なにしろ第八艦隊は編制されたばかりであり、訓練さえ不足していました。さらに上空を掩護すべきラバウル航空隊は機数不足であり、千キロもの行程を掩護しきれません。ミッドウェイ海戦で煮え湯を飲まされたばかりの軍令部と連合艦隊司令部は敵機の航空攻撃を危惧したのです。しかし、神大佐は強気でした。
「確かに航空の優位は証明されている。しかし、航空攻撃のできない夜間に限っては、海上の支配者はなお軍艦である。重砲と快速を兼ね備える重巡洋艦を使えば可能である」
とはいえ、ガダルカナル島までの航海には一昼夜を要しますから、昼間に敵機の攻撃を受ける可能性は大きいものでした。軍令部と連合艦隊司令部は、第八艦隊司令長官三川軍一中将に判断を委ねました。
三川中将は決断しました。早くも七日午後、重巡五隻、軽巡二隻、駆逐艦一隻からなる三川艦隊はラバウル港を発し、ガダルカナル島北岸のルンガ岬を目指します。目的は敵輸送船団の潰滅です。三川艦隊はニュージョージア海峡を南下します。三川艦隊にとっての幸運は、米軍側に索敵情報伝達上のミスがあったことです。おかげで三川艦隊は支障なくガダルカナル島に接近することができました。
ガダルカナル島は大きな島です。面積は五千平方キロを越え、ざっと淡路島の十倍ほどです。その北辺中央あたりにルンガ飛行場とルンガ泊地があります。三川艦隊はここを目指しました。ガダルカナル島の西北端にエスペランス岬があり、その岬の沖合にサボ島という小島が浮いています。このサボ島とエスペランス岬に挟まれた幅二十キロほどの海峡を突破して東へ進めば、目指すべきルンガ泊地です。そこに停泊している敵輸送船団を艦砲の射程にとらえて潰滅させるのです。
ちなみに、この海峡は後に鉄底海峡と呼ばれるようになります。日米の海空戦が幾度も繰り返され、双方の軍艦や輸送船や航空機が数多く沈んだからです。
その鉄底海峡に三川艦隊は突入しました。夜戦です。ルンガ泊地には米濠海軍の巡洋艦戦隊が在泊し、警戒していました。ほぼ同勢力同士の不期遭遇戦となりました。三川艦隊は目標を敵輸送船団から敵巡洋艦に変更し、夜間戦闘を開始しました。
わずか三十分ほどの砲雷撃戦で三川艦隊は敵重巡四隻を撃沈し、敵重巡一隻を大破するという大戦果をあげました。この第一次ソロモン海戦は、まるで上杉謙信の騎行突撃のような鮮やかさで三川艦隊が凱歌をあげました。アメリカ軍の反攻に対する日本海軍の初動対応は迅速だったといってよいでしょう。
問題はその後です。陸海軍の中枢が敵情を見誤りました。
「アメリカ軍はガダルカナルから撤退しつつある」
後世から見れば、驚くべき状況判断というしかありません。
「敵は撤退しつつあり、残敵はせいぜい二千から三千」
こんな楽観的な敵情判断が信じられてしまいました。三川艦隊の戦果があまりに見事だったことに加え、アメリカ軍の謀略情報に翻弄された結果です。
「アメリカ軍の目的は飛行場の破壊であり、すでに目的を達して撤退しつつある」
日本軍は情報戦に弱いというほかありません。ラバウルの第十七軍、第八艦隊、第二十五航空戦隊の各司令部はガダルカナル島の奪還を楽観視しました。ラバウル基地からは連日のように偵察機が飛び、潜水艦による威力偵察も実施されていました。それにもかかわらず、敵情判断は変更されませんでした。軍令部も連合艦隊司令部もラバウルからの報告を信じました。そしてまた、トラック島に到着したばかりの陸軍歩兵第二十八連隊長一木清直大佐もそれを信じました。
現実離れした情勢判断を前提に、八月十八日、一木支隊の先遣隊およそ九百名がガダルカナル島に上陸しました。駆逐艦六隻に分乗しての迅速な輸送でしたが、重火器はまったく携行していません。軽装備の一木支隊は飛行場の奪還を目指しましたが、八月二十日、イル河渡河戦で潰滅しました。鎧袖一触です。哀れというしかありません。
ガダルカナル島に上陸したアメリカ軍は、撤退するどころか増勢していたのです。日本軍設営隊が建設した飛行場はヘンダーソン基地と改称され、その規模が大拡張されつつありました。アメリカ軍はヘンダーソン基地の周囲に防御線を設定し、重厚な火力網を張り巡らせました。さらに、兵員と物資を続々と揚陸し続け、一万五千の兵力と豊富な武器弾薬食糧を蓄積していました。何も知らずに突撃した一木支隊が潰滅したのは当然です。
ガダルカナル島に上陸したアメリカ軍が最も苦しんだのは上陸直後の数ヶ月です。日本海軍の空襲と艦砲射撃の激しさに、アメリカ軍首脳でさえ幾度か撤退を決意しかけたほどです。この初期段階に日本陸軍が三万ほどの兵力を送り込んでいたら、ガダルカナル島を奪還できたでしょう。しかし、第十七軍には一木支隊、川口支隊、南海支隊といった小兵力しか与えられていませんでした。すべて合わせても一個師団ほどに過ぎず、しかも南海支隊はポートモレスビー攻略に投入されており、川口支隊は遠方のパラオにいました。とるものもとりあえずグアム島で輸送船に乗っていた一木支隊がガダルカナル島へ投入されたのです。
日本陸軍は支那事変を戦いつつ、極東ソ連軍に備えて関東軍を充実させ、さらに南方作戦を遂行しました。常備兵力三十万にすぎない日本陸軍は百万の大兵力を大東亜地域に大展開していたのです。もはや予備兵力は皆無でした。したがって、ガダルカナル方面への即応に手抜かりが出ても無理はなかったのです。
ガダルカナル島の戦局を重視した連合艦隊司令部はソロモン方面への戦力集中を決定し、第二艦隊、第三艦隊、および主力艦隊を八月中にトラック島へ集結させました。本土防衛を陸海軍の基地航空隊に委ねての大前進であり、大胆な用兵というべきです。
トラック島は、ラバウルの北方千三百キロに位置する大環礁で、ミクロネシア方面における日本海軍の兵站基地です。内地や満洲や南方から数多くの輸送船が絶え間なく出入りし、多様な軍需物資が輸送されてきます。アメリカ海軍にとってのハワイと同様、トラックは日本海軍の最重要戦略拠点です。
そのトラック環礁に進出した連合艦隊主力のうち第三艦隊は、ミッドウェイ海戦で大敗北を喫した第一航空艦隊を再建した空母艦隊です。その戦力は空母五隻、戦艦二隻、巡洋艦五隻、駆逐艦十六隻です。ミッドウェイ海戦の戦訓に学び、航空戦術には新工夫が加えられました。たとえば敵艦隊との遭遇が想定される海域では第一接敵序列という陣形を組みます。戦艦二隻、巡洋艦五隻からなる前衛部隊を先行させ、その後方およそ三百五十キロに空母三隻を配するのです。航空戦力の活用を最重要視した布陣といえます。このほか索敵方法や防火対策などに様々な工夫が取り入れられました。
第三艦隊を指揮するのは復仇の念に燃える南雲忠一中将と草鹿龍之介少将です。六月のミッドウェイ海戦で壊滅した空母艦隊は、七月に再建され、早くも八月に出撃しました。日本海軍には、まだそれだけの回復力が残っていたのです。
トラック島へ大推進した連合艦隊は、ガダルカナル島への攻撃を続行しました。ラバウル航空隊による爆撃のほか、大小の水上艦艇による殴り込み作戦が繰り返され、潜水艦による砲撃も実施されました。頻繁な日本海軍の海空からの攻撃にガダルカナル島のアメリカ軍は苦しみました。しかし、アメリカ軍は頑強に耐え、連合艦隊はガダルカナル島を攻めあぐねます。
日露戦争における旅順要塞もそうでした。海軍だけでは攻めきれず、陸軍に要塞攻略を要請しました。その結果、乃木希典大将率いる第三軍が屍山血河の大苦戦を演じました。大東亜戦争ではガダルカナルが旅順に相当します。これらの戦場に共通するのは陸軍部隊が大損害を被ったことです。ガダルカナルでは、すでに一木支隊の先遣隊が全滅し、続いて九月に上陸した川口支隊の総攻撃も失敗に終わっていました。
陸軍参謀本部は、当初、ガダルカナルという地名さえ知りませんでした。参謀本部兵要地誌班にさえ地図がありませんでした。畳より大きなオセアニア方面の大地図を広げてようやくガダルカナル島の位置を確認することができました。地図こそは軍略の基礎なのですが、それがなかったのです。
なにしろ陸軍参謀本部が本格的に対米戦術を研究し始めたのは、昭和十八年に入ってからのことでしたから、この点、滑稽というしかありませんが、それほどに陸軍は対ソ戦に関心を集中させていました。陸軍はソ連極東軍を仮想敵とし、対ソ戦の研究は充分に重ねていましたが、ソロモン諸島における対米戦は想定の外でした。したがって兵要地誌が皆無です。参謀本部は昭和十八年から十九年にかけてソロモン諸島やニューギニア方面の兵要地誌図を懸命に作成します。今に残るそれらの地図を見ると、朱色や青色の手書き文字が白地図上に数多く記入されており、陸軍のあわてぶりが見えるようです。とはいえ、もともとは海軍の始めた戦闘です。陸軍の準備が不充分だったとしても無理はないのです。
陸軍をガダルカナルへ引っ張り出してしまった以上、海軍は全力でこれを支援せねばなりません。陸軍の輸送船団を無事にガダルカナル島へ送り込み、ガ島のアメリカ軍を破摧してもらわねばならないのです。そのためにはアメリカ軍の海空戦力を連合艦隊が沈黙させるしかありません。連合艦隊司令部は水上艦艇の大部分をソロモン方面に集中させました。
八月二十四日の第二次ソロモン海戦は、日米ほぼ互角の空母決戦となりました。日本軍は小型空母「龍驤」を失いましたが、米空母「エンタープライズ」を大破させました。連合艦隊にはアメリカ太平洋艦隊と互角に渡りあう力がまだ残っていました。しかし、敵を圧倒するには至らず、味方の輸送船団を守り切ることができませんでした。そして、ガダルカナル島を巡る日米の攻防は消耗戦模様になりました。
航空戦力の消耗が甚大でした。ラバウル基地を飛び立つ日本海軍航空隊は片道千キロを飛び、敵基地を攻撃し、折り返し千キロの帰路を飛ばねばなりません。これだけでも超人的な体力が必要です。零戦の場合、片道三時間を飛行して、ガダルカナル島上空で十分間の戦闘をし、再び三時間の飛行をして帰ってきます。この不経済な航空戦は、燃料、機体、人材を容赦なく消耗させました。その消耗を補うため連合艦隊司令部は、昭和十七年十月、第十一航空艦隊をテニアン島からラバウルへ推進させました。
(まずい戦さになった)
五十六は思います。無理な長距離攻撃を避けたいところですが、こちらが手を緩めればアメリカ軍は圧倒的な兵力をガダルカナルに集積してしまいます。そうなれば衆寡敵せずガダルカナル島を放棄するしかありません。
(ここが踏ん張りどころだ。敵も苦しいに違いない)
そのように連合艦隊司令部は考えました。なぜならアメリカ軍の兵站線は日本軍のそれより長大だったからです。敵も苦しいはずである。たとえ苦しくとも攻撃を続ければ、ガダルカナルの攻防を通じてアメリカ軍に大打撃を与える好機も生まれると信じました。
(もはや航空隊だけに苦労を強いるわけにはいかぬ)
五十六は、大型艦艇によるガダルカナル島への夜間艦砲射撃を命じました。この戦法は、去る八月、第八艦隊の重巡部隊が成功させています。しかし、危険な戦法です。しかも、同じその戦法を繰り返そうというのです。
「アメリカ軍は馬鹿ではない。二匹目のドジョウを狙うのは愚かである」
連合艦隊司令部内には反対意見が少なくありませんでした。加えて実施部隊の司令官が消極的でした。五十六は、命ずるというより、むしろ身を乗りだして懇願するように言いました。
「危険は承知している。しかし、ほかに方法がないのだ。どうか引き受けて欲しい」
こうして連合艦隊は十月十一日以後、重巡洋艦および高速戦艦を基幹とする挺身隊に夜襲突撃作戦を反復させました。
十一日 第一次 重巡三隻基幹
十三日 第二次 高速戦艦二隻基幹
十四日 第三次 重巡二隻基幹
十五日 第四次 重巡二隻基幹
第一次攻撃は失敗し、重巡一隻を失いました。しかし、第二次から第四次までの攻撃は成功しました。なかでも高速戦艦「金剛」と「榛名」を基幹とした第二次挺身隊の攻撃は多大な効果を上げ、ヘンダーソン基地を火の海にし、その機能を麻痺させました。
その間に陸軍第二師団のガ島輸送が行われていました。アメリカ軍の飛行場は大部分が破壊されていたものの、新規に拡張されていた戦闘機専用飛行場の被害だけは損害が軽微でした。アメリカ軍は直ちに滑走路の修復をブルドーザーによって行いました。これが日本陸軍第二師団にとっての不幸になります。空に舞い上がったアメリカ軍機は日本軍の輸送船を執拗に攻撃し、第二師団の輸送作戦を失敗させました。第二師団は、兵員だけは上陸できたものの食糧の半分が海没し、重火器はことごとく揚陸できませんでした。
第二師団の将兵は道なき熱帯の密林を不眠不休で空腹のまま行軍しました。方位磁石だけを頼りに迷いながら難路を進むうち、将兵は疲労困憊し、軽火器さえ残置せざるを得なくなりました。機関銃の他、わずかの迫撃砲と山砲を有するだけになった第二師団の装備は、火力の充実していたアメリカ軍に比べれば極めて劣等です。それでも第二師団は十月二十四日から攻撃を開始しました。惨憺たる敗北となりました。