混迷の第二段作戦
第一段作戦には南方資源地域の制圧という明確な目標がありました。陸海軍の優秀な軍事官僚たちはおよそ一年の時間をかけて緻密にして周到な南方作戦を立案しました。この作戦は図に当たり、見事な成功を収めつつあります。日本海軍は米英蘭の艦隊に大打撃を与え、陸軍はマレー、フィリピン、ビルマ、蘭印へと進攻しつつあります。
陸海軍の作戦中枢は早くも第二段作戦を検討しはじめます。ですが、作業は進捗しませんでした。明確な目標を設定できなかったからです。否、目標は明確でした。アメリカ太平洋艦隊の撃滅です。短期決戦でしか対米戦には勝ち味がないのです。可能な限り早く米艦隊を撃滅したいところです。しかし、その具体的な方略を確立できません。茫漠と広がる戦線を眼前にし、何をどうしたら戦争の勝利を獲得できるのか、それが解りません。大本営の秀才たちは途方に暮れてしまいます。陸海軍の上級者たちも部下に明確な目標を与えられずにいました。
連合艦隊司令部参謀たちも緒戦の大戦果をよそに悩んでいました。昭和十七年一月九日、連合艦隊作戦参謀の三和義勇大佐は日記にこう記しています。
「第一段作戦後の新作戦、なかなか新構想できず。いささか焦燥の感あり」
連合艦隊司令部参謀長宇垣纏少将も一月二十五日の日記に次のように書いています。
「今後の作戦大方針については中央も未定。一向はかどらず」
連合艦隊司令部も海軍軍令部も第二段作戦の立案に悪戦苦闘しました。進展しつつある南方作戦の目的は、米英蘭の極東派遣軍を撃破して南方資源地帯を確保することでした。この南方作戦の立案にあたっては陸海軍の意見は一致していたし、海軍軍令部と連合艦隊の間にも、ハワイ作戦を除けば、意見の齟齬はありませんでした。だから作戦立案は順調でした。そして、実際に南方作戦は順調に進展しつつあります。
ところが第二段作戦については、多様な意見が陸海軍から提出され、方針を一本化できずにいます。南方資源地帯を確保した後、何をどうするのか。何処にどう手を出すのか、出さないのか。大東亜の戦域は広大であり、敵は米英蘭支と多く、敵国の首都は遙か遠方にあって手が届きません。日本軍は精強ではあっても、その兵力量には限りがあり、戦力不足です。日本軍には、米英を完全に征服するような武力的屈敵方法がありません。陸海軍の頭脳は、雲をつかむような空漠たる戦況に直面し、合理的な新作戦を案出できず、甲論乙駁を繰り返すばかりでした。
作戦中枢の戦策立案が遅滞するなか、実戦部隊は勝ち続けていました。南雲機動部隊は、昭和十七年一月八日に抜錨し、はるか南洋を目指しました。一月中には珊瑚海に進出し、カビエン、ラバウルなどへの空襲を敢行して上陸作戦を支援し、二月に入るとオーストラリア北岸の諸都市に対する空襲を開始しました。南方作戦の主力たる第二艦隊と第三艦隊は、陸軍の上陸作戦を支援しつつ、ジャワ海で英米蘭濠の連合国艦隊と対峙しました。陸軍のフィリピン攻略作戦とマレー半島攻略作戦は進展し、二月十日にはシンガポールの攻略に成功しました。シンガポールは大英帝国の極東支配の根拠地です。
「シンガポール陥落は講和の好機ではないか」
閣議で講和が話題になりました。それというのも、この五日前に天皇陛下から東條英機総理に次のような御言葉が下賜されていたからです。
「戦争の終結について機会を失せざるよう充分に考慮せよ」
閣議で戦争終結が検討されました。しかし、真正面から英米蘭に和議を申し込んでも拒絶されるであろうことは当然に予想できました。世界中の列国が残らず参戦している現状では、講和を仲介する有力な第三国が存在しません。講和したくてもできない。それが世界大戦という状況です。閣議の論議は、日本の仲裁による独ソ講和問題と、支那事変終結のための対重慶工作に移りました。このふたつが達成できれば大陸に後顧の憂いがなくなり、陸海軍は全兵力を太平洋方面に投入できます。しかし、結論は出ず、独ソ講和と重慶工作は東郷茂徳外相に一任されました。
帝国議会は異様な興奮状態にありました。昭和十七年一月末の衆議院予算委員会において、植原悦二郎議員が東郷外相に講和への気構えを問いました。東郷外相は当然の意見を陳べます。
「戦争を終結させて平和を実現することが最終的な目的であります。このことについては充分の準備と覚悟をもっております」
常識的な答弁です。ところが意外なことに植原議員は激昂しました。自分から講和の気構えを問うておきながら、講和は怪しからぬと言い出したのです。
「敵を撃滅するのが戦争の目的であるにもかかわらず、講和の準備をするとは何事であるか。明らかな失言である。取り消すべきである」
東郷外相は驚愕しましたが、議場は不規則発言に満ちました。どのヤジも東郷外相を非難するものばかりです。戦勝が世論を狂わせていたのです。やむなく東郷外相は発言の取り消しに同意しました。この質疑は帝国議会議事録から削除されましたが、東郷茂徳の遺著「時代の一面」に書き記され、この頃の帝国議会の雰囲気を後世に伝えています。余談ではありますが、戦勝に驚喜し、おごりたかぶっていた帝国議会の衆議院議員は、日本の敗戦後、何事もなかったかのように議事堂に登院し、アメリカと民主主義を礼賛しました。誰ひとりとして責任をとった者はいません。
(今が講和の潮時だ。この機会を逃したら緒戦の勝利は無意味になる)
五十六は、やがて到来するであろう戦局の悪化を思い、焦燥にかられていました。本来、講和のことは政府や統帥部が心配することであり、現場指揮官たる五十六が気に病むことではありません。ですが、連合艦隊司令長官としては戦争全般の大局観を見定めておかねばなりません。緒戦の勝利は日本軍の戦力を広域に分散させているだけのことであり、今後の展開は楽観できません。
そんな時期、桑原虎雄少将が連合艦隊司令部を訪れました。桑原少将は第三航空戦隊から青島方面根拠地隊へ転任することになり、挨拶のために顔を出したのです。このとき五十六は、将来の戦況を暗示するような見通しを桑原少将に語りました。
「今は戦争終結を図るべき時期である。そのためには今までに手に入れたすべてのものを投げ出す必要があろう。しかし、中央にはとてもその腹はあるまい。結局、われわれは斬り死にするよりほかはなかろう」
連戦連勝している提督の言葉とも思えぬ悲観論に桑原少将は驚きました。もし五十六が軍政の中枢にいたなら、講和に向けて猛進したに違いありません。しかし、幸か不幸か五十六は連合艦隊司令長官であり、国政や外交にタッチすることができません。五十六にできることはといえば、海上戦闘において戦術的に勝ち続けることだけです。米英に対する屈敵方略を持たぬ日本軍としては、講和のその日まで戦術的勝利を続けるしかないのです。常識的には不可能です。しかし、それが講和への唯一の道であるなら、何としても勝たねばなりません。幸いなことに、開戦以来、連合艦隊は連勝しており、しかもほぼ無傷です。政府や議会や国民が浮かれ騒いでいるのはなんとも頼りないことですが、今ここで匙を投げるわけにはいきません。
南方海面では、巡洋艦と駆逐艦を主力とする第二艦隊および第三艦隊が米英蘭濠連合国艦隊とスラバヤ沖およびバタビヤ沖で砲魚雷戦を演じ、これに勝利し、敵艦隊をほぼ壊滅させました。海軍が制海権を獲得するなか、陸軍は昭和十七年五月までに米英の極東軍根拠地を次々と占領し、南方資源地帯をほぼ制圧しました。その南限は大小スンダ列島からニューギニア、ビスマルク諸島にまでおよびます。オーストラリア大陸まであと一歩です。日本史上、空前絶後の大膨張です。日本国民は驚喜しました。しかし、対照的に日本軍の作戦中枢は頭を悩ませ続けています。
「第二段作戦をどうするか」
大本営は次の一手を決定せねばなりません。ところが、これが難題です。海軍はアメリカ太平洋艦隊とイギリス東洋艦隊に大打撃を与え、西太平洋からフィリピン海、南シナ海にわたる海域の制海権を手中にしました。陸軍は支那、仏印、ビルマ、フィリピン、蘭領インド、ジャワなどを制圧し、日本史上かつてない広大な版図を手に入れました。今後、何をどうすればよいのか。戦線は四方八方に広がり、敵軍ははるか彼方に退避しています。追撃して戦果を拡大すべきだとわかってはいますが、遠隔地の敵を捕捉するのは至難です。開戦前に決定した帝国国防方針では、緒戦以後の作戦は次のように定められていました。
「以後における陸海軍の作戦は臨機これを策定す」
要するに未定でした。とはいえ、まったくの白紙だったわけでもありません。南方資源地帯を確保した後は、長期戦完遂のため守勢的戦略態勢をとることが陸海軍間の暗黙の合意でした。ところが第一段作戦が予想外の大成功をおさめたため、参謀本部も軍令部も強気になりました。
「今や攻勢的戦略態勢に転じ得るの機運となれり」
陸海軍ともに攻勢姿勢に傾き、インドおよび濠州の攻略が検討されました。特に強気だったのは海軍軍令部です。短期決戦にこだわる海軍は濠州攻略を強く主張しました。しかし、陸軍が反対しました。なにしろ濠州は広く、しかも日本から六千五百キロの遠方です。
「攻勢限度の超越である」
昭和十七年二月から三月にかけて、大本営内で陸軍と海軍は激しく論争しました。海軍は攻勢にこだわりました。いったん守勢に回れば、千島列島から南方資源地帯へと至る長大な防衛線を守りきれないからです。なんとしても攻勢姿勢をとりつつ、決戦を生起させて敵艦隊を撃破し、早期の講和に持ち込みたい。これに対して陸軍は、対支戦、対ソ戦備、南方作戦と非常な多方面作戦に忙殺されており、兵力の欠乏と兵站の遅滞に悩んでいます。とてもではありませんが濠州攻略など不可能です。
陸海軍は意見を調整し「今後採るべき戦争指導の大綱」をようやく決定しました。この文章は守勢とも攻勢とも読める苦心の官僚的作文です。
「国力および戦力の大なる消耗を伴わざる一部の積極作戦により米濠を遮断し、濠州の孤立化を図る」
いわゆる米濠遮断作戦です。ニューブリテン島からソロモン、ニューカレドニア、フィジー、サモアへと航空基地を推進させ、米濠間の海上交通を遮断するのです。オーストラリアを孤立させて大英帝国の戦力を削ぐとともに、アメリカ軍の反攻拠点たるべき濠州とアメリカ本国との兵站線を遮断するのです。米濠遮断が実現すれば敵は反攻の足がかりを失います。当然、そうはさせじと敵の主力艦隊が出てくるでしょう。そこで決戦を生起させ、雌雄を決するという構想でした。
一方、連合艦隊司令部も独自に第二段作戦を研究しています。その戦略思想は短期決戦の連続攻勢主義です。敵を打撃し続けて漸減を強いるのです。しかし、具体的にどこをどう攻めて敵艦隊を捕捉すれば良いのか、それがわかりませんでした。広大な戦域、限りある戦力、伸び切った補給線と防衛線、参謀たちは悩みます。決戦を創造することは非常に難しいことです。苦心の末、連合艦隊司令部はセイロン島攻略作戦を立案しました。英東洋艦隊をインド洋ベンガル湾から排除するのが作戦目的です。それが実現すれば大英帝国に大打撃を与え、インド独立の気運を高め、援蒋ルート遮断によって対支戦の解決が期待できます。この遠征作戦案が一応の完成を見たのが昭和十七年二月です。しかし、翌三月、陸軍参謀本部の反対によって却下されました。
やむなく連合艦隊司令部は新たに中部太平洋決戦構想を練りました。攻略対象は中部太平洋のミッドウェイ島です。同島の攻略に伴って生起するであろう艦隊決戦においてアメリカ艦隊を撃滅する。そして、攻略したミッドウェイを足がかりにハワイを攻略するのです。最終的には、攻略したハワイの返還を条件としてアメリカを講和交渉に引っぱり出す。
連合艦隊司令部と海軍軍令部との間で論争が生まれました。議論は尽きません。連合艦隊の中部太平洋決戦構想にせよ、軍令部の米濠遮断構想にせよ、予定決戦海面は日本本土から数千キロも離れており、不確定要素が多く、利害得失を計量するのが困難でした。双方に一長一短があり、議論では決着がつきません。軍令部も連合艦隊も軍人の本性で負けず嫌いです。押し問答が続き、時間ばかりが経過しました。
この間、はるか南洋の珊瑚海では戦局が微妙に変化していました。日本軍の攻勢に対してアメリカ軍が抵抗を示しはじめたのです。しかし、その抵抗は極めて特殊な形態でした。そのため日本軍はこれを抵抗と認識し得ませんでした。
昭和十七年一月にニューブリテン島ラバウルを攻略した日本軍は、ここに海軍基地航空隊を進出させました。ラバウル航空隊は敵の要衝ポートモレスビーに対する航空攻撃を反復しました。ニューギニア島南岸のポートモレスビーには米濠軍の航空基地があります。この航空基地を攻略できれば珊瑚海の制海権を掌握できます。そうなれば濠州北部への空襲が容易になり、オーストラリア上陸作戦さえ可能になってきます。
ポートモレスビーに対する日本軍の航空撃滅戦は戦術的に成功しました。ラバウル航空隊は、ポートモレスビー所在の敵航空部隊を何度も潰滅させました。この時期、零式戦闘機の空戦性能は圧倒的に優秀でした。零戦は敵機をバタバタと撃ち墜としました。それでも米濠軍は頑強に抵抗しました。その抵抗手段は補給でした。航空戦闘では零戦に敗れ続けた米濠軍ですが、次から次へと惜しみなく増援部隊を補充し続けました。敵の航空部隊を全滅させた日本軍が数日後に索敵機を飛ばして偵察すると、ポートモレスビー基地にはズラリと新鋭機が並んでいます。こんなことが何度も繰り返されました。
三月、ポートモレスビーに対する航空攻撃を強化するため日本軍はラバウル航空隊の一部をニューギニア島北岸のラエおよびサラモアへ進出させることにしました。基地設営のため軽巡、駆逐艦、輸送船、特務艦などがフォン湾へ進出しました。その際、日本軍艦艇はアメリカ軍機の空襲を受け、全十八隻のうち四隻が沈没し、九隻が損傷するという損害を受けました。この事態を海軍中枢は重視しませんでした。驕りです。もっと細心であるべきでした。
ラエ基地およびサラモア基地に進出したラバウル航空隊の分遣隊は、ポートモレスビー攻撃の任務につきました。ラバウル、ラエ、サラモアの三基地を飛び立った海軍機は連日のようにスタンレー山脈越えのポートモレスビー空襲を敢行し、多大な戦果をあげました。しかし、米濠軍は次々と新戦力を投入して損害を補充し続け、戦線を維持しました。
ポートモレスビーは米濠軍にとって対日反攻の最重要基地です。ここを日本軍に奪われたら、珊瑚海の制空権を失い、対日反攻作戦の日程はよほど遅れることになるでしょう。そのため米濠軍はその防衛に全力を注ぎました。航空戦闘の敗北による損害を補給によって穴埋めしつづけました。ポートモレスビー基地の航空部隊が全滅させられるたびにオーストラリアから増援航空部隊が送り出されました。その補充力は、日本軍の想像をはるかに越えるものでした。
同方面における日本海軍の主力は、ラバウルに本拠を置く第二十五航空戦隊と第四艦隊です。第二十五航空戦隊は百六十二機の航空戦力をもってポートモレスビー空襲を反復しました。ですが、アメリカ軍は驚嘆すべき補給力によって消耗を回復させ、物量で日本軍に対抗していました。さらにアメリカ軍はポートモレスビー飛行場を拡張し、ニューギニア島東端のラビに新飛行場を建設しました。
海軍のラバウル航空隊は、称賛されるべき多大な戦術的戦果をあげました。にもかかわらず、ついに航空撃滅戦に勝ち切れませんでした。撃墜しても撃破しても際限なく敵機が湧いて出てくるのです。敵の航空隊を全滅させたと思っても、数日後には回復しているのです。航空戦闘では勝利しているのに、戦局は一向に好転しません。
海上では第四艦隊が苦戦していました。第四艦隊の主力は軽巡洋艦と駆逐艦であり、もとから非力だったからです。
結果的に、日本軍はポートモレスビー攻略に多大な戦力を投入しながら攻略に失敗します。そして、この後に多大な戦力をニューギニアで消耗していきます。その意味において、ポートモレスビーはガダルカナルとならぶ大東亜戦争の天王山でした。しかしながら、これはあくまで結果論であり、戦争の渦中にあった日本軍首脳はポートモレスビー攻略の遅延を必ずしも重視しませんでした。
「第四艦隊はだらしがない」
この一言でかたづけてしまったのです。日本軍の戦況判断は早くも誤謬に陥っていました。航空撃滅戦が何度も成功しているのに、いつまでたってもポートモレスビーを攻略できない。この奇妙な現象に海軍中枢は神経を尖らせるべきでしたが、そうはせず、第二段作戦の研究に熱中していました。軍令部は米濠遮断作戦に固執し、連合艦隊司令部はミッドウェイ作戦に躍起となりました。結果的に珊瑚海方面の戦況を軽視することになりました。
実のところ連合軍の本格的反攻はすでに始まっていたといってよく、ポートモレスビーをめぐる攻防から必然的に珊瑚海における海上決戦が生起する戦況でした。日本軍は、珊瑚海方面の戦況を注視し、素直に主力を珊瑚海方面に投入すれば決戦を生起させ得たでしょう。第二段作戦などを考究する必要はなかったのです。ところが、連合艦隊司令部は中部太平洋に海上決戦を生起させようと知恵を絞り、軍令部は米濠遮断作戦に血道を上げました。海軍の頭脳は机上作戦に熱中しすぎて眼前の戦況を看過したのです。
南雲機動部隊の大遠征はなお続いています。ビスマルク諸島、パラオ諸島、セレベス諸島、チモール海、北濠の要地に対して空襲を敢行した機動部隊は、インド洋を西へ進み、セイロン島を目指しています。そこにイギリス東洋艦隊の根拠地があります。しかし、空母「赤城」飛行隊長の淵田美津雄中佐は、この用兵を罵りました。
「まるで鶏を割くに牛刀を以ってするようなものだ」
機動部隊はもっと強い敵に当たるべきだと淵田中佐は考えています。南雲部隊の行く手に強敵はいません。インド洋の英東洋艦隊は、おそらく艦隊保全主義をとって決戦を避けるでしょう。淵田中佐の現場感覚からすれば、中部太平洋で米空母を追求すべきでした。
事実、太平洋では日本軍勢力圏の外縁部にアメリカ軍の空母艦隊が来襲していました。昭和十七年二月一日、空母二隻からなる米機動部隊がマーシャル諸島を襲い、艦船三隻を撃沈、八隻に損害を与えました。さらに二月二十四日にはウエーク島を、三月四日には南鳥島を空襲しました。米空母部隊にとって格好の実戦訓練でした。
「強敵のいないインド洋に空母五隻をはりつけて何になるか。なぜ太平洋の米機動部隊をやらないのか」
真珠湾攻撃の総隊長だった淵田中佐には「真珠湾で敵空母を撃ち漏らした」という悔恨があります。身はインド洋にありながら、心は太平洋の敵空母へと飛びました。しかし、軍令部にしてみれば南方作戦を成功させることが何よりも最優先です。まずは石油の確保でした。そのためにこそ南方資源地帯の外郭域に南雲機動部隊を進出させているのです。これはこれで理にかなっています。インド洋の英東洋艦隊を放置しておくことはできません。追撃して完膚なきまでに叩いてしまいたいところです。
巨大な逆三角形のインド亜大陸がインド洋に突き刺さっています。その東側がベンガル湾、西側がアラビア海です。英東洋艦隊はアラビア海モルジブ諸島のアッズ環礁に根拠地を後退させていました。その戦力は空母三隻、戦艦五隻、重巡二隻、軽巡五隻、駆逐艦十六隻という大勢力です。しかし、南雲機動部隊の行動予定範囲はベンガル湾の西端セイロン島まででした。
インド洋作戦の戦果は小型空母一隻撃沈、重巡二隻撃沈にとどまりました。投入した戦力の大きさに比べれば小さな戦果です。長蛇を逸したといえるでしょう。決戦不生起の理由は主にイギリス側にあります。英東洋艦隊は充分な戦力を有しながら艦隊保全主義をとり、南雲機動部隊との決戦を避けたのです。英空母の艦上攻撃機は、旧式の三座複葉機ソードフィッシュを主力としていました。その性能からして南雲機動部隊と戦っても勝ち目がありません。それゆえに英東洋艦隊は積極行動を抑え、退避行動をとりました。精強な敵を見れば戦闘を避け、弱敵に対しては容赦ない攻撃を加えて完膚無きにまで叩く。これが英米流の戦法であり、常勝の原則です。強敵を求めて決戦を挑むという日本軍の決戦主義は、世界的には、むしろ珍しい戦術思想です。
連合艦隊司令部は、なおも第二段作戦の立案に頭を悩ませています。困難なこの重要任務を五十六はふたりの参謀に任せました。黒島亀人先任参謀と渡辺安次戦務参謀です。両名は期待に応えるべく懸命の努力をしました。作戦目的はアメリカ艦隊の捕捉撃滅です。それをどのように実現するか。決して容易な問題ではありません。何しろ太平洋は広く、索敵さえ容易ではないのです。いつ、どこで、どのように敵を捕捉するか。それが工夫のしどころです。捕捉さえできれば優秀な練度を誇る連合艦隊が敵を撃沈するでしょう。
黒島参謀と渡辺参謀が苦心して案出した作戦は、ミッドウェイ島の陸上基地に攻撃をしかけ、敵機動部隊をハワイから誘い出すというものです。本来、海上に浮かぶ艦隊が敵の陸上基地を攻撃するのは下策中の下策です。ですが、そのタブーを敢えて破ってみせ、敵の主力艦隊を誘出するのです。ふたりはこの着想を基礎として作戦案を具体化しました。
「敵は出てこないのではないか」
後世から見れば余計な心配が、ふたりの参謀の脳裏を離れません。この心配の根拠のひとつは日米の圧倒的な国力差です。長期戦となればアメリカが有利です。時間の経過とともにアメリカ軍はドンドン増勢していきます。いずれ多勢に無勢で手の打ちようがなくなるのは日本です。だから、アメリカには急ぐ必要がありません。ミッドウェイ島を攻撃されたくらいではアメリカ艦隊は出てこないかも知れませんでした。
もうひとつの心配はアングロサクソンの戦術思想です。強敵を避け、弱敵を叩く。この原則から推量するならば、圧倒的戦力をミッドウェイ島に集中してしまうとアメリカ艦隊は艦隊保全主義をとって出撃してこない可能性がありました。
黒島と渡辺の両参謀は検討を重ね、敵を誘出するには単なる空襲では足りないという結論に達しました。そこで案出されたのがミッドウェイ島占領という陽動です。ミッドウェイ島を攻略すれば、アメリカ艦隊はたとえ劣勢であっても出撃せざるを得ないだろうと考えられました。こうした想定の下、ふたりは作戦立案作業に打ち込みました。
作戦というものは「行って戦え」というような単純なものではありません。近代作戦は精緻な計算の上に成り立っています。事前の偵察行動から補給行動、退避行動までを含んでいます。想定される敵の戦力、投入すべき自軍の戦力、予定戦闘海面の天候や月齢まで考慮する必要があります。敵の行動を複数想定し、その各々について作戦シナリオを立てておかねばなりません。ミッドウェイ作戦には連合艦隊の総力を投入することになります。潜水艦を主力とする第六艦隊を先遣部隊として出撃させ、第一航空艦隊にはミッドウェイ島への強襲を敢行させるます。そして第一艦隊を基幹とする主力部隊が決戦を期してやや遅れて進出するのです。これら各艦隊の行動をうまく相互連携させねばなりません。運用する艦種は多様です。潜水艦、駆逐艦、巡洋艦、戦艦、空母、油槽船、輸送船など、それぞれの艦種や艦型や艦令によって速度や航続距離が異なります。広大な太平洋で連合艦隊の艦船群が有機的に連動し、予定攻撃日に予定行動海面に正確に到達するよう精巧かつ複雑な日程を組み上げねばなりません。これに加えて、できるだけ石油を節約したいという制約もありました。電卓もパソコンもないこの時代、計算だけでもたいへんな頭脳労働です。黒島参謀と渡辺参謀は気の遠くなるような作戦立案作業に没頭しました。
黒島参謀は作戦に熱中し始めると自室に籠もり、食事にも顔を出さず、風呂にも入らず、衣服にも頓着しなくなることで有名でした。机の上には煙草の吸い殻が小山をなしています。従兵が部屋を掃除しようとしても、「邪魔だ」と追い出されてしまいます。背が高く痩せていた黒島参謀は、いつも机に向かって作戦のことばかり考えていました。そのため海軍には珍しく猫背でした。背中を丸くして黒島は作戦立案に集中し、やがて一応の成案を得ました。
昭和十七年四月二日、軍令部第一課において作戦会議が開かれました。連合艦隊の戦務参謀渡辺安次中佐がミッドウェイ作戦を説明しました。その骨子は次のとおりです。まず空母機動部隊がミッドウェイ島の陸上基地を空襲し、敵の陸上航空兵力を撃滅する。同島の危機に接した米機動部隊はハワイ真珠湾から出動する。わが方の潜水艦戦隊があらかじめ哨戒線を張り、敵艦隊の動きを監視する。日本軍は陸上部隊を上陸させてミッドウェイ島を占領、陸上基地を復旧し、基地航空部隊を進出させる。やがて敵艦隊がミッドウェイ島近海に達する頃には、わが主力部隊も同島近海に進出する。ここにおいて我が方は、空母部隊、基地航空部隊、戦艦などの全力で敵艦隊に決戦を強いる。
全戦力を当初からミッドウェイ島に集中させず、まずは空母部隊のみを突進させる理由は、敵を誘出するためです。ここにこそ黒島と渡辺の工夫があったのです。圧倒的戦力を集中させればミッドウェイ島の攻略は容易です。しかし、それではアメリカ海軍が決戦を回避してしまいます。だから集中の原則を度外視して空母部隊のみを前衛として突出させるのです。ミッドウェイ島を空襲し、展開次第では海上決戦も決行する。それが前衛空母部隊に与えられた役割です。過重と言ってもよい困難な任務ですが、南雲機動部隊ならばやり遂げるであろうと考えられました。南雲部隊は要するに精強な囮部隊なのです。これをエサにして敵の主力を誘い出すのが眼目です。
渡辺参謀は自信満々に説明しました。自信の源泉は、これまでの連合艦隊の戦果と、自身の努力と黒島参謀の苦労と、そして山本五十六長官の承認です。開戦以来の連戦連勝は、連合艦隊司令長官山本五十六大将の名に燦然たる威光を与えています。
(軍令部もひれ伏すだろう)
しかし、これは渡辺安次中佐の思い違いでした。海軍軍令部はそれほど甘くはありませんでした。そもそも軍令部にとってミッドウェイ作戦は寝耳に水の奇案です。軍令部は強硬に反対しました。海軍軍令部は陸軍参謀本部と協議して既に米濠遮断作戦を成案化しています。これをひっくり返せば、再び陸軍と再調整をせねばなりません。軍令部第一課の三代一就中佐が容赦ない反論を渡辺中佐に浴びせます。
「作戦の根本が誤っている。ミッドウェイ島への奇襲は成立しない」
すでに日米両国は交戦状態にあります。真珠湾奇襲の時とは事情が違います。そうである以上、奇襲の成立は期し難く、必然的に強襲となります。敵が頑強に抵抗した場合、ミッドウェイ島の占領に手間取ります。手間取れば、すべての手順に狂いが生じてきます。ミッドウェイ島攻略に忙殺されているところを敵艦隊に逆襲されたらどうなるのか。三代中佐の反対論は手厳しく、渡辺安治中佐は反論ができなくなりました。三代中佐はさらにたたみかけました。ミッドウェイ島は日本から四千キロメートル離れている。一方、敵の根拠地ハワイからは二千キロメートルと近い。敵側に有利です。陸上基地に対する海上艦船の攻撃は海軍戦術上のタブーです。そのタブーを無視するのは傲りではないか。そもそもミッドウェイ島の戦略価値は低く、アメリカ艦隊主力はおそらく出てこない。首尾よくミッドウェイ島を占領できたとしても補給が困難であって、維持が出来ない。逆に敵から包囲され、ミッドウェイ島の陸上部隊が苦戦に陥る。
「要するに、この作戦は空振りになるか、さもなければ大敗である」
三代中佐はミッドウェイ作戦を完全否定しました。渡辺中佐は沈黙させられました。しかし、勝とうとしました。机上の議論とはいえ、破れることは屈辱です。
(三代はわかっていないのだ)
渡辺中佐は思います。様々な無理を承知の上で練り上げたのがミッドウェイ作戦なのです。なぜ無理をするかといえば、短期決戦による早期講和を目指しているからです。連合艦隊には贅沢な作戦をやっている余裕がありません。すでに開戦から半年を経ている今こそ、危険を覚悟で決戦を挑まねばならないのです。ところが三代中佐は頭ごなしに連合艦隊案を否定してきました。
(軍令部はわかってない)
三代中佐にやり込められて激昂した渡辺中佐は、一本取り返さねば気が収まらなくなり、全くの別次元から反論を開始しました。
「連合艦隊司令長官がやるといって持ってきた案を、軍令部第一課だけで反対と言われても引き下がるわけにはいかない」
「なにを馬鹿な」
三代中佐は相手にしませんでした。しかし、意外にも富岡定俊第一課長が反応しました。威光が効いたのです。議論の場は、第一課から第一部長福留繁少将の部屋へ移りました。渡辺中佐は再びミッドウェイ作戦を説明しました。これに三代中佐が反論を加えます。三代中佐の完璧な反論が展開される中、その弁舌を遮ったのは福留第一部長でした。
「まあ、そう言うな。せっかくの山本長官のご意志だから、軍令部でも研究し直してみよう」
三代中佐は不満でしたが、二日後に再び会議を行なうことになりました。四月四日、伊藤整一軍令部次長も列席の上、会議が開かれました。連合艦隊の渡辺安次中佐は、あらためてミッドウェイ作戦を説明しました。これに対して三代一就中佐が反論します。議論では三代中佐が優勢ですが、渡辺中佐も黙ってはいません。
「敵艦隊主力を撃滅しようとするのに多少の危険さえ冒さないというのは虫が良すぎる」
作戦に無理があることは認めざるをえません。ですが、それを無理というなら、そもそも対米英蘭支戦争そのものが無茶ではないか。
「今は開戦の是非を論じているのではない」
三代中佐は反論します。そう言われれば確かにそうです。今は次期海上決戦の議論をしているのです。
「ちょっと待ってください」
いよいよ劣勢になった渡辺中佐は席を立ちました。軍令部作戦室の一隅には電話ボックスが設置されています。これは軍令部と柱島停泊中の旗艦「大和」とを結ぶホットラインです。「大和」の作戦室にも同様の電話ボックスがあります。渡辺参謀は電話ボックスに入り、受話器を手に取りました。
(さすがの渡辺もあきらめたな)
軍令部側の誰もがそう思いました。三代中佐にコテンパンにやられて反論できなかったのです。敗北の報告をしたのであろう、と思いました。やがて電話を終えて席に戻った渡辺中佐は深刻な面持ちで発言しました。
「この作戦が採用されないなら、山本長官は辞任するとおっしゃっている」
渡辺中佐は、さも山本長官と話してきたかのような体を装いました。軍人というものは味方に対してでも策略を使うもののようです。作戦の良否ではなく、山本長官の名声で作戦会議の劣勢を挽回しようとしたのです。効果はありました。軍令部側が黙りこんだのです。福留第一部長は、隣に座っている伊藤軍令部次長に話しかけました。
「山本長官にお任せしましょうか」
言われた伊藤次長はうなずいて席を立ち、永野修身軍令部総長の部屋に向かいました。やがて戻ってきた伊藤次長が永野総長の言葉を伝えました。
「山本長官がそこまでおっしゃるならお任せしよう、とのことである」
これには三代中佐が激昂して抗議しました。
「そんないい加減な理由で決めていいのですか。今までの議論はいったい何だったのです」
世の名声になびかなかったのは、ひとり三代中佐だけでした。三代中佐は憤激のあまり涙を流しました。しかし、福留作戦部長にたしなめられて黙りました。この後、海軍軍令部は陸軍参謀本部と再協議し、何とか同意をとりつけました。ミッドウェイ作戦の実施はこのようにして決まりました。