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開戦

 開戦に至るまでの日本政府の意思決定経過はおおむね次のとおりです。日本の国策は大本営政府連絡会議において論議され、御前会議によって正式決定されました。昭和十六年八月一日にアメリカが対日石油輸出禁止措置を発動すると、その対応が大本営政府連絡会議で討議され、帝国国策遂行要領案が御前会議で採択されました。九月六日のことです。その内容は、要するに戦争準備と外交交渉とを併行させるというものでした。

「帝国は自存自衛を全うするため」

 という文章から帝国国策遂行要領は始まっています。すでに米英蘭支の四ヶ国から経済封鎖されており、日本は亡国の関頭に立たされていました。それを考えれば「自存自衛」は誇張のない表現です。そして、この四文字には日本人の誇りと決意が込められています。

 大日本帝国はあくまでも独立した一等国として、英米との平等な立場を守ろうとしたのです。幕末以来の艱難辛苦の末にようやく勝ち得た国際的地位です。先人たちは不平等条約に涙しながら日本を一等国にまでおしあげてくれました。それを今が苦しいからといって放り出すことはできません。かつて官軍に恭順することを潔しとしなかった長岡藩と同様に、日本は自主独立にこだわりました。

 しかし、アメリカの目にはまったく別の日本像が映っていました。そもそも日本をここまで育ててきたのはアメリカです。鎖国していた日本を開国させ、文明化し、日露戦争を支援し、国際会議では一等国として遇してやりました。それなのに日本は人種平等を訴えたり、南洋諸島を領有したり、満州国を建国したりと、黄色人種のくせに生意気なことばかりします。

「日本はいったい何様のつもりか」

 この時代の欧米白人の常識からすれば、有色人種は猿でしかありません。アメリカからみれば、インディアンは殲滅すべき文明の敵であり、黒人は奴隷であり、フィリピンは植民地であり、日本は極東の子分に過ぎません。その子分が思い上がっているのです。

「日本に思い知らせてやれ」

 白人諸国家が支配する世界の中に、ただひとつ目障りな黄色人種の一等国がありました。これを叩きつぶし、目を覚まさせ、極東の子分として酷使する。それがアメリカの意志です。

 しかし、そのアメリカも、もとはといえば大英帝国の植民地だったに過ぎません。宗主国に権利と独立を請求しましたが、大英帝国に拒否され続けました。フランスの支援を得て独立戦争を勝ち抜いたアメリカはようやく独立しましたが、大英帝国から多くのことを学びました。そして、その学んだ方法を周辺国へと応用して膨張したのです。そして、その矛先がついに日本にまで及んできたのです。日本にとっては災害と言うしかありません。

 九月六日に決定した帝国国策遂行要領は対米交渉の期限を十月上旬までと限定しています。

「我が要求を貫徹しうる目途なき場合においては、直ちに対米英蘭開戦を決意する」

 昭和天皇はこの国策遂行要領を御採択なさったものの、ご不満の意を明治天皇の御製に託して表明なされました。


  四方(よも)の海 皆はらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ


 恐懼した政府は対米交渉の再興に動きます。しかしながら、日米交渉はもはや行き詰まっており、近衛内閣には打開策がありませんでした。昭和十六年十月十四日に尾崎秀実がスパイ容疑で逮捕されたことは、近衛文麿総理にとっても、陸海軍の中堅官僚にとっても衝撃だったに違いありません。尾崎秀実は近衛内閣の政策スタッフでしたし、尾崎の唱えた「支那一撃論」や「南進論」が軍中枢を動かし、支那事変や仏印進駐へと向かった経緯があったからです。尾崎逮捕の二日後、近衛文麿総理は内閣を総辞職して自邸に引っ込んでしまいました。

 陸軍はすでに支那大陸に大兵力を動員してしまっており、いまさら簡単には撤退できません。既に五年目に入った支那事変では実に十九万人が戦死し、五十二万人が負傷し、四十三万人が戦病を得ています。百万を超える損害です。その全ての将兵に家族があることを思えば、その影響の甚大さに愕然たらざるを得ません。これに加え、すでに数百億円の国費が投じられていて、国家は総動員態勢を余儀なくされるまでに困窮しています。それを今さら中途でやめられるでしょうか。

 日本軍が撤兵すれば支那大陸の赤化が進み、排日侮日の気運がいよいよ高まり、邦人の生命や財産は保証されなくなります。その影響は支那に止まらず、満洲、朝鮮、台湾、そして日本本土にまで波及するでしょう。

「支那への防共駐兵だけはどうしても譲れない」

 日本政府は主張しました。これをアメリカ政府は認めませんでした。支那での防共駐兵さえ認められれば、日本陸軍は支那からの撤退を受け容れられました。しかし、アメリカ政府はいっさいの妥協を示さず、全面撤退を要求したのです。

 防共駐兵とは、その名のとおり、防共のための支那駐兵です。その意図は侵略でもなければ、植民地支配でもない。防共駐兵とは、北支と内蒙に防共のための駐屯軍を置くことです。支那大陸の赤化は日本にとって脅威でしたから、限定的な防共駐兵は日本にとって譲れない条件だったのです。ところが、スターリンと手を握っていたルーズベルト大統領は日本軍の全面撤退を要求し、少数兵力の防共駐兵さえ認めませんでした。もしアメリカが日本の防共駐兵を容認していれば、支那事変は終息し、日米は戦争を回避でき、支那大陸の赤化さえ防ぎ得たでしょう。しかし、容共主義者のルーズベルト大統領にその意志は皆無でした。

 昭和十六年十月十八日、東條英機に大命が降下し、東條内閣が組閣されます。新総理の東條が参内すると、昭和天皇の御内意が伝えられました。

「国策の大本を決定するについては、九月六日の御前会議の決定にこだわらず、内外の情勢をさらに深く検討して慎重なる考慮を加えるように」

 いわゆる「白紙還元の御諚」です。東條内閣は白紙から国策を練り直すことになりました。その意味において東條内閣は決して戦争内閣ではありません。

 東條総理は外務大臣に東郷茂徳を迎え、対米交渉に当たらせました。東郷外相は、支那撤兵を嫌がる東條総理をなだめ、すかし、時には脅しさえして甲案と乙案をつくりあげました。いずれも日本側として精一杯の対米譲歩案です。

 これに対するアメリカ側の回答は、にべもないものでした。日本政府をさんざん焦らせたあげく、いわゆるハル・ノートという覚書を回答としたのです。ハル・ノートは、日本側の甲乙両案を頭から無視し、四月以来の交渉経過さえ度外視しています。その内容は、支那および仏印からの全面撤兵と日独伊三国同盟の廃棄を要求するものでした。とうてい日本政府の呑めない内容です。日米の立場を入れ替えていうならば、フィリピンとハワイとアラスカから無条件撤退せよと日本がアメリカに要求するに等しいものです。とりつく島がまるでありません。ハル・ノートの無礼と傲慢は、日露戦争直前の日露交渉におけるロシア側最終回答にも匹敵します。

 ハル・ノートという最後通牒は、日本側の交渉意欲を根底から粉砕しました。交渉に絶望した日本の指導者は選択を迫られます。

「戦争か平和か」

 の選択ではありません。

「戦うか奴隷になるか」

 の選択です。勝利の確信は誰にもありませんでした。しかし、戦う以外に途がありません。死中に活を求めました。そうするしかなかったのです。東條内閣が直面した国難は、過去のいかなる国難よりも深刻でした。軍事的劣勢、外交的孤立、経済封鎖の重囲、東條内閣は進むも退くもならず、乾坤一擲の戦争に踏み切らざるを得ませんでした。包囲された小国の悲哀です。

 昭和十六年十一月五日、御前会議において新しい帝国国策遂行要領が決定されました。

「対米英蘭戦争を決意」

 とあります。ただし、これには条件がついていました。

「対米交渉が十二月一日午前零時までに成功せば武力発動を中止す」

 とはいえ政府も統帥部も開戦の腹を固めたのです。隠忍自重も限界に達しました。アメリカによる経済制裁が始まって三年、石油が途絶して四ヶ月、よくぞ耐えたというべきです。


 政府および統帥部が開戦を決意したその日、大本営海軍部命令第一号が連合艦隊司令長官山本五十六大将に宛てて発せられました。

「連合艦隊司令長官は所要の作戦準備を実施すべし」

 同時に発令された大本営海軍部指示第一号別冊に作戦方針が記されています。

「対支作戦中、米国、英国及び蘭国と開戦する場合の作戦方針」

 これが標題です。並みの人間ならば逃げ出すに違いありません。まさに四面楚歌です。それほどに戦略条件は悪い。一対一の喧嘩でも勝敗は五分五分です。それを一対四の劣勢で戦えというのです。しかも世界最大の海軍国たる米英二国を敵にまわすのです。この絶望感は、しかしながら、命令や指示にはいっさい表現されていません。そして、その内容はむしろ勇壮でさえあります。また、この長い文書の中に次の一項目があります。

「第一航空艦隊を基幹とする部隊を以って、開戦劈頭ハワイ所在敵艦隊を奇襲し、その勢力を減殺するに努め、爾後、主として第四艦隊の作戦及び南方攻略作戦の支援に任ず」

 この一項目のために連合艦隊司令部は軍令部と長い論争をくり返してきました。文中「その勢力を減殺するに努め」とあります。ハワイ作戦は当初から敵を撃滅させる作戦ではありませんでした。もし命令が「ハワイ在泊敵艦隊を撃滅せよ」であったなら、南雲機動部隊の実際の行動も自ら違ったものになったでしょう。しかし、ハワイ作戦はあくまでも主作戦たる南方作戦を支援するものです。

 軍令部にしてみれば苦心の作戦立案だったにちがいありません。軍令部総長が五十六のハワイ攻撃案を受け容れたとはいえ、軍令部としては南方作戦全般の大枠を狂わせるわけにはいきません。そのため軍令部は、徹底的なハワイ攻撃を命じなかったのです。ハワイ作戦で空母部隊が損害を受けてしまえば、その後の大機動作戦が実施できなくなります。その心配から機動部隊の猪突猛進を戒めました。

(軍令部も苦しかろう)

 五十六は思います。大きな組織を思いどおりに動かすことは敵に勝つより難しいものです。五十六としては、ハワイ作戦の実施にこぎつけただけでも上出来だと満足せねばなりません。

 間髪を入れず、連合艦隊司令長官は、機密連合艦隊命令作第一号を麾下の艦隊に発令します。これにより連合艦隊の作戦方針が具体的に各艦隊に明示されました。その内容は実に勇壮な同時多方面作戦です。大別すれば空母部隊による大機動作戦と南方攻略作戦からなっています。

 南方攻略作戦は南方資源地帯を確保するための作戦です。フィリピン作戦、マレー作戦、オランダ領インド作戦、グアム作戦、英領ボルネオ作戦、香港作戦、ビスマルク作戦からなっています。その目的は、広大な大東亜領域の制圧でした。これを担当するのは、第二艦隊、第三艦隊、南遣艦隊、第十一航空艦隊を基幹とする大部隊です。一方、機動作戦は、南方攻略作戦を円滑に進めるため、南方資源地帯の外郭域を空母部隊が機動し、敵の要地に次々と空襲を加えるというものです。その最初の目標はハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊でした。

「之を奇襲撃破し、その積極作戦を封止し」

 と連合艦隊命令は表現しています。軍令部の命令を無視して連合艦隊司令部が勝手に「全滅させよ」と命ずるわけにはいかないのです。この任務にあたるのは、五十六が撃攘の矢と頼む第一航空艦隊です。その司令長官たる南雲忠一中将は麾下艦隊に機密機動部隊命令作一号を発令しました。

「奇襲を決行し、之に致命的打撃を与ふる」

 南雲中将は強い決意でこの作戦に臨んだといってよいでしょう。

 二日後の十一月七日、連合艦隊司令部は機密連合艦隊命令作第二号を発令しました。

「第一開戦準備をなせ」

 これにより連合艦隊は戦時編制となりました。


 十一月十三日、南方作戦及びハワイ作戦に従軍する各艦隊司令官および参謀長が岩国航空基地に参集しました。連合艦隊幹部による最後の会議です。

「全艦隊の将兵は本職と生死をともにせよ」

 五十六は後世に名高い訓示をしました。

「ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合には、出動部隊に引き揚げを命ずる。その命令を受けた時は、たとえ、攻撃隊の発進後であっても直ちに反転、帰航してもらいたい」

 すると反論が出ました。

「出ていって、何もせずに帰ってこいというんですか」

「兵卒の士気に影響します。断乎やるべきです」

「実際問題としてそれは無理です」

「出かかった小便を止めることはできません」

 そう言ったのは南雲中将です。笑声が湧きました。南雲には、酒に酔うとあたり構わず立ち小便をするという悪癖がありました。南雲に悪意はなく、半ば冗談のつもりでした。

「何を言うかっ!」

 火を噴いたかと一同には思われました。五十六は憤怒の形相をしています。

「この命令を受けて、帰って来られないという指揮官があるなら、只今から出動を禁ずる。即刻辞表を出せ」

 一同、粛然としました。


 十一月十七日、大分県佐伯湾内にある空母「赤城」の飛行甲板上に五十六はいました。湾内には空母機動部隊のほか、第一艦隊と第二艦隊が集合しています。整然と海上に並び立つ艦影が風景を圧しました。これら軍艦の群れは、英国で建造された戦艦「金剛」を除けば、すべて国産軍艦です。日露戦争当時の主力艦がすべて外国製だったことを思えば、まさに隔世の感があります。極東の小国が、これほどの大海軍を建設し得たことは奇跡のようです。しかし、アメリカは日本以上の大発展を奇跡としてではなく、しごく自然の成り行きとして果たした大国です。そのアメリカと闘わねばなりません。五十六はハワイ攻撃部隊幹部に訓示します。

「機動部隊はいよいよ出撃の征途にのぼるのであるが、この作戦には多くの困難が伴う。この作戦に反対する者が少なくないことも知っている。だが、この作戦なくして対米戦争はあり得ないし、日本の存立もありえない。今度われわれが相手にする敵は、開闢(かいびゃく)以来の強敵である。米国ほどの強敵はないことを肝に銘ぜよ。諸君にとっても相手にとって不足はないはずである。我々の計画は奇襲だが、相手の寝首をかくようなつもりでゆくな。武士というものは寝首をかくときでも相手の枕を蹴ってから斬りつけるものだ。相手の反撃に出会ってもあわてぬよう、強襲のつもりでゆけ」

 機動部隊の各艦は、時間をずらして単艦ごとに出港し、択捉(えとろふ)島ヒトカップ湾を目指しました。


 十一月二十一日、大本営海軍部命令第九号を連合艦隊司令部は受け取りました。

「帝国は十二月上旬を期し、米国、英国及び蘭国に対し開戦するに決す」

 同日、大本営海軍部指示第七号も発令されました。

「連合艦隊司令長官は所要の部隊を作戦海面に進発せしむべし」

 これを受けて、連合艦隊司令部から麾下の艦隊に対し連合艦隊電令作第五号が発せられました。

「フジヤマノボレ」

 この隠語は「第二開戦準備をなせ」の意味です。この命令にしたがって、連合艦隊の各部隊はそれぞれの作戦海面に向けて移動を開始しました。


  東に北に南に発進す 弓末振り起し射つる矢ぞこれ


 この夜、五十六は長官私室でひとりになると、手帳に一首を書き記し、しばし茫然としました。

(ついにやるのか)

 日本の置かれた戦略条件からみて避けるべき戦争であることは明らかです。嶋田繁太郎海相は五十六の意見書を読んだのか、読まなかったのか、大本営政府連絡会議では何らの非戦論も主張しなかったようです。

(やってやる)

 そういう思いもあります。五十六は実力部隊の長として対米戦争の戦術研究に心血を注いできました。大車輪のようにあわただしい準備ではありましたが、ハワイ作戦は間に合いました。精鋭空母機動部隊が獅子奮迅の働きをすれば、太平洋上で優位を得ることは可能です。太平洋の制海権を得られれば、南方作戦は順調に進展するでしょう。

 むろん逆の感慨もあります。もとから無茶な戦争です。何しろこれから始まる戦争はアメリカ、イギリス、オランダ、支那を敵にまわすのです。しかも石油備蓄には限りがあります。そして、海軍の戦力は保って一年半です。かりに南方資源地帯を得て石油を確保したとしても、日米の国力差は隔絶しています。一年程度で決着をつけてしまわねば勝てないのです。長期戦になれば、勝ち負けではなく、こちらが一方的に消耗してしまいます。


挿絵(By みてみん)


(日本は、長岡のように焼かれる)

 日本が敗北した場合、長岡以上の惨状に襲われることは間違いありません。長岡は賊軍とされましたが、植民地になったわけではありませんでした。しかし、日本軍がアメリカ軍に敗れた場合、日本は植民地化され、日本人は奴隷にされると考えねばなりません。世界の常識はなお植民地帝国主義と人種差別主義であり、その冷酷な現実が世界を支配しています。欧米列強が世界を分割しており、分割された植民地は呵責なき搾取によって絞り上げられています。男も女も奴隷労働に従事させられ、若い女は犯され、将来有望な少年は手首を斬り落とされました。その悲惨な現実がインド、インドネシア、フィリピン、ベトナム、ビルマなどを苦しめています。日本を、そのような惨状にしてはならないのです。

(いよいよやるのか)

 戦うべきではないと考えながらも、戦いの指揮を執らねばならぬ五十六の立場は、河井継之助の立場と似ていました。


 昭和十六年十二月一日、宮中東一の間において御前会議が開かれ、米英蘭に対する開戦が決められました。

「帝国は米英蘭に対し開戦す」

 同日中に連合艦隊は大本営海軍部命令第九号を受令しました。

「帝国は十二月上旬を期し米国、英国及び蘭国に対し開戦するに決す」

 翌二日、連合艦隊は大本営海軍部命令第十二号を受令しました。

「連合艦隊司令長官は十二月八日午前零時以後、大海令第九号に依り武力を発動すべし」

 これを承けて連合艦隊司令部は麾下艦隊に連合艦隊電令作第十号を発令します。

「ニイタカヤマノボレ一二〇八」


 日本政府が重大な決断をした十二月一日、五十六は大本営からの召電にしたがって上京の途についていました。五十六の乗る特急列車には、偶然、第一海軍燃料厰長の柳原博光少将が乗っていました。柳原少将は二週間かけて満洲、朝鮮の人造石油工場を視察してきたばかりです。柳原少将は視察の概略を五十六に報告しました。

「人工石油工場が全能力を発揮するまでには今後二年以上かかると思います」

 柳原少将は結論から話しはじめ、人造石油技術の現状を子細に述べました。五十六は熱心に聞き、最後に遠い目をして言いました。

「二年以内に完成せねば間に合わぬ」

 柳原少将にはその言葉の真意がわかりませんでしたが、聞き返すのも失礼だと思い、そのまま報告を終えました。柳原少将が五十六の言葉の意味を悟ったのは開戦の日です。

 十二月二日の夜、銀座裏の料亭で五十六は堀悌吉と二人だけで会いました。堀は、ちょうど浦賀船渠社長に就任した直後でした。親友同士でありながら会話は弾みません。

 十二月三日、参内をすませた五十六は青山の自宅に帰り、久しぶりに家族と夕食をともにしました。妻の礼子は肋膜炎を患い、離れ家の六畳間に伏せていました。その離れ家に食事を運ばせた五十六は、いつにも増して無口でした。静かな夕食でしたが、家族は何事か普段と異なる雰囲気を感じました。

 翌朝、五十六は、長男の義正が登校するのを玄関で見送りました。こんなことは初めてです。

「行ってきます」

「行ってきなさい」

 五十六は義正の背中を見続けました。

 その日の午前九時、海軍省で出陣の儀式が行なわれました。海軍中枢の要人のみによる小さな会合です。五十六は作戦方針をあらためて明言しました。

「イギリス海軍の伝統たる艦隊保全主義作戦は断じてとらぬ。あくまで早期決戦の積極作戦を行なう決心である」

 午後三時、五十六は東京駅で特急富士に乗車しました。列車は横浜駅で一分間だけ停車します。横浜駅のホームには堀悌吉が待っていました。デッキに出た五十六は、ホームの堀と無言で握手しました。

 翌五日午前六時、列車は宮島口駅に到着しました。すでに旗艦「長門」が岩国湾で連合艦隊司令長官の帰りを待っています。やがて、そのメインマストに大将旗が翻りました。


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