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石油途絶

 松岡洋右外相は、昭和十六年四月、日ソ中立条約を成立させました。これによって日独伊ソの四国が外交的に結びつきました。するとアメリカ政府から反応があり、念願だった日米交渉の開始にこぎつけることができました。日米衝突を回避するための懸命の松岡外交が実を結んだと日本政府は思い、驚喜しました。しかしながら、アメリカ政府の意図は全く違うところにあったようです。

「日米両国の政策の背離に鑑み、日米交渉開始の当初より、これが円満妥結には万に一つの望みも托していなかった」

 コーデル・ハル国務長官が終戦直後にアメリカ連邦議会公聴会で語った言葉です。アメリカ政府は日米交渉で時間を稼ごうとしたに過ぎなかったのです。アメリカの冷徹な韓非子的謀略に比べれば、日米交渉に真摯な期待を寄せた日本政府はあまりに可憐です。


 五十六は、当初こそ日米交渉開始を悦びましたが、ある情報に接するに至り、むしろ対米戦争への覚悟を固めざるを得ませんでした。その情報とは、海軍軍令部から定期的に届けられるもので、パナマ運河を航行する米国艦船の動静を伝えています。その報告によればアメリカ太平洋艦隊の主力がパナマ運河を通過して大西洋に回航されたというのです。それも戦艦三隻、空母一隻、巡洋艦四隻、駆逐艦九隻という大部隊です。この動きをどう読むべきか、連合艦隊司令部内で議論になりました。

「アメリカはイギリスから軍事支援を求められている。日米交渉開始によって太平洋の和平を担保しておいて太平洋艦隊を大西洋に回したのだろう」

「日本政府は、いっぱい食わされたということか」

「これは同盟国ドイツに対する背信になる」

「日米交渉はアメリカの偽装ではないのか」

 こうした議論は結果的にほぼ正確だったといってよいでしょう。アメリカ海軍にとってパナマ運河ほど重要な戦略施設はありません。この長大な運河が太平洋と大西洋を結んでいるからこそ、限りある艦船を西へ東へと使い回すことができるのです。アメリカ政府が長い年月と巨額の費用に加えて謀略まで使ってパナマ運河を建設した理由はここにありました。

 アメリカは大西洋重視、太平洋守勢を基本戦略とし、ドイツの攻勢に苦しむイギリスを支援するため太平洋艦隊の主力艦を大西洋に回航したのです。つまり、日米交渉開始は日本政府に対する目眩ましでしかありませんでした。


 昭和十六年六月のある日、ただならぬ哄笑が旗艦「長門」の長官私室に湧き興りました。会議中に談笑することは珍しくありませんが、これほど大きな笑声はかつてないことでした。長官公室に居あわせた従兵たちの目線が長官私室の方に集まるなか、黒島亀人(かめと)先任参謀と渡辺安次(やすじ)戦務参謀が意気揚々と出てきました。懸案だった浅海面魚雷の工夫が実用化したとの報告が届いたのです。緊迫した国際情勢の下、困難なハワイ作戦の完整を急いでいたこともあり、好ましい報告が時ならぬ悦びを生みだし、大きな哄笑となって爆発したのです。

 浅深度魚雷の工夫には目途がつきました。しかし、水平爆撃の精度向上、洋上給油の方法、機動部隊の進路選択、攻撃機部隊の攻撃序列など懸案はまだたくさんあります。その解決のために連合艦隊司令部の幕僚は刻苦勉励の日々を送っています。ある意味で、この時期の連合艦隊幕僚は幸福だったでしょう。芸術家がわずらわしい俗事から解放されて創作活動に集中したいと願うように、海軍士官にとって国運を賭した作戦研究に没頭できることは大いなる喜びです。五十六とて生身の人間ですから、ときに気分を昂揚させました。

(八丁沖の奇襲を太平洋でやってやる)


 日本政府を暗澹とさせる事態が発生したのは六月二十二日です。ドイツ軍がソ連領への侵攻を開始したのです。このため松岡外交は瓦解しました。日独伊ソの四国協商によって英米と対抗しつつ、日米交渉で宥和を達成する。これが松岡外交の狙いでした。しかし、ドイツがソ連侵攻を開始したのです。松岡洋右外相の構想はヒトラーによって打ち砕かれました。このため、日本の対米外交力は無に帰しました。日本政府は事態への対処に大わらわとなりました。

 旗艦「長門」の連合艦隊司令部でも独ソ戦の展望が話題になりました。ドイツ軍の進撃はどこまで続くのか、スターリンの反撃は可能か、陸軍は対ソ戦を決意して関東軍に北進を命ずるのか。

(まさか、とは思うが)

 五十六が憂慮したのは、日本の対ソ参戦です。五十六の見るところ、ドイツ軍がモスクワを陥落させたとしても、スターリンは東方に避難するにちがいなく、関東軍が北進したとしてもソ満国境のソ連軍要塞に進撃を阻まれます。堅固な要塞を突破できたとして、せいぜいバイカル湖からイルクーツクまで進撃するのが限界です。スターリン政権は中部ユーラシアで延命するのではないか。かりにソ連国内でクーデターが起こってスターリンが死んだとしても、新政権が日独になびくとは限りません。戦いは長期化し、泥沼のシベリア事変になるでしょう。日本は、支那事変とシベリア事変を抱え込むことになります。その背後からアメリカに襲われたら、ひとたまりもありません。その惨憺たる戦略環境下では為す術がありません。幸いなことに陸軍は常識的でした。独ソ戦の推移を見守り、ソ連の敗北が確定的な情勢になった場合に限って参戦することが決められました。

 同時期、陸海軍は南方作戦の準備として南部仏印へ進出しました。これは仏印政府との合意に基づく進駐であって、国際法に照らして何ら問題はありません。その南仏印進出に難癖をつけてきたのはアメリカです。アメリカは、本国から遙か彼方にあるアジア情勢の変化に過敏に反応し、昭和十六年七月二十六日、在米日本資産凍結令を公布しました。英蘭二国もアメリカに追従します。さらに八月一日、アメリカは日本に対する石油輸出の禁止を開始しました。これは対日経済制裁の勝負手といってよく、明らかな戦争行為です。将棋でいえば王手にあたります。日本は詰まされました。

「日本への石油供給を止めれば戦争になる」

 という危惧がアメリカ政府内にありました。追い詰められた日本が開戦に踏み切れば、フィリピンの極東アメリカ軍は苦戦を強いられるに違いありません。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーは、日本の暴発を予言し、対日石油輸出禁止に強く反対していました。グルーは十年以上にわたって駐日大使を勤めた知日家です。

「日本の論理や理性は西洋のモノサシで測ることができない」

 グルー大使は本国政府にくりかえし打電して警戒を促しました。もし武力衝突が発生する場合には突発的かつ劇的なものになる、とグルーは予想しました。その洞察力は極めて優れていたといえるでしょう。

「国家的ハラキリ」

 グルー大使は印象的な表現を用いて本国政府に警報を発し続けました。にもかかわらず、ルーズベルト大統領は石油の禁輸措置を断行しました。それは、なぜでしょう。グルー大使の恐れた日本の暴発、それをこそアメリカ大統領ルーズベルトは待ち望んでいたのです。ルーズベルト大統領は参戦の口実を欲していました。「参戦しない」という大統領選挙時の公約を覆してなおアメリカ国民を納得させ得るだけの言い訳が必要だったのです。それさえあればアメリカは日本を征服できます。

 石油を断たれた日本政府の衝撃は絶望的なほどに大きなものでした。日本は文字どおりの窮鼠(きゅうそ)となりました。石油を自給できない日本は、かねてより官民を挙げて石油を備蓄してきています。その備蓄量はおよそ四千八百万バーレルに達していました。そのうちの七割が海軍の備蓄です。それでもいざ戦争となれば、せいぜい一年半で消費してしまいます。平和が続いたとしても、二年後には日本のすべての石油内燃機関が停止することになるのです。軍艦も戦車もトラックも飛行機も産業用機械もスクラップと化します。日本は石油文明から石炭文明へと退化せねばなりません。それでも近衛文麿総理は日米交渉に望みをつないで日米交渉を継続しました。

 一方、ルーズベルト大統領はといえば、大西洋上でチャーチル英首相と会談をしていました。チャーチル首相はアメリカの参戦を必死に促しました。ドイツ空軍の爆撃とドイツ海軍の通商破壊に苦しめられているイギリスにしてみれば、アメリカの参戦によって戦略環境を好転させねばなりません。チャーチル首相にとっては大英帝国の存亡を賭けた首脳外交です。これをルーズベルト大統領は諾しました。

 第二次世界大戦を勃発させたもう一方の当事者はスターリンです。スターリンはヒトラーと不可侵条約を結び、ポーランドの分割を密約しました。ドイツをポーランドへ侵攻させれば、英仏がドイツに対して宣戦布告するというのがスターリンの狙いだったのです。この狙いは見事に適中しました。スターリンは英独仏の争いを高みから見物できる立場となりました。これを遺恨としたヒトラーは独ソ不可侵条約を反故にしてソ連に侵攻したのです。これをみた英首相チャーチルは、アメリカに加えてソビエトの力を借り、ドイツを打倒しようとしました。

 チャーチル首相からの参戦要請を肯定したルーズベルト大統領は、戦争に負ける心配など一切していません。日独両軍とも米本土に侵攻する能力を持っていません。どう転んでもアメリカ本国は安全です。

 アメリカ、イギリス、オランダの三国はABDプランという協同戦争計画をすでに決定していました。その内容は日本にとって恐るべきものです。対日戦争が起こった場合、米英蘭は協力し、当面、日本海軍を敵として一年ほどの時間を稼ぎます。戦争を長期化させて日本の石油が枯渇するのを待ちながら万全の侵攻戦力を整え、日本海軍が消耗したところで進攻を開始するのです。

 アメリカの対日戦略は、かくまでに完璧でした。この政戦略環境を整備するために、アメリカ政府はワシントン条約から二十年もの時間をかけてきたのです。ひるがえって日本は、経済的にも外交的にも軍事的にも一方的に圧迫され続けるばかりでした。


挿絵(By みてみん)


 石油が途絶すると陸海軍の作戦中枢には真剣味を越えた悲愴感が漂いました。南方作戦は、戦術的な勝利によって日本の戦略環境を打開するためのものです。米英蘭のアジア派遣軍を撃滅し、南方資源地帯を確保する。そして持久態勢を確立して粘り抜く。これが日本の戦略であり、これに失敗すれば日本は亡国となるのです。

 それにしても石油です。アメリカでも蘭印でもイギリスでもいい、石油を日本に輸出してくれさえすれば発起する必要のない戦争です。日本本土でも樺太でも朝鮮でも台湾でも満洲でも南洋諸島でもいい、石油さえ発掘できれば不要な戦争です。その石油が日本にはないのです。

 陸軍参謀本部と海軍軍令部は懸命の情報収集と作戦立案に追われました。詳細な兵要地誌情報が必要です。敵軍の配置と兵力、地形、気象、植生、都市や交通路などの地理情報、陸海軍の協力体制、戦闘序列、兵站輸送など、研究課題は山のようにあります。陸海軍の諸機関や間諜が情報を集め、その情報が中央で分析されました。

 連合艦隊司令部も南方作戦の研究に余念がありません。南方作戦を成功させるためには、どうしても撃滅すべき敵基地があります。フィリピンのクラーク空軍基地とシンガポールの英海軍基地です。クラーク基地のアメリカ空軍とシンガポールの英東洋艦隊が自由に暴れたら南方作戦は必ず失敗します。だから開戦と同時に攻撃を加えて沈黙させねばなりません。この研究のため海軍軍令部と連合艦隊司令部は忙殺されました。

 問題はハワイです。五十六はハワイ攻撃が必要だと考えるのに対し、軍令部は危険かつ不必要と判断しました。だからハワイ真珠湾攻撃の作戦計画はもっぱら連合艦隊司令部によってのみ研究されています。この連合艦隊案を五十六は海軍軍令部に承認させようとしました。

 海軍軍令部は天皇に直属し、天皇の統帥権を輔翼する組織です。連合艦隊司令長官は、軍令部の命令に基づいてしか連合艦隊を指揮できません。その意味で、連合艦隊司令長官は海軍の全権者ではまったくなく、むしろ上級司令部から命令される現場監督者でしかないのです。五十六の苦労は、組織秩序を守りつつ、己の能力の限りを尽くして新作戦を練り上げ、これを上級司令部に具申して納得させるところにありました。

(味方に勝てないような者は、そもそも敵と戦う資格がない)

 そう考える五十六は、真珠湾作戦が正式採用されないのならば、連合艦隊司令長官を辞する覚悟をかためました。猛暑の頃、軍令部を説得するため五十六が東京に派遣したのは黒島亀人先任参謀です。黒島参謀は、あたるべからざる気概を押し出して説得に努めましたが、軍令部は従来の作戦方針に固執して一歩も譲りません。

「投機的すぎる」

 軍令部の反対理由のひとつがこれでした。これには黒島参謀が大いに反論しました。

「軍令部は虫が良すぎる。対米英蘭戦争という日本史上最大の大投機をするというのに、真珠湾作戦程度のことを投機的だと怖じ気づいてどうする。ヒゲの心配より首の心配をしろ」

 結局、結論は出ず、九月に予定されている海軍大学校での図上演習後に再び会議を開くことになりました。

 昭和十六年九月中旬、海軍大学校において図上演習が行なわれました。南方作戦を構成する輸送作戦、航空作戦、護衛作戦などが詳細に検討されました。その内容はもちろん軍事機密です。ハワイ作戦の図上演習は機密中の機密として扱われました。厳選された関係者だけを極秘裏に集めて実施されました。当然の結果が出ました。空母六隻による奇襲が成功した場合には十分な戦果が得られます。ただし、敵に発見された場合には味方に甚大な被害が出ます。

 この図演の結果を前提に、九月二十四日、海軍軍令部作戦室においてハワイ作戦採択会議が開かれました。出席したのは軍令部の福留繁第一部長、富岡定俊第一課長、神重徳(かみしげのり)作戦班長、連合艦隊司令部の宇垣纏(うがきまとめ)参謀長、黒島亀人参謀、佐々木彰参謀、第一航空艦隊の草鹿龍之介参謀長、大石保参謀、源田実参謀です。意見は積極論と消極論に別れましたが、積極論は少数です。結論は出ず、会議は福留第一部長の発言によって終わりました。

「ハワイ作戦をやるかやらないかは中央で決める」

 会議の報告を受けた五十六は珍しく激怒し、長官公室に参謀を集めてきつく言い渡しました。

「だいたい、お前たちはハワイ攻撃をやらないで、南方作戦ができると思っているのか。誰が会議などやってくれと頼んだ。(いく)さは自分がやる。会議などやってもらわなくてもよろしい」

 昭和十六年十月という差し迫った時期に至ってなお、ハワイ作戦の実施は決まりませんでした。十月十二日、連合艦隊司令部の主催によるハワイ作戦の図上演習が旗艦「長門」艦上で行なわれました。この図演では空母三隻による空襲が検討されましたが、戦果は不十分なものでした。図演終了時、五十六は次のように訓示しました。

「ハワイ作戦について、いろいろと意見があるようだが、この私が連合艦隊司令長官である限り、ハワイ作戦は必ずやる。以後、この問題について論議することはいっさい不要である。ただし、やるための議論なら大いにやれ。なお、実施するに当たっては、実施する者が納得するような方法でやることは、きっと約束します」

 五十六の言葉に嘘はありませんでした。第一航空艦隊司令部参謀の源田実中佐は、ハワイ作戦実施のために様々な要求を連合艦隊司令部に提出しましたが、その全てが満たされました。源田実は驚きとともに回想しています。

「こんなことは私の二十四年間の海軍生活の中で後にも先にもこの時だけである」

 五十六は、黒島先任参謀を軍令部に派遣し、説得を続けさせました。しかし、軍令部は連合艦隊の計画案を受け入れません。黒島参謀からの電話で報告を聞いた五十六は、遂に重大な決意を黒島参謀の口から軍令部に伝えさせました。

「ハワイ作戦が採用されない場合、皇国の防衛に責任を持てない。山本長官はそう言われました。長官は職を辞するお覚悟です。なお、連合艦隊の全幕僚も辞める覚悟であります」

 こう言われた福留作戦部長は返答に窮しました。福留部長は席を外し、軍令部総長永野修身大将に事情を報告しました。永野総長は裁断します。

「山本がそこまで言うのなら、やらせてみよう」

 十月十九日のことです。職を賭しての談判に成功した五十六は、喜びはしませんでした。この作戦を実施することは、日本にとっての不幸なのです。

 ともかくハワイ作戦は軍令部総長の内諾を得ました。このうえは是が非でも成功させねばなりません。五十六は、幕僚に命じてハワイ作戦の細部を精査させました。また、連合艦隊内に残る反対論を抑制し、意思の統一を図るために訓辞をくり返します。

「この山本が連合艦隊司令長官の職にある限り、ハワイ作戦は必ずやる。これは私の信念である」

 ハワイ作戦は、第一段作戦の全体から見れば、ほんの一部分でしかありません。南方資源地帯を制圧する諸作戦を側面支援するため空母艦隊が機動作戦を実施する。その攻撃目標のひとつがハワイであるに過ぎません。にもかかわらず反対論は根強く、正直なところ五十六は手を焼く思いでした。

(河井さんはいったどうやったのだろう)

 長岡藩総督の河井継之助は、短期間のうちに藩政改革を断行して長岡藩を西洋的な公国に変えました。藩士の腰から刀を外させ、新式のスナイドル銃を肩にかつがせ、袴を脱がせて筒袖を着させました。そればかりではありません。先祖代々の家禄を平均化するという大変革をさえやってのけました。当然、藩内には反対論と反感が満ちたといわれます。それでも河井総督は藩主の信任を背景として一歩も引きませんでした。河井は天下を呑むような気概の持ち主で、反対論者をことごとく気力で圧倒したといいます。

(河井さんの改革に比べたら、わずかこれしきの作戦変更に手間取るとは)

 五十六は、我と我が身が笑止です。


 対米和平を実現できぬまま第二次近衛内閣は昭和十六年十月に総辞職し、東條英機内閣が成立しました。後世、著しく誤解されていることですが、松岡洋右外相にせよ東條英機総理にせよ日米戦争を回避するために懸命の努力をしたのであって、日米戦争を推進した事実はありません。東條内閣は組閣早々から困難な事態に直面しました。既に石油を断たれ、米英蘭政府によって日本資産が凍結されています。それでも天皇陛下の御諚に沿うべく東條内閣は対米交渉を継続しました。

 東條内閣の海軍大臣は嶋田繁太郎大将です。嶋田は五十六と海軍兵学校の同期です。その嶋田海相に宛て、五十六は筆をとり、書簡を書き上げました。新大臣とのあいだで戦略思想の統一を図っておくためです。「連合艦隊の用法その他に関する意見具申」と題する文章です。このなかで五十六は再びハワイ作戦の必要性を説いています。

「昨年来、しばしば図上演習ならびに兵棋演習等を演錬せるに、要するに南方作戦がいかに順調に行きても、その略々完了せる時期には、甲巡以下小艦艇には相当の損害を見、ことに航空機に至りては毎々三分の二を消尽し、いわゆる海軍兵力が伸び切る有様と相成るところ多分にあり、しかも航空兵力の補充能力甚だしく貧弱なる現状においては、続いて来たるべき海上本作戦に即応すること至難なりと認めざるを得ざるをもって、種々考慮研究の上、結局、開戦劈頭、有力なる航空兵力をもって敵本営に斬込み、彼をして物心共に当分立ち難きまでの痛撃を加うるの外なしと考ふるに立至り候次第に御座候」

 南方作戦が順調にいったとしても相当の損害が発生し、その後の海上決戦に投入すべき兵力が不足する。これが図上演習の結果でした。だからこそ開戦劈頭の真珠湾奇襲が必要だと五十六は説きました。なお、去る一月、及川前海相に提出した意見書では「米国海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその士気を沮喪せしむる」ことをハワイ作戦の目的としていましたが、嶋田海相への意見書では「当分立ち難きまでの痛撃を加うる」となっています。

 次いで五十六は、ハワイ作戦を実施しておかねば、東京や大阪が空襲されかねないと注意を喚起しています。

「敵将キンメルの性格および米海軍の思想を観察するに、必ずしも漸進正攻法のみに依るものとは思われず。しかして我が南方作戦中の皇国本土の防衛実力を顧慮すれば、真に堪えざるものこれ有り。幸いに南方作戦比較的有利に発展しつつありとも、万一敵機東京大阪を急襲し、一朝にしてこの両都府を焼尽せるが如き場合は勿論、さほどの損害なしとするも国論(衆愚)は果たして海軍に対し何といふべきか。日露戦争を回想すれば思い半ばに過ぐるものありと存じ候」

 ハワイを狙う五十六だからこそ、ハワイから東京が狙われる現実味を誰よりも強く感じていました。そして、日本本土が空襲されたら日本国民は激怒して海軍を批判するでしょう。連合艦隊司令長官が民意を気にしていたのです。日本が民主国家だった証拠といってよいでしょう。

 アメリカ太平洋艦隊司令長官キンメル大将の経歴と性格から敵艦隊の動向を推し量ろうとしたのは、海将として当然の心得です。しかし、結果からいえば五十六の敵将分析は不充分でした。

 キンメル大将の前任者はリチャードソン大将です。リチャードソン大将はアメリカ艦隊のハワイ進出に反対でした。しかし、大統領命令には従わざるを得ず、やむなく艦隊をハワイに進出させました。ですが、リチャードソン大将は艦隊を真珠湾内に長期停泊させることに危険を感じ、次々に任務を与えて頻繁に艦隊を出動させました。これに文句をつけたのはルーズベルト大統領です。その理由は信じがたいものでした。

「ハワイの財界から苦情が来ている。艦隊がもっと長く停泊しないと彼らの商売に差し支える。だから週末には必ず艦隊を停泊させろ」

 リチャードソン大将は、この馬鹿馬鹿しい命令をもちろん無視しました。鼻を折られたルーズベルト大統領はリチャードソン大将を更迭し、まだ少将だったキンメルを大抜擢して大将に昇格させ、太平洋艦隊司令長官に任命したのです。

 キンメルは優秀な提督でしたが、抜擢された理由は別のところにあったようです。かつてルーズベルトが海軍次官だったとき、その副官を務めたのがキンメルでした。以来、両者は懇意です。ルーズベルト大統領は、キンメル大将の従順さを評価しました。その期待に応え、キンメル大将は大統領の命令を守り、週末には必ず太平洋艦隊の大部分を真珠湾に停泊させました。

 ルーズベルト大統領は、日本側からの第一撃を招来するためにキンメル大将を重要情報から隔離し、しかも真珠湾における敗北の責任をすべてキンメル大将に背負わせようとします。政治ほど、つまりシビリアンほど残酷なものはありません。キンメル大将は、ルーズベルト大統領にとって生け贄の捨て駒だったのです。キンメルこそ悲劇の提督だったといってよく、軍人というものは常に政略の道具でしかありません。

 とはいえ、五十六には知る由もないことです。まさかルーズベルト大統領がハワイへの一撃を待ち望んでいるなど推量のしようもなかったことでしょう。


 話題を、五十六が嶋田海相に宛てた意見書にもどします。同期生に対する気安さからか、五十六は意見書の中に現場指揮官としての弱音らしいことまで書いています。

「そもそも支那作戦四年疲弊の余を受けて、米英蘭同時作戦に加うるに対露をも考慮に入れ、欧独作戦の数倍の地域にわたり持久戦を以って、自立自営十数年の久しきにも堪えんと企図するところに非常に無理ある次第にて、これをも押切り敢行、否、大勢に押されて立ち上がらざるを得ずとすれば、艦隊担当者としては到底、尋常一様の作戦にては見込み立たず。結局、桶狭間と鵯越と川中島とを合わせ行なうのやむを得ざる羽目に追込まるる次第に御座候」

 無理な(いく)さです。しかし、それでも命令されれば連合艦隊は無理を承知のうえで作戦目的を達成せねばなりません。その手段がハワイ作戦なのです。にもかかわらずハワイ作戦は容易に理解されません。

「一部には主将たる小生の性格ならびに力量などにも相当不安をいだきおる人々もあるらしく、この国家の超非常時には個人の事など考うる余地もこれ無く、且つ、もともと小生自身も大艦隊長官として適任とも自任せず。(中略)他に適当の担任者あらば欣然退却躊躇せざる心境に御座候」

 山本五十六の名が神格化されるのは、真珠湾作戦が大成功をおさめた後のことです。出師準備中のこの時期、五十六の方針に対する反論や中傷は多く、「アメリカかぶれ」とか「バクチ打ち」といった陰口さえありました。意見書の最後は五十六の願望のようでもあり、また嶋田海相への依頼のようでもあります。

「大局より考慮すれば日米英衝突は避けらるるものなれば之を避け、この際、隠忍自戒、臥薪嘗胆すべきは勿論なるも、それには非常の勇気と力とを要し、今日の事態にまで追込まれたる日本が果たして左様に転機し得べきか、申すも畏きことながらただ残されたるは尊き聖断の一途のみ、と恐懼する次第に御座候」

 天皇陛下の御聖断による戦争回避が五十六の淡い期待だったようです。戦争回避のためにはアメリカ側の要求を呑まねばなりません。支那大陸からの撤退はもちろんのこと、経済政策上の不平等条約さえ甘受せねばならないのです。ですが、幕末に結ばされた不平等条約をやっとの思いで解消し、列国と平等な国際的地位をようやく築き上げてきた日本国民はおそらく納得しないでしょう。まして陸軍が支那からの撤兵を受け容れるとは考えにくいところです。

 だからこそ御聖断しかありません。すべての国民を納得させ得る御存在は天皇陛下だけです。もし五十六が海軍大臣もしくは軍令部総長であったなら、大本営政府連絡会議で戦争回避を主張したでしょう。会議は紛糾し、国策は分裂します。陸軍は大反対するに違いありませんが、「対米戦に勝算なし」と海軍が言い張れば、陸軍とて無視はできません。戦争回避で会議がまとまればそれで良く、まとまらなければ政府と大本営は「国家の舵取りができなくなりました」と奏上し、御聖断を仰ぐことになります。おそらく陛下は「開戦を避けよ」と御指示なさるに違いないのです。

 もちろん綱渡りのような国家運営になります。五十六は暗殺されるかもしれません。それでもアメリカと戦争をするよりは良い。対米戦争は国家のすべてを破壊してしまうでしょう。それに比べれば、たとえ屈辱的ではあっても支那撤兵と不平等条約を受け容れ、臥薪嘗胆し、捲土重来を期す方が建設的な国策ではないか。

 かつて徳川幕府は列強と不平等条約を結ばされました。それを明治政府が悪戦苦闘しながら改正していきました。長い時間はかかりましたが、不平等条約を跳ね返したのです。その一連の歴史経過を繰り返す覚悟さえあれば、たとえ一時の屈辱に甘んじても国運は復興するであろうと五十六は考えます。

(ペリーの砲艦外交に屈した徳川幕府は決して無能ではなかった。いや、むしろ幕府にこそ深謀遠慮があったのだ。薩長両藩も列強と戦い、負けることでようやくそのことに気づいた。長岡藩は勇敢すぎたのだ。いまは武備恭順の時だ。嶋田よ、お前がやってくれ)

 連合艦隊司令長官の立場では国策に関与できません。そうである以上、五十六は嶋田海相に期待するしかないのです。

 やがて戦端が開かれるべきこの戦争ほど連合艦隊にとって過酷なものはありません。敵はアメリカ、大英帝国、オランダ、支那であり、加えてソ連の参戦までも考慮に入れなければなりません。軍艦が何百隻あっても、航空機が何千機あっても不足です。要するに、有利な戦略環境を形成できなかった国策失敗のツケが、すべて連合艦隊に回されてくるのです。

 日本をここまで追い詰めた主体はアメリカであり、ソ連であり、ドイツです。日本政府は常に受け身であり、翻弄され続けて事ここに至りました。その日本政府の諸政策の失敗の累積を戦術的勝利によって帳消しにせよ、と連合艦隊は命じられるのです。

 しかし、それは困難です。政戦略の失敗を戦術で取り返すことはできません。それが常識です。その常識をくつがえそうとすれば、戦術的に勝ち続けるしかなく、「桶狭間と鵯越と川中島とを合わせ行な」わねばなりません。しかし、そんな魔法のような上手い作戦があるはずはないのです。

(寡を以て衆に勝つは、唯だ危を踏み権を行なうの一法あるのみ)

 危を踏まねばなりません。それが真珠湾作戦なのです。ですが、周囲はなかなかそれを理解してくれません。五十六は腹ふくるる思いです。


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