プロローグ
わたしが阿川弘之著「山本五十六」を読んだのは、いまや三十年ほども昔のことです。当時、歴史に興味を持ちはじめていたわたしは、期待に胸を膨らませて小遣いをはたいて文庫本を買いました。しかし、わたしはひどく失望してしまいました。詐欺に遭ったような気分でした。
(小遣いを返せ)
と言いたくなりました。
山本五十六の小説なのに、ハワイ作戦についてもミッドウェイ作戦についても書かれていないのです。山本五十六がもっとも苦心惨憺したに違いないソロモン諸島での攻防についても語られていません。山本五十六がもっとも熱心に研究したはずのアメリカ海軍についてもほとんど書かれていません。
(なんだこれは?)
というのがわたしの感想でした。間違いなく駄作だと思いました。このときの感想は、すっかり年老いた今になっても変わっていません。むしろ、年をとるに従って失望は強まりました。阿川弘之はアメリカについて何も語っていません。敵を語らないのはなぜでしょう。小説の面白みを高めるためには敵の手強さを描くべきでしょう。
そればかりではなく、阿川弘之は、あたかも陸軍が海軍の敵であったかのような印象操作をしています。つまり、この小説は、海軍善玉論、陸軍悪玉論という悪質なプロパガンダを拡散するための小説だったと思います。
阿川弘之は、占領軍の情報統制を守っていたのでしょう。江藤淳著「閉ざされた言語空間」が指摘したとおり、アメリカによる言論統制が続いている証拠のような作品です。阿川弘之著「山本五十六」は児戯に等しい捏造小説だとの感をわたしはぬぐえません。しかし、戦後日本の「閉ざされた言論空間」においては、阿川弘之著「山本五十六」が高く評価されており、いまだに読み継がれています。わたしにとっては実に不思議なことです。肝腎なことが何も書かれていない駄作がなぜ評価され続けるのか。それはプロパガンダだからです。
これが戦後日本の現実です。
わたしは、可能な限り歴史資料を漁り、戦史を読み、山本五十六の真実を追究してみました。その結果がこの作品です。
戊辰の役において長岡藩は賊軍になりました。
長岡藩軍は河井継之助総督に率いられ、劣勢ながらも勇敢に戦いました。榎峠の戦い、今町の戦い、八町沖の奇襲など、局地戦では大兵力の官軍を潰走させる敢闘をみせました。しかし、わずか七万四千石の長岡藩軍は数次の戦闘によって消耗し、戦術的勝利もむなしく官軍に敗れ去ります。
維新後、旧長岡藩士は困窮しました。高野家も例外ではありません。明治二年のある日、掛け買いの代金を支払う日がやってきました。しかし、高野家には金がありません。当主の貞吉は、日がな一日、掛け取り人と玄関でにらみ合わねばなりませんでした。諧謔を解する貞吉は、その時の感興を漢詩に託しました。
雪を侵して来たり攻む 掛け取りの敵
玄関に防禦 よほど長し
とうとう追い払い 愉快極まる
はばかりながら近頃 戦場に狎る
戦場に狎る、というからには掛取りの敵は頻繁に来襲したのでしょう。長岡藩に伝わる「牛久保の壁書」という家訓には「貧は士の常といふ事」とあり、貧乏そのものは恥ではありません。むしろ富貴に流されて武士としての修養を怠ることこそが恥辱です。その伝統は、なお生きていました。
「お前たちは武士の子だから」
貞吉は、わが子が三才になると切腹の作法を教えはじめました。短刀に見立てた白扇を三方の上に置き、北面して正座し、容儀を改め、しばらく瞑目すると、貞吉は目を開けて右肌を脱ぎ、左肌を脱ぎます。右手に白扇を握り、左手に三方をとると、やや腰を浮かせて尻に三方を当て、右手に持った白扇を切り返し、左の下腹に切っ先を向けます。左手を添えながら腹に白扇を突き立てると、それを右に斬り回していきます。子供たちは目を見開いて貞吉の動作を見ています。
五十六もそのようにして育てられました。