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‘ A STUDY OF MARK TWAIN ‘ 「 マーク・トウェイン研究 」

作者: 谷 栄光

「マーク・トウェイン、彼は一体どんな作家であり、また人間であったのか?」

彼の作品を通してこの論文ではこのことを追求していきたい。

特に彼の晩年の作品『不思議な少年』("The Mysterious Stranger",1916)を中心とし、またこれと並行して『人間とは何か』("What Is Man?",1906)の中の人間機械論的思想にも触れて、彼の末期の人生観というものに特に的を当て、上記主題を論じていきたい。

ここにきて筆者が若き日に大学の卒業論文で研究した、アメリカ文学の偉大な著名作家マーク・トウェインについて再度論文形式のものを記してみたいと思う。

東京ディズニーランドの有名なアトラクション「蒸気船 マーク・トウェイン号」により、多くの人が彼の存在に興味津々であることだろう。

ただ同アトラクション内で描かれているのは、あくまでも彼の初期の作品に基づいた内容のものであり、代表作をあげると『トム・ソーヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』ということになる。

だがこの論文では彼の初期ではなく、むしろ晩年の作品の方にスポットを当てて研究していきたい。

特に大学の英米文学科に所属する学生で、アメリカ文学のこのマーク・トウェインを研究して卒業論文を作成提出しようと試みる者にとっては、多分これは格好の参考資料となるだろう。

但し、40年ばかり前の考察に基づいているので、おそらく「古い。現在の研究はもっと進化している」と言われそうだが、そこはどうかご了承のほどを......。











目 次


1、序論

ーマーク・トウェインの生涯ー

2、本論

(1) 『人間とは何か』について

(2) 『不思議な少年』について

3、総論

4、NOTES

5、参考文献











序 論

ーマーク・トウェインの生涯についてー



マーク・トウェイン( Mark Twain <1835〜1910> )、本名ーサミュエル・ラングホーン・クレメンズ( Samuel Langhorne Clemens )は、1835年ミズーリ州フロリダで生まれた。(1)

アメリカ開拓時代の真っただ中に生まれた彼は、その後それ相応しく冒険に満ち溢れた少年時代を過ごすこととなる。

サミュエルが4歳の時、彼の一家はハンニバルというミシシッピー川に沿った自然でいっぱいの小さな村へと移った。そこで彼は少年期を過ごすことになるわけだが、もちろんその背景には広大なミシシッピー川の舞台があったことは言うまでもない。

のちに発表される『トム・ソーヤーの冒険』("The Adventures of Tom Sawyer",1876)、『ハックルベリー・フィンの冒険』("The Adventures of Huckleberry Finn",1884)や『ミシシッピー河の生活』("Life on the Mississippi",1883)などがその典型的な例で、これらの作品は彼の少年の頃の体験をもとに書き上げられたものだといわれている。

ここに掲げた2つの冒険シリーズ、すなわち『トム・ソーヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』は今や世界的に有名な児童文学として世界の多くの少年少女たちに親しまれ読まれている。

そしてまた「アメリカ文学は『ハックルベリー・フィン〜』の一冊によって始まる(2)」とまで言われているのもまた事実である。この物語は1人の少年、宿無しハックを取り巻く冒険ものである。そしてこれより前に発表されたトム・ソーヤーもこの中に登場してくるのである。また逆に『トム・ソーヤーの冒険』の中にもすでにハックが出てきていたわけで、この2つの冒険物語は互いに関連し合ったもはや切っても切り離せない関係にある作品どうしで、このあたりにも作家マーク・トウェインの斬新なアイディアが覗き見られる。そんなわけで、この2つの児童文学がトウェインの代表作と一般的にはみなされているところである。


話をまた元に戻すと、今度は少し成長した頃のサミュエルである。彼は12歳の時、父の死という局面に立たされたことから学校をやめ、家計を助けるため印刷の仕事をやり始めた。そして徐々に文章の創作というものについて学んでいったのである。このとき彼は初めて作品らしきものを書き、これが作家マーク・トウェインの原点となったといっても過言ではない。

その後、彼はあちこちの印刷工場を渡り歩いたり新聞社に勤務したりしたあと、ミシシッピー川を行く船の水先案内人(3)となった。これは彼が子供の頃から憧れていた職業の一つであり、この水上生活は4年ほど続いた。そして1861年、南北戦争の開始と同時に彼は南軍入りしたが、当時のゴールド・ラッシュ(4)の影響を受け、また直ぐに西部へと渡ってしまった。それから一攫千金を夢見、鉱山を幾つか彷徨った(5)あと、また今度はヴァージニア州にある「テリトリアル・エンタープライズ紙」の記者へと舞い戻った。

そしてその翌年この紙面に短い記事を掲載したとき、彼は初めて「マーク・トウェイン」というペン・ネームを用いたのである。この 'Mark Twain' という名の由来は、彼の思い出深きミシシッピー川での水先案内人時代の、水深二尋(ひろ)=Mark Twain からきているわけで、これは船の航行に安全な水深を示すもので彼にとっては忘れることの出来ない言葉であったのだろう。


さて、このようにしてサミュエルは大人になり、以後 作家としての道を歩み続けることとなる。彼はまず差し当たり、それまでのアメリカ人の考え方(例えば今なお持続されている植民地意識であるとか、ヨーロッパの伝統を重んじるタイプで上品な社会への憧れや尊敬の念のようなもの)を真っ向から笑い飛ばし、自国に誇りあるアメリカ独自の社会・思想・生き方を確立しようとアピールする作風を展開した。そしてその一手段としてヨーロッパ風の洒落たキザな文語体を完全に無視し、俗語や方言を十二分に混じえた新鮮なタッチでの口語調の文体にこだわった、独特ともいえる表現法までをも創り上げた。

このようにマーク・トウェインは文体を「話しことば(6)」で徹底した異色の作家としても有名である。またその作品内容からして、彼はアメリカ開拓時代を生きた典型的な作家とも言い換えることができる。いずれにせよ、彼の作風がのちのアメリカ文学の方向性に多大な影響力を及ぼしたことは、間違いのないところである。


このあと彼の創作活動は、ますます本格的になってゆく。1865年に執筆された『その名も高きキャラヴェーラス郡の跳び蛙』("The Notorious Jumping Frog of Calaveras County"(7))の大ヒットにより、彼は一躍有名な人気作家へとのし上がる。この作品が笑いを主体としたものであったことから「野性派ユーモア作家」として彼の名はアメリカ全土に知れ渡り、親しまれるようにもなった。また一方で彼は講演も行い、それも大成功を収め、文筆と同時に話術も武器に多大な収入を得たとされている。

なお上記の『蛙』は短編の部類として扱われており、他にも彼の初期の短編集が幾つか発表されている(8)。そのほとんどがこの『蛙』のようにユーモア・笑いの備わった作品であり、どこかに おち がある。作家マーク・トウェインの文章は鬼気迫る狂文で野性的であるとされ、また同時に南部特有の方言なども相当に混じえてあるのが認められる。このような理由から、トウェインはユーモアリストに選出されたことさえかつてあった。


以上のようにトウェインの初期作品のほとんどはユーモア短編作品であったのだが、それでもその内容のすべてが笑いのみにとどまっていたわけでは決してなかった。というのは彼の短編は、結末が難解なものが非常に多いのである。作品には読者に疑問を投げかけて終わっているものが多い。結論は大概の場合、出してはいない。最後の一節あたりが実に意味深いものをもっており、あとは読者に考えさせ悩ませ、そして惑わすのである。これが彼の作品(特に初期の短編集)におけるもう一つの特徴ということができる。言い換えれば、それがまた彼の作風の一つの魅力でもあった、ということもできよう。


初期の短編についてはこのくらいにして、それではこのあと、マーク・トウェイン全盛期について少し触れてみることにしよう。

1869年に彼は "The Innocents Abroad"(9) という作品を執筆した。これは彼のヨーロッパ旅行記のようなもので、この中で彼はヨーロッパという土地を徹底的にけなしている。前述のとおり、ヨーロッパに対する敵意や嫌悪感からくるトウェイン自身の性格 と判断して差し支えないであろう。

そしてこのことから、少なからずも彼には自国に対する愛国心、アメリカを誇りとする自信、特に自然に満ちた地方を想うプライドのようなものがあったのではなかろうか、とそう感じさせないでもない。

同じように彼は、短編「百万ポンド紙幣」の中でも英国を笑いの種としている。また「エスキモー娘のロマンス」という短編の中では、登場する若い娘の姿を借りて、俗にいう金持ちという奴らの遣り方を真っ向から憎み否定している。

このことからも、この当時のマーク・トウェインは、まだアメリカに望みをかけていたように思われる。のちにこの思想が全く逆へと変わっていくことになるのだが、それはまた後ほど詳しく述べることとしよう。


ところでこのあとトウェインは全盛期の中でもこれまた格別の最盛期を迎えるに至るのだが、その中でも特に著名な作品について幾つか触れてみよう。

まず1873年に、共作による『金めっき時代』("The Gilded Age"(10))という作品を書いた。続いて先に述べておいたトウェインの代表作ともいえる『トム・ソーヤーの冒険』、『ハックルベリー・フィンの冒険』そして『ミシシッピー河の生活』といった大作を立て続けに発表し、彼の黄金期の最頂点に達するのである。

それともう一つ有名なものに『王子と乞食』("The Prince and The Pauper,1882)という作品がある。これは1人の王子と1人の乞食の立場が不意なことから入れ替わるというストーリーで、トムやハックの物語同様、少年2人を扱ったものである。そして結局、お互いに相手の置かれている境遇を身をもって知ることによって、それぞれが大きく人間的に成長するという結びになっており、ややハッピー・エンドめいた要素も含んでいる。しかし最後にお互いの立場が元に戻るまでに2人が体験した苦悩を考慮するに、一概にただの単なる喜劇として片付けてしまうわけにはいかないように思える。

この作品には当時のマーク・トウェインの別の一面が見い出せるように感じられてならない。トムやハックの冒険物語とは、また一味違った作風が感じ取れるからである。


さて、これ以降のマーク・トウェインは、少しずつその作風を変えていく。変えていくというよりは、否応なしに変わらざるを得ないような事態に追い込まれた、といった方が妥当なのかもしれない。

どのように変わったかというと、それまでの明るく陽気でユーモアたっぷりの、野性的で愉快なタイプの作風から、段々これとは全く逆の、暗くて悲観的で非常に理屈っぽく論理的で一通りの筋が通っている、といったタイプの作風へと移行していったのである。

トウェインのこの人生観は、その晩年に遂に露骨に表面化する。彼のこのペシミズム的思考が露出し始めたのは、『ハドリバーグを堕落させた男』("The Man That Corrupted Hadleyburg",1899(11))という短編作品あたりからである。彼はこの中で 誘惑 というものを次のように位置付けしている。すなわち、Lead us not into Temptation.「我々を誘惑に導くな」から Lead us into Temptation.「我々を誘惑に導け」へと全く逆にハドリバーグの町の人々の考え方が変わっていってしまった、というふうに結末を設定しているのである。

つまりこれは、後ほど考察することとなる「我々は、人間の内なる主人=自分の心 を満足させてやる以外になす(すべ)がない。人間の本能である各種の欲望、それを 理性 などというくだらないものによって封じ込める必要など更々ない。そのまま 誘惑 に導かれればそれで良い」とする 一般論をも覆すような、おぞましいともいえるトウェインの逆説的発想である。

そういえば、イギリスのビートルズも 'Let It Be.'「なすがまま」と歌いながら解散していったし、台湾出身のテレサ・テンの歌「時の流れに身をまかせ」や、日本人歌手の美空ひばり「川の流れのように」、沢田研二「時の過ぎゆくままに」、これらの題名が意味するところも、実はこの感性に通じるのではないだろうか?


それではここまでのマーク・トウェインの作家としての経歴を、ここでもう一度見直しておこう。

ユーモア作家としてスタートしたマーク・トウェインは、その初期には俗語や方言を武器に活躍していた。そしてまた、彼が初期短編集などの中で使用した 新造語 が、のちの米語の慣用句にまでなっている(ケース)が多い。

しばらくは笑いを売りものにして活動していたトウェインだが、これが晩年に向かうに連れ、その作風が反対方向へと逆転していった。

作家としての感性が、初期の頃から180度転換し切ってしまい、初期の思想に対する反逆精神をもあらわにするよう変化していった。

「ユーモアには教訓がない」「笑いはためにならない」などと言い始めた。


『ハドリバーグを堕落させた男』を発端に、その作風を徐々にペシミズムの世界へと移行していったマーク・トウェインは、このあと晩年の2大作品『人間とは何か』と『不思議な少年』を書き下ろすこととなる。

この論文では、そこにスポットを当て、次の本論の方で深く掘り下げていくこととしたいので、ここでは要点のみ記しておく。


まず『人間とは何か』は、1人の老人と1人の青年の対話形式で描かれており、これはエッセイとみなされる。老人が 人間機械論 を真っ向から打ち立て「人間は自分の 内なる主人 ( すなわち 心 のこと )を満足させるためだけに行動するのであって、それ以外のことで行動を起こすということは絶対にあり得ない」と主張するのに対し、青年がこの概念を否定することによって議論を戦わせる方式を活用している。そして結論こそ出ていないのであるが、何となく論理的に老人の方が圧勝したふうに終結している。

だがこのような暗い内容の中にも、不思議と何かしら魅力のようなものを感じさせ、思わず同調させられてしまうのである。確かに、その種の説得力を備えた作品である。

そしてこれはトウェインの作品の中でも、最も理屈に富んだものといっても過言ではないだろう。筋がきちんと通っているだけに、よけい読者を唸らせてしまうエッセイである。

そしてこのエッセイ『人間とは何か』をそのまま物語化したとされる小説が『不思議な少年』ということになる。つまりこの2つの作品の間の関係は、まったく同一の主張に基づく、ただ単にエッセイとフィクションの違いだけである。


ところでこのマーク・トウェインの、思考回路の逆説的変化の原因についてだが、これに関しては専門家たちの間で様々な意見が飛び交ってはいるが、それも後ほど総論で詳しく述べることにする。

ここでもう一つだけ付け加えておくべき内容がある。それは彼が晩年に秘かに「自伝」(12) を創作していたという事実と、家族などに次々と災難等が降りかかるなか1910年2月21日ハレー彗星の出現と共に、同じく彗星と共に生まれたトウェインが因縁でもあるかのように、次女クララ(13)に看取られながらこの世から消え去り逝くということである。誠に穏やかな永眠であった。

著者名 : マーク・トウェイン こと 本名 : サミュエル。その波瀾万丈の75年に渡る生涯の幕をここに閉じる。







ー序論の総まとめー



マーク・トウェインの初期のユーモアに満ち溢れた幾つかの短編の行き着くところ、すなわち頂点は『トム・ソーヤーの冒険』であろう。それまでのユーモア篇を集大成したともいえるのがこれである。それは彼のユーモアの思想の完成作品というような意味において、である。

このあと、トウェインは少しずつペシミズムの世界へと移行していく。その過渡期に当たる作品が『王子と乞食』そして『ハックルベリー・フィンの冒険』である。

そしてその行き着く末が、晩年の大作である『人間とは何か』と『不思議な少年』ということになる。











本 論

ー『人間とは何か』と『不思議な少年』の内容分析ー



『人間とは何か』をそのまま物語化したとされるのが『不思議な少年』であることは序論で述べたとおりである。

この本論では、マーク・トウェインの晩年期の2大作品のうち、彼の当時の思想が物語化された方、すなわち『不思議な少年』を中心に考察していくことを先に申し上げておく。

だがもちろん、この『不思議な少年』の土台となっている『人間とは何か』にも、ある程度まで突っ込んで触れていくこともまた必要である。可能な範囲内で、この2つの作品を出来るだけ並行して分析検討していきたい。

それではまず、『人間とは何か』について論じていきたい。そのあと『不思議な少年』へと論点を移行し、最後に 総論 としてこの2作を総合分析してみたい。









ー『人間とは何か』についてー



トウェインのこの作品は、鮮明度が非常に薄く、難解な点も少なくない。このため原本もあまり出版されておらず、いまだ完全解明がなされていないよう見受けられる。

それゆえ残念ながら直接原本には目を通しておらず、翻訳本だけしか読んでいない。その点ご了承いただきたい。


『人間とは何か』は、老人と青年の対話に姿を借りて、当時のアメリカの社会問題や政治面での問題や宗教上の問題などに対し避難や罵声を浴びせかけた内容のものともいわれている。

もちろんマーク・トウェインの当時の作風により、これらのもの全てを正面切って否定してしまっているわけだが、それにしても「ちょっとやり過ぎだ」と誰もが思うくらい、あまりにも悲観的観念が強すぎるため、思わず読者が読むのを中断してしまいそうだが、それでいて何故かどこかに不思議な魅力を感じさせる産物なのである。

その理由は何気なく謎だが、その当時のトウェインといえども、やはりまだ初期のユーモラスな一面を少しばかりでもその奥に残していたに違いないと信じたい。なぜなら作品内にユーモアが織り込まれていると感じさせる箇所が、随所に見受けられるからである。

それともう一つ見逃せないのは、何といっても一応ひと通りの筋がきちっと通っている点であり、相当の説得力を備えたエッセイと評価することができる。

例証(14)なども取り上げたりして裏付けもしっかりなされており、論法に関しても目を見張るものがある。

だが反面、こういう見方も成り立つといえる。つまりこの作品内に登場する例証などというものは、早い話が単なる こじつけ でしかない、という受け止め方である。

確かに物事を無理やり理屈づけることも、やってやれないでもない。この場合いったいどちらに受け止められようか? 答えは読者次第である。


それでは引き続き、『人間とは何か』の内容に関し触れていきたい。

まず、この作品には一応結論として書かれているものがあるにはあるのだが、真実の結論 というものは出されていないのではないだろうか? この中に記載されている結論というのは、あくまでも老人の主張のまとめ でしかなく、それ以上のものは何ら存在していない。

論点は「それが正しいかどうか?」である。この判断は、著者マーク・トウェインにではなく読者の側にあるのだから、読者一人一人によって意見が異なって当然である。

本来、文学というのはそういう性質のものであり、読ませて考えさせて惑わせたのち、それぞれの結論を出させる、というもの。これが文学の原点ともいえるであろう。


この『人間とは何か』の結論についてはさて置き、むしろその細部の内容面の方へと注目着目すべきと考える。要点をまとめて、このあと解説していく。

まずこの作品の場合、いきなり「人間機械論」(15)から始まっている。出だしはこうだ。


老人と青年とが話していた。老人は、人間とはどうあがいても所詮 機械にしかすぎぬと強く主張する。青年の見解は反対であった。で、青年は「もっと詳しく説明してもらいたい。なぜそう主張するのか、その理由を聞かせてほしい」と言うのだった。(16)


これはいわば、本作の前書きである。そしてもっと深く考えてみるなら、ここでの青年の主張はトウェインの初期の考え方、老人の主張は彼の晩年末期の考え方にそのまま置き換えられると考えられる。


そして次に、トウェインは第1部「人間即機械・人間の価値」(17)の中で、老人の言葉を借りて次のように述べている。


人間即機械 ー 人間もまた非人格的な機械にすぎん。人間が何かってことは、すべてその つくり と、そしてまた遺伝性、生息地、交際関係等々、その上にかかる 外的力 の結果なんだな。つまり 外的諸力 によってのみ動かされ、導かれ、そして強制的に左右されるわけだよ ー 完全にね。自ら 創り出す ものなんて、なんにもない。考えること一つにしてからだな。(18)


このように、トウェインは自分自身の主張を老人に語らせている。それはともかくとし、この老人の見解はその論証も十分に備わっているため、計り知れない説得力を持っているといえる。青年はあくまでも反論してはいるが、自分でも気付かぬうちに老人の意見に押し流されているのがうかがえる。このあと青年はますます老人の主張に知らず知らずのうちに同調していく羽目となり、最後にはほとんど同意してしまうことになる。


ところで、この第1部を読み終えて少なくとも、これらのことが内容の要点であることがわかる。

つまり、人間はただの機械でしかないということと、そしてその人間の各々の違いというのはただその機械の 性能の良し悪し でしかないということと、そしてその性能の良し悪しはその人間の持って生まれた 素質 というものが大いに絡んでいる、ということの3つである。更に一歩進んで老人は、次に論じようとすることへの橋渡しとして「 自分の心の満足が得たい という衝動」(19)というものについて少し触れている。そしてこのパラグラフの最後で老人は「まず第一には、自身を満足させてるんで ー 他人のためなんてのは、常に その次 なんだ」(19)と言っている。


そしてこの実例が次の章に表現されてくる。そのうちの一つとして、たとえばこういう例が挙げられる。

ある1人の男が吹雪で寒い夜に鉄道馬車に乗ろうとしていた時、1人のみずぼらしい格好をしたお婆さんが恵みを乞うた。そのとき男は何にも言わずに持ち金のすべて25セントをこのお婆さんにくれてやり、自分は一人で雪の中を帰って行ったという。

これは一般的には立派な自己犠牲となるところだが、老人に言わせるとこれが違うというのだ。これも詰まるところ、ただ老婆を助けてやることによって自分の心を満足させてやっているに過ぎないというのだ。つまり困り果てた人を救うことの 満足感 以外の何物でもなく、彼の場合まず何よりもそれが優先した、彼の 内なる主人 がいの一番にそれを要求したというだけの話だ、と老人は説諭する。

そして老人は、この内なる主人のことを 良心 とも言い換えている。ここで出てきたこの良心は、このあと論じる『不思議な少年』の中の良心と大いに関係があるのだが、それはまた後ほど関連づけることにしよう。


次に 教育 というものについて老人は触れている。そして「生まれつきの気質と教育」の2つが、人間にとって重要な意味を持つとしている。また教育とはその 人間関係 によってなされるものだとも言っている。つまり教育とは 外部からの影響 の結果に過ぎず、そしてそれには人間関係というものが大いに絡んでいるということだ。

では気質とは何か? これはもちろん生まれながらにして身に付けているもののことを意味しており、それがゆえ老人は教育とは一切無関係の代物(しろもの)として扱っている。そして気質は教育できないものであるから、すなわちそれが人間の 限界(20) であると、老人はまた違う角度からこれを見直している。


たいへん難解で理解し難い話がこうやって延々と展開して行くのである。そしてこれらのことから老人は 人間の使命 というものを次のように定義づけている。

結果からいうと、人間は己れの理想をより高く持たねばならない、とのことである。そうすれば自分の心が満足すると同時に、周囲の人たちの心をも満足させてやることができるからだ、と老人は言う。果たしてそうであろうか? これに関する証拠については何一つ掲げられていない。(21)


さて、ここまでで学び取れた独自の事柄について、その内容を羅列方式で以下に記しておきたい。

* どういった種類の行動がその人の心を満足させるか、それがその人の でき( 俗に言われる善・悪 ) である。 ー もしも何か立派な行動がその人の心を満足させるとしたら、その人は でき がいいということになり、また逆にもしも何か不正な行為がその人の心を満足させるとしたら、その人は でき が悪いということになる。

* 外部からの力の蓄積によってやがてその人間がその行動を起こすようになる。 ー 同じことをさせようとする外部からの力が幾つか重なり続いて、やがてその最後の1つが引き金となり、その人物が行動に踏み切ってしまう。

* 老人はこの対話の中の所々で、自分の主張することをじっくり検討してもらいたいというふうに青年に訴えている。マーク・トウェインは内心、自分の代弁をさせているこの老人の主張がどこかで見事に根底から覆されることを、逆に願って望んでいたのではないだろうか? しかも自分の力、すなわち自分のペンで、である。だがどうやら、その効果は期待できなかったようである。


さて、それでは次に 人間と動物との差 というものについての老人の見解を少し考察してみたい。

老人は諸動物のことを「未啓示の生物」と称している。青年が「物言わぬ獣」と言ったのに対し、老人がそれを訂正してやったものがこれで、老人に言わせると諸動物にもそれぞれ多少の言葉は存在しているということらしい。そしてこういった点からしても、この二者を分かつ境界線などあり得ないと言っている。むしろまだ動物の方がよほど増し、とまでしている。なぜかというと、人間などというものは物事の分別が理解できるくせに、それでいて悪を なしうる からなのだそうである。そしてこれが、人間が動物以下であることの証しだ、と老人は強く主張する。

この概念は『不思議な少年』の中のサタンの 良心 に対する概念と全く同一のものであり、これも後ほど比較検討してみる。


次に、青年と老人は 物質欲と精神欲 というものについて討論し合っている。そもそも物質欲などというものは初めから存在せず、精神欲だけ しか人間にはない。だから人間は心の満足だけを欲しがる何とも言えない愚かな存在でしかない、と老人は強く訴え、結局これが青年の意見を圧倒している。

そしてほぼ結論として老人は、生まれつきの気質と外からの教育 が、その人間を決めるとしている。

それとこれまで申し述べてきたとおり、人間はいつの時も精神の満足だけを求め行動するのであり、ここで新しい実例として マゾ をも引き合いに出している。マゾも詰まるところ、苦しみ抜くことが快楽となり、そしてこれまでの見解と同様にそれが満足感に結び付いてゆく、というのである。

そしてこれには 気質 が重要な要素を占め、それは生まれつき備わっているもので 「つくられるものではない」と断言している。


さてこのあと、場面はいよいよ 結論 へと向かってゆく。しかしこれも前述のとおり、これまでの総まとめ のようなものでしかない。だが新しい要素も少しばかり付加されているので、それについても簡単に触れておこう。

まず人間機械説が再度語られており、それではそうなってしまったのは誰の責任か? と続けられる。そして老人はこう言っている。「これは紛れもなく 神 の仕業(しわざ)なんだ」。

老人は青年に向かい「人間を機械に堕落させたのは わし じゃない。神 なんだ。わし はただ、神の代弁をしているだけ」(22) と言っている。人間を創造したのは神であるから、その罪と責任は神にある、との見解である。


このように神に対して反感を持つような姿勢は、トウェインの晩年思想の象徴でもある。そして最後に青年が「老人がこの人生観をそのまま本にでもしやしまいか」と不安を抱く。( 実際にマーク・トウェインがこうやって本にしてしまったのだが )

だが老人は笑いながら、これに答えている。「大丈夫だ、世の中じつに天下太平だ。たとえ公表したところでさしたる影響もない。だから、なに、心配することはないんだよ」(23)


以上である。いずれにせよトウェインの作品の中で、これほど難解なものはない。









〜 『不思議な少年』 "The Mysterious Stranger" について 〜



この物語は、舞台をオーストリア(24)に設定し、開始されている。マーク・トウェインは、なぜこの地を選んだのだろうか? 明確な答えはないが、まずその出だしからして疑問を残す。

そして全内容が論理的であるだけに、この疑問点はますます膨れ上がっていく。本作はトウェインの最終作であるがゆえ、彼の晩年の作風の象徴ともいえる。


物語は最初、その舞台状況から始まる。3人の少年が登場し、( わたし ) を中心に彼らの身の回りのことがまず述べられる。

そして Chapter 2 になってようやく、この物語の主人公サタン ( Satan ) が登場する。彼は 天使 であり、3人の少年たちと同じくらいの年齢で一見して彼らと全く変わりはない。しかしながら、なかなかの美少年で、どこかの金持ちの息子という感じも受けるのであった。

そして、このあと物語は、このサタンを中心に展開されていくことになる。ところでこのサタンという名だが、ふつうサタンといえば 悪魔 を意味する。彼の伯父がかつて罪を犯したことがあるにはあるのだが、それにしてもよりによって天使の名がサタンというのはどうしてもおかしい。天使と悪魔といえば全く正反対の存在なのになぜだろう? 少年たちはまずこの名前からして不思議に思った。

作家マーク・トウェインは、きっとこういう意味でこの天使をサタンと名付けたに違いない。結果からいうに、この天使は人間というものの悪どさ らしきものを暴き立てるために現れたのである。だから人間の側からしてみれば、まさしく悪魔なのだ!

このあたり、まだトウェインのユーモラスな一面が残っているふうに感じ取れるのだが、果たして読者たちはどのように感じただろうか?


さてこのサタン、少年たちを相手にいろんな事をやってみせる。もちろん人間などには出来ない事ばかりで、少年たちも初めはビクビクしていたのだが、次第にその魅力に取り憑かれていってしまう。そしてしばらくはそれにウットリしていたのだが、突然、ある事件をきっかけに、少年たちはハッと我に返る。なんと、サタンが一種の殺人を犯したのである。

悪を知らないと言ったはずのサタンが、いくら自分で創った小人たちだとはいえ、何の躊躇いもなく全員殺してしまったのだ。

これには少年たちも流石に驚いた。少年たちのサタンに対する疑惑は、まずここを第一歩として始まる。

次にサタンは「人間とはこれ一体、どんなものであるのか?」ということを少年たちに説明し出す。そして散々人間をこき下ろした挙句、最後にこう言う。


And man has the Moral Sense. You understand ? He has the Moral Sense. That would seem to be difference enough between us , all by itself." (25)


そして人間なんてものは「良心」ってやつを持っている。キミ、わかる? そう、良心だ。もうそれだけで、ボクとキミたちの違いには十分だ」


ここに出てくる Moral Sense 「良心」、これこそが本作品の主題である。このことについては作品の中の後半になって、より詳しく述べられている。

サタンは先立って、この良心というものを持ち出すことによって、もう既に早々と自分の言わんとすることを少年たちに(ほの)めかしている。

だが少年たちにはまだ良心とは何なのか、はっきりと掴めていなかったので、3人ともサタンの言う意味がよく飲み込めなかったようだ。


このようにしてサタンは度々少年たちの前に姿を現した。そしてその都度、何か面白いことをやって見せる。

ある時、サタンとわたし( テオドール )の2人で牢屋へ行ったことがあった。テオドールが、一度牢屋の中を見てみたいと言ったので、サタンの不思議な力を使い忍び込んだのである。

しかし、見るも無惨な光景に思わず目を背けてしまったテオドールはこう言った。「獣のようなやり方だ!」。これにはサタンが反発した。

つまりサタンが言うには「人間なんかよりも獣の方がよほど増しだ」というのである。「そんなことを言ったら獣たちが怒るぞ」と彼は言い返した。

つまりサタンが言おうとしているのは 動物が人間以上である ということである。尚もサタンは詳しく説明を続ける。

そしてその中にもやはり良心という言葉が出てきているのである。良心とは、善と悪を区別する働きをしながら、大概の場合 それは悪の方を選ぶというのである。つまりこんなものがあるからこそ、かえって人間は逆に悪というものを犯すわけなのである。

そしてサタンは、このことをまとめて一言でこう言っている。


and without the Moral Sense there couldn't be any. (26)


良心がなければ、悪もないんだ。


人間は悪を行ってはいけないと教育されている。そしてこのことが直接そのまま良心へと繋がる。だが実際はそれが 反動 となって、人間は事実、悪を犯しているのである。サタンは人間を、この点でもって激しく非難している。


そしてそのあと、サタンは人間以外の動物を例にとって、それを人間と比較してみせる。そしてその中でもこう言っている。


None of the higher animals is tainted with the disease called the Moral Sense. (27)


良心なんて呼ばれている悪病にかかっている高等動物なんかいやしないよ。


このようにして、サタンは動物と人間を比較することによって、人間の悪どさ、愚かさを暴き立てているのである。


ところでここまでの内容だけでも、少なくとも次のことだけはわかる。つまり、この作品は「性悪説」を唱えている、ということだ。

このような人生観は、おそらく作家マーク・トウェインのそれと重なるのだと考えられる。また更に突っ込むならば、サタンの言っていること=トウェイン自身の言葉、といっても過言ではなかろう。そしてもっと掘り下げるなら、サタンは晩年のトウェインに、少年たちは初期のトウェインに、そのまま置き換えることができるであろう。


さて、このあと犬や魔女や牛などが登場し、そのあとにまたサタンがこれまでと似通った内容のことを話し始める。「動物は良心なんか持っていないのだから、悪を知らないわけだし、だからそれを犯しもしない」と。

このあと少しばかり、サタンの話の内容のポイントが変化してくる。彼が新しい事実を述べ出すのである。それは人間にまつわる幸福と不幸についての問題なのだが、サタンが言うには「人間における幸福と不幸というのは大概うまい具合に釣り合いが取れている」というのである。そして万が一その釣り合いが崩れるようなことがあった場合は、必ずといっていいほど人間は不幸になるのだそうだ。また、そういう人間は、ほんのひとときの幸福を自分に得るために、それこそ数え切れないほどの不幸を舐めなければならないし、また現にそうしているのだそうだ。

以上のようにサタンは、少年たちに幾つかの実例を示しながら、そのことを証明していく。


次にサタンは 人間の運命 というものについて説明を始める。「人間というものの運命、それはもうその人間が生まれ出でた時点で既に決定付られてしまう!」とサタンは言う。彼はこのことに関して次のように述べている。


nothing happens that your first act hasn't arranged to happen and made inevitable , and so , of your own motion you can't ever alter the scheme or do a thing that will break a link. (28)


すべて人生のことは、その人間が生まれ出でてする最初の行為のときから既に決まっているのであり、いわばそれは不可避ともいうべきもの。どう私たちが足掻いたところで変わるものではない。鎖の輪一つ動かすこともできるわけではない。(29)


このように、作者トウェインの晩年の思想、すなわち「人間決定論」のようなものが、この部分に感じ取れるのである。

ところで、彼の晩年のもう1つの作品『人間とは何か』の中で、トウェインはまだこれに、その人間が生まれ出でた後の 環境 というものを重視して付け加えていた。ところがこの『不思議な少年』の中では、もうそれすら見当たらない。環境という言葉は完全にカットされ、ただあるのは、人生の始まりのみを重要視した内容の主張ばかりとなってしまった。

このことからもやはり、トウェインのこの種の暗い思想は、段々とエスカレートしていったように見受けられる。


さて、このようにしてサタンの人間に対する侮辱はずっと続いていく。

次にサタンはキリスト教を中心とした文明というものについて語り始める。彼の言うには、このキリスト教と文明とを別個に切り離して考えることはもはや不能だという。

そしてこの2つに観点を置いて歴史を振り返るなら、そこには必ずや 戦争 が存在していたと言う。

人類の歴史はまず、この戦争というものにおける 殺人 から始まっており、その意味で キリスト教文明 に勝るものはないとしている。この見解は、作家マーク・トウェイン自身の「キリスト教不信」からくる主張の表れと解釈することもできる。


次にサタンは、また人間の弱みを曝け出す。魔女であるとの疑いを掛けられ火炙りの刑に処せられている老婆に石を投げつけている群衆を例にとって、サタンは「あれこそが人間だ!」と非難している。つまりこれは人間の心の中に潜在している 人に良く見られたいという欲望 の典型的な表れだというのである。

「例え心の中でどう思っていようとも、とにかく一番声の大きい人物に従うのであり、また従いたくなくても、それを表に出すだけの 勇気 を持ち合わせていないのが人間だ」とサタンは厳しく言及する。

このことは、我々の今の現代を見回してみても、確かに同様のことがいえるのではないだろうか?


このあとサタンは、人を気違いにすることによって次のように言っている。

「正気の人間で幸福ってことは絶対ないよ。そういう人間にとっちゃ、人生はただの現実でしかない。だから気違いだけが幸福になれるんだよ」(30)

つまり、気でも狂って現実がわからなくなってしまったときにこそ初めて人間は幸せを掴める、というのだ。すなわち真面(まとも)な人間は不幸で、狂人こそが幸福になれる、とするサタンなりの見解であり、これもやはり作家マーク・トウェイン自身の直接の考え方へと結びつくのであろう。


このあとサタンはユーモア感覚というものについての話を始める。そして 笑い こそが人間の持っている唯一の武器だと言う。どんなものもただ笑い飛ばすことによって、すべて解決することができる、というのである。

例えばある人間が何かとてつもなく重大な問題にぶつかったとする。その際、彼はきっと随分と思い悩むのであろうが、サタンの言うにはそんなことはやめて、ただその問題を笑い飛ばしてさえやればすべては解決する、というのだ。

「紛らわしいことのすべてをこんなふうに笑い飛ばせば、それだけで気が楽になり、スッキリする。だから問題はない」といった酷く投げやりな考え方なのだが、同様に日本の諺にも「笑う門には福来る」というのが確かにある。非常に信憑性の高い話で、一理あるとも感じられる。

だがこういった強みを人間は持っていながら、実際はこの唯一の強みにさえ全く気が付いておらず、よってこの武器もいまだかつて用いられたことがないと、結局はサタンが人間の弱みに結びつけることで、この話は終了している。「宝の持ち腐れ」という意味である。

さてこのあと、物語はいよいよクライマックスを迎える。結果からいえば、最後の11章で どんでん返し があるのである。

まずその出だしは、サタンの次の言葉で始まる。


"There is no other." (31)


「あの世なんて、そんなものはないよ」(32)


この言葉を聞いたテオドールは、サタンの言う意味が全くわからない。しかしサタンは尚も続けて言う。「世の中のすべてのものがみんな 幻 なんだ」と言う。

そしてテオドールに向かって「存在するのはキミだけで、その他のもの ー 神や人間や世界や太陽や月や無数の星 はすべて実在などせず、ただの 夢 にすぎない」と続けて言う。また、サタン自体でさえ、テオドールの夢、そして想像の代物(しろもの)なんだ、とサタンが自ら彼に教える。

続いてサタンの 神 に対する批判が始まる。「神はこんなにもくだらない人間というものを創造しておきながら、その責任をとろうともせず勝手に人間に押しつけている」として、サタンは神を徹底的にけなしている。そしてサタンはこう言う。


…… who created man without invitation , then tries to shuffle the responsibility for man's acts upon man , instead of honorably placing it where it belongs , upon himself ; and finally , with altogether divine obtuseness , invites this poor , abused slave to worship him!…… (33)


…… 神は誰も頼んでやしないのに人間なんてものを創り出したんだ。だから自分が人間の行動の責任を立派に(かぶ)るのが当然なのに、実際はその責任を人間当人に押しやっている。そして遂には、要するに神の鈍感さでもって、このあわれな奴隷たちに自分を礼拝させようとしている! ……


この主張もまた、そっくりそのまま当時のマーク・トウェイン本人の人生観であったと捉えてよかろう。なぜならこの キリスト教不信 ともいえる概念も、彼の晩年の思想の代表例とされるものだからである。


さてこの物語はいよいよ結末を迎える。それでは最後にサタンが消えゆく前にもう一度言い残した言葉を記して、この『不思議な少年』の内容分析を終わりにしたい。


「神も人間も、すべてのものは存在しない。みんな夢! そして存在するのはキミだけ! みんなキミの夢! …… 」











総 論



『人間とは何か』、『不思議な少年』と、作家マーク・トウェインの晩年のこの2作にポイントを当て、ここまで論じてきたわけだが、それではトウェインのこの暗きペシミズム的思想・人生観の 原因 は一体、何であったのだろうか?


これに対する「解答」は様々で、実際に専門家たちの間でも意見が二つに分かれているようである。つまりは大まかにいって、外的要因だけを重視した意見と、これに内的要因も加えてその原因とする見解の二通りである。

筆者は後者に賛同する。つまりトウェインに及ぼされた外部からの直接的影響と、彼が元来から保有していた気質のようなものが複雑に融合し、この晩年の思想が出来上がったものと考える。


ここでいう外的要因としては、彼が12万ドルの借金を背負い込み、その返済のために随分と苦労していたという事実と、長女の死や末娘のテンカン発作、また愛妻の大病などがあげられる。

内的要因としては、確証はないものの、例えばこういうのがある。彼の「人間機械論」のような謎めいた主張を含む作品が、彼の初期短編集の中にもあるのである。それは「頭突き羊の物語」( "The Story of the Old Ram" ー From Roughing It , 1872 ) である。この中でトウェインは作品を借りて「人間は神によって定められたコースを歩むだけ! ただそれだけ‼ だから機械! またゆえに、偶然なんてものはあり得ない!」という風に述べている。また「ある裁判」( "A Trial" ー From Roughing It , 1872 ) の中でも、彼は「我が心の満足を()るために …… 」といった言葉を用いている。よって晩年の思想は既にこの頃から 潜在していた と認められる。

つまり、こうである。「以前から、晩年での観念に類似したものがマーク・トウェインの内面に潜在していたとみられ、それがこの時期になって外的要因をきっかけに一挙、表面化してきた‼ 」とする見方である。

もちろん前述のとおり、これに関する批評家たちの受け止め方は多種多様であるから、上記はあくまでも個人的見解である。

いずれにせよ、その初期にはユーモア作家として親しまれていたマーク・トウェインだったが、このような経過を辿り変貌していったのである。


それではこのあと、この論文で取り上げた2つの作品、『人間とは何か』と『不思議な少年』の関連性について少し触れてみよう。

まず両作品の主題(テーマ)だが、これは明らかに、前者は「人間機械論」、そして後者は「良心」であろう。

そしてこの両者間には何らかの共通点があることだろう。簡単にひとことでいうなら、両者とも人間をけなし、あざ笑うかのような内容になっているという共通点である。

更に詳しく突っ込んでいうなら、ただ単にどちらも 人間不信 をテーマとした作品であるというだけに留まらず、作者トウェインがもっと何か別の形で読者に伝えようとしたものが、そこに見え隠れしているような気がする。

一例として、良心という一語は『人間とは何か』の中にも出てきていて、どちらもこの良心というものをもってして人間をくだらないものとする説法で共通しているし、他にも人間が機械にしかすぎないという説を、トウェインは『不思議な少年』の中でも言及している。

このように他方の主題をも、そっくりそのまま組み込んだ作品どうしであるから、ただエッセイとフィクションの違いがあるだけで、他の点ではもう一部の狂いもなく同一である、ということができる。


さてこのように、この晩年の2つの作品を同一視した場合、次のことが当てはまりはしないだろうか。つまり老人とサタンと晩年のトウェインを同類項とみなし、青年と少年たちと初期のトウェインを同類項とみなす、という思考である。

そして更にいうなら、この両作品を執筆していた当時のトウェインにも、まだこのどちらの面も自身の中に残っていたのではないだろうか?とも考えられるのである。それでこの相反する真逆の両論を、この2つの作品の中で戦わせることにより、彼自身も悩み苦しみ葛藤しながら、その結論を導き出そうとしていたのではないだろうか?とも思われるのである。晩年期に彼自身が、実際に執筆を試みながら、この答えをずっと模索していた、という意味においてである。


ところでトウェインの晩年の作品がいくら暗い作風だとはいえ、彼は人間の価値を否定しながらも、ほとんどの場合はその解決策のようなもの、それを打破しうる一筋の 光 のようなもの、を読者に投げかけている。

このことから彼は人間に失望を感じながらも内心では、やはり人間を信じたかった、愛したかったのではないだろうか?

そして末期の作品にも、ある程度のユーモアがうかがえるのは確かである。暗い作風でありながら不思議と晩年末期の作品にも魅力が感じられるのは、きっとこのせいもあるだろう。いずれにせよ、このユーモア感覚も含めて、マーク・トウェインは実に偉大な作家であったようだ。


これにて論文を終了する。











NOTES



(1) 6人きょうだいの第5子として生まれる。

  父 John ー 'Frontier Spirit' に満ちた空想家

  母 Jane ー 陽気で美人で知性のある女性

(2) これはヘミングウェイの言った言葉である。

(3) アマゾン探検に行くためのニュー・オーリンズからの船の都合がつかず、けっきょく諦めて故郷へ舞い戻ったのがきっかけになる。

(4) かの有名な Gold Rush! トウェインもこの体験者で、その経験をもとに執筆している短編等も幾つかある。

(5) 流石にこの辺は父親の血を引いていて、この頃の体験を基にした代表作の一つに「トム・クォーツ」( From Roughing It , 1872 ) がある。

(6) ( genteel tradition ) の否定より開始。

(7) トウェインの単行本第一弾がこれ!

(8) 沢山あるので上げないが、その中で彼の社説からヒットしたものも、かなりある。

(9) 約5ヶ月間のヨーロッパ観光旅行からの見聞録で大ヒット!

(10) チャールズ・ダドレー・ウォーナー ( Charles Dudley Warner , 1829〜1900 ) との共作で、当時のアメリカの政界や実業界の醜さを暴いたこの作品は、ベストセラーとなった。

(11) これは短編としては非常に長く、またさほど知られてもいない。

(12) 口述筆記をしてもらって出来上がった。 ( Classics In American Culture < マーク・トウェイン自伝 > 渡辺利雄 = 訳・解説 研究社 )

(13) ロシア人のピアニストと結婚してヨーロッパにいた彼女はこの時すぐに駆けつけた。

(14) トウェインはこの作品の中の一部に「その例証」という見出しをつけている。

(15) これがこの作品の主題!

(16) 中野好夫 ( 訳 ) 『人間とは何か』 ( 岩波文庫 ) P.7

(17) 訳者のつけたタイトル. ( 以下すべてこれに同じ )

(18) 中野好夫 ( 訳 ) Op. Cit., P.13

(19) I bid., P.24

(20) 青年が直ぐにカッとなり易いことを例にとって、それが青年の限界であると老人は説いている。

(21) これに限り、論証的裏付けがない。

(22) 中野好夫 ( 訳 ) Op. Cit., P.168

(23) I bid., PP.173〜174

(24) KEIICHI HARADA ed., "The Mysterious Stranger" ( THE HOKUSEIDO PRESS ) Chapter 1 , P.1 , l.2 ー it was still the Middle Ages in Austria , から.

(25) I bid., P.23 , ll.21〜23

(26) I bid., P.47 , l.13

(27) I bid., P.50 , ll.20〜21

(28) I bid., PP.95〜96

(29) 中野好夫 ( 訳 ) 『不思議な少年』 ( 岩波文庫 ) P.132 より引用.

(30) I bid., P.171 を一部参照.

(31) "The Mysterious Stranger" , XI ( last chapter ) P.133 , l.5

(32) 中野好夫 ( 訳 ) Op. Cit., P.181 より.

(33) KEIICHI HARADA ed., Op. Cit., XI , P.135 , ll.2〜7











参考文献



M.Twain : "The Mysterious Stranger" Edited with Notes by KEIICHI HARADA ( THE HOKUSEIDO PRESS )


マーク・トウェイン作『不思議な少年』 中野好夫 訳 ( 岩波文庫 )


マーク・トウェイン著『人間とは何か』 中野好夫 訳 ( 岩波文庫 )


( 新潮文庫 ) マーク・トウェイン 『トム・ソーヤーの冒険』 大久保康雄 訳


『ハックルベリー・フィンの冒険』 マーク・トウェーン 野崎孝 訳 ( 講談社文庫 )


マーク・トウェイン作『王子と乞食』 村岡花子 訳 ( 岩波文庫 )


マーク・トウェイン作「バック・ファンショーの葬式 他十三篇」 坂下昇 訳 ( 岩波文庫 )


a collection of short stories 「マーク・トウェイン短編集」 古沢安二郎 訳 ( 新潮文庫 )


アメリカ古典文庫 ー 6 CLASSICS IN AMERICAN CULTURE 『マーク・トウェイン自伝』 渡辺利雄 = 訳・解説 ( 研究社 )









SUMMARY



This thesis is about Mark Twain , an American writer. Generally he is known as a humor writer. But in his declining years he wasn't so. His thoughts in those days were very dark. And as I had taken an interest in the reason , I decided that I treat two works in his declining years. There are "What Is Man ?" and "The Mysterious Stranger". Something relevancy exists between these two works , I think. They say "The Mysterious Stranger" is a disguised story of an essay "What Is Man ?". The difference in these two works is only that between Essay and Fiction. The theme of "What Is Man ?" is that 'Man is a machine' , and the theme of "The Mysterious Stranger" is 'Moral Sense'.

Well , in this thesis Introduction is related about 'The life of Mark Twain' , in Body I analyzed the subject of "What Is Man ?" and "The mysterious Stranger" , and Conclusion is about the relevancy between these two works.


( December , 1980 )









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