些細なこと
先月、彼女と別れたんだ。
別れの理由は、ほんの些細なきっかけとすれ違いでしかなく、他人に伝えて共感や同情を誘うような御大層なものではなかった。
彼女との日常は、まだ二十代を半ばにまでしか差し掛かっていない僕の短い人生の中でも、最高に楽しい数年間だった。
彼女は僕にとって初めての恋人で、彼女と過ごした日々は今後も忘れることなどできないだろう。
けど、別れというのは本当に一瞬で、あまりにも終わりはあっけなかった。
後悔をしているかといざ問われれば、やや考えたのち、首を縦に振ってしまうだろう。おそらく彼女も同じ反応を示すかもしれない。
でも、二人で話し合って今後を決めた。
まだお互いに長い人生が残っているし、素敵な出会いも待ち受けていることだろう。僕も彼女も、この別れをポジティブに捉えることにしたんだ。
――そう僕は踏ん切りをつけ、彼女の連絡先やSNSでの繋がりを、全て登録から抹消した。
『互いの巣立ちの跡を濁さないように』と、彼女と別れる際に提示し合った条件だった。
そして別れてから一ヶ月が過ぎ――僕等は一切の連絡を取り合うこともなく、日常を過ごしている。もちろん、寂しい気持ちなど微塵も起きなかった。
しかし、そんなある日のことだった。
その日は仕事が休みで、一人暮らしの僕はどこかへ出掛けるでもなく、朝から狭いシングルのベッドに横たわってスマホの液晶を眺めているばかり。
する事と言えば、下らない内容のやり取りがただ羅列されているだけのまとめサイトの閲覧や、なんの為に続けているのか目的すら忘れてしまったゲームアプリのデイリーミッションをこなすだけ。と、味気の無いものだった。
そんな無駄な休日をベッドの上でこれでもかと過ごしていた僕だったが、ふと、今月分の親への仕送りの振り込みがまだ済んでいないことに気付く。
遅れたことについて謝らなければ。と、僕は母の携帯に電話を掛けようと思い、スマホの通話履歴を下に向けてスクロールした――。
「……あ」
思わず声が出てしまった。
通話履歴の末尾に、電話帳に登録がされていない裸の携帯番号。
その十一桁の数字の並びは、見覚えしかない――。
――彼女のだ。
指が固まる。
視線も、その番号だけを見据えて固まる。
彼女は、僕の中にもういないとすっかり思い込んでいた。
でもまだ、ここにいたんだ。
「…………」
もし今ここで母と通話をしたら、履歴の最上に母の名前が上書きされ、末尾にあった彼女の番号は履歴から弾かれる。
――そうすれば彼女は正真正銘、僕の中からいなくなる。
「……っ」
そう思うとなぜだか、とても悲しくなってしまった。
彼女と過ごした思い出が、脳裏に蘇ってしまった。
目頭がじわりと熱くなり、途端に頬へと滴が伝う。
後悔はしないと誓った、はずだった。
ケジメをつけていた、つもりだった。
けど、その戒めはほんの少しの強がりでしかなく、僕の頭の中までしか嘘をつき通せなかった。
心の臓の奥の底にある想い。
本心にまでは、嘘をつくことが出来なかったんだ――。
僕は、小一時間ほど咽び泣いた。
そして勇気を出し、本心を携え、彼女に電話をかけることにした。
数回のコール。
驚くほど簡単に彼女の声を聴くことができた。
『……もしもし?』
『えっと、もしかして……履歴残ってた?』
『……私もだよ。ちょうどかけようか悩んでたとこ』
『じゃ、やり直そっか』
読んでいただき、感謝です。