後編
男性は、40代といったところか。
最初に娘を、次に鬼を、そして大天狗に視線を移した。
父さん、ともう一度、鬼が、いや、青年が言う。
双方、困惑した表情だが、それゆえさらに似ており、親子だというのが端から見てもわかった。
「生きていたのか」
父と呼ばれた男が問うと、青年は静かに頷いた。
大天狗の中で、今まで聞いた全てが繋がる。鬼の子は、3歳で山に捨てられてから、どうやって暮らしていたのか。
他に人がいなかったのか、思い当たらなかったのは何故か。
父親の存在を失念していたからだ。
行商に出たまま、鬼の子が生まれるときも、生まれてからも、父親は村に帰っては来なかった。
そして、母親の願いむなしく、鬼の子は村人の手で追放された。
父親はどこかでそれを聞いたのだろう。山で息子を見つけたのち、時たま食べ物を与え、会話をし、3年の間息子が生きる手助けをしていた。
他の村に、妻子を持ちながら。
今、青年は男を父と呼ぶ。そして、当然のように、娘も男を父と呼んだ。
「その娘は、お前の子か」
大天狗は、低く、ゆっくりと男に聞いた。自明のことだが、男の口からきちんと釈明をさせたかった。
自分の子供たちに対して。
男は黙っている。娘は、呆然としたまま、隣の青年を見た。
将来を誓った相手が鬼だろうと構わなかった。
しかし、きょうだいとなると話は別だ。それが例え同じ人間でも、いや、人間だからこそ。
娘は、青年からゆっくり離れる。青年も、山を背に後退りした。
この場から、全ての繋がりから自分を断つように。
娘は男に腕を掴まれ、されるがままに川向こうへ連れ去られていった。
大天狗は、溜め息を吐いた。
そうか、父親はいたのか。だから、俺は父親ではなく「友達」だったのか。
父親のように何かしてやりたいと思っていたが、最初から叶わぬことだったのだ。
そして、鬼と呼ばれていた青年は、父親と、愛した人を、同時に失ってしまった。
それからひとつきほど、鬼は山から下りなかった。
烏天狗が村へ出向き観念した男から聞いたことには、やはり男は行商の途中で他の女と関係を持ち、子が生まれる前に村へ戻るのは困難になっていた。
子が生まれたらしいと噂に聞くが、もとより引き取って育てる気は毛頭なく、そのままかつての妻に託そうと思ったのである。
「父さんが山でおれを見つけたのは、たまたまらしい」
鬼が、家の前に立ち山裾を眺めている。隣で、大天狗は黙って座っていた。
ぽつりぽつりと、鬼は幼い頃のことを話していた。
男が鬼の子に出会ったのは、彼が捨てられてからまだ間もない頃だった。木の実で空腹を凌いでいた子は、最初は行商の男の食糧を奪おうとしたようだ。
男は、相手が幼子と見ると、髪色への好奇心と憐れみから食糧を与え、名を聞いた。
子が口にした名前は、かつての村で名乗った自らの名前であった。
妻は、帰らぬ夫を慕い、その名を呼びながら我が子を育てていたのだろう。
鬼の子が我が子であったのを、男はその時知った。
しかし、目の前の子の面影に妻と自分を重ね合わせ、懺悔からか、行商の行き来に世話をするようになった。
子をかつて自ら慣れ親しんだ名で呼び、子からは自分を父と呼ばせた。
そして1年。
魚を捕り、枝を折り、山菜を料理する。父は変わらず行商で村にも山にもいないことが多かったが、父親不在の間も、木のうろや崖下の窪みをねじろに独り生きていた。たまに不意の怪我もするが、治りも早く、不便はなかった。
そしてまた1年。
獣たちのように野山を駆け、時に餌を分けてもらいながら、子はすでに山の生活になじんでいた。
さらに半年。
男は、行商が無い時も度々山に通うことを妻から不審がられ、ついに白状した。
そして、父が山に来ることはなくなった。
「狐たちは優しかった。おれが寝てるところに餌を持って来てくれたりする。それを見て、父さんが」
お前を、仲間だと思っているのかもしれないな。いつか、そう何の気なしに言ったという。
父が来ない時、狐や他の獣と過ごしていた彼はあることに気づく。
「狐の親は、子を抱いてやるんだ。でも、おれは父さんにされたことはなかった」
母親は病に伏し、我が子を抱く力もなかっただろう。父は、なぜ抱いてやれなかったか。
「怖かったんだ」
男は烏天狗にそう言ったという。顔も似ているし、確かに自分の子だ。しかし、村を追放された一連の話。父としての愛情や義務感より、鬼と呼ばれていた子への恐怖心が勝った。
「だから、おれがもし狐の仲間なら、狐なら抱いてやれるし、抱いてもらえるかと」
それは、心の寄る辺を求める子供の、無邪気な発想だった。
しかし、誰かに優しく抱いてもらえなかった子は、優しく抱いてやることはできなかった。なまじ力が強いのが災いし、本意ではなく相手を傷つけ、殺めてしまった。
狐が死んでしまったこと自体、何のことかわからないほど、鬼の子に愛情をもって触れてくれる者はいなかったのだ。
そうしたのちに大天狗と会い、娘と会い、やっと自分が寄り添える相手と過ごすという幸せは、無残に打ち砕かれてしまった。
大天狗は、すでに自分と肩を並べるくらいに大きくなった青年の頭を、優しくなでる。
角は、ない。
この子は、人間だ。
人間離れした怪力と、人より明るい髪を持つだけの、孤独な子供なのだ。
彼を鬼にしたのは、村人や、父であった。
そして自分もだと、大天狗は自責の念に駆られた。
「縁談?」
大天狗は険しい顔で、烏天狗に向き直る。
無言で頷く烏天狗もまた、眉間に皺を寄せている。
件の娘は、惚れた青年が母親違いとはいえ実兄と知り、泣く泣く恋心を諦めざるを得なくなった。
踏ん切りをつけるためと青年を牽制するために、父親も早急に相手を探したようだ。
青年は、知っているのだろうか。
「狐が」
烏天狗が言う。
「狐たちが家まで様子を見に行ったようです。そうしたら、ひたすら何故、何故、と呟いていると」
何を、と聞くまでもない。
親を知らない子が、きょうだいを知るわけがないのだ。
青年の混乱ぶりは容易に想像できる。だが、何を言えば理解できるだろう。
大天狗は、山の家にいるであろう青年を訪ねた。しかし、寝床はそのままに、本人はいない。
娘のもとへ行ったのでは、と踵を返したとき、青年が戻ってきた。
ほっとしたのも束の間、彼を見た大天狗は言葉が出なかった。
鬼の形相とは、よく言ったものだ。
怒りに顔を歪めているわけでも、悲しみに満ちた表情をしているわけでもない。
この世の全てを拒絶するような、静かで冷たい目をしていたが、それは確かに人間のものとは違っていた。
「羽団扇を」
青年が言う。手を、大天狗のほうに伸ばす。羽団扇を持つ手に力を込め、大天狗は否、と首を振った。
「これは、渡せない。そもそも人間には使えない」
「おれは人間じゃない。鬼だ」
大天狗だって、そう言ったじゃないか。
何も言い返せない大天狗に、青年はにじり寄る。
間合いを取り、一歩下がった大天狗めがけて、青年が体をぶつけてきた。
不意をつかれ大天狗がふらついた背後は、草に隠れた斜面である。
これ程までの力とは思わなかった。大天狗が体勢を立て直そうとした時、青年は素早く腰の羽団扇を掴む。
しまった、と思って体を翻したが遅く、青年が羽団扇を抜きとりながら扇ぎ起こした突風で、大天狗の体は斜面に沿って落ちるように飛ばされていた。
羽を持つ大天狗が、自らの羽団扇で飛ばされるとはなんとも皮肉であるが、それよりも、青年がそのまま去っていったことで何が起こるかを想像し、焦燥に駆られる。だが、時すでに遅かった。
異変を察してやってきた烏天狗と合流し、川が見える場所まで来た。娘が住むという村のあたりを見ると、その上空で雷鳴が轟いている。
雲間を走る閃光が一筋、二筋、村に落ちる。たちまち火の手が上がった。
ああ、と大天狗が洩らすと、烏天狗は首を横に振る。あそこが、娘の家にちがいない。父親もいるはずだ。
炎は風を受けて勢いよく燃え盛り、建物と、中にいる生き物諸共をあっという間に包んだ。
慈悲のない力は、こんな一瞬で全てを無にしてしまうのか。
稲光が村を照らし、豪雨の音が雷鳴に重なる。家を燃やした炎はしばしくすぶったあと鎮まり、灰なのか骨なのかわからないものたちは、そのまま泥水の中に埋もれていった。
儚かった。人そのものも、互いを想う気持ちも。
そして、青年はどこにいるのか。
それから数日、降り続く雨の中、大天狗は彼を探したが見つからない。濡れそぼった髪や羽も意に介さず、青年の住みかの前に悄然と立ちふもとを見やる。
足元に、狐が近づいてきた。心配して様子を見に来ているうちの一匹だろう。大天狗同様、全身ずぶ濡れだ。
その時、別の烏天狗が慌てて飛び込んできた。
「ーーの、川沿いの村が」
その村は、青年が生まれた村だ。
「無くなった」
烏天狗が、言葉を切る。
大天狗は絶句した。
青年が、羽団扇を使った結果であることは明白だ。どのように、や、いつ、といった問いは既に無意味である。
沈黙を破るように、背後で泥水が跳ねる音がした。
「大天狗」
いつのまにか、青年が帰ってきていた。
淡々と話し出す。
「大天狗、おれはやっぱり鬼だった。羽団扇を使えば天狗のように、いや、天狗以上の力を出せる」
違う、と大天狗は強く言うが、青年は語気を荒くする。
「じゃあおれは何だ。天狗でも狐でもない。お前らみたいに仲間や家族はいない」
団扇を持つ手に、力が入る。
「おれは鬼だ。1人なんだ」
寂しい言葉だ。しかしどうすることもできなかった。
青年は羽団扇を勢いよく扇いだ。風は土砂降りの雨を滝のように巻き込み、青年の体にまとわりつく。そのまま、足元の、雨で緩んだ地面を大きく削いだ。
山は足元から大きく崩れ、風に捕らわれた青年の体は、無防備に、先ほどまで山があった空間に、仰向けに放り出された。
大天狗と烏天狗が見たのは、暗闇に落ちる寸前の、青年と、青年が持つ羽団扇。
あと、小さな獣が一匹。
咄嗟に手をのばした烏天狗の体に、狐が押し付けられた。
羽団扇は持ち主の手を離れ、中空を舞っている。
青年は、両手を狐から離し、いましがたできた崖の底に消えていった。
あれから、4、5年ほど経っただろうか。
かつて村だったという川沿いの地は、やっと草木も増えてきたが、相変わらず人が移り住む気配はなかった。
村が無くなった、と烏天狗は言ったが、生き物も建物もなぎ倒されたのか飛ばされたのか、あのあとすぐに大天狗らが駆け付けた時には、すでに草木もない荒野と化していた。
ともかく、元々が小さな集落だったため、本当に存在したかさえあやふやになっていくのかも知れない。
大天狗は、手元に戻ってきた羽団扇を眺める。
青年は、自分を生み、自分を鬼にした場所を、無きものとした。
この村でなければ、彼の人生は何か違っていただろうか。
煩悶していると、少し遠くに女がいるのが見えた。腰くらいの背丈の子を連れている。川縁にやっと生えてきた木の根元に花を手向け、手を合わせている。
片腕がやや不自由なのか、ゆっくりとした所作が終わるのを待って、大天狗は女に声をかけた。
振り向いた顔を見ると、20代半ばのようだ。
「修験者さまですか?」
天狗たちは、羽さえ畳めば人間とほぼ変わらない。まあ、と大天狗は曖昧に答え、女に問い返した。
「よその地の方と見受けるが、何をなさっているのか」
女は、弔いを、と言った。
「私は、ここにあった村で生まれ育った者です。少し離れた村へ嫁に行った翌年に、村は無くなってしまいました」
天狗さまのお怒りだと、どこからともなく聞いたという。大天狗は、静かに続きを促す。すると、女が意外なことを言った。
「でも、私がほんとうに手を合わせたいのは、家族ではないのです」
そう言って、腕をさすった。不自然に曲がった腕は、おそらく幼い頃に怪我でもしたのだろう。女は、滔々と話を続ける。
「私がこの子くらいの頃、よく一緒に遊んだ男の子がおりまして。あるとき、彼が私の腕を掴んだ力があまりに強く、私の腕が曲がってしまい、そのせいで男の子は山を追われてしまったのです」
鬼の子だ、と。
大天狗は、女の隣にいる子を見た。3つになるという。
「花いちもんめを、していたんですよ」
女は、歌をひとふし、口ずさむ。
「それまで、男の子は輪の外で眺めているだけでした。でも、たまたま誰かの代わりで彼を輪に入れたときがあって。皆は親に関わらないよう言われていたので、彼と一緒に走り回ることはあっても、手を繋いだこともありませんでした。そのため、彼は花いちもんめで私の腕を」
力任せに掴んでしまったのだ。
そして、3歳の女の子の腕は、人間離れした力に抗うには、柔らかすぎた。
「私のせいなんです」
いや、違う、と大天狗は強く言った。それは、子供が背負うことではない。しかし女は、悲しそうに、そして照れたように付け足した。
「私は、その男の子が好きだったんです。彼も私を好いてくれたかと、子供ごころに嬉しかった。それを言えなかったのが、とても悔やまれます」
いつだったか、青年が話していた。花いちもんめをしていたと。好きな子がいたと。
あの子がほしいと伸ばした手は、自分の未来を握り潰した。
女は当時、幼い子供なりに、自分が怪我をしたせいで好きな男の子がいなくなる事実を、なんとかしたいと考えていたのだろう。しかし、子供の話を聞いたところで何が変わるとは思えない。
それでもせめて、自分は男の子を責めていないことを伝えたかったのだ、と。
突然こんな話をしてしまって、と女は言ったが、大天狗は短く首を横に振る。
女は、手向けた花にもう一度手を合わせ、子供の手を引いた。何度も深くお辞儀をして去っていく女と、隣を歩く子供の後ろ姿に向かって、大天狗も礼をする。
女が子供の名前を呼んだ。大天狗には忘れることのできない、かつての青年の名前だった。
それは、青年が一時でも心通わせた娘が、彼を呼ぶときに口にした名だ。
今も青年を、鬼としてではなく人として気にかけている存在がいることは、大天狗にとっても救いだった。
しかし、彼は本当に鬼と化して、どこかに消えてしまった。落ちたはずの崖からも、山をどれだけ探しても青年は見つからなかった。
「彼を鬼にしてしまったのは、俺なのか」
青年の無邪気な笑顔を思いだし、自戒する。
今さらどうしようもなくても、後悔の念だけが沸いてくる。
「そんなことはないですよ」
穏やかな女性の声がした。
いつのまにか、烏天狗が隣に立っていた。彼女の足元に、1匹の狐がいる。
懐かれてしまって、と彼女は笑った。
「あの時、この狐も一緒に落ちようとしたところを、彼はとっさに抱き止めたのを覚えていますか?」
忘れはしない。そうして、狐は烏天狗に託され、代わりに彼は1人で、自らが作った奈落に落ちていった。
「ちゃんと、優しく抱いてあげられたんです。この狐は生きている」
そう言って、烏天狗は狐を抱きあげる。
「あなたが、あの子に最初にしてあげたように、あの子は狐を助けてあげられたんですよ。少なくとも、あの時彼は鬼ではなかった」
彼は、大天狗がそうしてくれたことで、初めて、自分以外のものに優しく触れることを知ったのだ。
5年前よりだいぶ大きくなった狐が、大天狗を見上げる。
そうか。
他の誰かを傷つけず、寄り添えたときは確かにあったのだ。
誰に言うでもなく、呟く。
「どこかで誰かと、幸せに暮らしているだろうか」
そうあってほしい。
大天狗は、空を見上げて静かに願った。