中編
大天狗の羽団扇は、誰彼構わず使えるわけではない。
烏天狗すら、使いこなせずに自ら起こした風の中に、身を預ける羽目になる者もいる。
自分が天狗として、天候を左右するような力を持つことは、別に自ら欲したことではない。そもそも自分たちも、天狗として生きるべく存在しているだけで、それ以上でも以下でもないのだ。
そんなことを、大天狗は時たま、ふと考える。
「なに難しい顔をしてんだよ?」
顔に影がかかったと思ったら、次の瞬間には、目の前に青年の顔があった。
ここは、かつて鬼の子と呼ばれていたこの青年が住む、西の山である。
天狗は、修験者が雨避けのために建てたであろうこの簡素な小屋を、当時6歳ほどだった鬼の子にあてがった。
囲炉裏と筵しかなかったが、鬼の子はいたく感激していた。
「いままで、獣の巣穴を借りてたからさ、家に住むのは久しぶりだ」
3歳頃から6歳まで、3年あまり山で暮らしていたことを詳しく知りたいと幾度か鬼の子に聞いてみたが、口ごもり、はぐらかされてきた。
しかし、この小屋を前にした反応からして、人間の生活からはかなりかけ離れた暮らしをしていたのだろう。
なかなかに嫌な思い出もあるのかも知れず、あまり深くは聞かなかった。
金に近い茶色の髪は変わらず、鳶色の大きな目はやや鋭さを増したが、全体的に人懐こい。
一番変わったのは、体つきだ。
細身のまま縦にすくすく伸び、6尺を超える大天狗と肩を並べるくらいになっていた。
鬼の子は、青年の姿を持つ鬼へと成長していた。
大天狗が彼を匿ってからすでに12年が経ち、18歳になった。
大天狗はというと、多少貫禄は増したが、見た目からは12年の歳月は感じられない。
「大天狗さまはあまり変わらないな」
鬼は、感心したように言う。そして。
「あれ、やらないの?」
いたずら小僧のように、羽団扇を見る。仕方ない、と、大天狗は羽団扇を軽くひと振りした。
途端に小さな竜巻が起きた。
近くの落ち葉を巻き込み、次第に大きくなっていく。
山肌をすべり、畑の端をかすめて消滅した。
「なんだ、あれで終わりかよ」
不服そうに鬼が言う。仕方ないだろ、と大天狗も返す。
「やたらにやると、人間たちの命を奪いかねないんだ」
本音を言えば、大天狗もこの羽団扇が余すところなく力を発揮したのを見てみたい。
しかし、今この平和な世の中に、強すぎる力は不要らしい。羽団扇を受け継いだ時に、まず全力で使うのは御法度と言われた。
それでは、羽団扇の意味がないのではと、大天狗は納得がいかずに反論したが、古参の烏天狗数名にまで諭されては仕方ない。
かつて天狗たちは、強大な力により、人間からは神のように崇められていた。天候、特に風雨を起こせる彼らは、人間たちにとって、時に脅威で、時に崇拝の対象となる。
つまらない、と口を尖らせる鬼を、大天狗は父のような眼差しで見ていた。
実際に、自分はまだ父にはなっていないが、12年、一部の烏天狗や、狐の助けを得ながら、この鬼の青年を育ててきた。
否、成長するのを見守ってきた。
彼は、己の日々の糧は自ら捕り、好きなときに起きて、寝る。
大天狗は、暇を見つけては鬼のもとに足を運び、話し相手になっていたが、すでに一通り言葉も理解していたため、改めて教えるようなことは特になかった。
髪色と怪力だけで鬼だと断定するのは早計だが、個として生きていける肉体と意思の強さは、やはり人間のそれとも、また天狗や狐たちとも違う気がした。
「なんだよ」
視線を感じ、鬼が大天狗を見る。
「いや、息子がいたらこんなふうかと思ってな」
大天狗が冗談めかして言うと、鬼は口を大きく開けて笑った。
「息子じゃあねえよ。友達かな。大天狗さまは何年経っても見た目があまり変わらないから、あと何年かしたら俺も追いついちまう」
そうか、と思った。確かに、自分たちの時間の流れは、人間とも獣とも他の異形のものとも異なるようだ。
「ところで、大天狗さま」
口調を変えて、鬼が話しかけてきた。
珍しく、声音を落としている。なにかあったか、と身構えた大天狗だが、鬼の頬が赤いのを見てとった。
同じ表情を最近見たな、と記憶をたどり、すぐに思い当たった。
「おれ、好きな子ができた」
鬼が、はにかんだように言う。
そうだ、最近想い人と恋仲になったと噂に聞いた、お付きの烏天狗と同じだ。
どこで、誰を、と、大天狗は何から聞いたら良いかわからず言葉が出なかったが、聞くまでもなく鬼のほうからすらすら答える。
「この小屋からずうっと降りていった先に、川があるだろう。川向こうに住んでる娘らしい。可愛いんだ」
聞いてるほうが、こそばゆい。
取り敢えず、そうか、と相づちを打ってみる。
「少し前に、山で木の実を食べていたら、山菜採りに来ていた娘と出くわしてさ。驚いていたけど、怖がらなかった。俺の髪を、きれいだと言ってくれたんだ」
鬼は、嬉しそうだ。
「もう、3回も会いに来てくれた。俺も会いたいと思う。村にいたとき、花いちもんめっていう遊びで、好きな子を選んでいいって言われたことがある。その時と同じだ。俺のことを怖がらない子が、俺も好きだ」
そうか、物心ついて少しの間までは、人間の集落でそのまま暮らしていたのだ。
子供同士では、鬼の子とはいえ、そこまで排除する空気はなかったと聞いた。そして、子供たちに交じって遊ぶうちに、幼いながらも、異性と関わり意識するようなことがあっても不思議なことではなかった。
鬼が、川向こうに住むその娘の名を教えてくれた。ありふれた名だった。
聞けば年は鬼より1つ下。17なら花盛りだ。
鬼に、嫁をとるという考えはないだろうが、1人で生きてきた彼が好きだと思える娘と一緒に過ごせるなら、これ以上のことはないだろう。
大天狗はそれからしばらく、鬼から娘についての話を聞いていた。終始笑顔で話す彼は、村でよく見かける人間の若者となんら変わりはない。
やはり、父親が息子を見る気持ちのそれに、近い気がするな。
大天狗は鬼を見ながら苦笑したが、その感情も胸に心地よかった。
それからしばらく、鬼のもとへ娘が通っていたようだと、それとなく見に行った烏天狗から教えてもらった。
大天狗は野暮かと思い、西の山に行くのは控えていた。
山の頂上からは、近隣の山々と、人間の集落が見える。最近は日照り続きで、作物に元気がない。
集落からほど近い林を見た。鬼が住むところは木に囲まれており、道も無く、知らない者からおいそれとは見つからない場所にある。さらに視線をずらすと、川の流れが見えた。川を挟んだ集落に娘がいるというが、ここからではよく見えなかった。
「落ち着かないようですね」
そう言って笑ったのは、女性の烏天狗だ。
肩までの黒髪は艶やかで、見た目は大天狗と同じくらいに見える。つまり、実際の年齢はわからない。
うん、まあな、と大天狗は言葉を濁す。
「仲良くしていけると良いですね」
私達みたいにね、と、大天狗の手に自分の手を重ねて、彼女が笑った。二人は、所謂夫婦の関係だが、彼らの場合は、同士に近い。
同族だからこそ、わかることがある。
逆を言えば、違う種の場合はわかりあえるのだろうか。
手にした羽団扇を見つめる。
「大天狗さま!」
顔の半分を占めるくらい、口を大きく開けて鬼が叫んだ。
手を振り、大天狗を呼ぶ。隣に、若い娘が立っている。
「大天狗さまに会うのは、久しぶりだ。ずっと、紹介したかったんだ」
「悪いな、忙しくて」
本音を言えば、どういう顔をして来たらいいかわからなかったのだ。鬼の住みかは相変わらず簡素なものだが、娘が少し手を入れたのか、やや雰囲気が変わったような気がした。
鬼は、娘を紹介した。
大天狗を目の前にして硬直していた娘は、はっと我に返ると、おもむろに手を合わせた。拝んでいるのである。
「俺が大天狗さまと友達だって言ったらさ、最初は信じないんだ。大天狗さまは、恵みの雨を下さる神様だから、そんなかたとお話できるわけがない、と」
言ったろ?俺は鬼だから、天狗たちとも仲が良いんだ。得意気に言う青年を見て、大天狗は苦笑した。
そもそも、天狗たちは神ではない。神のような力を持つが、自分達の裁量で全てを行えるほど、全知全能ではないのだ。
やっと顔をあげた娘を見て、はて誰かに似てる、と大天狗は思った。烏天狗の誰かだろうか。鬼のもとに、女性の烏天狗も数人連れてきたことがある。勿論幼児の世話のためだが、幼い頃に見た母親がわりの女性の面影を、好いた娘に重ねるのは自然なことだ。
帰らなきゃ、と、娘が小声で言った。ここから、娘の村までは距離がある。暗くなる前に帰路につかないといけない。
二人を見送り、大天狗は山の頂上へ飛んだ。
羽団扇を、やや強く扇ぐ。
たちまち空に暗雲が立ち込め、湿った風が勢いよく舞い上がる。やがて、大粒の雨が地上に降り注いだ。川が氾濫しないくらいの、ぎりぎりの雨量だ。村人が、濡れるのも厭わず外に出て、天狗が住むという山に向かって手を合わせているのが見えた。
俺は今こっちの山にいるんだがな、と大天狗は苦笑しながら、人間たちを見た。
昔、とある天狗が、おもちゃで遊ぶかのように、徒らにに羽団扇を扇いた。狐や、他の生き物をまきこんだ顛末は、聞かなくても想像ができた。その天狗自身も行方が知れず、詳しくはわからないが、天狗の仲間内では戒めとして語り継がれている。
神ではない。しかし、俺ができることは、なんだろう。
娘に向けた、鬼の笑顔を思い出していた。
数日の間、天狗が降らせた雨のおかげで、作物は生き返り人々の表情も明るくなった。
鬼と娘は、変わらず仲睦まじい。邪魔はしたくないが、寂しいと言われれば行ってみようかなと思う。
娘は、両親の愛情を受けて素直に育ったらしく、話していたらこちらも心穏やかになる。しかもなかなかの器量よしだ。引く手あまたでは?と聞いたら、とんでもない!と首を振った。
とにかく、親が手元に置きたがり、あまり他の男とも話ができないまま育ったようだ。所謂箱入り娘だが、誰にも会わないような山菜採りは行かせてもらえたという。悪い虫がつかないように育てられた娘は、そこで変わった髪の青年と出会った。
怖くはなかったか、と聞くと、はにかみながら首を振った。
村の男より、よほど優しい、と。こんな綺麗な髪の色をしているなら、悪い人ではないと。そして、惹かれた、と。
まだ親には伝えていないが、とにかく、夫婦になるならこの人、と思ったという。
何よりだった。
これでもう、自分が無用な心配をしなくて済む。嬉しいような、寂しいような気持ちだ。
そのとき、聞きなれない言葉を聞いた。
人の、男子のありふれた名前だ。それに返事をし、娘の名前を呼んだのは、鬼だ。
大天狗は、最初聞き間違いかと思った。しかし違う。
胸が、ざわついた。
目の前の男女二人が、当たり前のように、ありふれた人間の名前でお互いを呼びあっている。
そうだ。
鬼は、この子は、人間の親から生まれている。
鬼と呼んだのは村人だ。
母親は、ちゃんと名前を与えた。自分の子を、愛情込めて付けた名前で呼んでいたはずだった。
思い至って、先ほどから胸をざわつかせているものの正体を必死で探ろうと煩悶している大天狗に、鬼は無邪気に話しかけた。
「大天狗さま」
振り向くと、鬼は自分の茶色い髪を無造作に掻いている。
「角って、なんだ?俺は鬼だと言っても、角がないから鬼ではないんじゃないかと言うんだ」
そう言って、隣に立つ娘に、なあ、と話を振る。
娘は、ためらいがちに大天狗を見た。何かが、間違っていたかもしれない。しかも、最初から。
その時、勢いよく斜面をかけ上がってくる足音が聞こえた。男性の荒い息づかいもする。何者、と身構えた途端、中年の男性が現れた。若い頃はさぞ美男子だったと思われる整った顔立ちを見て、大天狗は、あ、と思った。
娘に似てる。だが、親子は異性より同性のほうが似るのは当たり前だった。娘が誰かに似ていると思ったが、その相手はその時、目の前にいたのだ。
お父さん、と娘が言うのとほぼ同時に、鬼が男性を呼んだ。
父さん、と。