【紅き十字架】
雨。
天を仰げば、その視界を奪うほど、猛威を振るう雨雲はしかし、この場合は恵みの雨ともいえた。
「主様。集落の消火は完了したようでございます」
「そうか、ご苦労だった。」
燃え盛る炎も、この大雨には勝てなかったらしい。所々に煙の立ち上る村、いや、もはや廃墟となった集落は、昨日までの活気など見る影もない。
「ロバート」
「心得ております」
長い付き合いになる初老の男は、言われずとも用件を察していた。
「生存者は1名、東の広場です」
「うん、行こうか」
我々は1時間前に、この地区の教会支部から村が燃えているとの連絡を受け、現場へ急行したが、救えたものは僅か一人だったというのか。胸中に沸き上がる無力感を押さえ付け、私は活動拠点を設置した東の広場へと足を向けた。
「この火災、どうみる?」
ロバートは幼い頃からともにいる執事だ。その思慮には絶大の信頼を置いている。
「そうですな、間違いなく、人為的なものかと」
彼の細められた目は焼け落ちた家屋に向けられている。おそらく、その下では。
「主様、まずはお救いになられたものを喜んではいかがでしょうか」
目敏く、私の視線がそちらへつられたことを察したらしい。こうも心中を当てられると敵わない。やがて見えてきた広場に設営されたテントの中では、揃いの紋章を身に付けた教会の信徒たちが慌ただしく働いていた。本来は彼らをこのような場所へ駆り立てたくはないのだが。
「ルーカスさん、こちらです」
若き青年、アルマが私に気付き天幕の中へと招き入れた。その中には、この村の最後の一人となった、幼き少女の姿がある。 身に付けた衣服は煤け、黒く長い髪は乱れて、その表情を隠していた。私は彼女に近付き、しゃがみこむ。
「……大変だったね。今はゆっくり休むといい」
聞きたいことは山ほどあるが、彼女の生気の抜けたような瞳を見てしまうと、そのような些事は後回しでいいと思った。
「ロバート。この子を連れて先に戻ってくれ。食事と沐浴、それから暖かい寝具だ」
最優先は救えた命だ。まったく、先月にも同じことがあった気がするというのに。ここのところ、どうにも不穏な空気が流れている。了承の返事を残し、彼女を連れ帰る友の背中を見ながら、私はこの村の探索にかかることを決めた。
▼
「どうして泣いてるの?」
白い部屋。初めて見るその少女は、声もなくただ、涙を流して。拭うこともせず座り込んでいた。ギャロップが言うには、昨日この教会へ来たばかりらしい。
「悲しいことがあったんだね。大丈夫、忘れていいんだよ。僕が君を救ってあげるよ 」
そっと、手を伸ばして、彼女の額へ触れる。ぺちりと触れた手のひらが、暖かいものを伝える。その小さな体が震えたのが分かった。
濡れた瞳が持ち上がる。その黒い眼差しに初めて僕の顔が映った。
「僕はレイモンド。レイって呼んで! 君の名前は?」
小さな唇が開く。静かな部屋に小さな声が、響く。
「……ゆう」
「ユウちゃんだね!よろしく!」
座る彼女へすっと手を差し伸べる。 困惑したように視線が揺れたが、やがておずおずと、彼女の右手が伸びてくる。待ちきれず僕はその手を掴み、ユウを立ち上がらせた。
「行こう、一緒に!」
これが、僕と彼女の始まり。空虚と初期化の、その出逢い。
▼
「なーにしてるの? レイ」
白い部屋。その中で一人、昔を思い出していた。
「うん、ちょっと君と初めて会った日のことをね」
扉からひょっこり顔を覗かせたのは、白い制服に身を包み、黒髪を切り揃えたユウだった。
「もう7年になるんだねぇ」
しみじみと呟いた彼女は、あの頃より随分と表情豊かになった。
「それよりユウ、任務は?」
今日は朝からギャロップに呼ばれていたはずだ。おそらくはまた任務の通達だろう。
「機密事項だっていつもいってるじゃない。教えられないのよー。エージェントの仕事は」
イタズラっぽく片目を閉じて笑うユウ。エージェントとは、この教会の内部組織、【紅き十字架】のメンバーの通称だ。彼女の場合は、
「エージェント・リセット。報告がまだだが」
エージェント・リセット。
それが彼女、ユウを示す名前。それを告げたのは黒と銀を基調にした法衣の男だ。
「やぁ、ギャロップ。そうやっていちいちエージェントをつけて呼ぶのは億劫じゃない?」
皮肉混じりに挨拶を投げる。ドがつくほどの堅物だが、悪い人ではない。
「君もだ。エンプティ。今日の修練が終わっていないのだろう?先刻エージェント・リンドが探していたぞ。どうせここにいるだろうと伝えておいたが、当たりだったようだ」
訂正。すごく悪いやつだ。今すぐここから逃げた方が良い。 リンド先生は鬼のような人で、捕まったが最後、修練という名の拷問が始まる。
「ご忠告どうも。では、僕はここで」
「あぁ。貴様はここで俺と合流するんだ」
遅かった。がっしりと肩を捕まれた。みしみしと何かが軋む音がする。振り向くまでもない。悪魔だ。悪魔がいる。奴が来た。
「ユウ」
願いを込めて親友の名を呼ぶ。視線を明後日の方角へ向けた彼女は、わざとらしく髪を弄った後、両手をぽんと打ち鳴らした。
「あーっと、いけない!報告がまだなのでした!早くギャロップさんの部屋へ行かないと!」
「私ならここにいるが」
長身の男が言う。
「じゃあ先に部屋で待ってますね!」
「こんの薄情者ー!?」
脱兎の如く駆け出した少女。残された部屋には沈黙が満ちる。筋肉が唸る。僕の骨が軋む。
▼
大陸の北部、やや東よりの川辺の町。
どこにいるの?って聞かれたら、わたしはそう答えるかな。いやいや、そんなことを聞いてるんじゃあないって?仕方ないなぁ。では、もう少し詳しく教えてあげましょう。
この町の名前はスイレン。そしてわたしのいるこの建物は、スイレンにあるシエル教団の教会。シエル教団ってなにかって?もう、質問が多いと嫌われるのよ?
簡単に言えば、シエル様と呼ばれる神様を信仰する教団で、正しき行いをすれば、神様は見ていてくださるという教えを広めているのよ。実際、この平和な田舎町の中では、その教えのお蔭もあってか、事件らしい事件はまず起こらないの。せいぜい、レイがリンド先生に捕まったことくらいかな?あの感じだと今頃死ぬより辛い目に会っていることでしょうね……くわばらくわばら。
あなたも、命が惜しければリンド先生に捕まらないことよ。覚えておいてね。
そこまで考えたところで、ふいに、ガチャリ と音がして、背後の扉が開いた。偉い人の私室にしては、ここは扉もその装飾も、部屋の中身も質素そのものだ。
「まさか本当に部屋で待っているとは思わなかったよ。エージェント・リセット」
帰還したのはその主、エージェント・ギャロップ。さっきわたしがあの部屋においてきた人だ。
「レイに聞かれるわけにはいかないもので」
真面目な表情を取り繕う。彼と話すときは独特の緊張感があるのよね。
「エンプティか……彼にも困ったものだよ。素質はあるはずなのだが、待てど暮らせど覚醒の日は来ない」
重い溜め息をつき、彼は自らの執務机へと腰を下ろした。この人はレイモンドを、いや、この教会の誰のことも、頑なに名前で呼ぼうとしない。例外はいつでも隣に控えている、執事のロバートさんくらいのものだ。
代わりにつけられるコードネームのようなものは、御名と呼ばれるもので、その人の性質に合わせて決定される。かっこつけじゃないのかってレイは疑っているけれど、その説も否定しがたいのは確かね……。
私の場合はその能力から、リセット。レイは、まだ能力がないから、エンプティ。
「わたしにはレイに特別な力があるとは思えません」
もしそんな力があるとするのなら、それは彼の豊かな感受性と思いやりの心だろう。幼き日の私も、それに救われた一人だ。
「いや、素質があることは疑いようがない。私はこの目でみた。彼はエージェントになり得る」
そう断言するギャロップさんの瞳は、どこか遠くをみているようだった。
……この世界には、稀に特別な力を持つ者がいる。人種も性別も年齢も関係なく、ある日突然能力は【覚醒】する。【紅き十字架】はそんな覚醒した者たちで構成される能力者チームだ。
活動内容はというと、人々に対する危険を取り除くこと。
例えば、突如人里に表れた害獣の鎮静化とか。
例えば、度重なる豪雨による洪水への対処とか。
例えば、【覚醒】したばかりで制御できない能力者の救済とか。
例えば、
「それで、奴の足取りは掴めたかね?」
鋭い眼差しと目が合う。
例えば、各地で村落を滅ぼし歩いている能力者、【紫炎】の追跡及びその脅威の排除、とか。
「彼の能力である、炎の目撃情報の主と話せました。目撃場所はこの町の北西、ライラックの都近郊です」
「ライラックだと……!?北の都ではないか!」
驚いたギャロップさんが声をあげる。
これまで【紫炎】の被害にあってきた町は、どれもスイレンより小さく、集落と呼ぶべき規模だった。
だが、現在の彼の居所は、この国北端の港町であり、人口10000人を超える大都市のすぐ側だという。そこが彼の次なる標的なのだとしたら、大災害に発展しかねない。
「彼の正確な潜伏場所を掴むなら、捜査人員は最小限にすべきです。万が一感付かれた場合、そのままライラックが戦場になる恐れがありますから」
考えただけで身震いが起きる。思い出されるのは、7年前のあの夜。今はなき故郷が燃えた夜のこと。
「そうだな……私と君と、ロバートだけで行こうか。奴の人相を押さえることが第一目標、戦闘になりそうだと判断したら直ちにライラックの【蒼き聖剣】に報告する」
今回わたし達がやるべきことは偵察だ。戦闘向きではないわたしがそのまま同行者へ任ぜられたことからしてもわかる。【紫炎】の潜伏地を突き止めた後、町の外へ誘きだし、戦闘向きの人員で倒す。実にシンプルだけど、このメンバーではもしも戦闘になったら……手遅れになるかもしれない。
「フォルテは連れていってあげないのですか?」
わたしとエージェント・フォルテは、彼に故郷を焼かれ、教会に保護された過去を持つ。普段は滅多に感情を表さない彼女だけれど、何かしらの思うところはあるんじゃないかな。それになにより、彼女は腕が立つ。【最強】の御名を持つほどだ。
「気持ちはわかるが、彼女は決戦時に連れて行く。今回はあくまで偵察、けして無理はしない」
【紅き十字架】が7年追いかけている人が相手。一筋縄ではいかないが、所在が割れたことで一つ前進。
あとは焦らず慎重に、ということ。
「この期を逃す手はない。一時間後にライラックへ向かう。帰ってきたばかりで申し訳ないが至急準備してくれたまえ」
そう言うなりもうこちらへ見向きはせず、彼は地図を広げて付箋を取り出した。作戦を練るのだろう。わたしは一礼して、支度に取り掛かるべく、飾り気のないドアをくぐった。
▼
悪魔という存在について考えてみる。
それはおそらく、人に似たシルエットで。強靭な肉体と威圧感を携えて。鋭く光る瞳は相手の隙を逃さない、けして相対してはならない存在だろう。
そう。けして相対してはならないのだ。
「死にたくなければ、集中することだな」
忠告というよりも死刑宣告。その言葉に現実逃避をやめて、降り下ろされた剣をなんとかやりすごす。が、その先には剣撃の勢いを利用した回し蹴りが待っていた。
「うわっ!?」
咄嗟に腕を交差して盾代わりにするものの、衝撃を殺しきれず脚が虚空をさまよう。背中から地面に叩き付けられたと理解したのは、一瞬息が止まったからだ。
……飾り気のない白い天井が見えた。
そんなことをぼんやりと考えていたら、殺風景な天井は突如、焦げ茶色に染まる。
「わーっ!?」
慌てて横に転がり、耳元で響いた木刀が床を穿つ音に震え上がった。
「こ、殺す気ですか!?」
降り下ろしたまま、絶対零度の瞳でこちらを見下ろす悪魔に抗議する。
「言ったはずだぞ。死にたくなければ集中しろと」
「殺す気でしたね!?」
ぞっとしながら足元を見下ろし、先程まではなかったはずの、床に空いた穴を全力で見なかったことにする。
「大丈夫だ、フォルテはもう少し強く踏み込んでも涼しい顔をしていた」
間違いなく殺す気だった。あんな化け物と一緒にしないでほしい。
木刀であろうがなんだろうが、彼の鍛え抜かれた逞しい腕を見てみよう。その膂力から放たれる一撃は頭蓋骨を容易く砕くだろう。うん、容易に想像がつく。つまり死ぬ。絶対死ぬ。間違いなく死ぬ。
首をこきこきと鳴らす人の形をした悪魔は、さっさと構えろと主張していた。諦めて立ち上がる僕は、改めて半身の姿勢、戦闘体勢をとって。鬼には金棒、こちらは丸腰。まったくどうしてこうなった。
「戦い方を教えろと言ったのは貴様だったと記憶しているが」
そう、全ての間違いはそこからだった。時として人は過ちを犯す。悪魔との契約さえ、結んでしまうのだ。そしてそれは、往々にして……
あとで悔やむこととなる。
▼
「あー……酷い目に遭った……」
修練などと言えば聞こえはよいが、あんなものは殺戮行為だ。毎日毎日死線を潜り抜けている身にもなってほしい。 疲れはてた体を引き摺って、修練所から自室への道程を歩く。
それは確かに、とある事情から強くありたいと願った。 そのために【紅き十字架】最強の剣士様に御指南願ったさ。だが、だがしかし! だかしかしだよ?その過程で命を落としていてはだね、それは君、本末転倒というやつではないか。
「へぶっ!?」
そんなことを考えていたら、もののみごとに転倒した。本体転倒というやつか、いやあまりにもくだらない。だめだ、思考回路がお釈迦になっている。
もうだめだ。僕は、ここまでのようだ。すまない、あとは、よろしくたの……む。
誰にともなく謝ると、僕はそのまま地面に延びた。
▼
干物だ。干からびた何かだ。
シャワーを浴び、着替えを終えて部屋を出る。すると、ひとつ角をまがった先の廊下で、その物体は力尽きていた。
「み……みず」
そろそろと手が此方へ。顔をあげる気力もないらしい。その姿はまるで食べ物を探し残された僅かな力を持って必死に穴を掘って進むもぐらのようで、そうか、分かったぞ。
「わかった! ミミズがほしいのね!」
「ちがうよ!?」
思ったより元気なリアクションで跳ね起きたのは、おそらく修練を終えたところなのだろうレイモンドだった。というより、違ったら困る。人違いだったら私もうお嫁にいけない。
立ちあがった彼が着ている服は砂にまみれ、鳶色の髪は河原の雑草のように好き放題に伸びている。
「そんなところで寝てたら掃除のおばちゃんの邪魔でしょー?」
我ながら突っ込むポイントがずれている。本来は来客が来たときに失礼だ、が正解だろう。え? それもちがう?ほかに何かあるっけ?
「あー……酷い目に遭った」
あの鬼には人の心が分からない。などと呟き頭をぷるぷると振って、
「おはよう」
「もう昼よ」
今度は時差ボケを起こしていた。今の私は大層呆れた眼差しをしていることだろう。哀れなレイモンドは度重なる修練によって精神を壊してしまったらしい。私の力で救ってあげるべきだろうか。少しずつ焦点のあってきた彼の瞳がわたしをみて固まる。そしてひとこと。
「疲れているように見えるけれど、何かあった?」
いやいやいや。疲れているのは君の方だよね?今が何時かも分からないような状況で何を言ってるのか。
そう思ったものの、彼の視線は私の首もとに固定されたままだった。
「あー、ほら、ネクタイ忘れてるよ? ユウ」
自分の首もとで指を摘まんでみせる彼。 不思議に思いながら左手を襟元へあてると、確かにそこにあるはずのものがなかった。自分で思っている以上に疲れは溜まっているらしい。
「レイに身嗜みを指摘される日が来るなんて……」
「なんでそんなに屈辱的に震えるのさ!?」
なんでも何も普段の行いというものだ。悔やんでも後の祭り、任務に出向ける格好ではなかった。
「やっぱり、どこかへ行くんだね」
「えっ?」
いつの間にやら、すました面持ちのレイモンド。今は鞄も持たず、普段と変わらない服装であり、
出掛ける素振りは見せなかったはずだ。
「ユウがネクタイをする時は、出掛ける時か、人が来る時か、だよね?」
すっと細められた瞳に、先ほどまでのおどけた色はない。なるほど、先ほどの質問はかまかけだったのか。
「お察しの通りお仕事よ。【紅き十字架】のね」
ため息一つ、絞り出す。
「帰ってきたばかりでもう仕事? 今回はいつもと様子が違うね?」
パンパンと服の汚れを払いながら、彼がそんなことを聞いてくる。
「あなたに言えることはないのよ。レイ。大丈夫、いつも通りちゃちゃっと終わらせて帰ってくるから」
彼の瞳に見える色は、心配の割合が強かった。なにかしら、感じるところがあるらしい。
「……分かった。信じて待ってるよ」
穏やかに微笑む彼に手を振って、私はネクタイを取りに自室へと戻ることにした。うん、ちゃちゃっと終わらせて帰ってよう。7年前の災厄を。