第八話 獣と私としっぽの気持ち
「痛い……!」
アルマは思わず両手の拳を握る。
突然肘から下が痛みだしたのだ。
血の流れが止まる。冷たくなっていく指先。
力が抜け膝をつき、腕の中のヴォーロスを落としてしまう。
『きゅおっ』
ころんと転がったヴォーロスは焦った。
自分たちの大切な優しい腕が。優しい腕の持ち主が、あいつに取られてしまう……!
『人間! ああもう』
もじゃもじゃふわふわの獣は再びしがみつき、アルマの腕に前足を添えた。
降れたところが少しだけ温かくなる。
だが、痛みは全く減ってくれなかった。
「獣! ちっとも効いていないではないか。自称・神獣最強ではなかったのか!?」
『うっせえ! あいつは外来種で、次元を超えた分、神獣よりだけちょっと力が強いんだよ! 俺様の力がほんのちょっとだけ追いつかないんだよ、失礼な!』
「うう」
『あ、すまん』
あまりの激痛に意識が一瞬飛びかける。
だがアルマはなんとか気力で立ち上がった。
「わ、私は大丈夫です。ですからこの事態の収拾に向かってくださいっ」
「ち。武器を忘れちゃったよ。でもこいつはちょっと……攻撃は厳しいな」
「ロランド!」
ロランドの声が遠ざかる。
「ロランド様!」
「まあ。これでも人殺しだけは上手いから。神殺しはまずは見て覚えるよ。じゃあね、アルマ。帰ったら結婚しよう」
「ロランド!」
あはははは。
闇に血の臭いが溶け込んでいく。
そこに、スヴェントヴィトが吠えた。
吹き付け風と白い影に向かって。これまでになく大きな声で。
「ぐおおおおおおおう!!!!」
風がぴたりと止まる。
同時に腕の血が逆流した。指先がしびれながら、温かさを取り戻していく。
ふさり。そこに温かいしっぽが腕に掛かる。
いつも大切に撫でて艶々になっているはずの、ふさふさのしっぽ。
「スヴェン様!」
アルマは思わずしっぽに縋り付いた。
一方で、妨害を受けた白い影は不機嫌に空気を震わせていた。
『獣。その虫が体に付けている手。その手は私のものだ。返してもらおう』
『違う。この手はアルマのもの。お前には渡さん』
『いいや、それはアキのもの。つまりは私のもの。私の元に還されてしかるべきものだろう。アキのペットの分際で偉そうに』
『彼女の優しさを愛と思い込んで、まとわりついていただけのお前に言われたくないわっ』
アキ。それはどうやら女神の名前らしい。
そして自分の腕。獣たちを癒してしまうこの手には、何やら曰くがありそうだ。
不安が押しよせて来る。アルマはぎゅっと自分の腕を抱え込んだ。
彼のふさふさのしっぽと一緒に。
横で気ぜわし気なエルマンの声がする。
「アルマ・モリメント。大丈夫か」
「ええ。スヴェン様が守って下さっています」
「……それはあくまでしっぽだが。シマルグル本体はその先にいる」
「しっぽも! スヴェン様です!」
ふさふさのもふもふで。
抱いていると温かくて、ほっとして。
スヴェントヴィトの本当の姿は、このしっぽなのではないかと思う時すらある。
『では、その人間はお前のものか? 私を貶めるというのなら、その姿はなんだ。このいかがわしい闇蟲の中で人間を飼っているだけではないか。本来なら人は天の下で暮らすものだ。天の獣であったお前、あえて光の生き物から光を奪うとはな。それに人間からお前のひどい匂いがするぞ? ああ、臭いな。獣の臭いだ……私の嫌いなものだ』
『ふん。これは私と共にいたいと言うから置いてやっているのだ! お前にどうこう言われる筋合いはないわ!』
―———彼が威嚇をするたびに。
しっぽがぴんと伸び。
ふるふると震える。
その動揺が、何度もアルマの腕の中に伝わった。
彼女が大切だ。
彼女が家に帰りたい気持ちも知っている。
だけど傍にいて欲しい。
彼の葛藤を正直に伝えてくれるしっぽ。
これはなんて可愛いのだろう。
ふわふわの毛が小刻みに震える度に、アルマは彼を愛しいと思った。
温かい彼の気持ちを、愛しいと思った。
『人間……』
「なんて顔をしているのだ。私の中の闇神が胸を! もがっ」
『お前、面白いけどさ。胸を押さえている場合じゃねえぞ』
「肩に乗るな! 指を突っ込むな! 毛が口に入るではないか!」
ヴォーロスがエルマンの口を塞ぎながら、アルマの様子に戸惑っている。
スヴェントヴィトは前足で床を鳴らした。
『とにかく貴様は家に帰れ! それか他の神らを追って行け! ただの来訪神の癖に私の世界にいちいち干渉しおって!』
『仲間? あんなやつと一緒にするな。私の側にあるべきはアキだけだ……それ以外は要らない』
『仲間』
スヴェントヴィトは再度吠える。
重苦しい空気が、少し軽くなった。
『虫。腕を寄越せ』
一方で気分を害した白い影――――男神はアルマを注視した。。
アルマは肌が粟立つ。汗が止まらない。
痛い。
再び腕がひたすらキリキリと締め付けられ、ちぎれそうだ。
『その人間の手にアキがいる。アキの欠片は全て私のもの。他の存在に渡してなるものか。返せ!』
「アルマ・モリメント!」
スヴェントヴィトが反撃をしようと体制を取った瞬間。
白い手がぐんぐんと延びて、アルマに迫った。
暗闇に一閃の白。
恐怖の白。
唯一見えるそれが、思考を止める。その前に。
「げほっ」
エルマンのくぐもり声が聞こえた。
温かい。血の臭い。ロランドのいつもまとわりつかせている臭い。
だがこれは、エルマンの血だ。
頬にぴっと温かい何かが飛ぶ。
ひざ元に、想像よりも大きな男性の体が倒れ込んできた。
手のひらに温かい血の温もりを感じ。体全体が急激に冷えていく。
鼻腔を刺激する。
強烈に腐臭を放つ、血の臭い。
―———これは、あの時と同じ?
アルマの脳裏に、ここに来る前の出来事が蘇る。
村の疫病。酷く独特な臭い血を吐いて死んでいく友人たち。「血を浴びてはならない」と放り込まれた納屋。
ようやく終息して、真っ先に村の外に出稼ぎにいこうとした母が掛かった疫病と同じ。
いや、まさか。
スヴェントヴィトは唸りながら教えてくれる。
『あいつは疫病の神だ。神の中でも嫌われていてな。人が大切な人を病で失くす姿を楽しんでいた。最近は何百年も引きこもっていたのに……たまに女神のかけら探しに降りてきては、疫病を流行らせる』
「エルマン様ー!」
『人間!』
『『アルマ!』』
ヴォーロスが弾き飛ばされる音がする。
むきゅ! きゅん! チュっ!
次々と弾き飛ばされる獣たちの悲鳴。
アルマは悔しかった。足がすくむばかりで何もできない。
思わず目の前に向かって叫んでしまう。
「なんで見えないの!? なんで暗闇なの! これじゃあ私を守ろうとしてくれる皆が見えないよ! 動けないよ! 闇神、どうして貴女はこんなに暗いの!」
肩に飛んできたパトリムパスが、アルマの服に捕まって威嚇する。
彼女が振りまく花の香りがきつくなる。
「ぢゅううううううううう」
『うっとうしい。アキはお前らのものじゃない。私の、私のための……』
アルマの腕に白いぼんやりとした腕が伸びると、パトリムパスがガリっと噛み付いた。
もう片方の手が何かを掴む。軽くなる肩。
「ぢ、ぢゅ」
『獣ごときが本物の神に勝てると思うなよ』
パトリムパス!
「やめて! パトリムパスを放して!」
アルマは必死に白い腕を掴んだ。
そしてはっとした。
―———この腕は骨だ。
『っ!』
ぴしぴし。白い骨のアルマが掴んだ部分がもろくヒビが入っていく。
『いいわよ! アルマそのまま握りつぶしちゃいなさい!』
「パトリムパス!」
『アキ……私を否定するのか』
小さな獣の応援。呆然とする白い影を無視してアルマは必死に握りしめた。
白い腕はボロボロに崩れ落ちていく。
肩に再び重みが戻る。
ぺちぺちと肩を叩いてくれるしっぽ。
「やった!」
『やるじゃないアルマ!』
自分も何か役に立てた!
アルマは嬉しかった。
一方で小さな低い声は、動揺を隠せない。
『なぜだ。アキ』
『アルマに否定をされたからだ』
スヴェントヴィトが言うと、また大量の羽毛がアルマの周囲に飛び散るのを感じる。
ぐるるるるると、唸り声を上げた
『闇神は人の心の闇が好きだ。だが、お前はとうに人すら止めてしまっている。闇神にすら嫌われたのなら、他の神のところへ帰るんだな』
『私は死んではいない! 私は神だ! より力があるからお前らを支配してやった存在だぞ! いったい私をなんだと』
『生きる屍だ。時折影響を及ぼすくらいなら自然の範疇だったものを……私を怒らすなよ』
ぶわり。肌に感じる羽毛の感触が、一気に増えた。
やがてそれは。
白い影を黒く覆いつくしていく。
もがき小さくなっていく影。
『たかが闇蟲が、なぜ私に逆らえる!』
『いいや。それはもはや蟲じゃない。あいつに体をもらって「神」になった闇神だ』
『……!? なぜ、アキが』
『なぜとお前が言うか? あいつは本当にお人よしだった。我らが捨ておいた人間のために立ち上がるほどのな。おかげで私も付き合う羽目になった』
アルマのようにな、とスヴェントヴィトは付け加える。
すでに羽毛に埋もれきった固まりからは、既に声は聞こえない。
『あいつが最期に助けようとしたのがこの闇だ。お前はどうして気が付かない。闇はただの暗いだけじゃない。生命が芽吹く苗床だ。まるで彼女の胎内にいるかのように』
スヴェントヴィトがぐおうと吠えると、影は搔き消えてしまった。
「消えた……?」
『いや、力を闇神に奪われただけだ。やつはまたやってくるだろう』
「は、それよりもエルマン様が!」
「大丈夫だよ。獣たちがみんなで寄ってたかって死にかけのエルマンを治している。あいつは運が良いよね。アルマが前に作った小物を身に着けていたようだから。多少は効果があったみたいだ」
闇の中からロランドの足音が聞こえてくる。
彼はずっと大きなしっぽを抱きしめていたアルマの手を握り、「ああ、血が戻ったね」とホッとしていた。
暗闇の中で、そっとアルマの手を撫でる手。
父親のそれよりも、ずっと大きな男の人の手だ。
剣を握るせいか、細いけれどごつごつ節くれだった指。それがアルマの指を一本ずつ触っていく。
手の形をしっかり確認するかのように。
一方で、アルマは気になった。
ロランドの手が冷たい。
これではまるで―――――。
『『アルマ、手を振り払え!!』』
「え?」
『人間!』
「うぷっ」
アルマの体を、獣たちが集まって覆う。
特にモコシのお腹が顔を覆って窒息しそうだ。
大量の毛皮の盾に、彼はあははと調子はずれに笑った。
「さっきね。疫神がどうしてもって言うから、少し体を貸してやったんだ」
「え……」
『数寄モノにも限度があるぞ人間!』
「なかなか面白いよね。彼。シマルグルと同じ引きこもりで」
男神を?
ロランドが?
顔中をたくさんの腹毛で圧迫されたアルマは、混乱していた。
彼はどこかに向かって独り言を呟く。
「ああ。世界を滅ぼしたくなる気持ちも分かるよ。本当に彼は絶望している。ふふ、面白いね」
ちょっとだけ血に狂っていた男が。
最近はアルマの手に撫でられたくて大人しくなっていた男が。
―———突然、神を飲み込んでしまった。
呆然とするアルマの前に、スヴェントヴィトが入り込んで苦渋の声を発した。
『ロランド……お前』
「大丈夫大丈夫。シマルグル、僕ほど闇神の柵の濃い人間もいないよ? ちゃんと閉じ込めていられるよ」
あはははは。
彼は笑って、アルマに笑顔を向けた。
白い輪郭が一瞬浮かび上がり、「見えた」。
とても整った美しい顔。中性的な絶世の美貌に浮かべた、歪んだ笑顔。
「闇神は面食いだからね。この顔だから、歴代のいとし子よりもよっぽど加護が強いんだ」
そうして彼は、一歩前に出た。
アルマの背中にひやりと汗が滴る。
「……ねえ、アルマ。頭を撫でてよ。僕は結構寂しがり屋みたいでね。最近ようやく分かったんだ」
だからさ。
ロランドは、獣もふもふ鎧で身動きが取れなくなったアルマの前に、膝を下ろした。
そして―――――。
「本当に付き合ってみない?」
「へ」
「今なら結構お得だよ? 僕」
男神を取り入み、邪神と化したかと思われたロランドが、唐突に本気でアルマに告白をしてきたのだ。
アルマは呆然とするほかなかった。