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第六話 獣と私としたたるけもの

 巨大な前足が去って行った。

 ズシン、ズシンと音を立てて闇の奥に消えていく。


『……満足……』

「そ、それは良かったです。素敵な肉球とお耳でした……」

『女神の手。気持ちが良い。またね人間。ついでに引きこもりのスヴェン様、またね』

『引きこもりは余計だ。帰れ』


 不機嫌なスヴェントヴィトががるる、と威嚇をすると、そこには太陽を浴びた土の匂いだけが残った。

 すっかりくたびれたアルマは座り込む。横に押し付けれた柔らかな腹毛に寄りかかって、ため息をついた。

 そっと差し出される大きなしっぽを、モミモミしながら。

 



 ほんの数刻前に唐突に現れた巨大な足は、とても柔らかい肉球でアルマを押しつぶしかけた。


 これもスヴェントヴィトの眷属だ。

 ひと見知りが強いらしいそれは、滅多に仲間の前に現れないという。

 しかし上司が地下牢で素晴らしい『もふの手』を発見し、しかもそれが上司さえ許せば《お礼》や《駆け引き》に関係なくもふもふしてくれると聞きつけ、恐る恐るやってきたのだ。

 着地地点を間違えたのは、うっかりさんな肉球だからだ。


 『もふもふして』というそれをアルマは必死に撫でた。

 それはもう必死に、肉球の上にある、ふわふわの毛に包まれた丸いお手てを撫でて差し上げるが、何せ大きい。

 爪が収納されてる一本一本の指も丁寧にさすってあげると、『次は左』と前足が差し出される。


 次は後ろの足。そして細長いしっぽ。

 さらにはもふ毛の付いた大きな三角の耳の裏を、両手でかりかりと頑張って掻いて差し上げること数刻。

 ようやく満足してくれた。

 



 もうアルマは毛だらけである。

 自分の体を見ることは出来ないが、服の中に入り込んだ毛の不快感や、指先に詰まった産毛、ちくちくする首元など、獣の毛による被害を被ったことは分かる。


 そうなるとやることはただ一つ。


「沐浴しなくちゃ」


 アルマはスヴェントヴィトに引率してもらい、神殿の奥にある沐浴場へ移動した。

 唯一、闇に塞がれずに外部と繋がるその場所へ。






 もともと神殿には神事のための沐浴場がある。

 選ばれた神官が体を清め、女神とその神獣に祈りを捧げる準備をするためだ。

 

 野良仕事の帰りに泥だらけになった体を小川で洗い流す習慣があったアルマは、なるべく毎日体を洗ってさっぱりしたかった。

 今は土にまみれることはない。

 だが毎日毛にまみれて、大変なことになっていた。


『私の毛が汚いというのか!!』

「そんなことは言っていません! ですがこれだけは譲れません! 毛まみれも唾液まみれも嫌です!」


 初めて沐浴の重要性を訴えた時にスヴェントヴィトは不機嫌になったが、問題はそこではない。

 エルマン神官が教えてくれた沐浴場は、一段下に作られた丸い浴槽で、常に水が湛えてある。

 外部から水を引いているそうだが、あらゆる外のものを妨害する闇神あんじんの闇は、なぜかその水は遮断しなかった。

 

 皇子は地下の小部屋で体を洗うので、誰もここを使わない。

 ならばアルマが使うことに何ら問題はないではないか。

 だが、なかなか沐浴を素晴らしさを理解してくれないものもいた。


「水浴びは大切です!」

『私が毛づくろいをしてやっているではないか』

「人間は舐めてどうにかなるものではないんです!」


 ああだこうだと、価値観の違いを双方で言い合った末。

 アルマは叫んだ。




「ならばスヴェン様も、私と一緒にお風呂に入ればいいんです!」




 すると、なぜかスヴェントヴィトは黙った。

 そして後ずさりの音を立て、静かにいなくなってしまったのだ。

 

 プークスクス。

 あちこちで聞こえる含み笑い。


 アルマは腕を組んで首をひねる。

 スヴェン様は獣だし、お風呂が嫌いだったのかしらと。






 ぺたぺたと素足で歩いて浴槽の縁にたどり着く。

 水に濡れた縁に膝立ちをして、温かくもないが凍えるほどでもない水に指を入れた。


「うん、いいね」

『ここからは動かんぞ』

「はい。お願いしますねスヴェン様」


 皇子や神官が来ないようにスヴェントヴィトや潜んでいる獣たちにお願いして、アルマは服を脱いだ。一応脱衣所も作ってもらったので、山と積まれた布と着替えの山の横に置く。

 着脱が簡易なものにしてもらって正解だ。アルマは数日に一度くらいは服を変えたかった。

 沐浴用の袷襟のものを肩に掛け、軽く腰で縛る。 


 スヴェントヴィトは一応見張っていてくれるはずなのだが、パトリムパス曰く「ずっと後ろを向いている」らしい。


「見たくもないって、私の体はそんなに変なのかな」

『そんなことないわよ。ちょっと小さいけど、形が良くて可愛いじゃない』

『パトリムパス! 余計なことを言うな!』


 アルマは大声をあげる獣を背中にして、沐浴用の浴槽に足を入れ――――ぶにっと柔らかい何かを踏んだ。




「ひゃっ」


 水の中から、野太い声で抗議が上がった。


『何をする人間! 失礼な! どうせ揉むなら女神の手で丁寧に揉め!』

「すみませんっ」

『まったくこれだから人間は!』


 ざばりと音を立てて、何かが浴槽からべちょべちょと這い出てくる。


 べちょり、べちょり。

 木の床にをゆったりと歩いてくるそれは、やがてアルマの足たどり着く。


「きゃあ!」

『失礼な。人間、動くなよ。立ち上がるから足を貸せ』


 それはアルマの膝に二本足が抱きついた。どうやらアルマの膝の高さらしい。

 少し硬い肉球と小さな丸い爪。濡れた毛が脛に密着する。

 したたるしずくが、足の甲に感じられた。


「わわわわわわわわ」


 ひたり。

 濡れた肉球が、太ももに延ばされる


「ひえええええ」

『人間。お前の手に届かないではないか。ちゃんと抱き上げるべきだろう。失礼な』

「も、申し訳ありません……?」

『失礼な! なぜそこで疑問系なのだ。喜べ、私の豊かな毛を味わえることを』


 この偉そうな言い方は獣たち特有の……。

 アルマは気が付くと慌ててそれの脇の下に手をやり、水を含んでずっしり重い体を持ち上げた。


 ぽちゃんぽちゃん。

 すっかり濡れてしずくがしたたる獣。


「……べっちょりですね」

『なんだ、水が気になるのか。ならこれでどうだ』


 濡れた獣は一瞬にして乾いた。

 同時にアルマの濡れた沐浴着も乾く。

 すると――――。




 ぼふん。

 とたんに腕の中のボリュームが段違いに増えた。

 腕に胸にあご下に。少し癖のあるもじゃもじゃの毛が迫ってくる。


 アルマは思わず感動する。


(すごい。もじゃもじゃのふわっふわ! スヴェント様の腹毛よりもさらに素肌にくっついて気持ちがいい!)


 しかもこの獣から漂う匂いが……実に美味しそうなのだ。

 こんがり焼いて作った包餅つつみもちのような、香ばしい匂い。

 闇の中ではお腹がすかないはずなのに、思わず餅が食べたくなるくらい。


「ふ、ふわふわ……!」

『ふっふっふ。そうだろうそうだろう』


 ぎゅ。

 アルマはふわふわもじゃもちゃの美味しそうな獣に、思わず力を入れて抱きついてしまう。

 少女の力いっぱいすらも跳ね返すふわふわな弾力。

 撫でる手にも力が入る。


 ふわもふ、ふわもふ。

 もふもふもふもふ。


 困った。

 丸いふわふわの耳が頬に当たって、これもまた気持ちが良い。

 もふもふと手を止められないアルマに、嫉妬した大きな獣が怒り出した。


『アルマ! 何を抱きついている! 私の毛皮よりもそいつが良いというのか!?』

「だ、だって……」


 心地よさだけは嘘をつけない。

 ふわふわ毛皮に差し入れた指も抜けない。


 裏切りものーとばかりの必死の声に、もじゃもじゃふわふわの獣は、アルマの胸元に抱きついて上司をあざ笑った。




『ふふん。スヴェントヴィト様。いくら貴方の姿形が優れていようとも、ここは闇神あんじんの中。毛並みに限れば、貴方は私に勝てやしません』

『なん……だと……!』

『闇神も粋な計らいをする……過去、神獣の頂点は貴方でしたが……女神の手は私の毛に夢中! これからは私の時代が来ますぞ』


 思わぬ下克上宣言だ。


「え、神獣の頂点って、スヴェン様が?」

『力は私が一番強いぞ! 天は私のものだった!』

『しかし今は闇の中。眷属しか外の世界に影響を与えることができませんからな。つまり、もふもふが最高な私の天下!』


 衝撃を受けているスヴェントヴィト。

 アルマは獣たちを関係の一面に驚きながらも、そうよね今私は毛並みしか分からないしと、もじゃもじゃふわふわした獣を抱きしめてしまう。




 ここは闇の中。

 アルマは撫で、触れ合うことしか相手が分からない。

 この世界で大切なのは外見ではない。


 重要なことは視覚以外の五感であり――――毛並みだ。

 誇る声が部屋に響く。




『そして女神の手は私のも―――』

 

 がぶり。




 誰よりも女神の手が喜ぶ毛並みを持つ獣は、高らかに勝利宣言をしようとした途端に、何かに飲み込まれた。

 気が付けば腕の中のもじゃもじゃもふもふがいない。


「スヴェン様ー!?」

『もぐもぐ……ヴォーロス。もぐもぐ。貴様の上たる存在はだれだ? もぐもぐ』

『…………すヴぇんとヴぃとさまでございます……』


 ようやくペっと吐き出されたらしい獣は、大人しくなった。






 ヴォーロスと呼ばれたアルマに介抱されてすぐに元気になった。

 そしてそもそもなぜ水の中に居たのかの説明を始める。

 彼はスヴェントヴィトの指示でとある場所に調査に行って、その帰りに到着する場所を間違えたのだと言う。

 

闇神あんじんの防御幕は厚すぎて、上手く降臨できないんですよ。本当に強すぎるこいつは、面倒というか、なんともいやはや』


 そう言って、アルマの膝に載ろうとして上司に弾かれたもじゃもじゃもふもふは、本日になってようやく訪れた理由を語った。

 神々の住処に様子を見に行っていたのだと。 


『神々(あいつら)はとうにこの世界を見放していましたよ。あの地は殆ど廃墟同然ですね。女神の家にしがみつくあいつを除いて』


 神は自然そのものの神獣とは違い、人間の営みに自主的に干渉している超越した存在だ。

 外から来た存在と言われている。

 しかし彼らは残酷で、獣よりもよほど性質が悪い。

 

 人の喜びなどどうでも良い。

 あらゆる災いをあえて地上に起こし、一部だけの人間を救うことで過剰な信仰心を集めて愉悦するのが趣味なのだ。苦しみ願う人間が自分たちを崇め、懇願するが気持ちが良いと。

 かつて彼らの主格はかつて言った。『神様ごっこ』は楽しいと。

 

 そんな神々の遊びを堪能していた彼らも、唯一の女性性であった女神が消滅ことで醒めてしまった。

 新しい刺激を求めて、殆どが異世界のどこかへ去って行ったのだ。

 そして一人の男神が残った。


 世界は神々が訪れる大昔の姿に戻り、神獣が気まぐれに生き物の営みを支える時代となっている。






 ―————この事実を人間は知らない。

 だが、神話の時代を見たあらゆる国はまだ夢を見ている。

 交渉可能だった神々と同様に、せめて神獣に干渉しようと試みては失敗しているのだ。

 獣は自然そのもの。

 人の前には姿を現すことはない。


 裏事情を聞かされも、普通の村人だったアルマには、どうしようもない。

 彼女はとりあえず、慰めろと突きだされる大きな鼻先を慰撫することしかできないからだ。

 





 そこに、コツコツコツコツとせわしないエルマンの足音が聞こえてきた。

 

「お前ら、また面倒を起こしたのか!」

『うるさいぞ人間。失礼な! 俺たちは気ままに生きているんだ。お前らに指図されるつもりはないね』


 靴を脱いだらしいエルマンは、つかつかと沐浴場のすぐ近くで座り込んでいるはずのスヴェントヴィトとヴォーロスに近づいて、クレームを付けた。

 最近天候が不良続きらしい。

 あれだけ植物の成長も悪く、各地で大雨も続いているのだそう。


「ようやく、獣どもが落ち着いたと思ったら、また災害だ。シマルグル。お前たちの機嫌は振り幅が大きすぎる」


 アルマが神獣の巫女として神殿に篭って依頼、日々撫でられ満たされた獣たちの影響で、国は過剰な豊作も奇跡もなく、穏やかな日々が過ぎていた。




 そして一時的な奇跡として、周辺国も落ち着いた。

 ただし神殿への間者は盛んで、何度も殺傷沙汰があったらしい。アルマが一生懸命もふもふしている闇の中。そこはどんな腕利きであっても、どうしても侵入できない空間なのだ。




 だが―――――。


「各国の宮廷で、アルマ・モリメントの存在が《ロランドの女》ということで話に浮上するようになったのだ」


 皇家のいかれた皇子。 

 権力紛争を血で終わらせる男。

 国境線の衝突がある度にやってきて、美しい顔を血しぶきで染め、死者の道に高笑いを響かせる恐怖の将軍。

 皇家での継承権は三番目だが、その気狂いさえなければ誰よりも皇王近いと言われていた青年。 


 そんな彼がいつの間にか、戦いを放棄したのだ。

 「血も飽きちゃった。アルマに頭を撫でてもらう方が良いや」と宣言し、国内の宮廷と関係国を騒然とさせている。 



 

 噂に流れる「アルマ」という女性の存在。

 あらゆる手段を使って、彼女を政治の場に引きずり出そうと、軍ではなく、各国の中枢が蠢き始めている。

 ロランドは苦渋を滲ませた声で言う。

 

「天候はシマルグルたちのせいではないと分かった。だが、アルマ・モリメント。世界はお前を獣を愛でるだけにはさせて……おかな……」


 ふと、黙る。

 アルマは自分の服を、エルマンの視線が辿っているように感じた。


「どうされました?」

「……その格好はどうした」

「あ、沐浴衣です。すみません! お恥ずかしい恰好を見せてしまいました!」

「けしからん! いくら闇の中とはいえ、その格好は破廉恥だ! けしから、ぶっ」




 ぽと。ぽと。

 何かがしたたり落ちる音がした。


 アルマは訊ねる。

 

「ヴォーロス様、また浴槽に入りました? したたっていますよ?」

『いいや別に。失礼な。だけど教えないでいてやるよ。俺様は優しい獣だからな』


 そう言って水の中にちゃぽんと入り直す、もじゃもじゃふわふわな獣。

 闇の中には、水音と、したたる音と、派手に倒れるエルマン神官の音が響いたのだ。

 



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