第九話 獣と私とアキ
アキという女の子の話をしようか。
彼女はある世界の普通の女の子だった。アルマと同じだね。
生家にはたくさんの動物がいて。朝から晩まで、毎日世話をするのが彼女の仕事で。それが本当に大好きだった。
どんな人にも優しくて。お人好しで。
無償の愛とは、彼女のことを指す言葉だった。
『君、ボードゲームに強いんだって? 教えてよ。新作のお菓子分けるからさ』
だから教室で虐められていた《ボク》の友人にもなってくれた。
彼女が近くにいる時は、誰もが表立って無視をしない。ものを壊さないし、悪い噂を立ててこない。
日溜まりのような存在。彼女を嫌う人間などいなかった。
ある日。《ボク》らは事故に遭った。とても大きな事故。世界が一瞬真っ白になって――――終わる。
「山の向こうで何かが爆発した」らしいが、結局原因は分からないままだ。
生き残ったのは《ボク》と彼女。そして《ボク》を虐めていたクラスメイトの三人。
見知らぬ世界で強大な力を手に入れていた。
―———代わりに。
それぞれが大きな代償を払うことになる。
《ボク》は生きる骨になっていた。外見くらいしかほめられるところがなかったせいか。最後のそれを奪われた。
彼女は腹部をなくしていた。将来は子沢山になりたいと言っていたから……なのだろうか。
もう訊ねることはできない。
やがて「神」を名乗った《ボク》や同級生三人は、各地で暴れるようになる。喪失感の代償を求めるように。
良心や常識なんて、被害者妄想に塗りつぶされたらおしまいだ。
一方で、彼女は一切の絶望をしなかった。
周囲の悪行を叱りとばしては、前向きに生きようと模索してた。
なのに《ボク》たちは。彼女の愛情が嬉しくて。見つめて欲しくて。よけいに行動を悪化させた。
そうして下界は国同士が争い疲れ、病が各地を覆う荒廃した世界に変わったのだ。
―———そんな折。
世界を統べる天の神が「いい加減にしろバカものめが」と外来者の前に初めて姿を現した。
自然の範疇を越えたと宣言して。
ここの神は神獣と呼ばれ、自然から派生した生き物だ。
「獣」というからにはすべからく動物の姿をしていて————。
『やだ、なにあれ可愛い!』
アキの心はすっかり獣たちに奪われたのだ。
その後は色々あった。
彼女が獣たちと共に大地を治すと言い出して。
仲間よりも獣を取ったことで、袂を分けて。
人間により削られた森から這い出てきた闇蟲に、「アンジー」と名をつけてかわいがり。
各地の被差別民を集めて、国を作った。
消滅しやすい蟲があちこちに体を分散して生きやすいようにと。あえて闇や傷を抱えている人間を集めたのだ。
『だって、アンジーが可哀想でしょう? せっかくこれだけの苗床があるんだもの。この子が住みやすい国にしなきゃ』
……彼女も結局、何らかの喪失感を抱えていたのだろう。
もしかしたら、誰にでも優しかったのは。
人間よりも動物の方が好きだったからかもしれない。
そして、彼女は突然死んだ。
原因は衰弱死だ。あまりにも獣たちに力を注ぎすぎたのだ。
ある日、彼女は消滅した。人間が作った大社の片隅で、『なんか疲れちゃった』と呟いて。
アンジーは暴走し、悲しみに天の神獣を飲み込んで黒い塊と化した。
結局らは至高の存在などではなかったのだ。
ただ大きな力が手に入れただけの、ただの生き物。
生き物には等しく《死》が存在する。例外などない。
それを思い知った同級生たち。
さんざん他の命を殺めたくせに、自分らの《死》に怯え、違う世界に逃げていった。
永遠の命を保証してくれる場所を求めて。
その後のことは知らない。
ただ、《ボク》は残った。自分の大切な人はアキしかいなかったから。
彼女のカケラを拾い集めては、家で思い出に浸っていた。
笑顔を何度も反芻して。
《ボク》らはアキに依存していた。
彼女の正気に依存していた同級生も。
彼女の笑顔に依存してた《ボク》も。
彼女の手の優しさを知って、離れられなくなった獣たちも。
彼女が消えて。
皆の胸には大きな穴があいて。
残された地上には、闇蟲の闇しか残らない。
『なんで見ているだけで終わっちゃったのさ。死んだら思い出しか残らないよ』
『自信がなかったんだ』
『馬鹿だねえ』
『……ならばロランド。君は自信があるのか』
『自信ならそもそも存在しないね。自分がないのに信じるなんて不可能だ?』
『……そうだな』
『でもさあ。まあ、これから君がいるし。君を多少は信じるよ。受け入れちゃったものはしょうがないしね。欲しいものもできたし。それで良くない?』
『……そういうものかな』
『そういうものさ』
ああ、そうだ。
アルマがこの闇に入ったきっかけの盗難騒ぎだけど。
アキの櫛。
あれは元々闇蟲の影響で男神の目から隠されていたんだ。だけど、闇蟲が女神の手に気を取られている隙に、隣国の間者に盗まれた。
存在に気がついた《ボク》は、その間者の国の王都を疫病で全滅させたようでね。
おかげで各国が警戒して今のうちに包囲網ができちゃって。
————ああ。
エルマンが神獣に言っていた「お前らが何かやらかした」発言ね。
つまりは《ボク》のせいだったよ。
周辺国はこの国が神獣を使って侵略を始めたと言い出して、あらゆるいちゃもん付け放題さ。
エルマンの親父さんは大変だねえ。
辺境伯だし。今頃国境線でにらみ合いでもしているんじゃないかな。うん。
戦場に僕は呼ばれてはいるよ?
最近は頭数に入れてもらってないけど。
それよりも、アルマに撫でてもらいたくてさあ。
―———え?
僕の方はどうだって?
うーんまあ、よくある話さ。
王族の駒として生まされて、気が少し狂っているけどまあそれなり仕事して、最近仕事もしなくなった上に、人の職域に首を突っ込んだと思われて、そろそろお払い箱かなー、ということで。
以上!
◇◇◇◇
「まあ、そういうことだね。男神とシマルグルは同族嫌悪。しかも男神の方は、ずっと嫉妬していた格下の闇蟲を二度と見ることはなかったから。女神のかけらを集めながらも、その大部分が闇神だったと見誤ったってわけだ」
白く浮かび上がるロランド。
彼の話す男神たちの昔話に圧倒されたアルマは、いつの間にか再び握られていた手に気がついていなかった。
大きな男性の手。
先ほどはとても冷たかった体温が戻ってきている。
そして眼前に迫る、人生で一度も身たことのない美貌。あまりにも……圧倒されてしまう。
(久し振りに目で見たものがこれって、強烈すぎるよ!)
―———人生で見てきた男性たちの顔ときたら。
自分によく似た地味なお父さん。
己はモテると信じている隣のお兄さん。
多少の差はあれど、美醜を強烈に感じることなかった。
だけどここまで人間が、皮一枚が違うものなのか。
思わず、手が震えてしまう。
勘違いした獣たちが、張り付いたアルマの各所から抗議をする。
『人間と男神! 離せ!』
『俺たちのモフ手だぞ!』
『その人間……いや、アルマは俺たちのだ! 失礼な!』
『あら、ヴォーロスもアルマって呼ぶのね』
『失礼な! なんかそっちの方がしっくりくるんだよ!』
戸惑うアルマ。
「あ、あの、手……」
「男神を受けれいてからちょっと疲れてね」
美貌に影が差す。
一瞬「きゅーん」としっぽがしぼんでいる、おばあちゃんちのヌイを思い出した。
なんて可哀想な子。
「大変ですね……」
『『だまされてるぞアルマ(人間)!』』
『アルマ。お前はやっぱり人間がいいのか!?』
「わっ」
大きな毛皮に押し戻される。
手が離れ、ロランドの姿も見えなくなった
毛皮から漂う草木の匂い。
目の前にスヴェントヴィトが、無理やり体をねじ込んできたようだ。
彼の頭がロランドに威嚇している一方で、アルマは力のなくしょぼんとうなだれている、後ろの大きなしっぽを掴んで訊ねた。
「スヴェン様。闇神はアキさんなのですか?」
『……いいや、アキの意識はとうに消えた。これはアキがアンジーと名を付け力を与え続けた蟲だ。羽毛を触ったことはあるだろう?』
かつて感じた、溶けて消えそうなほど繊細な羽毛の肌触り。
それはずっと獣だと思っていた。
ずっとアルマの手に触れては、離れていくシャイな子。
『アンジーに声をかけても無駄だ。意思はあるが、ひどい人見知りでな。私ですらあまり反応を返してくれない』
ロランドは立ち上がった。
「ま、そういうことで。アルマ、返事を待っているよ。気持ちの整理もあるだろうしね。そろそろシマルグルと闇神から出ても良い頃だ。いや。むしろ――――」
うん。まあいいか。
少しの沈黙の後、ロランドは話を区切る。
「僕の中のこいつがやらかしたものを片づけてくるよ」
「片づけるって」
「まあまあ。とりあえず色々すっきりすることは間違いないね! 何事も環境って大事だよ。うん。エルマンの親父さんも大喜びだろうし!」
白い陰影が消えていく。
そこに息も絶え絶えの声が後ろから聞こえてきた。
「や、やめろロランド……嫌な予感しかしない」
「エルマン様!」
「おはようエルマン! 後始末は君の仕事だよ。そう僕が決めたから。じゃ!」
あはははは!
闇に消えてく笑い声。調子外れの声色も、今度はずいぶんと明るかった。まるで何らかの迷いが吹っ切れたみたいだ。
「いったい何が――――」
「っつ」
「エルマン様!」
痛みに呻く声。
そして再び静かになったエルマンに、張り付く獣たちを降ろしたアルマは近づいた。
木の床を手で叩きながら近寄る。
すると、しっとりとした短いしっぽが手に触れた。
「モコシ様」
『アルマ。俺っちのしっぽに捕まってろ』
かるくしっぽを持つと、ペタペタと歩く獣が誘導してくれる。
後ろからはのそのそと、暗いオーラをまとわりつかせたスヴェントヴィトが付いてくる気配がする。
そうして指先に触れたのは、横たわった人の体。
思わず確認をする。全身の輪郭をペタペタ触り回った。
腕、肩、頭、顔。
さらさらの髪を後ろで軽く縛っている。少し撫でつけた前髪。確か灰色の髪だったはず。頭の形はとても良い。
ついでに鼻は高く、顔は肩幅からすると結構小顔。
もしかしなくとも、彼も相当外見が良いのではないだろうか。
(初めて会った時は、ただ冷たそうだとしか思わなかったけど)
アルマはロランドの台詞を思い出した。
(闇神は面食いだって言っていたものね)
―———そうなるとスヴェントヴィトは?
(本体に飲み込まれるほどだもの。もしかして蟲から見たら相当格好の良い獣ということかな?)
腹部、胸元。
胸元には粉々になった何かの感触がたくさんある。これが彼を即死から守ってくれたのか。
胸に耳を当てるとしっかりとした鼓動が聞こえてきた。
鼻に漂うすっきりとした果物の香り。潔癖なエルマンらしい香りだ。
うう、と呻きながら再び意識を取り戻したエルマン。
「エルマン様! 大丈夫ですか」
『俺っちたちが治したんだぞ。大丈夫に決まっているだろう。ちょっと痛みが残っているだけだ』
『誰かさんはやりすぎて、一度内蔵の位置を逆にしちゃったけどね』
『うるせえパトリムパス! 賢い俺様がそんなことするわけないだろう! とげで刺すぞ』
わいわい騒ぐ獣たち。
エルマンはアルマの助けをもらいながら上半身を起こすと、余裕なくアルマの肩を掴んで問う。
「ロランドは何と言って外に出た!?」
「エルマン様が気を失う前に行ってしまいました」
「……くそ! あいつを止めねばならん!」
だんっと大きな音を立てて起きあがる。
すると―――――。
かしゃんかしゃん。
アルマの膝元に何かが転がってきた。
拾って触るとそれは————自分が内職で作った小物だ。
ごく丸く磨かれた石。完成品は毛糸でぐるぐる巻きにされ、大社でお守りとして珍重されていると聞いたが。
「私の作った……」
「っ、それは」
『こいつさ。アルマが手作りの草鞋とか作るとさ。自分の胸元に……ぷぷっ』
『青春だよねー』
『人間基準で良い年した大人がさあ』
「黙れ獣!」
「欲しければ作りましたのに」
「チガウチガウこれはたまたまだ! たまたま持っていただけだ! いいな!」
プークスクスクス。
エルマンはあちこちで笑いだす獣たちに怒鳴りながら、ごそごそと落としたものを拾い上げていた。
そして、アルマに言う。
「アルマ・モリメント!」
「は、はい!」
「獣どもの言い訳を信じるならば、最近の天候不良や疫病の流行は、男神がやらかしたことだと分かった」
「ならば、私の村で流行した疫病は」
「残念ながら、それは自然の範疇だ。誰のせいでもない」
「……」
「私は神は信じない。神獣も信じない。だが、管理されていない自然が起こしたものを、誰かのせいにすることはできない」
大きな鼻がアルマの背中にそっと触れる。
スヴェントヴィトは疫病について謝ることはない。病だって自然の営みの一部だからだ。
だけどアルマが悲しいという気持ちには。そっと寄り添い、触れてくれる。
それで十分だ。
「しかしだ。今から起こると分かっている惨劇なら防げる。私はまだ伝えなかったが、周辺国はこの国を包囲した。特に辺境伯の領土。お前の故郷————モリメント村の山向こうに兵が集中しつつある」
「え……」
思わず周りにいるはずの獣たちを探す。
―———反応がない。
背中に張り付いた大きな鼻も、動かない。
「特にロランドが何をやらかすか分からん。私はすぐに城に戻る。しばらく戻らないが、どうかここで待っていてくれ。闇神の闇はどこよりも安全だ」
そう言って、足音を立てて去っていった。
静かになる暗闇の神殿。
アルマは固まったままの背中の鼻と、息を潜めて動かない獣たちの気配に訊ねた。
「私の村が戦火に巻き込まれようとしています。なぜ教えてくださらなかったのですか?」
『『……』』
反応がない。
それでも、アルマはじっと闇を見つ続ける。
やがて根負けした女性の声————小さなパトリムパスの返事が返ってきた。
『だってさ。もうアルマはここで暮らすんでしょう? 村もみんな豊かになって、アルマの知り合いも幸せに暮らしているでしょう? だから憂いがなくなればずっと居てくれるって思ったんだ』
でもさ、とババディガンが言う。
『アルマはまだ村に帰りたいって思ってる。俺様たちよりも、陽の下で村の畑を耕したいと思ってる』
『下手すればあの隣家のエロ男に食われちゃうよ!』
『だったらムカつくけど男神と一緒の皇子の方が良いよ! 子供産むならここで産もうよ! ね、ここに居てくれるよね!』
『この際むっつり屁理屈神官でも良い。あいつおちょくると面白いし』
『一緒に居てよアルマ』
「————だから。村がなくなってしまえば心残りがなくなると考えたのですか?」
『『……』』
無言。
それが答えだ。
アルマは静かに、後ろの鼻に声をかけた。
「スヴェン様。ここから出してください」
『アルマ。それは……』
「助けてくれとは言いません。私はここに好きでいましたから。私をここに置きたければ言うことを聞けと言うのも、きっと間違っているのでしょう」
後ろを向き、アルマは両手で鼻先をつかんだ。
そして額を鼻に押しつける。
「私は貴方を生涯の片割れにしたいほど好いています」
『な!』
思わず後ずさりをしようとする鼻先に、全身でしがみついたアルマ。
「私は貴方が見えません。知っているのは恐がりで、寂しがりやで、アキさんが好きで、私を手放したくないと思ってくださる気持ちだけ」
『もがっ。わ、私は何もお前に伝えておらん!』
「貴方の手触りが、すべて教えてくださいます」
私に添い続けたしっぽと毛皮が。
そして、貴方が緊張でぬらしている鼻が、私に動揺を伝えてくれる。
『ばればれだよスヴェン様』
『俺たちにバレバレ』
『アルマの手作りを体中に身につけてたあいつと変わらないよね』
『なんだーアルマ子供出来なくてもいいなら、スヴェン様でいいじゃん。すごい決断だな』
『それにしてもアルマの本気はすげえな。スヴェン様の口を掴んで離さねえぞ。面白れえ』
『ううううううううるさい! 何を言うお前むがっ』
「スヴェン様!」
アルマに口元をきつく締め付けたアルマは、スヴェントヴィトに懇願した。
「貴方が好きです。貴方が闇から出られないのは知っています。だから私は帰ってきます。貴方の元に。私を信じてくださいますか?」
『……』
「お願いします」
腕から抜けようと暴れていた口元は、やがて止まる。
ほっとしたアルマは、そっと手を離す。
それはようやく。
アルマが求めていた言葉を発した。
『アルマ……そもそも私は人ではない。獣だ。神が付こうが付くまいが関係ない』
「はい、存じております」
『あいつは私を愛玩対象として大切にしてくれたが、それをお前に求めているわけでもない』
「……はい」
『私は、お前の手の温もりと優しさを求めて、ここまで付き合わせた。なのにお前は許してくれる。普通の人間ならとうに気が狂うであろう闇の中に、一生共にいても良いと言ってくれる』
「……」
『私は弱い。一度知ってしまったぬくもりを忘れられず、闇神の優しさに逃げ込んだ……本当に臆病なのだ』
彼の持つ威圧感が変化する。
ふと。アルマの頬に、人の手が添えられた。
ロランドのそれよりもさらに大きな男性の手。少し乾燥したそれは、長い間閉じこもっていたからだろうか。
そして彼は、アルマの手をつかみ自分の顔を辿らせる。
しっかりと骨格と頬骨。はっきりとした目鼻立ち。そして背中の毛と同じ、少し強い、癖のある長い髪。
「必要とあらば自然に逆らっても、とは思う。だが私は獣だ。お前が構わないというのなら————良いのだな」
「ええ。スヴェン様。貴方は素敵なお腹の毛と正直なしっぽを持っていらっしゃるではありませんか。私はそれが、大好きです」
『……そうか。ありがとう、アルマ』
スヴェントヴィトの手が、大きな前足に変化した。
そしてアルマを守るように腹に入れ、闇に向かって吠えたのだ。
『アンジー! 聞こえたか! 私はもう一人ではない。私の番はここにいる! 私は、外に出るぞ!』
『『スヴェン様!』』
鳴り響く大声。
羽毛が神殿中を埋め尽くす錯覚に、アルマは陥った。