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第一話 獣と私と檻の中

「はあ、はあ、はあ」


 暗闇が全てを包み込んでいる。

 湿気を含んだひんやりとした空気は淀み、少し息苦しい。

 アルマは震える手で破られた巻きスカートをたぐり寄せ、はぎれとはぎれの端を縛った。そして石壁にもたれてずりずりと地面に座り込む。


「なんでこんなことになっちゃったのかな」


 ここに放り込まれてから、どれだけの時間がたったのだろう。

 お尻と裸足の足裏には、硬く冷たい石の感触。

 じんわりと冷えていく手足が辛い。

 闇をさまよって手探りで確認できたのは、三方を包む石の壁と、鉄格子。


「夜は真っ暗になるものだけど……いつだってルサの星たちは輝いていたし、森の輪郭だってうっすらと見えたのに」


 ここは本当に暗い。

 ほんの小指の先すらも、見通すことができない。


「私はただ、参拝に来ていただけなのに」


 じわりと涙が浮かぶ。

 そして膝を抱え込み、ひたひたと押し寄せる絶望に、小さく身を震わせていた。





 アルマは、母の病気の快癒祈願に来ていた。

 目的は王都にある、国の鎮守の大社おおやしろ

 各地から集まった、華やかな恰好をした老若男女の参拝客たちは長蛇の列を作り、その列は大社の第三門まで続いている。

 国の運営する神殿の敷地はとても広い。大社に一番近い第一から第三まで、礼拝の場にたどり着くまでに半日掛かると言われている。


「都も見てみたかったけど……お母さんが早く元気になる方が良いもの」


 アルマは太陽が出る前に安宿を出て、第二門から(第一門は神聖なので夜中地べたに泊まることはできない)続く行列に並んだ。

 田舎では星空が見えなくなる前に仕事が始まるので、全く苦にはならない。


 第二門の周辺には数々の華やかなお店が軒を並べている。

 木で組まれた店舗。鮮やかなタペストリーの店頭。店先に溢れる、色とりどりの洋服や雑貨。とても目に眩しい。

 特に綺麗な模様の髪留めには惹かれたが、アルマの手持ちは多くない。一泊でも延泊したら帰りのラバ車代すら足りなくなる。

 だからわき目もふらずに歩く。敷かれた白い砂利を踏みしめ、兵士に挨拶をし、少しずつ進んでいく行列に混ざったのだ。


 一刻、二刻。

 ようやくアルマの順番がやってきて、ご利益のあるという主神の像にたどり着く。

 巨大な像は建国にまつわる女神とその白い守護獣だった。優美な姿で笑みを浮かべる女神の横には、マルガルの姿にした神獣。ヌイに似ているが、ずっと野性味を感じる顔つきだ。

 ピンとした耳に、ふわりとした長いしっぽ。つぶらな瞳。

 実際は成人男性の背よりも高いくらいか。立派な毛皮がふわふわに広がり、神々しさを感じさせた。


 アルマは平伏し腕を交差させ、必死に祈りを捧げた。

 祈りの言葉はこの国の国民ならば、誰もが知っている。地方の社を守る地方神官たちに幼い頃から教えられるからだ。


(女神様、守護獣様。お母さんが早く元気になりますように。村のみんなに、笑顔が戻りますように)


 だがその祈りは。

 神様に届くどころか、予想もしていなかった事態を引き起こした。




「この盗人ぬすっとめ!」

「へ?」


(ついでに隣のお兄ちゃんの女癖が治りますように。村長さんの入れ歯が見つかりますように。あとあと)と、あれこれ必死に祈っていると、なぜか怖い兵士たちに囲まれていたのだ。


「あ、あの私何も」

「図々しい盗人だ」

「あんな恐ろしいことをしておきながら、純朴で何も知らなかったような顔をする」

「全然モテそうにない平凡な顔をした女が、この世で一番恐ろしいのだ」

「何かとても失礼なことを言われているような気がしますが、本当に何も知らないんです!」


 思わず反論をすると、布鎧を被った強面の男性が怒鳴る。

 手に持った槍の石突きを床に打ち付けた。


「うるさい! 盗人に発言する権利などない! お前を連行する」

「えええ!?」

「兵長! エルマン神官を呼んで参ります!」

 

 周囲の訝し気な視線を背中に受けながら、アルマは両脇を掴まれて社殿の奥の部屋に連れていかれた。


 現れたのは若い神官。綺麗な顔をしているが、とても冷たい雰囲気の男性だ。

 灰色の髪を軽く撫でつけた彼は、アルマを一瞥すると整った眉を顰めた。


「ものは? 回収できたのか?」

「いいえ、見つかりません! ですが、こやつが入って来た瞬間に消えたと警備兵が申しております! ものがものなので、大神官様に取り出していただきたく!」

「……そうか……」


 そして顎に手をやって少し考え込むと、

「大神官様にお手間をかけるわけにはいかない。この娘は闇牢に放り込む。私が牢の鍵を開けるから運ぶんだ」

 と、指示を出した。


 なぜか動揺する兵士たち。


「闇牢、ですか?」

「私の指示が聞けないとでも?」

「い、いえ!」


 兵士たちは慌てて礼を取った。そしてアルマの両脇を掴み、地下深くの真っ暗なここに連行したのだ。


「なんで! 出してよ! 私は何もやっていない!」

 

 去っていく兵士と神官の足音に向かって、思いつく限りの罵倒をしていたが、やがて微かな光も見えなくなり、声も枯れ果て力も尽きた。

 今はここでじっとうずくまっているほかない。

 体力を温存して、チャンスを待つのだ。


 助けというものが、あるならば。 






 ―———そして時だけが過ぎさっていく。


「あー。あー。あー。私は生きていますかー」


 ふと声を上げてみる。喉は震えるし音は聞こえる。

 ついでに腕を、思い切り爪でつねる。


「痛い」


 良かった。まだ生きている。それに夢の中にいるわけでもないらしい。


「暗いし、寒い……」  


 本当に真っ暗だ。天と地が分からない空間の中で、全身が少しずつ闇に溶けていく錯覚がする。

 全ての感覚が消えていく。

 このまま狂ってしまうのだろうか。それとも、狂うよりも先に、餓死してしまうのだろうか。

 なぜかお腹は空いていないが、押し寄せて来る絶望に耐え切れず、思わず意味なく宙を掴む。




 するとふと――――指先に柔らかい感触が当たった。 


 毛皮だ。


 もう一回手を伸ばすと、そこには毛皮が置いてあった。

 恐る恐る梳くと柔らかくて温かい。

 初めて得た優しい感触に、底に落ちかけていた意識が浮上し始める。


「はあ……」


 思わずため息を吐いた。

 それはとても柔かく、素晴らしく心地の良い感触だったのだ。

 毛皮にしては少し油分が多いのか、少し強いが、しっとりふかふかの肌触り。

 思わず鼻を近づける。完成したてのせいか少し獣臭いが、枯草の香りが心地よい。心からホッとする。


 ああそうだ、この感触だ。

 祖母の家にいたヌイ。あの子の毛に近い。


 「ハク」と名付けられた白くて大きかったあの子は元気だろうか。

 当時は母も元気で、家族みんなで毎日畑に出て働いていた。

 小さな家に家族五人。ふかふかの藁布団に、ふかふかの畑。作物は黄金色に実り、アルマの世界を緑と黄金に染めていた。そして青い空と村人の笑顔。

 

 毛皮を触る度に優しい記憶が蘇る。

 アルマはその思い出をなぞるように、毛皮をそっと両手でさすり続けた。

 

(ああ、温かい)


 緊張と恐怖に堅くなっていた指に、温かい血が急激に流れ込んでいくのを感じる。

 心地よいしびれと安堵。

 何度も繰り返し撫で、長い毛足に指を通していると、巨大な足の付け根らしきところに突き当たった。


 —————足。


 思わず手を止める。

 そこに恐ろしい音が、頭の上から降ってきた。

 

「ぐるるるるるる……」 


 毛皮の獣臭さが増す。

 ―———闇の中には、獣がいた。





 低い唸り声に首を上げるが当然何も見えない。

 だが、音は確実に大きくなり―――――私の顔に生温かい吐息を吹きかけた。

 微かな獣臭と、枯草の香りが入り交じった不思議な匂いが鼻に入る。


「ぐるる……」


 ソレは濡れた大きな鼻先を頬に当ててくる。冷たい鼻。

 巡っていた血が一気に下がり、全身が硬直し、頭が真っ白になる。


「は、は、は」


 呼吸が何度も止まりかける。

 再びドクドクと全身を巡る血の音。

 増していく激しい鼓動に世界が埋め尽くされる。


 怖い。

 だけど逃げられない。

 逃げたところで何にぶつかるのかも分からない。平衡感覚すらもすでにない。


 それに—————この暗闇の中で唯一手に出来た温かさを、自分の正気を保ってくれる存在を、どうしても手放したくなかったのだ。

 





 ソレはフンフンと、毛皮から手を離さない人間の全身を嗅いでいく。


 食べる肉が柔らかいか確認をしているのだろうか。アルマの胸元や腹にも、頭を押し付けていく。

 鼻は長い。どうやら熊ではないようだ。

 ……だが、肉食獣である可能性は高い。


 あちこち破れた衣服から露出した肌に、顔の密集した毛が擦り付けられ度に、アルマは震えた。

 

 そして鼻は上に戻り、べろりと顔を舐められる。

 あの兵士に切られ少し短くなった髪。引きずられてついたこめかみの傷。小さくも大きくもない鼻に平凡な作りの顔と、順々に舐められていく。

 

 輪郭をたどるように舐められている間は、まだ余裕があった。

 しかし首にひやりとした牙を感じると、それこそ恐れていた事態が起きた。

 かぷりと、頭を丸ごと銜えられたのだ。


 首から上がぬめる空間に包まれた。

(食べられてしまう!)

 必死に目をつぶるが、暗闇は変わらない。


 そして大きな牙らしきものが首に刺さり―――――甘噛みをされた。




「へ?」


 ひやっとした空気を感じ、頭が解放されたと分かった。

 そのままソレは、カミカミと、軽く私の首の側面、肩、顔や頭にと、甘噛みを繰り返す。

 呆然と唾液まみれになるアルマ。


『娘、その手を止めるな』


 ふと鼓膜に届くような音ではなく、頭の中に直接響くような低音が響いた。


「しゃべった!?」

『声ではない。お前の心に、直接話しかけている』

「あ、貴方は誰ですか?」

『……さあな。私にまとわりついている闇神あんじんのせいで、私の記憶のあちこちに虫食いが起きている』

 

 闇神あんじん

 聞きなれない単語にアルマは戸惑うと、獣は再度アルマの顔をペロリと舐めた。


『先日からうるさい虫が入って来たかと思って放置していたが……心の悪いものではないようだ。むしろ白い……いやそれよりも、お前の手はとても心地がよい。もっと私の体を撫でるが良い』

「あ、はいっ」


 圧倒的な大きな存在を前に、アルマが断れるはずがない。

 全身で抱きついて必死に撫でる。

 体をたどり肩甲骨、首、腹、耳と撫でていく。

 耳はアルマの手のひら二つ分よりも大きく、三角形でふわふわの毛に覆われていた。とても気持ちがいい。もみもみと優しくもむと、『もっとやれ』とうっとりと命令された。


(これはヌイ—————?)


 手が感じた輪郭を思い浮かべると、祖母の家のハクを思い出す。

 それにしても大きすぎるヌイだと考えながら手を滑らせていると、背中をふさふさとしたしっぽが叩いた。


『手を抜くな』

「はい!」


 慌てて必死に表面を撫でていると、ふと。


 ―————強い血の匂いが鼻腔を刺激した。





「あれえ、シマルグル。いつの間に、女の子を囲うなんて良い御身分になったの」


 カツカツと硬い靴底の音が聞こえる。

 ランタンは持っていないようで、姿は分からない。


『またたくさん人を殺してきたなロランド』

「ああ、匂う? あはははは。ちょっとお父様にお願いされて宰相とその家族をね。腹黒いからか血もいささか臭くてさ。少しでも発言権を持つとこれだから、権力って大変だよねえ」


 とても陽気な男性の声。だけど言っている内容が物騒すぎる。

 アルマは思わず獣の体にしがみついた。


「おや珍しい。本当にシマルグルはその子が気に入ったようだね。それにしても……いい血の匂いがする」

『手を出すな。お前の声には本気しかない』

「なんだい。ちょっと腹を裂くくらいいいじゃないか。城では『血濡れの皇子』なんて呼ばれているけど、別に血に濡れたいんじゃなくて、血の匂いを嗅ぎたいだけなんだから。それにお前の恩恵とやらで、修理できるだろう? ちょちょいとさ」

『娘が怯えているからだ』

「……ふーん」


 しばらく男は黙っていたが、楽しそうに「まあ、いいか」と靴音を立てた。


「たまには闇神あんじんの暗闇に浸ってないと、調子出ないんだよね。本当にここは暗くて……安心する」


 小さく扉が開く音がする。

 どうやら、牢の近くには彼の休憩室があるようだ。

 

 カツ、っと足音が止まる。


「あ、そうそう。ねえ、君。名前は?」

「ア、アルマです!」

「うん、アルマ。アルマね。分かった。ようこそ闇の中へ。僕は昼寝の時間だからいきさつは後で聞くけど、とりあえずよろしくね。じゃ」

「あの! 出していただけないのですか?」

「なんで?」


 ロランドは言っている意味が分からない、と呟いた。 


「君は夜に選ばれたんだ。もっと胸を張ると良いよ。なあ、シマルグル」

『……幸せかどうかは別だがな』

「あはは! 面白い冗談だね」


 僕は今日も幸せだなあと、調子外れの笑い声が、空間に木霊し、消えていった。



  

 アルマは『では続きを』とシマルグルと呼ばれた獣にせかされ、クンクンと匂いを嗅がれながら、必死に毛皮を手櫛で梳き始める。




 世界は暗闇のままだった。

 

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