本郷三丁目
初めて行ったので若干テンションが上がったためにしたことです。
僕たちの様な中流以下の男女一対がおしゃれで名高い東京メトロ線池袋から四つ目の駅本郷三丁目に来た理由はとてもシンプルな「おしゃれで、しかもプロポーズを受け入れやすい状況を僕が作り、誕生日の彼女のために僕が彼女に結婚を申込みたいから」からだ。
それにしても、美奈子はここに来るまでに様々な不満を僕に言ってきていた。普段僕らがこんなところに来る事なんてなかったのだ、まあ何かしらの疑問を持つということもあるだろうとは思う。
「おい、お前何ひとりで恍惚とした顔してんだ?何企んでんだ?自分の身の丈を明らかに逸脱してんだぞ。何する気だ?恥ずかしさで殺す気か?それとも死ぬ気か?ひとりで死ねよ。心中なんて私は一回も望んでないぞ。誕生日だぞ。どうすんだ?」
地下鉄メトロはひと駅ひと駅の感覚が長い。そのため美奈子はその間を利用して、僕に執拗に問い詰めてくる。というか、二人とも初めての地下鉄メトロだから、彼女も不安なのかもしれない。ただ、僕のほうがはるかに不安だった。いつもの調子で彼女が話しかけてきたとしても、僕にだってそれをうまく返すような余裕は無い。車両の中で、僕たちふたりは地下鉄の放つオシャレ感に恐縮しまくりで、彼女は不安でいつもよりも沢山言葉を話したし、僕は僕で、四駅目の本郷三丁目があまりに遠くて、画面表示の次の駅までの二分間がすごく長く感じた。三十倍くらいには感じた。
彼女の問いに対して僕は大体「まあまあ」で済ませていたら、美奈子は「お前は鶴の水差し人形か何かか?」と言ってきた。「誰が永久機関だ?」いつもならそう返せるのに、その時は意味が分からず、ヘラヘラっと笑ってしまって、美奈子にぐーで殴られた。痛い。
ただ、それで僕も少し平常を取り戻すことができた。彼女のぐーがいつもよりも強くて「ああ、彼女も緊張しているのだ」そう思ったからだ。彼女のぐーはいつもは痛くないのだ。
それにしても遠い。あまりの遠さに僕はてっきり時間は停止していたのかと勘違いしていた。それくらい本郷三丁目というのは遠い。気持ちの問題もあるだろうけど、それでも遠い。
しかしやっとそんな僕の想いも終わる。時間はいつも進んでいるのだ。本郷三丁目に到着する。僕は、
「ミナ、降りるよ」子声でそう言った。
「どこ、ここ?」なぜだか知らないけど、彼女も小声になる。
人生で初めての本郷三丁目。そこで降りるおのぼりの二人。ただ今日は特別。僕はプロポーズしたいし、それを成功させたい。願わくば、今日プロポーズする全ての人間が成功して欲しい。今日は世界的にそういう日であってほしい。
美奈子の手を引いて地下鉄のホームに降りる。「どこだ。なんだここ?」後ろから、彼女の声が聞こえる。
散々歩き回って苦労してやっと見つけたおしゃれな感じのお食事処の店で、僕は自分の人生で最大級で極めつけの自分の失敗に気がついた。
「なあ、お前さあ、そろそろ教えてくれない?」
彼女は、腹を満たされて少し落ち着いたのか?先ほどよりは優しげな声のトーンだった。怒っている人間の気持ちを落ち着かせるのは、やはり食なんだな、と僕は納得する。しかし、本当はそれどころでもないのだ。
「いや、なんでっていうか・・・」僕は彼女への返答に窮した。
「お前みたいのが、こんなおしゃれな店に興味あるわけないじゃん。私の料理いつも狂ったみたいに「うめー、うめー」って言ってるお前がさ今日はどうしたの?」彼女は彼女なりに何かを感じているのかもしれない。言葉遣いも気持ち徐々にやさしくなっている気がする。
「う、うん、あのさ・・・・」
「なにか、あったの?」
「僕だってさ、男でさ、それで、あのさ・・・」どうすればいい。今日この日のために買った給料三ヶ月分のアレを忘れたことをどう説明すればいい。
「私たち、今日で付き合ってどれくらい?」美奈子の首がしだれ桜のようにしなだれた。
「あのさ、僕だってさ、あれなわけだよ。食べ物の美味しいところに行きたいくらいの感情はあるんだよ」どうすればいいのか?指輪を忘れるなんて、それってどうすればいいのだ?
「・・・」彼女は黙って僕を見つめてくる。どうしよう。本当にどうしよう。
「ででで・・・」
「星の?」
「違うよ、出よう。とにかく一旦出よう」
「はあ?」
とにかく、このままでは絶対にダメだと思ったので、僕は一旦店を出ることにした。このままでは、僕は狂ってしまう。発狂してしまう。
「なあ、結局ここにお前何しに来たんだよ?」彼女の言葉は以前のモノに戻った。あるいは以前より過激になった。その変化に僕は僕でうろたえている。
「・・・美味しい食べ物を食べたくなったんだよ」味なんてそんなのわからなかった。
「ころすぞお前、ココにきた理由だよ」殺すとか言われてしまった。悲しい。すごく悲しい。
彼女は彼女なりに焦らされて結局肩透かしされたのだから、その気持ちもわかるけど、それでも殺されるなんて、そんな必要あるだろうか?
「もう帰るぞ、ばかやろう」
僕としてもそうなった原因は己の落ち度であるために、強く言えない。とにかく泣きそうだった。
「おい、駅どっちだよ?」プリプリして先を歩いている彼女を見ると、やっぱりどうにかして今日のうちに結婚を申し込んでおくべきだったと思える。しかし、どうして僕はこうなのだろうか?ここ一番でこうだ。トラウマになりそうだ。仕事とかだってちゃんと最後に確認作業しているし、今までそんなことで失敗したことなんてないのに、どうしてここでそんな目に会う必要があるのか?しかも人生の中でおそらく一番か二番目に大切なこの場面でこんなことになるなんて、そんなことあるのだろうか?ああ、考えすぎだ、既にトラウマになっているのかもしれない、これで美奈子と別れることになったとしたら、絶対に一生ものの・・・・
「おいっ!!」
「はは、はい!?」
「お前聞いてたか!?」
「なんでしょうか?聞いてました。なんでしょうか?絶対に聞いてました」
すいません。何も聞いてませんでした。すいません。
「駅はどっちだっつってんだ」
「駅、駅ね、うん駅・・・」そう言った次の瞬間彼女の指が僕の目に突っ込まれた。
「ぎゃあああああああ!!」
「駅どっちだ。お前聞いてなかっただろ!」
「何すんだお前、イカレてんのか?指を目に突っ込む症候群か?頭がおかしいのか?頭がわたあめか!!」目を抑えたことで、情報が遮断されたおかげで僕はそういう乱暴な言葉を発していた。
「駅、どっちだ?」彼女は最前からそのことしか言っていない。
「なんだよ、駅くらい簡単に見つかるだろ?」
「私が知るわけねえだろ。貴様が私をここまで連れてきたんだから」その通りだ。まったくそのとおりだ。でも目を潰すことはない。絶対にそんな必要ない。
「はいはいはい、分かりましたよ。今・・・」今、家に帰ったらもしかしたら、僕たちは別れることになるかもしれない。そうなってほしくはないけど、彼女の怒りを思うとそうなるのも仕方のないことであるように思える。だって、今現在の僕たちはこんなに険悪だし、僕は男としての責務を果たしていないし、その理由は確かに僕のせいだけども、それでも目を潰すなんてそんなことある必要ないし、目を潰されたら僕は仕事もできなくなるし、仕事ができないと生活面で暮らせなくなるし、そうしたら自ずとふたりは別離になるだろうし、このまま帰りたくないけどそうも言ってられないし・・・・どこだここは?
「駅どっちにある?」
「わかんない、どこここ?」本当にわかんない。どこだ?目の前に百円ローソンがあるけど、でも来たときこのローソンを僕は見ただろうか?覚えていない。っていうか何も考えていなかった。美奈子に指輪を渡すことをずっと考えていたから。
「っていうかさ、まだそんなに深い時間じゃないよな?」
「なんで?」なんでいきなりそんなことを?
「なんかさ・・・暗くない?」
「確かに・・・そうだね・・・」美奈子の言った事を僕も理解した。どうしてなのかわからない。初上陸なのだからわからないのは当然なんだけど、それにしてもこのあたりは街灯も少ないし家々の明かりも無い。携帯電話を確認する。時間はまだ十時過ぎだ。それにしては暗い。建物に明かりがまったくついていない。明るいのは目の前の百円ローソンだけ。
「それどころか、誰も歩いてない・・・」
十時。二十二時。夜十時。誰も歩いていない。街灯もあまりついていない。家々は既に真っ暗だ。このへんの文化なんて知るわけないから、どうなのかわからないけどこれはおかしい。多分コレはおかしいんじゃないだろうか?
「電話、ミナ、携帯ちょっと見てみて」
「見てる、既に」
「どう?」
「どうってなんだ?」僕はその言葉に直感的にその先の言葉を理解したので、美奈子が言う前に言った。
「僕は圏外」
「私も・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・ちょっと、ローソンに入ろうか?」目の前の唯一明るい百円ローソンに二人で避難する。
店内には誰もいない。客もいなければ、店員もいない。誰ひとりいない。
「・・・・・」
「・・・・・」
僕たちふたりは黙っていた。自分たちが置かれたこの状況は全くわからないけど、とにかく不安感だけはあった。
美奈子の方を見る。彼女は無言でレジのところにあるボタンを連打していた。気持ちはわかる。ただ・・・多分無意味であることも僕にはわかっていた。
僕は一つ思いついたことがあったので、美奈子をそのままに店内のあるコーナーに向かった。
その後どれほどボタンを押しても叫んでも、一向に誰も存在しないローソンを僕たちはあとにした。僕がレジにお金をおいているのを見て美奈子は、
「そんなことする必要ある?」そう聞いてきた。
「まあ無いよりはあるんじゃないの?」僕はそう答えた。
ローソンから出る。
改めて携帯を確認する、しかし依然として圏外だった。ただ時間は既に二十三時を回っていた。
「何?どういうこと?」
「さあ、わからない」そう言ってミナにペットボトルを渡す。さっきのコンビニで買ったやつだ。
「お前の仕込み?」
「そんなわけ無いだろ?」
「だってさ・・・」
テレビとかでそういうドッキリ企画をやっているのをよく二人で見ているから彼女がそう思いたい気持ちは分かった。僕だってそうだったらいいなと思っている。
話している二人の後ろでローソンの全部電気が消えた。誰もいないはずの店内のスイッチを誰が消したのか?もしくは誰も消してはいないのか?さっきまで自分達がいたコンビニの電気が消えるというのは怖いものだ。そしてこれで建物の光は全部消えた。
ミナが、僕の腕を掴む。僕も怖い。でも、
「・・・あ、あの美奈子さん。こんな時にいいですか?」
「な、何?ネタばらし?」
「いや、違うんですけど・・・」本当は結婚指輪を渡したかったのに・・・。
「なんですか?」
「今日、本当はあの店で結婚を申し込むつもりだったんです・・・」
「・・・・こんな時に・・・?そんな状況じゃ・・・」
「でも・・ですね、指輪を家に忘れてきてしまいました・・・」ミナの目を見て言った。
「・・・」
「すいません。なんかグダグダになってしまった挙句、こんなことになって・・・」
「・・・うん、いや、うん、本当にそうなんですけど・・・」
「カッコつかないんですけど、さっきローソンでこういうのがあったので、いいですか?」
「な、何が・・?」
困惑する彼女の左腕を持って、僕はそこに百円で売っていた腕輪を通した。
「・・・なにこれ?」
「指輪はさすがに無かった・・・」
「で・・・?」
「家に帰ったら間違いなく渡すよ。ただ、それまではこれでお願いします・・・」
「・・・」
しばらく自分の左腕の腕輪を見つめていた彼女は、不意に視線をあげて僕にキスしてくれた。多分それはOKの合図なのだと僕は勝手な解釈をした。
僕たちから一番遠くに見えていた街灯がフッと消えた。そして少しして僕たちから二番目に遠い街灯がフッと消えた。
僕は彼女の腰を持って体を担いだ。セメントでも担ぐみたいに。彼女は驚いていた。
「おい、私も走れるぞ。なんだどうする気だ?」
「こういう時はこうするもんでしょ?」
消える街灯がまるでお決まりのように近づいてくる。今、死ぬわけにはいかない。僕はそう思った。少なくとも今死ぬわけにはいかない。願わくば彼女も同じ気持ちでいてくれればいい。
僕は彼女を担いでそれと反対方向に走った。ドコに向かっているのか?ソレはわからない。ただとにかく死ぬわけにはいかない。それに彼女のことを失うわけにもいかない。
あの暗闇にもし飲まれたとしても死なないならいい。彼女を失わいないで済むのであればいい。しかし確証は無い。だから僕は走った。今彼女はどう思っているのだろう。何を考えているのだろう?それをいつか僕は彼女に聞かないといけない。彼女は重かったけど、心は少し軽くなった。
一人だと辛いことがある。どうにもならない程辛いことがある。もしかしてそれは世界で一番辛いことかもしれない。でも意外と、二人だったら乗り切れることかもしれない。
「コウジ、あっちに月が見えるよ」担がれた体勢で器用に右を見ながら彼女は言う。
「分かった!」僕はその方向に曲がった。
確かにビルのあいだにときたま半月が見えた。
駐車場側から出たのが悪いのだろうか?