ー伍ー
今日は仕事が休みなので、慈は朝早くからミラハウスに来ていた。食堂では澄子がみんなの朝食を作っていた。澄子の料理はプロ並みに美味しい。子どもたちはワイワイと自分たちの席に運んでいく。
「熱いから気をつけてね。…あれ、おばあちゃんがいないわ。」
院長は誰よりも早起きだった。寝坊なんて珍しい。
「私、起こしてきますね。」
「うん、お願いね。慈ちゃん…」
コンコンコン…
「おばあちゃん、朝ですよ?」
「・・・・・・」
ノックをしても返事がない。
「いつもは誰よりも早起きなのに、珍しいな。…勝手だけど失礼しますね。」
そーっとドアを開けると、机の上には大量の紙が散乱しており、院長はその上にうつ伏せになっていた。慈は驚き、院長に駆け寄る。
「おばあちゃんっ…起きてください!こんなところで寝たら体調崩します…!!」
元気といっても、80代のお年寄りだ。慈は焦っていた。ちょっとしたことが命取りになることもあるからだ。慈は院長に呼びかけ続けた。
「…あれ?慈ちゃん。」
「おばあちゃんっ!良かった!!」
暫くして院長が目を覚まし、慈は安堵した。
「あら?もうこんな時間…はは、歳だわねぇ…。」
愛想笑いをする院長。机を見るとたくさんの借用書がばらまかれていた。慈はポケットから茶封筒を取り出す。
「おばあちゃん、これ…先月いただいたお給料です。少ないけど使ってください。」
慈は院長に差し出す。少ないお給料の中でやりくりして貯めたお金である。少しでも孝行がしたかった。だが院長は目を細めてその手を戻した。
「ありがとう、慈ちゃんは優しい子ね。でもこれは将来のためにとっておきなさい。…大丈夫!ミラハウスは私が守りますから。」
泣き跡のある顔で、院長はにっこりと微笑んでみせた。
慈がやってくる前からミラハウスの経済状況は悪化していた。煩悩の日々…。そんなとき、院長に影が近づいた。国民からの支持率が高い"皇党"の人間だ。どこから聞きつけたのかミラハウスの経済状況を不憫に思い、金貸し業者を紹介した。乗り気ではなかったが院長はやむをえず、子どもたちを養うため借金した。お金は少しずつ返していったが、借金は何故か膨らむばかりであった。
「ばあさん、金が払えないならこの土地を売るしかないんじゃないですかー!?」
最初は比較的穏やかだった取り立ても、とうとうガラの悪いヤクザがやってくるようになってしまった。
「…お願いです。もう少しだけ待ってください。必ずお返ししますからっ!」
震えながらも必死に頭を下げる院長を、ヤクザたちは蔑んだ目で見下す。
「…その言葉、聞き飽きたんだよ!皇さんがどうしてもっておっしゃるから金貸してやったっていうのに!!」
「本当に申し訳ございませんっ…」
泣き声と罵声が交互に聞こえる。
怯える子どもたちを澄子と慈は、大丈夫、とただただ抱きしめていた。
「どうしたのー、慈ちゃん。元気のない顔してぇ。」
食べごろに赤くなったトマトを片手に慈は魂の抜けたような顔をしていたらしい。八百屋のおばちゃんの声で、はっと我に返る。
「あっ、すいません…。これ買います。」
(おつかい途中なのに何やってるんだろう)
慈は首を横に振り、気を取り戻す。
「150円ね。はい、ありがとう。」
トマトとは別に、野菜がたくさん入った袋を渡される。
「これ、売れ残りだから無料よ。よかったら食べて頂戴ね。」
「あ…ありがとうございます。」
街の人たちはミラハウスがどうなっているか知っているのだろうか。だけど、この心遣いは嬉しかった。久しぶりに楽しい気持ちになりステップを踏む。
(今日は、澄子先生にたくさん作ってもらって野菜パーティにしよっと。子どもたちの好き嫌いも直っちゃったりして。)
「おいっ、あれ…」
山の上を指差し、ざわめく人々。八百屋のおばちゃんの顔も青ざめていく。
「ねぇ、慈ちゃん…あそこって…」
慈が振り向く。山から昇る煙…。
(まさか!!)
慈は野菜を落としたのも構わず、山の方へ走っていった。
(みんなっ…お願い!!)
間違いであってほしい…。
だが、そういうわけにはいかなかった。慈がミラハウスにたどり着いた時にはもう、赤い炎が屋敷を包んでいた。