ゆりかごの唄
はじめに
この物語には、ミツコ姉さんと呼ばれる一人の女性が登場する。ミツコ姉さんは、私の従姉なのだが、実は、彼女との交流はそれほど深いものではなく、その人となりや彼女の背景にある環境や歴史などについて、それほど多くを知っている訳ではない。私が小さい頃、両親や祖母、そして多くの親戚たちとの関係の中で幾つかのドラマが繰り広げられていていたことをぼんやりと思い出す。冠婚葬祭があって、親戚が集まって食事などをしていると、いつの間にか口論のようになっていた。そこに集まった一人一人の諸事情が一編一編のドラマとなっていたのだろう。そうしたドラマの中のほんの小さな一編としてミツコ姉さんたち家族の物語は挿入されていた。だから、まだ幼かった私には、その一編の物語の中に登場するミツコ姉さんのことを認識することもできずにいたのである。だが、人の感じ方とは妙なもので、私は子供心にも、彼女の家族が何だかの心配事を抱えているということをそれとなく感じていたのだ。しかし、私が本当にその物語の渦中に引き込まれていったのはずっと後のことで、私が認識できたのは、つい最近のミツコ姉さん個人の状況に過ぎず、それ以外のことは何も知らずにいたのである。ミツコ姉さんとその家族が崩壊の危機を迎えていたであろうときも、私は、ただ単にそこに居合わせたシャイな青年であっただけで、他に何の役割を果たすこともできずにいたのだった。
ミツコ姉さんはこれまでに三度私の家を訪れているのだが、彼女はいつも絶妙のタイミングの悪さで登場する。数年前にNHKの「ちゅらさん」という朝のドラマで、食事時になると必ず主人公の家にやって来る人物の姿が描かれていたが、ミツコ姉さんの登場場面はもっと凄い。何故こんな時に、と思わず首を傾げずにはいられない。だが、そうしたミツコ姉さんの訪問にまつわるエピソードを私は今も忘れることができないのだ。ミツコ姉さんが最後に私の家を訪れてから既に十五年の歳月が流れ、私は五十路となった。ミツコ姉さんは、私よりも少なくても十歳は年上なはずだから、今はとうに還暦を超えている頃だろう。元気なのだろうか。いったい何処でどんな暮らしをしているのだろう。振り返ると、それはつい昨日の出来事のように鮮明に蘇ってくる。窓の外は雪が降っている。雪道の所々を照らす電球の黄色い灯りのように、頼りなくて、でもどこか温かい、そんなミツコ姉さんの物語。しばらくの間、私のタイムスリップにお付き合いいただきたい。
(一)
八月十五日。私の郷里では、毎年この日に成人式が行われる。仙台で学生生活を送っていた私も、その日に合わせて帰郷した。お盆の最中ということもあって、その日は、郷里を離れている者にとって年間を通じて最も参加しやすい日だった。また、真夏の開催なので晴れ着を着る必要もなく安上がりに済むというよさもあった。
町の成人式は、公民館の二階ホールで行われた。町には東と西と名の付く二つの中学校があり、そこに集まったのはそれらの中学校を卒業した者たちだった。全員が集まれば十四クラス約五百五十人の成人がごった返すことになるが、このちっぽけなホールに入り切るはずはない。ホールに並べられたパイプ椅子にも空席はない。二百五十から三百人の参加というところだろうか。式典は、決まり切った挨拶と名言名句が並べられた祝辞が続き、約一時間ほどで終了した。
その日、夕方六時から地元の三平寿司という鮨屋で三年二組の同窓会が行われることになっていた。六時までにはまだ時間があったので、私は一端家に帰ることにした。無事成人式を終えたことを母に報告しなくてはならない。午後の日差しが背中を焼き付ける。街路樹の油蝉が途切れることなく鳴き続ける。家に帰ったら着替えをして、北向きの縁側で小一時間昼寝でもするか、と早足に歩いた。
「ただいま」
ん、いつもと違う雰囲気を感じた。居間の方から母の「お帰り」という声と一緒に賑やかな笑い声が聞こえてくる。玄関に見慣れぬ靴があった。女物だがやや大きめである。お客さんか。今頃いったい誰だろう。中に入るやいなや母が、
「修、ミツコ姉さんが来てるのよ。さあさあ挨拶して」
と、私を前に押し出した。ミツコ姉さんは台所にいた。大きな花柄をあしらったノースリーブのワンピースを着ていた。露わになった両腕が逞しい。セミロングの髪を無造作に後ろに結っていた。ちょっと厚めの唇に塗った赤い口紅が妙に目立つ。
「修ちゃん、大きくなったわね。成人式なんだって」
「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」とは言ったものの、突然の来訪に正直戸惑っていた。それは母だって同じことだろう。何かと慌ただしいお盆の真っ最中に何の連絡もなく突然現れるんだもの。それでも母はそんなミツコ姉さんを最高のもてなしで接待しようとしている。
「修。ミツコ姉さん、ご馳走作ってくれたのよ。酢豚だって。おあがんなさい」
「えっ。俺はいいよ。これから同窓会があるんだ」
すると母は、
「そんなこと言わないで、おあがんなさい。ミツコ姉さんが修のために作ってくれたんだから・・・」
と譲らない。私が成人式に行っていることを母から聞いたミツコ姉さんが、私のためにご馳走を作ってくれたのだ。だから、そのご馳走を私が食べないわけにはいかない。状況を理解した私は、観念して食卓に着いた。私の母は料理上手な人だった。お盆のお墓に捧げるおはぎも母の手作りだった。鶏ガラと野菜のスープで作った母のラーメンは友達に自慢できた。そんな母の手料理を食べている私にとって、ミツコ姉さんの酢豚はどうしても口に合わなかった。野菜が固かった。酢が効き過ぎたのか、酸っぱくて鼻がつんとした。私のためにせっかく作ってくれたのに、私は酢豚を完食できなかった。御免なさい、ミツコ姉さん。酢豚を残してしまって。だけど、それはミツコ姉さんのせいではないんですよ。六時に三平鮨に行く予定があったからなんです。酢豚は確かに少し酸っぱかったけど・・・。
ミツコ姉さんは、父の姉フミ伯母さんの長女である。フミ伯母さんは福島で果物店を営む今岡金治氏のもとに嫁ぎ、二男一女を授かった。金治氏は所謂在日で戦後日本人の今岡家の養子となった後フミ伯母さんと結婚したのである。フミ伯母さんは機会をみつけては子どもたちを連れて里帰りをしていた。古いアルバムの中にミツコ姉さんとその弟の久男ちゃんが写っている白黒写真がある。ミツコ姉さんは制服を着ているので、多分中学生か高校生だろう。長い髪をお下げにしている。久男ちゃんは私の上の姉と同じ歳だから小学六年のはずだ。襟元に親指を当てて他の指を広げるポーズはその当時の流行だったのだろうか。小学一年だった私も、久男ちゃんのことはうっすらと覚えている。福島のおみやげである桃の実にかぶりついたこと。歯を使って上手に皮を剥く久男ちゃんの真似をしてみたこと。そして、二人して縁側から畑に向かって種を飛ばして遊んだこと。久男ちゃんは大きいので私よりも遠くまで飛ばしていたことを思い出す。ミツコ姉さんのことは全く覚えていない。それでも、その次に福島の人たちが私の家に来たときのことは、私も中学一年生になっていたのでよく覚えている。お爺さんか誰かの法事があったのだと思う。久男ちゃんは足の悪いフミ伯母さんのアシスタントとして参加したのだろう。あの時はミツコ姉さんは来ていなかった。足の悪いフミ伯母さんを迎えに駅のホームまで行ったのは私なのだから、それは確かなことである。久男ちゃんは高校を卒業したのかどうか分からないが、多分社会人になっていたと思う。その証拠と言っては何だが、夜に私と枕を並べて寝るときに、当時の週刊誌「平凡パンチ」を読んでいたからだ。「視るか」と私に雑誌を預け、久男ちゃんは早々に眠りに着いた。その後の私がなかなか眠りに着けなかったのは当然のことだったろう。
あの時の法事にミツコ姉さんは来ていなかった。だとすると、ミツコ姉さんが発した、「修ちゃん大きくなったわね」という言葉の意味も理解できるのである。成人式の日に突然現れたミツコ姉さんとの再会は、実は私の側から言えば、ほぼ初対面と言っていいものだったのだ。でも私としては、それ以前に写真の中のミツコ姉さんに対面しているので、そこら辺は曖昧にしたまま馴染みのお客様としてミツコ姉さんを迎え入れることができたのである。ミツコ姉さんは、お世辞にも美しいお姉さんとは言えなかった。写真に写っているミツコ姉さんは太っていたが、十数年後の実物はその写真と相違なかった。元々、父の家系の女性たちは皆太っていたので、それはそれほど不思議なことではなかった。ミツコ姉さんは間違いなくフミ伯母さんの遺伝子を引き継いでいたのである。そして、あのどちらかと言えば色黒でニキビの痕跡に悩まなければならない体質は、金治氏の側の遺伝子だったに違いない。しかし、その性格は桁外れに明るかった。久男ちゃんもそうだったが、あの人なつっこさは生来のものだろう。
「叔母さん、家の母ちゃん、車椅子に乗っているのよ。膝が痛くて、もう自分の体重を支えられないの。それなのに食欲だけは旺盛で困っちゃうわ。私も同じだけどね。やっぱり親子ね。ワハハハ」
と、屈託がない。母はそんなミツコ姉さんをやさしく受け入れていた。子どもの私には分からない何かを母は感じていたのかもしれない。お盆の十五日に何の連絡もなしに突然訪れているのだから・・・。しかしながら、私はミツコ姉さんが私のために作ってくれた酸っぱい酢豚には少しの未練も残さずに、予定されていた同窓会に足を運んだのである。
翌日は二日酔いだった。昼頃に居間に下りていくと、母がいた。
「あれ、ミツコ姉さんは?」
と訊くと、
「ミツコさん、朝一番の列車で帰ったよ。明日から仕事があるんだって」
と母。
「母さん、ミツコ姉さん、いったい何しに来たの。こんなお盆の最中に。しかも、突然に」
「そのことなんだけど・・・。ミツコさん、いろいろと大変だったらしいのよ・・・」
と、母は遅い朝食をとっている私に向かって話し始めた。
ミツコ姉さんは、あのお盆の一週間ほど前に家を飛び出していたらしい。理由は、ミツコ姉さんの結婚話が不意になったことにあった。ミツコ姉さんは元来、明るい性格で働き者だった。市民市場の中にある八百屋に勤めていて、近所のおばちゃんたちに絶大な人気を得ていた。人が困っているのを黙って見ていられない性分で、お年寄りの買い物袋をバス停まで運んであげたり、道案内を頼まれれば、目的地まで一緒に行ってあげたりもするものだから、ミツコ姉さんがいる八百屋にはお客が途絶えることなく繁盛が続いた。しかし、そんなミツコ姉さんの頑張りが仇になったのだ。その八百屋にはミツコ姉さんより二つ年上の息子がいた。しかし、彼は八百屋ご夫妻の本当の子供ではなかった。子宝に恵まれなかったご夫妻が、生まれたばかりの赤ちゃんを貰い受けて育てた子供だった。幼稚園・小学校・中学校とその子は順調に育っていったが、高校に進学するとき、書類の中に自分が養子であるという記載を見つけてしまった。その日を境に彼は両親を憎むようになり人が変わったようにグレだしたのである。学校にも行かずに夜遊びをして歩き、昼間は寝ているという生活をしばらく続けた。やがて、ヤクザな連中と付き合うようになり、警察のお世話になることも度々だった。そして、終いには家を飛び出した切り梨の礫となってしまったのである。ところが、ミツコ姉さんがその店に勤めるようになってしばらくして、その息子が突然帰ってきたのである。八百屋ご夫妻は腫れ物に触るように彼に接した。しかし、彼の過去を何も知らないミツコ姉さんは、極自然に彼に接した。それが功を奏したのか、彼は少しずつ店の仕事を手伝うようになっていったのである。息子の変化にご夫妻は喜んだ。そして、ミツコ姉さんに感謝した。後は言うまでもない。ミツコ姉さんはこれまで以上に店のために働き、息子の世話も焼いた。そして二人は八百屋ご夫妻も認める仲になった、ということなのである。そのことを知った金治氏とフミ伯母さんは黙っていることができなかった。大切な一人娘をそんなヤクザな男に嫁がせる訳にはいかない。ミツコ、お前をそんな店で働かせておく訳にはいかない、と金治氏は八百屋を辞めさせ、今後一切その息子とは会ってはいけないと釘を刺したのである。ミツコ姉さんは両親の気持ちが分からない訳でもなかった。しかし、自分の気持ちをどうしても整理することができなかった。ミツコ姉さんは、もう一度自分を見つめるためにふいに家を飛び出したのだった。北へ向かう列車に飛び乗って幾つかの街を放浪した末に、母の実家のある清沢を目指したのである。あの夜、私が成人式の後の同窓会に出かけたとき、ミツコ姉さんは母に全てを打ち明けていたのだ。母はミツコ姉さんに幾ばくかのお金を渡し、福島への帰宅を促したのだった。
お盆が過ぎると、朝夕めっきり涼しくなって過ごしやすくなってくる。家にいると食事の心配をしなくていいのが有り難い。成人式を終えたとはいっても、内面はまだ子供のままの自分がいる。突然の来訪者があったことも私の脳裏からはいつのまにか消えてしまっていた。
(二)
成人式から数年後、私は大学を卒業し地元の社会福祉施設に就職した。あれ以来ミツコ姉さんからの連絡は何もない。年賀状が届いたとかお歳暮が届いたとか、そういった種類の話も母から聞いたことはなかった。ただ一度だけ、近くに住む年の離れた従姉が、東京に行った帰りに福島の今岡家を訪ね、糖尿病を患って入院しているフミ伯母さんを見舞ったという話を聞いたことがある。金治氏が営んでいた果物店は高度経済成長の波に乗り、一時期は「金丸果物店」という大きな看板を掲げるくらいの商店に成長し、久男ちゃんも勤めていた仕事を辞め店に出るようになっていた。店の経営は順風満帆だった。ところが、近くに大手スーパーが進出するや、その経営は一気に衰退していった。金治氏は脳梗塞で右半身不随。フミ伯母さんの入院はそれに追い打ちをかけるものだった。久男ちゃんは数年前に結婚して子供もいた。しかし、その話の中にミツコ姉さんの話は一つも出てこなかった。
私は、就職して数年後、職場で知り合った現在の妻と結婚した。妻は結婚後も別の職場で仕事を続けていた。二人とも多忙な毎日を送っていたが、パートナーのいる生活は張り合いがあった。結婚したことにより親戚との交流も増え、始めの年は何かある度に二人揃って挨拶に出かけた。お盆のときは大変だった。我が家には嫁いでいった姉夫婦たちと子供たち総勢六人が訪れていた。八月十三日はみんなでお墓参りをして、その後は大宴会となるのが恒例だ。次の日は、母と私たち夫婦が母の実家の仏壇に手を合わせに向かう。そこでは、修の嫁さんが来たということで大歓待となった。母の実家は農家である。裏庭で放し飼いしていた鶏を使った煮物。生け簀で養殖していた鯉のあらい・鯉の甘煮。畑で採れたばかりの茄子・トマト・胡瓜等々がずらりとテーブルに並び、これを喰え、あれを飲めの歓待である。
「これから妻の実家に向かうから」
と暇を告げても、
「まだいいだろう」
と聞いてもらえず、ついには三人ともお酒をご馳走になり、母はそのまま泊まることにして、私たち二人は、運転していった車をそこに置いてタクシーで妻の実家に向かった。妻の実家では、兄夫婦とその子供、妹、従兄弟等が集まりここでもまた大宴会を催していた。我々が到着すると、
「遅いじゃないか。もう待ちくたびれたところだった」
と、義父。
「すみません。母の実家に挨拶に行ったのですが、なかなか帰してもらえなくて・・・」
と、私が事情を説明しようとすると、義父は、
「まあいい、まあいい。まず飲め、飲め」
とひっぱり込む。
「お父さん、まだご先祖様に挨拶していないわ」
と妻の一声に、義父は、
「はい」
と娘の言うことを聞いて私を解放した。私たち二人は、チーン、ポクポクポクと仏壇に手を合わせ終わると、集まった人たちの方に体を向け、
「皆さん、遅くなりました。いろいろとお世話になりました」
と挨拶をした。挨拶が終わらないうちに、どこからか、
「新婚さんに乾杯」
とかけ声がかかり、またしても大歓待を受けるのだった。その夜は妻の実家に泊まり、次の日は、近くにある妻の実家の本家に挨拶に行った。そこでもお酒を勧められたが、昨日の今日ということだったので、それは遠慮させてもらった。このように、結婚するということは、ただ単に二人が一緒になるということではない。お互いがお互いの家族の一員となり、親戚の一員になるということなのである。そういう訳で、その一年は親戚が増え、人と人との結びつきが豊かになることの喜びに浸ることが出来た。幸せなことだと思う。その関係を大切にしなければならないと思う。
夏が過ぎ、十月ともなれば高い山では紅葉が始まり、その紅葉は一ヶ月後には山の裾野に下りてくる。天候の変わりやすい秋。そのコントラストを楽しめるのは一年の内のほんの一瞬であると言っても言い過ぎではないと思う。みちのくの地では、紅葉の終わりを待たない内に初雪が降るということさえあるのだから。ただ、若い二人は、季節が変化することの意味をそれほど深く捉えてはいなかった。二人に与えられた時間はまだまだ沢山あった。二人は仕事をしながら、回りの人々に教えられながら、家庭というものを少しずつ育てていくことになるのだ。
施設の御用納めは十二月二十八日だが、私たちは三十一日まで勤務することにしていた。そして、年末に勤めた分を年始に休ませてもらえるように割り振りしてもらった。それでも三十一日は早番だったので早めに家に帰り、母が進めていた年越しの準備を二人して手伝うことが出来た。神棚と玄関・台所・車庫などに松を飾り鏡餅を供える。神棚には更にお膳が二膳並ぶ。お膳の主役は生ハタハタである。それを、キンキのお吸い物、根菜の煮物などが囲む。勿論、御神酒を欠かすことは出来ない。大掃除は休日に済ませてある。後は順番に風呂に入り、一年の垢を落とすばかりである。そんなとき、突然電話が鳴った。
「もしもし、叔母さん、今晩は」
語尾を跳ね上げるようなイントネーションに、母はすぐに福島のミツコ姉さんだと分かった。
「ミツコです。今、清沢駅に着いたんだけど、これから、叔母さんの家に行っていい。急で悪いんだけど・・・」
「ミツコさん。よく来たね。大丈夫。迎えに行こうか・・・」
「うん、大丈夫。一人で行ける。叔母さん、ごめんね・・・」
母は、受話器を置くと、急いで事の経緯を私たちに説明した。私たちというよりも、それはほとんど妻に対する説明だったと思う。考えてみると、私たちの結婚式には、福島からは一人も参加していない。だから、福島に従兄弟がいるくらいのことは話していても、私自身、それほど詳しい話はしていなかったかもしれないのだ。説明を聞いた妻は少しも動じなかった。むしろ、予想外の展開を楽しむかのように、
「お母さん、大丈夫よ」
と、Vサインをつくった。やがて、ピンポンと呼び鈴が鳴った。私たちは三人揃って玄関でミツコ姉さんを迎えた。ミツコ姉さんは、分厚い毛布のようなダッフルコートを着ていた。セミロングの髪を無造作に後ろに結っている。化粧は全くしていないらしく、血色を欠いた色黒の地肌が目立つ。母が、
「ミツコさん、よく来たわね。疲れたでしょ。さあさあ、上がって上がって。一緒にお食事しましょ」
と、招き入れる。私たち二人も、母と同じように歓迎のアクションを示した。ミツコ姉さんはテーブルに着くと、並べられた年越しの料理を見て、
「ごめんね。こんなときに来て・・・」
と呟いた。
「何言ってるのよ。ミツコさん、ここはあなたのお母さんの実家なのよ。何も心配しなくていいのよ」
と母が言うと、ミツコ姉さんは少しうつむき加減になったが、私の方を見て、
「修ちゃん、立派になったね。ところで、こちらは・・・」
と言うと、母が、
「家の修、今年の春に結婚したのよ。こちらは、直美さん」
と、紹介した。妻は、
「直美です。よろしくお願いします」
と挨拶した。そうしたらミツコ姉さんは、目を丸くして、
「あれえ、私ったら・・・、ごめんなさい。ちっとも知らなくて・・・。ごめんなさい」
と、何度も謝った。
「今年の年越しは、娘たち夫婦も来ないから、三人切りの年越しになるところだったけど、ミツコさんが来てくれて本当によかった。乾杯しましょ」
と、母が場を盛り上げた。そして、乾杯の後は女たち三人の話を聞きながら、私一人が酔っぱらって、紅白歌合戦を途切れ途切れに見た。目を覚ますと、「蛍の光」の合唱が流れていた。と、母と妻が台所で年越し蕎麦の準備をしていて、私とミツコ姉さんは炬燵にまるまっているのだった。私たちは、年越し蕎麦を啜りながら新年を迎えた。その夜、ミツコ姉さんは、母の部屋で枕を並べて寝た。
明くる元旦。窓の外は雪だった。私は久しぶりに寝坊した。居間に下りていくと、すでに女三人は朝食を摂っていた。改めて、素顔のミツコ姉さんを見ると、私よりも十歳くらい年上であることがわかる。私が食卓に着くと、ミツコ姉さんの話が聞こえてきた。
「私も三年前に結婚したの。赤ちゃんも出来たんだけど、お腹の中でよく育たなくて・・・。やっばり、高齢出産って、だめなんだねえ・・・。」
母と妻は、うんうん、と聞くばかりだった。
そして、ミツコ姉さんは、自分の結婚相手のことを話し始めた。数年前に従姉が今岡家を訪ねたとき、そこにはミツコ姉さんの姿はなく、ミツコ姉さんの話題すら出てこなかった。あの時は両親が病気だというのにどうしたんだろう、と不思議に思ったものだ。だが、時が過ぎるにつれて、そうした記憶も、ぼやけたものになってしまっていた。
「私、今の主人とは駆け落ちしたんです。主人には奥さんと女の子がいたんだけど・・・。だから、その時以来、実家の父や母とは一度も会っていない。弟の久男だけにはこっそり居場所を教えていたから、父と母が病気になったときには、久男から電話があったっけ。そのとき、会いに行けばよかったのに、私ったら変な意地を張ってしまって・・・。でも、いいの。今はこのままでいいの・・・」
とミツコ姉さんは涙ぐんだように見えた。母と妻は、やはり、うんうんと聞くだけだった。
すると、ミツコ姉さんは、
「実はね、家の主人、こんな仕事しているの」
と徐に一枚のパンフレットを炬燵の上に出した。
「これは、遠赤外線の家庭用サウナで、発汗作用があって、体内の老廃物を汗と一緒に出してくれるから、健康にとてもいいの。もしよかったら使ってみてくれない。お客様には、先ず使って頂いて、気に入ったら買って頂くというシステムなの」
と、私たち三人に向かって、一気に、しかも明解に話し切った。パンフレットを見てみると、それは、オレンジ色をしていて、まるでトンネルのような形をしていた。その中に、女性が仰向けになって入っている。なるほど「ポータブルの家庭用サウナ」という説明に合った写真である。でも、私はすぐに胡散臭いと思った。福島からわざわざセールスに来たというだけで、この製品はあまり売れていないということがわかる。誰だってそう思うに違いない。
「製品はちゃんとしてるのよ。ただ、テレビでは宣伝していないから、あんまり知られていないのよ。でも、これから間違いなく売れてくる製品だって言われているの。使ってみて気に合わなかったら返品していいのよ。試しに使ってみてくれると嬉しいんだけど・・・」
ミツコ姉さんが一生懸命に説明すればするほど、製品が売れていないという印象だけが残り、私たちはほとんど何も言えなくなってしまう。
「私、今日中に福島に帰らないとなんないの。それまでに決めてもらえばいいから・・・」
とミツコ姉さんは言う。その後、私たちは、ミツコ姉さんのいないところで相談した。
「ミツコ姉さん、かなり困っているみたいだね。サウナなんて家では必要ないんだけど、きっぱりと、要らない、とは言えないよね」
と私が言うと、母が、
「私もそう思うのよ。大晦日に急に来るということは、相当困っているという事じゃない。もしも、お金に困って心中でもされたら大変だわ。直美さん、どう思う」
と、妻の考えを聞いた。
「私も修さんやお母さんと同じように考えていたわ。それに、お腹の赤ちゃんを亡くしたなんてかわいそう」
と、妻はミツコ姉さんの心情を私以上に気遣っているようだった。
というわけで、「ポータブル家庭用サウナ」の購入が決まった。私たちは三人が持ち合わせている現金をかき集めてミツコ姉さんに二十万円を渡した。商品の購入というよりも、これはほとんどミツコ姉さんへの志のつもりだった。ミツコ姉さんは、早速契約書を作成した。「佐久間商事」という会社名がいかがわしい。しかし、ちゃんと住所も電話番号もある。でも、元々、それが紛い物で、騙されたっていいと思っていた。このお金でミツコ姉さんが少しでも楽になるのならそれでいいのだ。
ミツコ姉さんは、お昼の列車で福島に向かった。夕方には向こうに着くだろう。車で送って行く、と言っても、大丈夫、歩いていくと言って聞かなかった。雪の降る道を息を切らせて駅に向かったのだろう。福島を出るときも、私の家にいるときも、福島に向かうときも、ミツコ姉さんの頭の中には旦那さんのことしかなかったに違いない。私が結婚したことも知らずに、妻と母と三人切りの初めての年越しに突然入り込んできたことへの罪悪感よりも何倍も何十倍も旦那さんへの思いの方が強かったんただろう。と思う一方で、私たち三人は突然の来訪者からの開放感でいっぱいだった。そして時間が経つにつれて、「ポータブル家庭用サウナ」という機器が我が家にとって本当に必要な物なのかどうかについて考えるようになった。三人が出した結論は、要らない、ということだった。第一誰がそのサウナをいつ利用するのか。たまに誰かが利用したとしても、その姿を想像すると妙に可笑しかった。トンネルのような物に入り込んでいる自分の姿を想像するだけで可笑しかった。夜になって、そんな話をして三人で大笑いをした。そして、すぐに、契約書に記されていた電話番号に電話をしてみた。電話に出たのは旦那さんではなくミツコ姉さん本人だった。
「ミツコ姉さん。修です。あのね。あの後、よく考えたんだけど、サウナは送ってもらわなくていいよ。勿論、お支払いしたお金はそのまま受け取ってもらっていいんです。あれはミツコ姉さんと旦那さんへのご祝儀ということにしてください」
と話すと、ミツコ姉さんは、そんなことを言わずに本当に良い品物なのだから使ってみて欲しい、と言っていたが、最後には、私たちの真意が分かったらしく、
「ありがとう、修ちゃん。有り難く頂きます。本当にありがとう。助かります」
と、とても素直にお金を受け取ってくれた。降っていた雪も止み、しーんと静まりかえった夜となった。明日、一月二日は、妻の実家に新年の挨拶に出かける事になっている。母が、
「直美さん、明日は、実家のお母さんが作ってくれた小紋を着て行ったら」
と言っている。妻は、
「ええ。それじゃ、お母さん、着付けよろしくお願いします」
と、母と約束していた。
(三)
平成八年五月。私たち夫婦は結婚して満六年目を迎えようとしていた。一男一女の子供に恵まれ、今は二人とも幼稚園に通っている。そして妻直美のお腹の中では三人目の子供が誕生の時をじっと待っていた。もう予定日を一週間ほど過ぎているので、いつ生まれてもおかしくないと担当医は言っており、少しでも兆しがあるときにはすぐに病院に行くことになっていた。そして、何か変わったことがあったらすぐに職場に連絡が来ることになっていた。その日は夜勤明けで、そろそろ職場を出ようかというところに母から電話があった。
「修。直美さんいよいよみたいよ。これから実家のお父さんの車で病院に行くから、修は真っ直ぐ病院に向かって」
「うん、わかった。子供たちは」
「大丈夫よ。今し方幼稚園バスに乗っていったから」
「そうか。じゃあこれから行くから、よろしく」
と、私は車で三十分ほどの所にある病院へ向かった。お医者さんは何時生まれてもおかしくないって言ってたなあ、パパが行くまでママのお腹の中にいるんだぞ。まだ見ぬ赤ちゃんに呼びかけながら急いだ。
産婦人科病棟という所は他の病棟と比べて、何て明るく和やかな所なのだろうといつも思う。ミルクの甘い匂いを嗅ぎながら妻のいる病室へ向かった。病室のドアを小さく開けて覗いてみると、妻はベットに横たわっていて、入り口に立つ私の方を向いて、
「早かったね」
とにっこり微笑んだ。
「もう生まれたのかと思ったよ」
と言うと、妻は側に付いていた母と二人で、
「まだ大丈夫よ」
と小さな声を出して笑った。妻はとても元気だった。時折訪れる陣痛に耐えていたが、その周期が次第に短くなってくると、お医者さんから分娩室に行くように指示が出て、必要な荷物を持って分娩室に入った。私は公衆電話で妻の実家の父母に分娩室に入ったことを伝えた。幼稚園に行っていた子供たちは妻の父が車で迎えに行って、そのまま実家に預かってもらっていた。赤ちゃんが生まれたらみんなで病院に来ることになっていた。どの位待ったのだろう。そんなに長い時間ではなかったと思う。ただ一緒に待っていた母が何時になくそわそわしていて分娩室の前を行ったり来たりしていたことが思い出される。午後三時三十分、私たち夫婦の第三子が生まれた。女の子である。ナースセンターのベビーベットに入れられた我が子とガラス越しに対面する。そのとき、妻の父母が子供たちを連れてやって来た。
「おじいちゃん、こっちこっち」
と、長男がおじいちゃんの手を引っ張っている。
「お兄ちゃん、待って」
と、その後に続いて長女がおばあちゃんの手を引っ張って近づいてきた。そして、その後ろにもう一人いた。あれえ・・・。ナースセンターの前に大勢が顔を合わせた。妻の父母、私の母、長男長女、私。そして何故かそこにミツコ姉さんがいたのだった。
「修君、ここに来る前に子供たちの玩具を取りに家に寄ったんだ。そしたら、ちょうどこの方がタクシーから降りたところでね。話を聞いてみたら修君の従姉さんだと言うじゃないか。それで、事情を説明してここにお連れしたんだ」
と、義父が説明してくれた。ミツコ姉さんは、申し訳なさそうに、
「すみません、こんなときに・・・」
と実家の父母に何度も頭を下げていた。
「それはそれはお父さんありがとうございました。まあ、ミツコさんの詳しい話は後で聞くことにして、ほら、皆さん赤ちゃんが待ってますよ」
と、母。赤ちゃんの方を見たら、その前にはいつの間にか長男と長女が陣取っていて、ガラスに顔をぴったり付けて生まれたばかりの自分たちの妹を興味深げに見ているのだった。
「顔、赤いね」
「目、つぶってるね」
「手、小さいね」
「足も小さい」
子供たちは、観察に余念がない。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんたちは、
「赤ちゃん、こんにちは」
「赤ちゃん、かわいいね」
と、目尻が下がりっぱなしである。ふと見ると、ミツコ姉さんもお祖父ちゃんたちと一緒になって、ガラスの向こうの赤ちゃんに愛想を振りまいている。赤ちゃんのことはどれだけ見ていても飽きることはなかった。だが、決められた時間もあるし、妻のことも心配だったので、子供たちを連れて病室に行ってみることにした。勿論ミツコ姉さんも一緒に。妻は、大仕事を成し遂げた安堵の表情を見せていたが、子供たちの顔を見ると、ぱぁっと明るい顔になり嬉しそうに微笑んだ。そして、
「どうだった。赤ちゃん可愛かった」
「うん、可愛かった」
「手、小さかったよ」
と子供たちとの会話を楽しんだ後、ベットを囲んだ一人一人の顔を見て、
「みんな、ありがとう。ありがとう」
と繰り返した。勿論、ミツコ姉さんにも。妻は子供たちともう少し一緒に居たかったようだったが、晩ご飯の時間にもなっていたので、後は実家のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんにお願いすることにして、私たち五人は家に帰ることにした。私の車に乗ると、母がすぐに口を開いた。
「ミツコさん、こんなときだから、何にもお構いできないけど、泊まっていってね」
ミツコ姉さんは、小さくなって、
「すみません」
というばかりだった。その日の夕飯はあり合わせのもので済ませ、子供たちを風呂に入れて早々に就寝した。私は妻と赤ちゃんのためにもう一日休みを取っていたが、子供たちは明日幼稚園があるのだ。ミツコ姉さんは今回も母と枕を並べて寝ることになった。その夜、ミツコ姉さんが、また母に何か困り事を相談することは分かり切ったことだった。また金策なのだろうか。二度あることは三度あるというではないか。と、私は子供たちを寝かせ付けた後、今度はどうなるのだろうと考え始めたのだが、当直開けの疲れた体は、そんなことには有無を言わずに眠りに入っていくのだった。
次の日はいつもよりも少し遅く起きた。ミツコ姉さんは既に起きていて母の台所の手伝をしていた。私は二階に寝ていた子供たちを起こして来て用意された食卓に着いた。ミツコ姉さんは初めての食卓でも慣れたものだ。
「幼稚園、楽しい」
「トトロ、見た」
「あら、まだ見てないの、お父さんにお願いしたら」
と、いつの間にか子供たちと仲良しになっている。幼稚園バスに乗るときには互いにバイバイなんて手を振ったりして、子供の心を掴むのが上手いんだな、なんて、またもや絶妙なタイミングの悪さで現れたミツコ姉さんの知られざる一面を垣間見た気がした。子供たちのバスが見えなくなるまで見送り二人っきりになったとき、ミツコ姉さんは私に、
「修君、ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかなあ」
と話しかけるのだった。
子供たちの幼稚園バスを送ったらすぐに妻と赤ちゃんに会いに行く予定だった。だから、本当はミツコ姉さんの相手は母に任せ自分は早々に病院に向かいたいところだったのだが、是非私にも聞いて欲しいというミツコ姉さんの申し出を簡単に断ることは出来なかった。家に入ると母は朝食の後かたづけを終えたところだった。
「さあ、一休みしましょう」
と、母が二人にお茶を勧めた。
テーブルに座ったミツコ姉さんと改めて向き合ってみると、あの大晦日の夜に突然訪れたミツコ姉さんとは別人なのではないかと思えてくる。あのぎらぎらとした脂ぎった情熱のようなものが感じられないのだ。肌に張り合いがなく瑞々しさが足りない。それだけ年を取ったと言えばそれまでだが、生きる事への執着とでも言えばいいのか、あの時の愛するご主人のために形振り構わず金策に訪れたしたたかさは微塵もなくなってしまったようだ。あの無造作に後ろにまとめていたセミロングの髪はショートヘアとなり目立たない栗色に染められていた。洗いざらしのジーパンに白いトレーナーは小ぎれいな印象を与え、体格も一回り小さくなったように感じられた。
ミツコ姉さんは、お茶を一口啜るようにして飲むと、静かに話し始めた。
「伯母さん、修さん・・・。あの時は本当にごめんなさい。大晦日の夜にお邪魔したりして。あの時は私、他の方法を考えることもできなくて・・・。」
「いいのよ、ミツコさん」
という母の言葉の後に、私も大きく頷いた。ミツコ姉さんは私たちの反応を確認したのかどうか分からないくらい表情を変えずに淡々と話し続けた。
「あの時、主人は佐久間商事という小さな会社を経営していたんです。会社といっても従業員は主人と私だけ。扱っている商品も様々で、贈答品、日用品、電化製品など何でも扱っていたんです。何でも扱っていたと言えば聞こえはいいんだけど、客様からご依頼があった品物は何でも扱っていた、と言った方が正確かもしれません。主人は会社を興す前、卸売り会社に勤めていたんでそれなりに人脈があったんです。だから、お客様の要望に応えることが出来たんです。」
ミツコ姉さんは少し誇らしげに話した。そして話す言葉もいつの間にか「ですます調」になっていた。身を正して礼節をもって話そうとしていることがよく分かった。
「主人は本当に誠意のある仕事をしていました。お客様が石鹸が欲しいと言えば一箱からでも商売していましたから。大きな儲けはなかったけれど、私と二人して暮らしていけるだけの仕事はさせてもらっていたんです。ところが、あの人、欲が出たんですね。昔の仕事仲間からこれは売れるからという話があって、あの『ポータブル家庭用サウナ』を大量に仕入れたんです。確かにあの頃は温泉ブームの走りであちこちでサウナ付き温泉がオープンしていましたから、興味を示すお客さんも沢山いたんです。でも需要はそれほどなかったんですね。会社の倉庫には売れ残りのサウナが山積みになっていました。あの人、なんとか売りさばかなければと必死でした。そして、私も少しでも力にならなければと駆けづり廻っていたんです。」
「それが、あの時だったんですね」
と、私は事の真相を知り胸の支えが取れたように発したが、ミツコ姉さんは表情を変えなかった。ミツコ姉さんの話は更に続いた。まるで小説のように展開していく。
「結局、私たちに残ったのは借金だけでした。だから、赤ちゃんを流産したのは正解だったかもってあの時は思いました。夜逃げに子供を巻き込まなくてよかったんですから・・・。私たち二人は知り合いのいない土地を求めて逃げました。東京までは何度も行ったことがありましたが、そこから向こうは未知の土地でした。東海道本線を乗り継いで西へ向かうと乗客の言葉が少しずつ関西弁になっていくのが面白くてあの人と二人でクスクス笑いました。何日も必要以外の会話をしていなかったのに、可笑しいですよね。そんな他愛ないことで二人して笑うなんて・・・。そして、私たちが最後に電車を降りたのが、京都駅だったんです」
何故京都に降りたのか。それは私には分かりません。そのときの私は佐久間の後を着いて行くことしかできなかったのですから。名古屋から大阪に向かう電車の中で、佐久間が高校の修学旅行で京都に来た話をしたことがあったので、それがきっかけになったのかもしれません。佐久間はこんなことを話していました。
「俺は地元の工業高校に入ったけど、ろくに勉強もしない悪ガキだった。いろんな神社仏閣を見学したけれど、よく覚えていない。ただ一つ覚えているのが新京極なんだ。唯一の自由時間でね。友達数人と徒党を組んで歩いていたら、向こうから同じように学生服を着た連中がやってきた。どっちから仕掛けたのか、眼を飛ばしたとか、肩がぶつかったとかで、ケンカになったんだ。よくある話さ」
その話を聞いて私も高校に行っていたら修学旅行で京都に行ったんだろうなと思いました。そして、ケンカしたことしか覚えていない佐久間のことが可笑しくて思わず吹き出してしまいました。佐久間は少し伸びた無精髭の顔を私に向けて、何が可笑しい、と私の額を人差し指で小突きました。電車は京都が近づくにつれて混雑してきました。京都に観光に来た人たちなのでしょうね。大きな旅行鞄が車内を余計狭くしていました。息苦しくなるほどの混みようです。私たち二人は座席に並んで座っていましたが、上から覆い被さるような感覚に閉口していました。我慢出来なかったんでしょうね。大津を過ぎたあたりで佐久間が呟きました。
「京都で降りよう」
と。行くあてがないという事はこういう事なのです。目的がないから何時でも何処ででも行き先を決めることが出来るのです。ある意味では気楽な旅だと言えます。そのまま浮き草のように漂っていることができるのであれば・・・。
京都に着いたのはお昼頃でした。夏の京都は暑いと聞いていましたが、電車を降りたときに、その暑さを体感することが出来ました。黙っていても汗が滴り落ちるてくるのです。駅舎から出るとすぐにバスターミナルがありました。そこに並んだ人の列、人の波といったら普通のものではありませんでした。しかし、そこに並んでいる人たちは皆明確な目的をもっている人たちなのです。私たち二人はそこに並ぶことさえできないのです。佐久間が呟きました。
「ミツコ、涼しくなるまで待とうか」
私たちは取りあえず市バスの時刻表を手に入れて冷房の効いた待合室に身を寄せることにしました。その暑さは日が落ちてからも続いていました。しかし、私たちは意を決して京都の街に出ることにしました。バスターミナルには夕方になっても長蛇の列が続いていました。どの乗り場案内を見ても、京都の有名な地名や神社仏閣の名前が掲げられています。私たちはどのバスに乗ろうか迷いましたが、どうせ行くあてのない身です。
「ミツコ、これにしよう。祇園て書いてあるから」
と、佐久間が祇園・平安神宮と書いたバスに乗ることに決めました。道路は渋滞していましたが、バスは比較的すいすいと進んでいきました。碁盤の目のようになった道路の角を一つ右折してしばらく行くと、道の両側が昼間のように明るい一画を通りました。歩道を歩く人、人、人。信号待ちでバスが止まるとスクランブル交差点を人の群れが縦横斜めに行き交います。
「なんじゃこりゃ。東京と変わらないじゃないか」
「ほんとね」
「さすが観光地だな」
「そうね」
と、二人とも自分たちの身の上も暫し忘れて少し興奮気味に声を交わしました。そして、バスが少し進むと、
「ミツコ、降りるぞ」
と、急に佐久間が言い出しました。
「えっ、どうしたの、いきなり」
と私は驚いて言いましたが、佐久間が決めたのですから私は付いて行くしかないのです。
私たちが降りたところは、四条河原町でした。佐久間は車窓から「新京極」と書いた大きな看板を見つけたのです。それは修学旅行で唯一記憶に残っていた新京極商店街の入り口だったのです。
「わあ、懐かしいなあ」
「何年ぶり」
「そうだなあ。あれから二十数年はたっているかな」
「ずいぶん昔の事ねえ」
「ミツコ、腹減ったなあ。何か食べようか」
考えてみたら、私たちは朝名古屋駅の立ち食いそば屋で掛け蕎麦を食べた切りだったのです。私たちは安い食堂を探しながら新京極商店街を歩きました。「大衆食堂扇屋」という看板を目にし、神様の思し召しと思いましたが、それは私たちの勘違いでした。その大衆食堂の最低ラインはワンコインを遙かに上まっていたのです。結局私たちは福島でも何度か食べたことがある牛丼屋さんで夕食を済ませました。苦労したのは宿泊先です。元々ホテルとか旅館に泊まるつもりはありませんでしたが、せめてお風呂に入って手足を伸ばして眠りたいと思っていました。私たちはこれまでと同じようにカプセルホテルを探しました。ところがないのです、京都にはカプセルホテルが。それでも二十四時間営業の健康ランドを見つけて無事そこに一泊することが出来ました。一晩二晩だったら構わないのですが、次第に私たちの持ち金にも底が見えてきていたので、佐久間も内心気がきではなかったのでしょう。いつも風呂上がりに飲むロング缶を三五缶に換えたあたりから何だか元気がなくなっていったように思います。
私たちは次の日から仕事を探して歩きました。とは言っても住所不定の身。表玄関から堂々と仕事くださいとは言うことのできない身の上なのです。それでも私の勤め先は結構早く決まったんですよ。それは千本今出川にある居酒屋でした。佐久間と二人で途方に暮れて歩いていると、ドドドドドーンと太鼓の音が聞こえてきたんです。空きっ腹に応える響きでした。それは「寄って屋」という店で景気付けに鳴らしている太鼓だったんです。ふわふわっと店を通り過ぎようとしたとき、張り紙が目に入ったのです。「パート・アルバイト求む。経験・年齢不問」。「年齢不問」という言葉が有り難いのです。なかなかないのです、この言葉が。私は佐久間を外に待たせ店のドアを開きました。間口が狭いわりに店内には十分な奥行きがありました。後から聞いた話ですが、京都の町屋は間口が狭く奥深いのだそうです。この店も元々は町屋の体を為していて、何かの都合で家屋を店に提供している、とそんなところなのでしょう、きっと。私が会ったのは店の店長で、オーナーが別にいるということで、オーナーの居る事務所に連れて行ってもらいました。オーナーは気さくな方で、事情を話すと、住むアパートまで心配してくれるのでした。捨てる神あれば拾う神ありです。仕事先とアパートが決まり私は意気揚々と佐久間の手を引いて歩いていました。アパートは敷金礼金なしの六畳台所付で家賃二万円。お風呂は付いていなかったけど、なんとかやっていけそうな金額です。私たちは生活に必要な最低限度の日用品を準備しました。幸い夏だったんで薄い敷き布団一枚あれば平気でした。むしろその暑さには悩まされたほどです。初めのうちは団扇を使って凌いでいたんですが、深夜になっても続く暑さに耐えきることが出来ず、近くの量販店で扇風機を買いました。
佐久間は朝早くから職探しに出かけ、私は夕方になると仕事に出かけます。私の帰りは十二時を回るので、佐久間は大抵先に休んでいるのですが、あの日は部屋の電気が付いていて、私が帰るなり佐久間が子供みたいに駆け寄ってきて、嬉しそうに話すのでした。
「ミツコ、仕事見つかったよ」
満面の笑みで私に纏わり付いてきます。
「わあ、よかったね」
私は台所で顔を洗いながら訊いてみました。
「どんな仕事」
「建設現場」
「何の工事」
「わからない」
「場所は」
「わからない」
「なあにそれ、何にもわかんないの」
佐久間は、ふふんと鼻先で笑って、
「寄せ場に行けば毎日仕事があるんだ」
と言いました。
「寄せ場。何それ」
私はティーシャツとジーパンを脱ぎ捨てながら訊きました。
「そこへ行けば毎日仕事があるんだよ」
「へええ、そうなの」
私は佐久間が仕事を見つけてきたことを一緒に喜んであげたかったので、それ以上は訊きませんでした。佐久間もそれ以上何も言わず扇風機を独占して横になってしまったので、その話をするのは止めました。
翌朝、扇風機の音で目を覚ますと、佐久間はもう出かけていました。確かに私は「行ってくるよ」という佐久間の声を聞きましたが、深夜まで働いていた私は、「はい、行ってらっしゃい」と応えるのがやっとだったのです。それから佐久間は毎日決まった時間に仕事に出かけました。そして帰ってくるのは私が店に出てから。でも、たまに仕事に行かない日もあって、そんな時は昼過ぎに開店する銭湯の一番風呂を目指して二人で行くこともありました。お風呂の後、佐久間は決まって通りの酒屋で缶ビール一本買って飲みました。三五缶です。
「ミツコも飲むか」
と言われて、私も必ず一口飲みました。そして、佐久間は道々話すのです。今日は梅田に行ってきたとか、吹田に行ってきたとか、ちょっと自慢げに話すのです。
「へええ、梅田ってどういう所」
「ビルだらけさ。東京と変わらないよ」
「へええ、行ってみたいなあ」
「その内な」
いつもこんな感じなのです。でも佐久間の少ない言葉からでも、日雇いであちこちの工事現場に行っていることはわかりました。一度お店の人に、
「寄せ場ってなんですか」
と訊いたことがあります。
「ああ、それって日雇いの人が集まる所でしょ。そこに行けば車が迎えに来てあちこちの工事現場に連れて行ってもらえるのよ。でも、どうして」
それは、私が想像していたとおりの場所でした。「あの人ったら、プライド高いんだから・・・」と、佐久間商事社長の肩書きを捨てきれないでいる佐久間のことを可哀想に思うのでした。
京都の酷暑はまだまだ続きそうです。比較的観光客の少ないこの時期でも、八月十六日は五山送り火をめあてに沢山の観光客が京都を訪れます。私の勤めるお店もこの夜は大忙しです。お盆で仕事のない佐久間をアパートに一人置いて私はお店の中を走り回るようにして働きました。お客さんが入るたびに入り口の和太鼓がドドドーンと鳴ります。もともと客商売が好きな私ですので、威勢よく「いらっしゃいませ」と言ったり、「ご注文は何にいたしましょうか」などとマニュアル通りに言うのは簡単なことでした。
「はい。大変お待たせいたしました。生ビールとウーロン茶でございます」
白い開襟シャツのお爺ちゃんがおしぼりで禿げた頭を拭いています。向かいには連れ合いのお婆ちゃんがちょこんと座っています。二人とも声には出しませんが「どうもありがとう」と少し頭を動かしました。そして、私がテーブルから離れようとしたとき、お婆ちゃんの声が聞こえました。
「いやあ、今日はたくさん歩いたわねえ。ああ、こわい、こわい」
私は、はっとしました。「この人たち福島だわ」間違いありません。「こわい」は福島弁で「疲れた」ということなのです。私は次の料理を運ぶために厨房に向かいましたが、胸が懐かしさでいっぱいになっていました。だから、
「はい。大変お待たせいたしました。焼き鳥の盛り合わせと揚げ出し豆腐でございます」
と料理を差し出した後に、「福島からですか」と出かかったのですが思い留まりました。自分が福島県人であることが知られ、もしも取り立て屋に通報されたら・・・、と思うのは心配しすぎだったでしょうか。それでも、私は懐かしい故郷の言葉に触れることができて少しの間幸せな気持ちになっていました。だから、老夫婦が店を出て行くとき、私はいつにも増して大きく「ありがとうございました」と声を出していました。
次の日、私はお休みをもらいました。佐久間が二三日は仕事がない、と言っていたこともあったし、店長が「お盆の忙しさも過ぎたから、少しゆっくりしたら」、と声をかけてくれたからです。その日は、いつもよりゆっくり目を覚ましました。勿論、朝からの猛暑で寝ていられないという事情もありましたが・・・。佐久間と朝食を一緒に摂るのは久し振りのことです。
「ミツコ、飯喰ったら一寸散歩にでも行ってくるか」
丸いちゃぶ台に向かい合っている私に、佐久間が言いました。散歩だなんて、随分久し振りのことです。考えてみると私たちが京都に来てからかれこれ一ヶ月が過ぎようとしているのです。佐久間にはまだ定職が見つかっていないとはいえ、なんとか二人して暮らすことができるだけで幸せです。
私たちは朝の千本通り商店街を北へ向かって歩きました。狭い歩道をお盆明けの勤め人たちがスタスタと急ぎます。広いツバの帽子を被った観光客は通りの街並みを眺めながらゆっくりと進みます。そんないつもの風景を横目に商店街の人たちがシャッターを開け、開店準備を始めたところです。と、歩道の向こう側を青年僧侶たちが念仏を唱えながら足早に下っていきました。浄福寺の修行僧のようです。若い張りのある声が街に響いています。千本今出川の交差点を渡り更に北へ歩きました。この辺り一帯が西陣であると店の人から聞いたことがあります。
「ねえ、どこまで行くの」
随分歩きましたが、通りを走る自動車の音が途切れません。
「ちょっと、入ってみるか」
佐久間はそう言って左の小路に入っていきました。そこには通りとは別世界の静寂がありました。町家が並びいかにも京都といった風情です。中には町家をそのまま利用した和小物店などもあり、格子の向こうにある色鮮やかな小物類に私の胸はときめきました。でも佐久間は、
「ここ、行ってみよ」
とその店の角を右に曲がって更に小さな小路に入って行くのでした。そこには更に違った世界が広がっていました。二人並んで歩くのがやっと。軒先と軒先が接近したまま路地が続いています。そして、聞こえてくるのです。機織りの音が。私たちは西陣のど真ん中にいるのだと実感しました。そして、西陣の迷路に迷い込んだということも・・・。
「どっちに行ったらいいんだ」
佐久間も困った様子を見せましたが、私が、
「こっち」
と言うと、素直に付いてきます。私はすぐそこに見える大きな瓦屋根を目指して歩いて行きました。佐久間は後を付いてきます。路地は私の冒険心をくすぐりましたが、その迷路は容易く抜け出すことができました。と、そこに大きなお寺がありました。境内で町内会らしき人たちがテントの後かたづけをしています。きっと昨夜は町内のお祭りだったのでしょう。本堂の廊下では、拝観者たちがガイドさんの説明を聞いているようです。本堂の脇に膨よかな女性の座像がありました。「おかめ像」というのだそうです。
「義空上人が大報恩寺の本堂を建立するにあたり、当時名大工として名声を馳せていた長井飛騨守高次を総棟梁として選ぶ。高次は数百という大工の頭として采配を揮うが、ある日のこと何を勘違いしたのか、本堂を支える親柱の四本の内の一本を短く切り落としてしまう。途方に暮れる高次の妻阿亀は『もはや切ってしまったことは仕方がないじゃあないの、柱を短く揃え桝組を入れて高さを合わせればどうでしょう』と進言したのだった。そのアイディアもあって今に見る端正な本堂は完成するが、阿亀は『女の知恵を借りて完成させたと云われては主人の恥となる』と自害して果てる。この話は大工たちに受け継がれ、江戸時代の半ばには三条の大工池永勘兵衛が本堂の脇に『おかめ供養塔』を建立する。この頃から京都では棟上げに際して『おかめ御幣』を飾り祀ることが生まれ、今でもたまに見ることが出来るようだ。このことから建築、造園関係の信仰も厚く、そして阿亀は湯殿を建てて大工たちに入浴を勧めたと云う話もあり、銭湯関係者のお参りも多い」
おかめ像の横に立つ立て札の説明を読み終えると、佐久間は私の顔をまじまじと見つめていうのです。
「ミツコ、お前とそっくりだ」
「えっ、それどういう意味。私の頬ってこんなに膨れてる」
「いいや、顔も少しは似ているけど、それだけじゃないよ・・・」
佐久間が言いたいことがわかりました。でも佐久間は照れくさかったのでしょう。すぐに踵を返して本堂の方に行ってしまいました。私はあの人に何の進言もできなかったのに、おかめとそっくりだなんて、あの人本当にそんなふうに思っているのかしら、でも、私のことを少しでも頼りにしていてくれているのなら、それはとても嬉しいことです。普段は口数の少ない佐久間が、ぽろりと口にした言葉を私は今も忘れられません。でも、私は佐久間を守るために阿亀のようにこの命を絶つことはできなかったのです。大報恩寺、またの名を千本釈迦堂。佐久間が初めて私のことを誉めてくれた所です。
(四)
私たちが京都に来てから半年が過ぎようとしていました。冬の京都は思っていたよりも寒く、日中の日差しは暖かいものの、夜になると芯まで冷えました。私たちの暮らしは半年前と何も変わっていません。私はお店へ、佐久間は寄せ場へ通う毎日が続いていました。大晦日。お店も、その日だけは休業となりました。私たちは夕方、銭湯に行きました。その日は銭湯も早めに店じまいをするらしく、一年の垢を落とす人たちで混雑していました。
帰りに酒屋さんでいつもの缶ビールに加えてワンカップを買いました。神棚も何もないけれど、せめて台所の一画にでも御神酒を上げて拝みたいと思ったのです。大晦日の夜は静かに更けていきました。紅白歌合戦が終わり、テレビを消すと、あちらこちらから鐘の音が聞こえてきます。私たちは炬燵に入ってじっと耳を澄ましていました。そして、鐘の音が聞こえなくなると、佐久間が話し出しました。
「ミツコ。実は俺、やっと仕事見つけたんだ」
炬燵に両腕を突っ込んだまま、照れくさそうに窓の外に目をやっています。
「へええ、よかったね。それで、どんな仕事」「吹田に俺がよく行く現場があるんだけど、そこで断熱の仕事をしている会社の主任が俺の仕事ぶりを見て、まとまった仕事があるから働いてみないかって言うんだ」
「ふううん」
これは後から分かったことなのですが、断熱というのは、鉄筋コンクリートで立てられたマンションやアパートの内側に断熱材を注入する仕事のようでした。ドロドロに溶けた断熱材を機械でコンクリートの内側に注入していく作業を佐久間が担当していたらしいのです。日雇いの中で建物の中で仕事ができるのは、かなり恵まれていると聞きました。
「ところがな、その現場が神戸なんだよ。大阪ならともかく、神戸までとなると片道二時間はかかるから日帰りは難しいらしいんだ。
ミツコ。しばらく向こうに泊まることになるけど、いいか」
「いいかって、あなた、もう決めてるんでしょ。私なら大丈夫よ。あなたの仕事が第一よ」
嬉しかった。とにかく嬉しかったんです。しばらくは離ればなれになるけれど、会う気になればいつでも行ける距離なのです。私は佐久間の仕事を優先に考えました。
元日は北野天満宮に初詣に出かけ、二日はイズミヤの初売りに行って佐久間の日用品の準備をしました。ボストンバックに下着類や洗面道具などを詰め込みました。ボストンバックを使うのは半年ぶりのことです。浮き草暮らしの頃はいつも枕元にあったバックです。再びそれを押し入れから出したとき、真夜中に人知れず福島の家を出てきたことを思い出しました。
蒸し暑い夏の夜でした。取り立て屋が家に来るようになってからは、佐久間は福島を離れ保原の親戚の家に身を寄せていたのですが、取り立て屋は次第にその場所を探し出し、今にもそこに踏み込みそうになっていたのです。真夜中の二時過ぎ、辺りが皆寝静まるのを待って佐久間は福島の家に帰りました。私は前日のうちに全ての準備を終えていました。最後と思い家中の掃除をしました。後は佐久間と一緒に家を出るばかりです。電気のない暗い部屋を見渡すと、昨日まで使っていた日用品がぼんやりと見えてきます。玄関を出るとき、取り立て屋の監視の目があるのではないかと思い、恐怖で体が震えてきました。私は佐久間の左腕に両腕でしがみつきながら駅を目指しました。駅の待合室は一晩中明るいので、暗いバスターミナルのベンチで夜が明けるのを待ちました。そして、やっと午前六時五分の始発に乗り込むことができたのです。
佐久間は、三日の朝早く電車で吹田にある会社に向かいました。そこから会社の車で神戸に行くのだと言っていました。その日を境に離ればなれの暮らしが始まりました。連絡は週に一回私の方から公衆電話で佐久間の寮にすることにしていましたが、佐久間が出がけに、
「日曜日は休みになってるんだ。土曜日、夜遅くなるけど帰ってくるから」
と言っていたので、電話はせずに一月七日の土曜日を楽しみに待っていました。ところが約束の夜になっても佐久間が帰ってこなかったので寮に電話をしてみると、
「もしもし。ミツコごめん。急に残業してくれって言われて、たった今帰ったばかりで今日はもう電車がないんだ。来週は帰れると思うから。ごめんなミツコ」
「ウウン。仕事もらったばかりだもの。今が大切な時なんだよね。私のことは気にしないで。それより体に気を付けてね」
というわけで、私は、また一週間、佐久間が帰ってくるのを待つことになったのでした。一人暮らしは寂しいけれど、帰ってくる人を待つ楽しみは、その寂しさを半減してくれました。そして一週間後。私がお店から帰ると佐久間が帰っていました。ボストンバックがパンパンになるほどの洗濯物がおみやげでした。明日の夕方までに乾かさなければならないので、すぐに洗濯に取りかかりました。そしてお店の残り物を肴に二人して缶ビールを開けました。そしてその夜は愛し合いました。
「ミツコ、これ」
佐久間が私に茶封筒を差し出しました。中には一万円札が五枚入っていました。
「ええ、こんなにたくさん」
「うん。食費とか諸経費を引かれると、それっぽっちなんだ」
「ううん、十分です。ありがとう」
部屋代や光熱費を払うと、食べていくのがやっとだったんです。まとまったお金は本当にありがたかったのです。しかし、佐久間と二人の時間は、あっという間に過ぎてしまいました。私は駅に向かう佐久間をバス停まで送りました。
「また来週帰るからな」
「うん、また来週ね。気を付けてね」
これが私たち二人が交わした最後の言葉になったのです。
一月十七日火曜日、午前五時四十六分。深い眠りについていた私は、上下動の激しい揺れの中で目を覚ましました。何が何なのか分かららないまま揺れが治まるのを待ちました。揺れが治まり灯りをつけようと蛍光灯のスイッチを入れてみましたが停電のようでした。停電はしばらく続きました。真っ暗な部屋の中で一人じっとしていました。暗闇の中、家財道具が散乱しているのがわかりました。しばらくして電気が復旧したので、テレビをつけてみました。放送される地震情報では、近畿地方を強い揺れが襲ったことを繰り返すばかりで、詳しい被害状況はわかりませんでした。私はチャンネルを何回も変えてみました。ある局で、「ものすごい揺れでした。しかし、私の周辺ではこれといった大きな被害は確認できていません」とレポートしたのを聞いて、ちょっと安心しました。ところが、時間が経つに従って衝撃的な事実が次々と明らかになっていくのでした。ヘリコプターに乗った取材者が絶叫しています。
「ものすごい煙が何本も立ちのぼっています。電車も脱線しています。信じられません」
と。そしてそれ以後、テレビは信じられない事実を次々と伝えていきました。その中で私の目と耳を疑ったのは、立ちのぼる噴煙の地が「長田区」であったことです。佐久間が出発する前に私に教えてくれた住所が長田区だったのです。私は慌てて佐久間が書き留めた切れ端を確かめてみました。
「神戸市長田区○○○」
やっぱり間違いありません。私はその後、テレビの前に釘付けになってアナウンサーや取材者の一言一句に耳を凝らしました。倒壊した高速道路、大きく傾いたビルの映像は被害の大きさを物語っていましたが、カメラが木造家屋の倒壊を捉えたとき、体が震えてきました。佐久間が寝起きする寮は木造アパートなのです。私はパニックに陥りました。すぐにでも神戸に行きたいところでした。しかし、道路も鉄道も不通になっていると店の人から聞き、やはりテレビを観て安否を気遣うしか外にありませんでした。そして、次第に倒壊した家屋の中から救出される人たちの姿が映し出されるようになり、一縷の望みをたぐり寄せることができるようになりました。私が現場に着いたのは被災から三日目のことです。倒壊した寮では自衛隊の方々が救出活動を行っていました。現場では、生存者の存在が告げられ、救出されることもありましたが、救出されたときには、すでに絶命していることもありました。私は、二つに一つの宣告を待っていました。そして、寒空の下、時間が経つに従って一縷の望みが次第に遠ざかっていくように感じられるのでした。ボランティアの人が私に温かいコーヒーを差し出してくれました。私は、そのコーヒーを啜りながら、奇跡という言葉を持ち出してみました。よくテレビで報道される奇跡の生還を佐久間がしてくれると考えてみたのです。そのとき私は、タンカで運ばれていく佐久間にすがりついてうれし涙を流して「あなた」と言葉をかけるのです。佐久間は「ミツコ」と一言発して微笑むのです。そして、また一方では、佐久間にもしもの事があったとき、自分はどういう行動をとればいいのか、別のストーリを考えたりもするのでした。こんな所でどうやってお葬式を出すの。前の奥さんや子供さんにも連絡した方がいいかしら。福島への連絡は。いけない、福島に連絡することはできない。だって私たち借金を踏み倒して逃げてきたんだもの・・・。その時、遠くで自衛隊の人たちの声がしました。
「おおい。見つかったぞお」
私がその宣告を受けたのは、地震から三日目の夕刻のことでした。
母はハンカチで涙を押さえながらミツコ姉さんの話を聞いていた。淡々と自分の体験を話し続けてきたミツコ姉さんは、ふと我に返ったように母の方に目をやると、逆に励ますように母の背中をそっとさするのだった。
「叔母さん、ごめんね、泣かせちゃって。でも私大丈夫よ」
「そう言ったって、ミツコさん、いろいろ大変でしょ」
「ううん。あれから四ヶ月、何とかやってるわ。京都の店の人たちも親切にしてくれるし、私一人食べていくのだったら何とかなるから」
「そうお。それならいいんだけど」
母は心配そうにミツコ姉さんを見た。そして、お茶を入れ直すために台所に立った。
「修君ごめんね。こんなときに来て」
「いいえ、大丈夫ですよ。ここはフミ伯母さんの実家なんですから」
と、私はいつか母が言った言葉をそのまま使っていた。そうだ。それは間違いのないことなんだ。この小林の家で生まれ育った人たちにとって、この家は紛れもない実家なのである。祖父母が亡くなり、父が亡くなり、父の姉弟たちが我が家を訪れることはめっきり減っていた。だが、以前は盆や正月になると故郷を離れた兄妹たちが里帰りしていたのだ。丁度母が今でも実家に行くのと同じように。直美が私を連れて実家に行くのと同じように。
父が生きていた頃、盆や正月になると必ずやってきたのが仙台に嫁いだユキ叔母さんであった。ユキ叔母さんは、夫と男女の子供とともに我が家にやってくる。子供たちは丁度私たち姉弟と似通った年回りで、遊び相手としては最高だった。だが、一度里帰りをすると一週間以上も滞在していくものだから、子供心にもうんざりしてしまうこともあった。勿論、母としても何かと気苦労が多かったことだろう。たまに当時を思い出して、本音を漏らしたのを聞いたことがある。嫁いだ娘が亭主や子供たちを連れて親に顔を見せに帰る。親は幸せそうな娘の顔を見て安心し、可愛い外孫に目を細める。その間、嫁や内孫は若干の辛抱を余儀なくされる。父はどういう気持ちで妹家族を迎えていたのだろう。妹の旦那と意気投合して酒を飲み交わす父の姿を私は知っている。そのことには子供ながら少しの違和感も感じていなかったのが本当のところである。後に聞いた義叔父の話からも、二人が一緒に飲みつぶれてしまうほど仲の好い義兄弟だったことが伺える。少し斜に構えて当時の家の中を想像すると、姑、小姑、嫁、婿間の緊張を和らげるために彼らは酒を酌み交わし酔いつぶれていた、とも考えられる。
フミ伯母さんと金治義伯父さんが訪れたときはどうだったのだろう。フミ伯母さんが、祖母の脇にでんと座ってお茶を飲んでいる光景を思い出す。膝が痛かったので幼児のように両足を前に投げ出している。祖母はそんなフミ伯母さんを「何やってるの」とたしなめるのだが、フミ伯母さんは意に介さない。膝が痛いだけではない。長女というポジションがそうした振る舞いを許していたように思われる。それに対して、金治義伯父さんのポジションは微妙だった。長女の婿殿に対して祖母は最大限の接待していた。
「金治さん、どうぞここへお座りください」
と家長である父の横に席を設け、
「金治さん、さあどうぞ」
と真っ先にお酒を注いでいた。ところが、金治義伯父さんという人は遠慮な人で、料理を食べ終えたかと思うと、知らない内に席を立っていて、私たち子供が座っている末席に座っているのだった。そして、子供たちのたわいのない話に耳を傾けてにこにこしている。そんな人だったのである。一つだけ金治義伯父さんの鮮明な記憶がある。大人たちの宴会が佳境に入ったころ、子供たちは思い思いの場所でテレビを観たりマンガを読んだりしていた。私は、お酒の澗をつけている母の側で退屈な時間を過ごしていた。そこへ金治義伯父さんがやってきた。義伯父さんはにこにこしながら私に近づき、福島訛りとはまた違った独特の訛りで、
「これ、あげるよ」
と一枚の銀貨を差し出すのだった。私には銀貨に見えたその貨幣にはハングルが刻まれていた。
「朝鮮のお金だよ。珍しいだろ」
義伯父さんは、嬉しそうにウフフと笑って、私に何か言いたげな顔をしていたのだが、居間の方から「金治さん」と声がかかり、義伯父さんとのやり取りは、それきりとなってしまったのだ。そのときの私は、日本と朝鮮半島の関係など何も分からず、外国のお金を手に入れた喜びで一杯だった。今思い返してみると、その貨幣には、男性の横顔が刻まれていたように思う。しかし、それが北の物なのか南の物なのか今となっては見当がつかない。
金治義伯父さんは在日である。今岡家の養子になり日本人のフミ伯母さんと結婚したが、その本当の故郷は朝鮮半島にある。ミツコ姉さんは当然その父親の故郷を知っているはずだが、果たしてどの位詳しく父親から話を聞いているのだろう。まだ見ぬ父親の故郷がある朝鮮半島。そして、一方の母親フミ伯母さんの実家である小林家。考えてみると、ミツコ姉さんが、何かある度に我が家を訪れることの意味が分かるような気がする。ミツコ姉さんにとって、小林家こそ帰るべき故郷なのである。いつも絶妙のタイミングの悪さで我が家を訪れるミツコ姉さんではあるが、今になってやっとミツコ姉さんの心の内が分かったような気がする。
「で、これからミツコさんどうするの」
と、母が率直に訊いた。
「私、京都に帰ります。あの町は居心地がいいんです。それに、千本釈迦堂に佐久間がいますから・・・」
「千本釈迦堂。ああ、さっきミツコさんが話していたお寺さんね」
「ええ、私たちみたいな身の上でも面倒をみてくれるそうなんです。本当に有り難いことです」
「で、ミツコさん。本当に訊きにくいことを訊くんですけど、福島へは寄らないの」
「叔母さん、心配かけて御免なさい。私たち、駆け落ちの身なので、何年も家には顔を出していないの。だけど、今度は帰ってみようと思っています。弟の久男とはたまに連絡を取り合っているんですけど、久男のところも大変らしくて・・・」
「お父さんとお母さんはどうなんですか」
私が訊いてみた。
「今は二人とも施設に入っているそうです。父ちゃんと母ちゃんのことだけはちゃんとやっているから心配するな、と久男が言っていました。父は認知症がかなり進んでいるようです。母は寝たきりなんですが、口だけは達者で介護の人たちを手こずらせているらしいんです」
「そう、元気なんだね。よかった」
母は、またハンカチを取り出し、涙を抑えているが、今度は嬉し涙のようだ。
「あっ、いけない。そろそろバスの時間だわ」
と、母が慌てて立ち上がった。割烹着を脱ぎながら、サンダルを履いて玄関を出て行く母を追いかけるように、私とミツコ姉さんが続いた。幼稚園バスが止まる一里塚の前には、既にお迎えのお祖父ちゃんお祖母ちゃんたちが集まっていた。大抵の家で共稼ぎの両親に変わって祖父母が帰りのバスを迎えるのだ。中には幼稚園に入る前のお孫さんを連れた方々も数名いる。青葉が茂った槻木の下で、バスが来る方向を向いてみんなが待ってる。すると、私の後ろの方で子供の笑い声が聞こえてきた。見ると、ミツコ姉さんが三歳くらいの男の子に一生懸命愛想を振りまいているのだった。男の子はミツコ姉さんの仕草を見て嬉々としている。やっぱりミツコ姉さんだ。ミツコ姉さんがそこにいるだけで、その場が明るくなるのだ。
「あっ、バスが来ましたよ」
あるお祖母ちゃんの声に、みんなが反応した。緩い下り坂の向こうに黄色い幼稚園バスが見えた。バスはゆっくりと慎重にお迎えの集団に近づいてくる。バスが止まり自動ドアが開くと、いち早くミツコ姉さんが駆け寄った。そして、どの子にも区別なくハイタッチをして迎えるのだった。黙っていられないのだ。可愛い子供たちの姿に自然と体が反応している、といった感だった。周りにいる方々にも少しも不快な感じを与えないのだ。全く、これはミツコ姉さんの人徳と言うしかない。私の二人の子供も当たり前のようにミツコ姉さんとハイタッチをして、そのまま手を繋いで歩き出すのだった。そして、私と母は自然とその後を付いていく形になっていた。
「さあ、家に帰ったら、赤ちゃんに会いに行こうな」
と、私は後ろから子供たちに声をかけた。
「伯母さんも一緒」
と長女が言った。
「勿論だよ。ねえミツコ姉さん」
ミツコ姉さんはにこにこ笑って頷いていた。
家に入り、子供たちを着替えさせると、私たちはすぐに車に乗って妻と赤ちゃんが待つ病院へ出かけた。後部座席では、ミツコ姉さんを真ん中にして子供たちが大喜びではしゃいでいる。まるで、遠足か何処かに出掛けるときのよう。そして、車が商店街のアーケードに差し掛かったとき、ミツコ姉さんが私に言った。
「修さん、すみません。ここで私を下ろして欲しいんだけど・・・」
「ええ、どうしたんですか。急に」
「ごめんなさい。ちょっと買い物がしたくて」
福島に寄るって言っていたから、きっとそのときのお土産でも買うんだろう、と思った。だから私は、少しの疑念も持たずに、
「分かりました。ここら辺でいいですか」
とアーケードの真ん中辺りに車を止めた。
「ええ、降りちゃうのお」
と、子供たちは不満そうだったが、ミツコ姉さんは、
「後から行くからね」
と、大きな笑顔を子供たちに見せてから車を降りた。そして、走り出した車に向かって小さくジャンプしながら両手を大きく振ったかと思うと、今度は何度も何度も頭を下げるのだった。子供たちはリアガラスの向こうで大きな動作を繰り返すミツコ姉さんの姿を不思議そうに眺めて小さく手を振っていた。後部座席が急にシーンとなった。
病室は柔らかな空気に満ちていた。幸せの空間である。六人部屋の左、その真ん中に妻のベットがあり、その脇に小さなベットが置かれている。妻はベットの中の赤ちゃんに手を差し伸べているところだった。
「お母さん」
と言って、子供たちが小さなベットの方に駆け寄る。妻は子供たちを一人ずつ順番に抱きしめた。子供たちは暫く遠ざかっていた母の香りに満足した様子だった。そして、
「かわいい。ねえ、抱っこしていい」
とせがんだ。
「いいわよ。ちょっと待ってね」
と、妻は小さなベットから赤ちゃんを抱き上げ、順番に抱かせた。子供たちの抱き方は危なっかしかったが、それは妹の誕生を体で感じる大切な瞬間だった。始めは緊張した面持ちの子供たちだったが、妹と顔を合わせると、自然に笑顔がこぼれてくる。やっぱり兄妹なんだなあと思った。
「さあ、そろそろいいかな」
と、妻が慎重に受け取り、今度は自分のベットに赤ちゃんを寝かせた。子供たちはベットに伏せるようにして、顔を寄せ合って小さな妹を見ていた。病室の中では、生まれたての赤ちゃんが代わり番こに泣いていた。その新しい泣き声を聞いただけでも生命のすばらしさを感じることが出来る。病室の中は希望で一杯なのである。
「あら、ミツコさん遅いわね」
と母が呟いた。そして、母は今朝ミツコ姉さんから聞いた話の中から、阪神大震災のときにミツコ姉さんも被災していたことだけを妻に伝えた。妻は、
「ええ、本当に・・・」
と、親戚に被災者がいたことに驚いていた。そのとき、今度は家の赤ちゃんが泣き始めた。
妻は、すぐに、
「オシッコね」
と分かり、おしめを取り替える準備に取りかかった。私たちは小一時間を病室で過ごし、ミツコ姉さんが来るのを待っていたのだが、ミツコ姉さんは一向に現れないので、もしもミツコ姉さんが来たら、先に家に帰っているからと伝えるように妻に頼んで、私たちはひとまず家に帰ることにした。
家に帰ってみると、玄関の前に大きな箱が置かれてあった。見ると、その箱には町に一軒しかない玩具屋さん「おもちゃのヒフミ」の包装が施されてあった。喜んだのは子供たちである。それは、クリスマスのときにサンタクロースが持ってきてくれる包み紙と同じだったからである。
「何だろう」
「おもちゃだよ。きっと」
「わーい、おもちゃだ、おもちゃだ」
と、大盛り上がりだ。
「わかった、わかった。でもいったい誰だろう。宅急便じゃないみたいだし・・・。」
と、取りあえず家の中に入れようと箱に手を掛けようとしたとき、箱と包装紙の間に白い封筒が挟まっているのに気付いた。
「叔母さん、修さん、直美さん、ショウタくん、ナエちゃん、そして赤ちゃん。また、私、皆様の大切な時間のお邪魔をしてしまったみたいです。本当にごめんなさい。でも、今回は皆様とお会いすることが出来てこれまで以上によかったと思っています。何故って、皆様の大切なかわいい赤ちゃんとお会いすることができたんですもの。その喜びの瞬間を私も一緒に味わわせていただいたこと、感謝いたします。皆様方は本当に温かいご家族です。その思いやりの心、優しさに接し、私の心は癒されました。これまで、私にはあまりにもいろいろな事があり過ぎました。でもこれからは辛かったことは忘れて、楽しかったことだけを胸に生きていこうと思っています。私は、こんな性格ですから、どんな所ででも生きていくことができます。それだけは自信があります。だから、叔母さん、修さん、直美さん、私のことは心配しないでください。いつかきっと、私も皆様のような家庭をもちたいと思います。
箱の中の品物は、私から赤ちゃんへのプレゼントです。赤ちゃんの健やかな成長と皆様方のご健康をお祈りいたします。本当に皆様ありがとうございました。さようなら。 ミツコ」
手紙を読み終えようとしていたとき、子供たちの声が聞こえてきた。
「うわあ、すごい」
「きれいねえ、これなあに」
私が手紙を読んでいる間に母と子供たちで箱の梱包を解いていたのである。箱の中に入っていたのは、ベビーベットの上に飾るメリーゴーランドだった。ミツコ姉さんは、赤ちゃんが家に帰ってきたときのために用意していたベビーベットをちゃんと覚えていて、その天上から吊すメリーゴランドを贈ってくれたのである。
「ミツコさんったら・・・」
母はミツコ姉さんの計らいに目を潤ませていた。私は早速そのメリーゴーランドをベビーベットの上に吊してみた。赤を基調とした明るい色の大きなメリーゴーランドである。
「あっ、キリンだ。ゾウもいるよ」
「こっちには、ラッパやタイコもあるよ」
動物や楽器などをあしらったメリーゴーランドに子供たちは大喜びである。スイッチを入れてみると、メリーゴーランドが静かに回り、音楽を奏で始めた。
ゆりかごの唄を
カナリヤが歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
うっとりするような音色だった。ミツコ姉さんの優しさが真っ直ぐに伝わってくる。
「ミツコさん、そんなにお金持っていないはずなのに・・・。それなのに、こんな高価な物を・・・」
母はミツコ姉さんが家を出て行くときには、幾ばくかの餞別を渡そうと思っていたに違いない。これまでもいつもそうだったから、母は少し心残りなようだった。私だってそうだ。ミツコ姉さんはいつだって何か大切なことがある時に限ってやって来るものだから、はっきり言ってとても迷惑に思っていた。でも、今回は違う。ミツコ姉さんの過去も現在もある程度分かった上で、無理なく彼女のことを受け入れることができるようになったのだ。同時にミツコ姉さんの変化にも著しいものがあった。駆け落ち、夜逃げ、被災、と何もいいことがなかったように見えるミツコ姉さんではあるが、そうした壮絶な体験の中でミツコ姉さん自身が変化を遂げていったのではないのか。少し烏滸がましいことを言ってしまった。しかし、今回のことで私自身が自分の変容を感じることが出来たということだけは言えそうだ。私は今、三十五歳になって、やっと自分のことを大人だと思えるようになったのである。
おわりに
十五年という歳月は、相当なものである。あの時生まれた赤ちゃんは、今中学三年で、明日明日高校受検ということになっている。さて、ミツコ姉さんはいったいどのような十五年を過ごしたのだろうか。ミツコ姉さんのことだから、きっと人との関わりを大切にした仕事についているに違いない。そして、持ち前の明るさで、その場の雰囲気を和ませていることだろう。ミツコ姉さんの部屋には佐久間さんの遺影があって、毎朝手を合わせてから職場に向かっているのだろう。還暦も過ぎたのだから、休日は友達と温泉にでも出掛けられるようだったらよいのだが・・・。私たちのことは決して忘れてはいないだろう。ただ、もう迷惑をかけてはならない、という気持ちがあるので、訪問は遠慮しているのではないだろうか。どこか遠くの町で、ときどき私たちのことを思い出しているのだろう。ミツコ姉さんは、そうやって斟酌する年齢に十分達したのだ。でも、もしできるのであれば、もう一度、私たちの大切な時に突然私の家を訪れて欲しい。語尾を跳ね上げるような福島のイントネーションで「叔母さん、私また来ちゃった」と話して欲しい。そして、もしそれが本当に実現するものなのであれば、それは、差し当たり、長男か長女の結婚式の日、ということになるのではないか、と思うのである。
(完)