悲劇の記憶
GREEにて望月名義で投稿させていただいた作品です。
夏特有の香りが、夕刻に差し掛かって尚ちりちりと肌を焦がす陽光が、湿気と熱を孕んだ風が、蜘蛛の糸のようにはりつめた緊張感に支配された全身にまとわりつく。先程潤したばかりの喉が早くも渇きを訴え、高鳴る鼓動は治まることを知らない。
陸上競技場に敷かれた真っ赤なタータンの上で、四肢を解すように身体を軽く動かす。一年の最初は露出度の高いユニフォームが嫌でたまらなかったが、三年となった今ではもう気にならない。
幾度となく踏みしめてきたタータンを見渡し、私がバトンを渡す第二走者の友人を、その友人がバトンを渡す二つ下の後輩を、メンバーの意思をバトンとして受け止めゴールへと運ぶアンカーの友人を交互に見つめていく。
震える息を深く吐き出し、四百メートルリレーの始まりを告げる放送に身体を強張らせる。
逃げ出したいほどの緊張を無理矢理胸の片隅に押しやり、スタート地点に立つ。緊張に震える指と左足の膝をタータンに付け、スターティングブロックに足を置く。
「よーい」
スピーカー越しの野太い声。膝を伸ばし腰を持ち上げる。息がつまるような静寂。
空気を引き裂く発砲音が、波紋のように広がる。同時に、私は力強く足を蹴り出し、出発地点を飛び出す。聞き慣れたカシャン、という軽い音が背後のスタブロから上がる。
上体をやや傾け、コーナーを曲がる。雑念を振り払い、私は無我夢中で腕を振り、足を運ぶ。スパイク越しに、タータンの弾力が確かに伝わる。
緊張した面持ちで待っていた友人が私の位置を確認した後、走り出す。
「はいっ!」
バトンを繋ぐ掛け声を発すると、前の友人がこちらへ手を伸ばす。私はその手へしっかりとバトンを渡し、彼女が握ると同時に手を離す。私の好みで選びとった水色のバトンが太陽の熱い光を弾く。
バトンを渡した友人の背を押すように、私は声を張り上げて彼女の名を呼びながら応援する。途端に緊張が解れ、周りの喧騒が私の鼓膜を揺らしていることに気が付く。
友人の手から、後輩へとバトンが渡る。期待の新星と呼ぶに相応しい彼女の走りはかもしかのようにしなやかで、風のように速い。私は目を見張って彼女の姿を追う。コーナーを曲がりきった彼女が、アンカーの友人へと近付く。
途端――、風にざわつく木々のような思いが私の胸を掠める。
「――お願い」
その予感を振り払うように、祈るような呻き声が口の隙間から漏れる。
アンカーの友人が走り出す。後輩が減速する。二人の距離に思わず顔が歪む。
あっと思った時にはもう、すべてが終わっていた。バトンパスの区間を示すラインを、アンカーの友人が踏み越す。振り返る友人。それに追い付けなかった後輩。二人の足がどちらからともなく止まる。その二人の隣を、無情にも他の選手たちが走り過ぎる。
遠目からでも、後輩がアンカーの友人に手を合わせて謝っているのが分かった。二人は行き場を失ったように立ち尽くしている。
あぁ、と思う。
唐突に、夏の終わりと中学最後の県総合体育大会のリレーの終わりを告げられた気がした。
――そこからの記憶はあやふやで、どうやって選手の控えテントへ戻ったのか覚えていない。ただ、泣くまいと心に強く決めたことは鮮明に覚えている。幼い頃の泣き虫な性格を未だに引きずっている私は、本当を言えば泣きたかった。人目も憚らず、子供のように声を上げて泣きたかった。
けど――、今一番泣きたいのは後輩のはずだ。先輩たちをゴールさせることが出来なかったと、彼女は今自分を責めているだろう。そんな子の前で泣けば、彼女を傷付けることにしかならない。
私は唇を噛みしめたまま、メンバーが集まっている場所へ戻る。悲しげな瞳で無理矢理微笑んでいる友人と沈んだ後輩の顔を見、改めてこれが最後のリレーだったんだと、私の心は強かに打ち拉しがれた。
結局私たちのチームはバトンパスのミスによって失格となり、記録は無論残らなかった。
後悔はない、と言えば嘘になる。あの時、走者の順を変えていればこんな結末は訪れなかったかもしれない。だが、幾ら考えたところで時間はもう戻らない。それに、後悔も失敗も無念も、すべてはいつか自分のためになるものだ。だから、あの日、炎天下の下で唇を噛みしめたあの記憶は、私の胸をさながら夏の日差しのように熱く焦がしながら、私の悲劇の記憶の一ページとして、これからの私を作り上げていくのだと思う。