第7話:夜の噴水
ハウスの地下訓練場を出た頃には、外の光はすでに大きく傾き、昼間の白い明るさとは違う柔らかな赤が街全体を包み込み始めていて、長く伸びる影が石畳の上を滑るように広がりながら、ついさっきまで戦っていた地下の閉ざされた空間とはまるで違う“開けた世界”へと意識をゆっくり引き戻してくる
港町カイニーの空は深く染まり、海の方から吹いてくる風には潮の匂いが混ざり、わずかに湿り気を帯びた空気が肌に触れるたびに、戦闘で火照っていた体温が少しずつ外へ逃げていくような感覚が広がり、呼吸のたびに肺の奥まで冷たい空気が流れ込むことで、ようやく一息つけるという実感が遅れて追いついてくる
通りにはすでに灯りがつき始めていて、店先のランタンや窓から漏れる光がゆらゆらと揺れながら、昼の喧騒とは違う穏やかな夜の準備を整えていくように、街の輪郭をゆっくりと変えていった
ミミがその場で大きく背伸びをし、腕を上に伸ばしたまま思いきり息を吐き出すことで、溜め込んでいた疲労と緊張をそのまま押し出すように声を上げる
「はぁーー!疲れたぁ!」
その声は遠慮がなく、だがどこか楽しさを含んでいて、戦いを終えた後の解放感そのものが形になったようだった
カイルも肩を回しながら筋肉の状態を確かめるように動き、そのままゆっくりと首を鳴らしながら、短く言葉を落とす
「……いい戦いだった」
一言だけだが、その中に含まれる評価は重く、軽い感想ではないことがはっきりと伝わる言い方だった
アルトはその二人の様子を見て、自然と口元にわずかな笑みを浮かべる
「三人とも強かったね」
その言葉に対して、ミミは間髪入れずに反応する
「でしょ!」
自信と嬉しさがそのまま混ざった声で答えながら、ほんの少しだけ胸を張る仕草を見せるのが、いかにも彼女らしい
カイルも一度だけ頷き、視線を前へ戻したまま低く続ける
「いい連携だった」
アルトはそれに軽く同意しつつ、少しだけ声色を落として現実的な評価を重ねる
「普通の冒険者なら、あの場で崩れててもおかしくなかったと思うよ」
それは誇張ではなく、あくまで事実としての言葉だったが、ミミはそれを重く受け取ることなく、むしろ楽しそうに笑って返す
「アルくんが強すぎるんだよ!」
アルトは肩をすくめる
「三対一だったしね」
軽く流すように言うが、その裏には戦いのバランスを冷静に見ている意識がある
その空気のまま、カイルが少しだけ間を置いてから口を開く
「……明日はどうする」
問いかけというより、次に進むための確認のような静かな声だった
ミミはほとんど考える間もなく、すぐに答える
「ダンジョン!」
その言葉には迷いが一切なく、さらに勢いのまま続ける
「せっかくこの街来たんだし!」
カイルもそれに同意するように頷き、視線を西へ向ける
「西のダンジョンだな」
アルトはその流れを自然に受け取り、補足するように言う
「土のダンジョンだね」
ミミがぱっと振り向き、目を輝かせる
「アルくん詳しい!」
アルトは軽く笑いながら肩の力を抜く
「まぁね」
そしてそのまま、ほんのわずかな間を挟んでから続ける
「じゃあ僕も行くよ」
ミミの動きが一瞬止まり、驚きがそのまま表情に出る
「え?」
アルトはその反応を見ながらも、落ち着いたまま説明する
「ハウスの新人は最初、先輩と一緒に潜るのが基本なんだよ、ダンジョンは街の近くでも普通に死ぬから」
軽く言っているようで、その内容は決して軽くない現実だった
カイルが短く頷く
「……合理的だ」
ミミはすぐに明るさを取り戻し、笑顔で言う
「アルくん先生だ!」
アルトは少しだけ視線を逸らしながら苦笑する
「あと、ちょっと気になることもあるし」
ミミが首を傾げる
「気になる?」
アルトはそれ以上は言わず、軽く笑って流す
「まぁ、行けば分かるよ」
ニナはそのやり取りの間、何も言わずにアルトを見ていたが、その視線にはわずかな探るような色が含まれていた
そのまま四人は宿へと向かい、夜へと移り変わる街の中を歩いていくうちに、昼間の賑わいがゆっくりと静まり、代わりに落ち着いた空気が街全体を包み込んでいくことで、自然と会話の間にも余白が生まれていく
宿に着く頃には、空は完全に夜へと変わり、灯りの輪郭だけが通りを照らしていた
ミミが元気よく言う
「今日はぐっすり寝る!」
カイルもそれに合わせて頷く
「体力は温存する」
明日への準備を含んだ、短いが重みのある言葉だった
部屋はミミとニナ、そしてカイルで分かれ、ミミがふとアルトへ振り向く
「アルくんは?」
アルトは軽く笑う
「僕は家あるから」
ミミが手を振る
「また明日ね!」
カイルも短く続ける
「朝ここで集合だ」
アルトは頷く
「了解」
三人が宿の中へと入っていくのを見送りながら、アルトはその場に少しだけ残る
夜のカイニーは静かで、街の中央にある小さな噴水から流れる水音だけが一定のリズムで響き続けており、その音が周囲の静寂を逆に強調するように広がっていた
アルトはそのベンチに腰を下ろし、右手を見つめる
ほんのり赤くなった手のひら
「……やっぱり熱かったな」
小さく呟いたその瞬間、背後から声がかかる
「アルト」
振り向くと、そこにいたのはニナだった
アルトは少しだけ驚く
「ニナ?」
ニナは歩み寄り、そのままアルトの手へと視線を落とす
「手」
短く言う
アルトは苦笑する
「見てたんだ」
ニナは小さく頷く
「うん」
アルトは軽く流そうとする
「このくらい平気だよ」
だがニナは首を振る
「平気じゃない」
そのまま手を取り、逃がさないように軽く指を添える
「じっとして」
そして静かに魔力を流す
「【水よ】」
冷たい水の感触が手のひらを包み込み、火照っていた熱がゆっくりと引いていくと同時に、じんわりとした心地よさが皮膚の奥へと広がっていくことで、さっきまで意識していなかった疲労までも一緒に解けていくような感覚が残る
やがて水が消え、アルトは手を開く
「……すごい」
思わず漏れる言葉
ニナは短く言う
「簡単」
二人はそのままベンチに並んで座り、噴水の水音と夜風の流れの中で、自然と同じ方向へ視線を向ける
「カイニーの夜、静かでしょ」
アルトが言うと、ニナも空を見上げる
「……綺麗」
星が、はっきりと見えていた
「昼はうるさいけどね」
アルトが軽く笑いながら言うと、ニナが小さく声をかける
「アルト」
「ん?」
「この街、好き?」
アルトは少しだけ考え、視線を遠くへ向けてから答える
「うん、好き……ここで育ったし」
ニナが続けて聞く
「家族は?」
アルトはほんの一瞬だけ視線を逸らす
「いない」
短く答えるが、そのあとすぐに空気を和らげるように続ける
「でも、街の人には結構世話になってるよ、パン屋とか港の人とか、ギルドとか」
ニナは何も言わずに聞いている
アルトは少し笑いながら続ける
「だからさ、初めて来た人が楽しそうにしてると、ちょっと嬉しいんだよね」
ニナは小さく頷く
「……分かる」
「森、私のいた場所、初めて来た人が驚くの好き」
アルトは笑う
「似てるね」
そのあと二人は、特別な意味を持たないようでいてどこか大切に感じられるような、ゆるやかな会話を続けることで、時間そのものが静かに流れていくのを共有する
アルトはふと隣を見る
夜風に揺れる青い髪と、その横顔
(……なんか、いいな)
自然とそう思う
小さく笑う
(今日、いい日だったな)
やがてニナが立ち上がる
「そろそろ、戻る」
アルトも立ち上がる
「うん」
ニナは少しだけアルトを見る
そして小さく言う
「また明日ね」
アルトが少し驚くと、ニナは続ける
「……約束」
その言葉は静かだが、確かに残るものだった
アルトは笑う
「うん、約束」
ニナは小さく頷き、そのまま宿へと戻っていく
アルトはその背中をしばらく見送り、やがて視線を上げる
夜空に広がる星の光が、静かに瞬いている
(明日、楽しみだな)
その感情をそのまま抱えながら、アルトはゆっくりと家へ向かって歩き出した
夜の静けさの中へ溶け込むように、次へと続く一歩を踏みしめながら
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!




