第35話:遠雷の下で、足を止める場所
空の色が変わり始めたのは、昼を過ぎてしばらく経ったころだった
それまで澄み渡っていた青は、遠くの地平線の向こうからゆっくりと灰色に侵されるように濁り始め、薄く広がっていた雲の奥に、さらに重く沈んだ影が幾層にも重なっていくことで、光そのものが鈍く削られていき、世界全体の輪郭がわずかに曖昧に感じられるようになっていく
風が変わる
それは強さではなく、“質”の変化だった
頬に触れる空気は、さっきまでの乾いた軽さを失い、湿り気を帯びて肌にまとわりつくように残ることで、呼吸のたびに肺の奥へと入り込んでくる空気がわずかに重くなり、身体の内側からじわじわと圧をかけてくる
アルトは歩きながら視線を上げる
雲はまだ遠い
だが、その奥で何かが確実に動いている
空の深いところで、目に見えない流れが渦を巻き、押し寄せてくるような、そんな感覚が肌を通して伝わってくる
(……来る)
言葉にしなくても分かる
確信に近い予感だった
その瞬間、空の奥で低い音が転がる
地面を這うように、ゆっくりと響くその音は、遠いはずなのに身体の内側へ直接触れてくるような重さを持っていて、耳ではなく骨で感じるような不快な振動となって残る
ミミが肩をすくめる
「なんか……やばそうじゃない?」
軽く言ったはずの言葉の裏で、視線は完全に空に固定されている
カイルは歩みを緩めず、短く答える
「降る」
迷いのない断定だった
ニナはすでに空ではなく、周囲を見ている
地形、木々の配置、風の抜け方
「……強い雨になる」
小さく、だがはっきりと言う
ただ濡れるだけでは済まないことを理解している声だった
アルトは周囲を見渡す
このまま進めば、遮るもののない場所でまともに受ける
「休める場所、探そう」
その一言で、四人の動きが変わる
歩く速度が自然と上がる
風がさらに強くなる
草が大きく揺れ、葉と葉が擦れ合う音が連続して響き、空気そのものがざわつき始める
その中で、不意に“バチッ”とした刺激が指先から腕へと走る
静電気に似ている
だが、それよりも鋭く、そして生々しい
ミミが思わず腕を引く
「今のなに!?」
ニナが短く答える
「……雷、近い」
その言葉が落ちた直後、さっきよりも明確に近い場所で雷鳴が響く
ドォン……
空気が震え、地面の奥から押し上げられるような重さが足元に伝わる
アルトは無意識に足を速める
(……急がないとまずい)
そのとき、前方の木々の隙間に人工的な輪郭が見える
木造の建物
煙の細い筋
簡素な柵
小さな集落だった
近づくにつれて、その場所の空気がよりはっきりと感じられるようになる
人の気配はある
だが、どこか落ち着かない
誰もが空を気にしている
風に混じって、湿った土と濡れかけた木の匂いが鼻をかすめる
「……あそこだ」
カイルが言う
四人はそのまま村へ向かう
近づくにつれて、空気の圧がさらに増していく
まるで空そのものが低く降りてきているような圧迫感
アルトが一歩前に出る
「すまない、雨を避けたい」
余計な言葉はつけない
状況だけを伝える
老人がゆっくりと前に出る
深く刻まれた皺
長年この場所で生きてきた者の、濁りのない目
「東へ行くのか」
アルトは頷く
「そうだ」
老人は一度空を見上げる
雲の動きを見ている
それから視線を戻す
「……金はあるか」
現実的な問い
カイルが即座に袋を出す
「ある」
迷いのない返答
老人はわずかに間を置き、そして頷く
「一晩だ」
「部屋は狭いが、屋根はある」
その言葉とほぼ同時に、空気がさらに重く沈む
「助かる」
アルトが言い、案内されるまま建物へ入る
木の扉が軋む
中に入った瞬間、外の風が遮られる
湿った空気は残る
だが、それでも外とは違う
木の匂い
乾いた布
囲われた空間の安心感
その瞬間――
バァァァァァッ!!
叩きつけるような雨が屋根を打ち始める
まるで空が一気に崩れ落ちたかのような勢い
視界の外側は白く霞み、音のほとんどが水に塗り潰される
ミミが息を吐く
「……間に合った……」
その声には、はっきりと安堵が滲んでいた
カイルは窓の方へ視線を向ける
流れ落ちる水
歪む景色
「……タイミングが良すぎる」
ニナが静かに言う
「……違う」
三人が見る
ニナは外を見たまま続ける
「アレかも」
雨ではない
その奥にあるもの
アルトも同じ方向を見る
遠く、雲の奥で青白い光が走る
空の内部が裂けるように一瞬だけ光る
そのあとに遅れてくる重い音
ドォン……
老人が口を開く
「最近、どうもおかしい」
四人の意識が向く
「この辺りはここまで雷の影響はなかったが、最近はよく落ちる」
ゆっくりとした声
だが確信を持っている
アルトは硬貨を取り出しながら、静かに問いを重ねる
「情報がほしい、ダンジョンについてなにか知らないか?」
老人は硬貨を受け取り、わずかに口元を緩める
「雷のダンジョンに行きたいなら、ライゼンの街が一番近い」
一拍
「だが最近、攻略者が一向に現れてないらしい」
その言葉が、空気をさらに重くする
「何にするにせよ、このまま進んでたら雷に打たれてただろうな」
アルトは小さく頷く
「ありがとう」
目的地が定まる
ヴァルディスの街――ライゼン
そのまま四人は部屋へ入る
一つの部屋
四人で使うには狭い
だが、壁があり、屋根があり、風が遮られている
それだけで十分だった
荷物を下ろす
湿った空気の匂いが服に残る
木の匂いと混ざり、少しずつ落ち着いていく
外では雨が止まない
むしろ強くなる
雷も続く
時間がゆっくりと流れていく
――
夜
雨音は弱まらない
一定の強さを保ったまま、休むことなく屋根を叩き続けている
その単調な音が、逆に意識を眠りへと引き込む
四人は横になっている
距離は近い
だが、不思議と窮屈さはない
そのまま、順に眠りへ落ちていく
――
どれくらい時間が経ったのか分からない
アルトは目を覚ます
理由ははっきりしている
ドォン……
雷の音
さっきよりも近い
窓の外が一瞬だけ白く染まり、その直後に遅れて重い音が空間を揺らす
アルトはゆっくりと体を起こす
空気は冷たく、湿っている
雨の匂いが濃い
そのとき、視線の先に動いている影がある
ニナが起きている
窓の方を見ている
背中越しでも分かる
同じ理由で目を覚ましたことが
「……起きてたんだ」
アルトが小さく言う
ニナは視線を外さずに答える
「……うるさい」
短い
だが、それ以上の意味を含んでいる
アルトは隣に座る
外を見る
雨が流れる
雷が走る
空が歪む
「……近いね」
アルトが言う
ニナは小さく頷く
「……ダンジョン」
その言葉は、もはや確信に近かった
沈黙が落ちる
雨音だけが続く
アルトはゆっくりと息を吐く
「ニナたちが最初に行ったのは、あのダンジョン?」
ニナは少しだけ間を置いてから答える
「……そう」
「でも、歪みがおかしくなって、飛ばされた」
アルトは小さく頷く
「土のダンジョンと似てる」
思考が繋がる
ニナも同じことを考えている
「……核があるかもしれない」
小さく言う
そのあと、少しだけ視線を落とす
「……無茶、しないで」
アルトは困ったように笑う
「気をつけるよ」
一拍
「ニナを危険な目にあわせないようにする」
ニナの視線がわずかに揺れる
「……一緒に行くならいい」
短い
だが、それは拒絶ではない
遠くで雷が鳴る
空が苦しそうに唸る
アルトはゆっくりと言葉を続ける
「まだ数週間だけどさ」
「一緒に旅できて、よかったと思ってる」
ニナは少しだけ間を置く
「……そう?」
「よかった」
その言葉に、ほんのわずかな温度が混じる
アルトは少しだけ照れながら続ける
「ニナと会えたのが一番だけどね」
ニナの視線が泳ぐ
言葉を探すように
「……なんて言えばいいか分からない」
少し困ったように
「でも……こうやって一緒にいるの、楽しい」
「仲間と旅するの、好き」
一拍
「ダンジョンは……怖いけど」
その言葉の裏で、ニナの中に記憶がよぎる
核層
アルトの崩壊
あの瞬間
ニナは一度だけゆっくりと瞬きをする
「……うん」
それだけ
そのあと、ほんの少しだけアルトを見る
「……大丈夫?」
アルトは少しだけ笑う
「ニナがいるなら」
自然に出る
ニナの瞳が揺れる
「……そっちも」
それだけ返す
雷がまた落ちる
白い光が部屋を満たす
その一瞬だけ、二人の距離がはっきりと浮かび上がる
そしてすぐに闇へ戻る
雨音だけが残る
その静けさの中で――
カイルの耳だけが、わずかに動いていた
昔こち亀で雷で発電する話で、笑ってたことを思い出しました
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!




