第28話:戻る境界と、ほどける手
核層の空気は、深層とはまったく異なる質を持っていたが、それでも完全に静まったわけではなく、先ほどまでそこに存在していた“意志のある流れ”が消えたあとも、わずかに残った歪みが空間の奥でゆっくりと揺れ続けていることで、ここがただの空間ではないことを静かに主張し続けていた
その中心にあった核の気配はすでに落ち着いているが、それでも完全に“何もない場所”には戻っておらず、むしろ整えられたことで、逆に均衡の取れた静けさが広がっているような、不自然な安定が場全体を包んでいた
ニナの手は、その中でも変わらずアルトの手を捉えたまま離れておらず、指先から流し込まれる魔力はすでに全開のものではないが、それでも細く長く続く流れとしてアルトの内側に触れ続けていることで、完全に手放すにはまだ早いという判断が無言のまま示されていた
アルトはその感触を受け取りながら、先ほどまでの崩壊が嘘のように消えている自分の状態を改めて確かめるようにゆっくりと呼吸を整える
痛みはない
頭の奥を刺していた感覚も消えている
それでも、完全に元に戻ったという感覚はなく、むしろどこか“整いすぎている”ような違和感が残っていることで、変化そのものは確実に起きているのだと理解できてしまう
(……軽い)
体が、驚くほど軽い
足を動かすたびに、接地の感覚がはっきりと伝わり、空気の流れすら読めるような錯覚があることで、自分の感覚が一段階引き上げられていることを否応なく実感させられる
だがそれと同時に、その変化が“どこから来たものなのか”を考えた瞬間、わずかな引っかかりが残る
核
あの声
そして――取り込んだ力
思考がそこまで至ったところで、ニナが小さく声を落とす
「……戻る」
短いが、迷いのない言葉だった
確認ではなく、判断
ここに留まる理由はもうないと分かっているからこそ、余計な言葉は必要なかった
アルトは一瞬だけ周囲を見渡し、わずかに残る歪みの奥へ視線を向ける
そこにある揺らぎは、来るときに通ったものとは違い、どこか深さを持ったまま静かに沈んでいるように見え、その奥に繋がっているのが“元の深層”であることを感覚的に理解させてくる
(……戻れるな)
そう思う自分に対して、少しだけ違和感が残る
以前ならもっと慎重になっていたはずなのに、今は“行ける”という確信が先に来る
それでも、その理由を深く考えることはせず、アルトは小さく頷く
「……ああ」
ニナはその返事を受けて、繋いだ手の力をほんの少しだけ強める
それは確認のようでもあり、合図のようでもあった
そのまま、一歩踏み出す
揺らぎに触れる
ビリ、とわずかな震えが指先から腕へと走るが、拒絶される感覚はなく、むしろ“受け入れられる側”へと変わっているような奇妙な馴染み方をすることで、以前との違いをはっきりと感じさせてくる
アルトも続く
足を踏み入れる瞬間、空間が一気に反転するような感覚に包まれ、視界が白く引き伸ばされると同時に、音も重さも消え去り、自分の輪郭すら曖昧になる中で、唯一残るのは繋がれた手の感触だけで、それが位置の基準として機能することで完全に崩れることを防いでいる奇妙な安定が生まれる
一瞬なのか、長く引き延ばされた時間なのか分からない感覚のあと
ドンッ――
足裏に硬い地面の感触が戻る
空気が一気に流れ込む
さっきまでの重さが戻る
湿った土と鉱石の匂いが鼻の奥に刺さり、空気の圧が皮膚にまとわりつくことで、ここが深層であることを身体が先に理解する
アルトはゆっくりと息を吐き、視界を戻す
ニナもすぐ横にいる
手はまだ繋がれたまま
「……大丈夫?」
すぐに確認が来る
声はさっきよりも少しだけ落ち着いているが、それでも完全には安心していないことが分かる響きだった
アルトは軽く肩を回し、呼吸を整えながら答える
「……さっきよりはいい」
事実だった
重さはある
だが、さっきのような崩れる感覚はない
むしろ――
(……動ける)
深層の圧の中でも、しっかりと立てる
それだけで十分すぎる変化だった
ニナはその様子を見て、ほんの少しだけ息を吐く
それでも、手は離さないまま視線をわずかに下げる
「……まだ、完全じゃない」
小さく言う
アルトはそれに対して何も言わず、ただ軽く頷くことで受け止める
そのまま二人は歩き出す
深層の重い空気の中を、出口へ向かって進む道
足音が遅れて返る
遠くの水滴の音が低く響く
空気が肺に重くまとわりつく
そのすべてが“戻ってきた”ことを実感させる
そしてしばらく進んだ先で、前方に二つの気配が現れる
ミミとカイルだった
ミミがすぐにこちらに気づき、ぱっと表情を明るくする
「アルト!ニナ!」
駆け寄ってくる
カイルもその後ろから歩み寄るが、その視線はすでに二人の状態を捉えていた
そして――
ミミの視線が、ふと下へ落ちる
繋がれた手に止まる
一瞬の間のあと
「……え、なにそれ」
軽く、だがはっきりと茶化す声が落ちる
「そんな仲良くなってたの?」
その一言で、空気が変わる
アルトの思考が止まる
(……あ)
一気に現実に引き戻される
ニナも同じように視線を落とし、自分たちの手を見てから、ほんのわずかに動きを止める
その瞬間――
二人の指が、同時にほどける
意識してではなく、反射的に
触れていた温度が、一瞬で消える
アルトの胸の奥に、わずかな空白が残る
(……あ)
ほんの一瞬だけ、惜しいと思う自分に気づく
すぐに自己嫌悪が追いつく
(……何考えてんだよ)
ミミはその様子を見て、にやっと笑う
「今の絶対タイミングで離したよね?」
完全に見抜いている声だった
アルトは言葉に詰まり、視線を逸らすしかない
ニナはわずかに視線を横へ流し、ほんの少しだけ頬に色を乗せながらも、それ以上は何も言わない
ただ――
嫌そうではない
むしろ、どこか落ち着かないまま残っているような表情をしている
カイルはそのやり取りを黙って見ていた
何も言わない
だが、ほんの一瞬だけ視線が鋭くなり、そのあとすぐに何事もなかったように外すことで、内側に生まれたわずかな引っかかりを押し込めるように振る舞う
「……戻るぞ」
短く言う
話題を切るように
ミミが「あ、うん」と返す
空気が戻る
四人はそのまま歩き出す
深層を抜け、いくつもの揺らぎを越えて外へ向かう道のりの中で、空気は徐々に軽くなり、湿った重さが抜けていくことで、ようやくダンジョンの外へ近づいていることを身体が理解し始める
アルトは歩きながら、ふと手を見る
もう、繋がっていない
それが当たり前なのに
ほんの少しだけ、物足りなさが残る
(……ほんと、やばいな)
小さく息を吐く
そして前を見る
出口は、もうすぐそこだった
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