第18話:触れてはいけないもの
三体の魔物が崩れたあと、空気はしばらくのあいだ静まり返ったままで、戦闘の余韻として残っていた振動だけが遅れて地面の奥からじわりと伝わり、踏みしめるたびにわずかに沈んで戻る土の感触が、ここが中層とは違う領域であることを静かに主張していた。
カイルが剣を肩に担ぎながら息を吐く。
「……少し止まるか」
ミミはその場にしゃがみ込み、肩で息をしながら苦笑いを浮かべる。
「さんせー……ちょっときつい……」
ニナは周囲の壁と天井の高さ、そして空気の流れを確かめるようにゆっくり視線を巡らせたあと、光の届きにくい岩陰を指先で示し、無駄のない動きでそこへ誘導する。
四人で移動し、簡単に結界を整えると、外界の音は薄い膜越しにぼやけ、耳に入る情報が減ることで逆に自分たちの呼吸や衣擦れの音がやけに鮮明に感じられるようになった。
ミミが手際よく携帯食を取り出し、乾いた肉の匂いとほんのり甘い干し果実の香りが狭い空間に広がり、カイルが水を飲む音が静かなリズムを刻む中で、アルトも差し出された水筒を受け取る。
冷たい水が喉を通り、体の内側に落ちていくその感覚は一瞬だけ思考をクリアにするが、それでも消えないものがあった。
ズキッ、と頭の奥を刺すような痛みが走り、その余韻がじわじわと広がっていく。
(……やっぱり強い)
表情には出さないように呼吸を整えながら、わずかに視線を落としたそのタイミングで、ミミがアルトの顔を覗き込むようにして声をかける。
「ねえアルくん、このダンジョンって来たことあるの?」
カイルも同じように視線を向け、剣の柄に手を添えたまま低く言葉を重ねる。
「深層だぞ、初見にしては動きがいい」
アルトはほんの一瞬だけ言葉を選ぶ間を作り、それから軽く肩をすくめて答える。
「……何回かはあるよ、この街のギルマスとか、何人かは普通に攻略してるし、そのときに一緒に潜ったことがあるくらいだけどね」
ミミがぱっと表情を明るくする。
「え、じゃあ頼りになるじゃん!」
その流れのまま、少しだけ表情を曇らせて続ける。
「でもさ、さっきからちょっと苦しそうじゃない?」
カイルも頷き、観察するような目でアルトを見る。
「動きは落ちてねえが、負担は来てる」
アルトは軽く笑って受け流すように答えるが、その声音は完全に軽いものではなかった。
「たまにあるよ、深いところ行くと頭痛くなることはあるし……だからあんまり深層には来ないんだけど」
一度言葉を切り、わずかに視線を外す。
「……今回はちょっと、ひどいだけ」
その“ちょっと”が、思っているより軽くないことは、言葉に出さなくても自分が一番分かっていた。
ズキ、と再び痛みが走り、その波が遅れてこめかみの奥に広がっていく。
ニナはそのやり取りの一つ一つを、何も言わずに静かに受け止めるように見ていた。
結界の縁にそっと手をかざし、わずかな乱れを整えるように指先を滑らせると、空気の揺れが収まり、重さが均されていく。
アルトはその動きを目で追いながら、内側に残る違和感と照らし合わせる。
(水じゃない……やっぱり)
視線を少しだけ上げ、迷いを挟んだあと、静かに声をかける。
「ニナ」
呼ばれた少女は、わずかに顔を向けるだけで応じる。
「なに」
アルトはほんの少し間を置いてから続ける。
「さっきの、それ、水じゃないよね」
空気が変わるほどではないが、わずかに張りつめる。
ニナの瞳が一瞬だけ揺れ、すぐに元の静けさに戻る。
「……水」
短く返すが、その間が答えになっていた。
アルトは視線を逸らさないまま、穏やかに重ねる。
「違うよね」
ニナは黙り込み、結界に触れていた指先がほんのわずかに動くことで、空気の膜が微かに波打つ。
「……本当は」
小さく呟く。
「言っちゃだめ」
アルトは急かさない。
ただ、待つ。
ニナは一度だけ息を吐き、視線を少しだけ下げてから、静かに口を開く。
「……魔力」
「流れを、触ってる」
それは隠すための言葉ではなく、最低限だけ切り出した“本当”だった。
「水は、見せてるだけ」
アルトはわずかに目を細める。
理解するには十分だった。
「……でも」
ニナは続ける。
「言っちゃだめって、言われてる」
その言葉の奥にあるものには触れず、アルトは軽く頷く。
「なるほどね」
そして少しだけ柔らかく。
「ありがと」
ニナは何も返さず、ほんのわずかに視線を逸らす。
それでも、拒絶ではないことだけは分かる。
静かな時間が流れ、その中で結界の外側から伝わってくる振動が、さっきよりもはっきりとした周期を持ち始める。
地面の奥から、一定の間隔で打ち上げられるような重い鼓動が、足裏から膝へ、さらに体の内側へと伝わってくる。
それは音というより、感覚だった。
ニナがゆっくりと顔を上げ、その方向を見据える。
そこにはまだ何も見えない。
けれど確実に、“何か”がいる。
アルトも目を開ける。
消えない痛みを抱えたまま、それでも意識ははっきりと前を向いている。
(……行ける)
そう判断する自分がいることを、どこか他人事のように感じながら、ゆっくりと立ち上がる。
体の重さも、頭の痛みも、完全には消えていないのに、それでも動こうとする感覚だけが先に前へ出る。
ミミがそれに合わせて立ち上がり、カイルが剣を持ち直し、ニナもまた自然な動作でその隣に並ぶ。
結界が静かに解け、外の空気が再び流れ込んできた瞬間、先ほどよりも濃くなった魔力の圧が肌にまとわりつき、呼吸をわずかに重くする。
四人は言葉を交わさずに歩き出す。
足音は揃い、間隔はわずかに狭まり、互いの位置を意識しなくても分かる距離に自然と収まっていく。
その配置は、守るためというよりも、同じ方向へ進むための“形”として完成していた。
そしてその中心にいるアルトは、自分が支えられていることにも、支えようとしていることにも、まだはっきりとは気づかないまま、ただ前へ進む。
地面の奥から響く鼓動は、もう隠れることなくはっきりとその存在を主張し、空間そのものがわずかに脈打つように歪み始めていた。
その先にいるものが何か、四人とも言葉にはしない。
それでも分かっている。
この先にいるのは、これまでの相手とは明確に違う存在であり、この階層の“核”に近い何かだということを。
それでも歩みは止まらない。
止める理由も、選択も、もう誰の中にも残っていなかった。
四人は、同じ速度で、同じ方向へと進み続ける。
重く沈んだ空気の奥、まだ見えないその存在へ向かって。
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