第16話:踏み越えた先
ニナの指先が、揺らぎの中を静かになぞる
触れているはずのない空間に触れ、歪んで波打っていた層の境界を、糸を解くような繊細さで整えていくその動きに合わせて、乱れていた揺らぎは徐々に形を取り戻し、ばらついていた振動がゆっくりと収束していくのが目に見えて分かるほどに変化していく。
押し返していた圧が、すっと消えた。
空間にあった“抵抗”が消えたことで、そこにあったはずの危うさが逆に際立ち、境界としての意味だけがはっきりと浮き上がる。
「……今」
その一言が落ちた瞬間、合図を待っていたかのように全員の身体が同時に動き出す。
カイルが先に踏み込み、重い足取りで揺らぎの中心へと身体を押し込むように入り込み、その背中を追うようにミミが軽やかに滑り込み、アルトは最後に一瞬だけ揺らぎの奥を見据える。
奥は見えない。
ただ、底へ沈んでいる。
落ちていくような、引き込まれていくような感覚だけが、視覚ではなく本能に直接触れてくる。
(……行くか)
躊躇を挟まず、足を踏み入れる。
その瞬間、身体の感覚が一度すべて断ち切られた。
重力が抜け、足の裏がどこにも接していない状態が一瞬だけ続き、耳に届いていたはずの音が唐突に途切れ、視界が白く塗り潰されることで、自分の位置も向きも完全に分からなくなる。
落ちているのか、浮いているのか、その判断すらできない。
そして次の瞬間。
ドンッ、と硬い感触が足裏に戻る。
反射的に膝がわずかに沈み、体勢を立て直すと同時に、空気が一気に肺へと流れ込んできた。
「っ……」
無意識に息を吸い込む。
重い。
湿っている。
土の匂いに混ざって、どこか鉄のような、錆びたような匂いが鼻腔に絡みつき、肺の奥に残るその感覚がこの空間の異質さをはっきりと刻み込んでくる。
視界が戻る。
そこに広がっていたのは、広い空間だった。
開けているはずなのに、圧がある。
空気そのものが皮膚にまとわりつき、呼吸をするたびに胸の内側から押し返されるような重さがあり、音はすべて鈍く、足音は遅れて返り、遠くで落ちる水の音ですら低く歪んで聞こえてくる。
ミミが小さく呟く。
「……なに、ここ」
その声すら重く沈む。
カイルが剣を抜くと、金属が擦れる音がいつもより低く、鈍く響いた。
「……空気が違う」
ニナはすでに周囲を観察している。
視線は空間全体をなぞるように動き、魔力の流れを読むように止まることなく巡っていく。
「……濃い」
短い言葉。
だが、それだけで十分だった。
アルトはゆっくりと呼吸を整える。
頭の奥に、じわりと重い違和感が広がる。
(……来たな)
それでも立つ。
その時。
ザザッ、と足元の土がわずかに波打った。
表面が揺れるのではなく、その下で“何かが動いている”ような感触。
「来る」
ニナの声が落ちる。
次の瞬間、地面が内側から爆ぜる。
ドゴンッ!!
土が弾け、視界を覆うほどの破片が散る。
その中心から現れたのは――
丸い岩の塊。
人の背丈をゆうに超える大きさで、完全な球体ではなく、削れ、歪み、押し固められたような形をしており、ひび割れた表面からは絶えず細かい土がこぼれ落ちている。
その側面から、腕のようなものが無秩序に生えていた。
太さも長さもばらばらで、関節らしい構造はなく、ただの塊が無理やり曲げられたように歪みながら動いている。
一本は地面を削り、土を巻き上げるように這い、一本は空間を薙ぐように振り上げられ、もう一本は崩れながらも形を維持し、足りない部分を地面から吸い上げるように補っていく。
崩れているのに、崩れない。
まるで地面そのものが意思を持って動いているようだった。
腕が振り上がる。
空気が押される。
目に見えない圧が、重さとなって降りてくる。
カイルが前に出る。
「前は任せろ!」
踏み込むと同時に地面が沈み、靴がわずかに埋まる。
「【炎よ】!」
剣が炎を纏い、塊へ叩きつけられる。
ドンッ!!
衝撃が腕に伝わる。
だが、砕けきらない。
「硬ぇ……!」
ミミが即座に動く。
「サポート入る!」
装置を起動し、光が展開される。
「加速展開!」
カイルの動きが一段階跳ねる。
その流れの中で、アルトが前に出ようとした瞬間――
ミミがわずかに位置をずらし、アルトの正面ではなく斜めに入り込むことで、前に出すぎないよう自然に支える位置を取る。
「右、来る!」
ニナの声。
別の腕が地面を割って突き上がる。
アルトが踏み出す。
(間に合う)
だが、その前に。
カイルが割り込む。
「任せろ!」
ドンッ!!
真正面から受け止める。
火花と土が同時に弾ける。
アルトは一瞬だけ止まる。
(……今の)
遅れて動く。
横から斬り込む。
「【雷よ】」
体内を電流が走り、筋肉が強制的に加速する。
一瞬で間合いを詰め、腕の付け根へと刃を叩き込む。
ズドンッ!!
今度は入る。
「そこ!」
ミミが拘束装置を投げる。
光が広がり、腕の動きが鈍る。
ニナが静かに言う。
「左、浅い」
アルトが軌道を変える。
だがその瞬間、足元がわずかに沈む。
(……ズレる)
判断より先に身体が前に出る。
背後に三人の気配。
避ければ抜ける。
だから受ける――
その直前。
ニナが一歩、アルトの前に入る。
「待って」
空気が揺れる。
見えない流れが変わる。
魔物の腕の軌道が、ほんのわずかに逸れる。
アルトの剣が、そのまま中心へと滑り込む。
ズドンッ!!
「今」
カイルが踏み込む。
「【炎よ】!!」
ミミが続ける。
「振動杭!」
地面が震え、内部の構造が崩れる。
アルトが押し込む。
「【土よ】」
足元から槍を生成し、一点へ突き上げる。
ドンッ!!
中心を貫く。
カイルが振り下ろす。
「終わりだ!」
爆発。
ドンッッ!!!
丸い岩の塊が崩れ、腕が砕け、形が維持できなくなった部分から崩壊が連鎖し、すべてが細かい土へと変わりながら、音もなく地面へと還っていく。
静寂。
重い空気だけが残る。
ミミが大きく息を吐く。
「……なに今、全然違うんだけど……」
カイルも低く言う。
「同じ土じゃねぇな」
アルトはその場に立ち、呼吸を整えながら右手をわずかに握る。
感覚が鈍い。
(……問題ない)
そう思い込む。
崩れた中心に、ひとつだけ残るものがあった。
拳ほどの大きさの、濁った石。
歪んだ形で押し固められ、内側に何かを閉じ込めているような重みを持っている。
アルトが拾い上げると、掌にずしりとした感触が残る。
ただの石ではない。
明らかに“核”だった。
「核か」
カイルが言う。
ミミが覗き込む。
「さっきのやつの中心だね」
周囲の土は、さらさらと崩れ、元の地面へと溶け込むように消えていく。
跡は残らない。
ニナがそれを見ている。
「……戻ってる」
小さく呟く。
アルトは核を袋に入れる。
布越しにも、確かな重さが残る。
そのとき。
ニナが横に立つ。
ほんの少し近い距離で。
「……また」
短く言う。
アルトは少しだけ笑う。
「結果的にね」
ニナは首を振る。
「違う」
一拍。
「後ろにいたから」
アルトは答えない。
ニナは続ける。
「避ける選択、消してる」
静かな指摘。
アルトは視線をわずかに逸らす。
「……効率いいでしょ」
軽く言う。
だが。
ニナは目を逸らさない。
「違う」
そして、はっきりと。
「それは――削ってる」
言葉が、深く刺さる。
アルトは何も返さない。
その沈黙を埋めるように、カイルが前へ出る。
「次は俺が前だ」
ミミも自然に位置を取り直す。
「後ろ任せて!」
三人が、無言のまま配置を変える。
アルトの周囲に、わずかに寄る。
守るというより。
支える形。
アルトはそれに気づく。
それでも、何も言わない。
ただ、前を見る。
「……行こうか」
その一言だけで、四人は再び歩き出す。
重く沈んだ空気の中を。
深層へと続く、まだ見えない奥へ向かって。
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