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三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~  作者: 斉宮 柴野


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第九話:社長(丁原)の首と、最強の再就職

主君を失った武将は、裏切るのではない。

ただ、新しい主を選ぶだけだ。


そして主を選ぶのは、武ではなく――

盤面を支配する者である。

薄暗い天幕の中。夜明け前の冷たい空気が漂う中、私は防具を外し、軽装で長椅子に腰掛けている。手元には温かい白湯。茶葉の消費を抑えるための節約術だ。


目の前には、李粛が、青ざめた顔で両膝を地につけている。


「ふむ……調略には乗っていませんでしたか。あの黄金の山と、稀代の名馬を見てもなびかないとは。珍しい生き物ですね」


「は、はい……誠に申し訳ありませぬ。私の口八丁が通じる相手ではございませんでした」


李粛が額を床にこすりつける勢いで謝罪する。


「どのような反応でしたか。詳細な報告を求めます。今後の対策を練るための重要な情報源です」


「それが……黄金にも名馬にも目もくれず、ただ酒を呷りながらこう言ったのです。『金などいらぬ、俺は李司夫人と決着をつけたいのだ!』と。まるで恋焦がれる乙女のように、方天画戟を撫で回しておりました……」


「乙女というより、ただの凶暴な獣ですね」


「左様でございます!あの男、純粋な戦闘狂です。金銀財宝の価値が理解できない、哀れな筋肉達磨でございますよ!」


やれやれ。私は深くため息をつく。


「感情で動く類型は、行動予測の計算が面倒で嫌いです。損得勘定で動いてくれれば、いくらでも操縦可能なのですが。闘争本能という利益を生まない衝動を最優先するとは、実に非効率的な男です」


「まったくもってその通りでございます!交渉決裂となりまして、私は這々の体で逃げ帰って参りました……」


「馬は?名馬はどうしました?」


「え?あ、置いて参りました。交渉の品として差し出した手前、持ち帰るのも不自然かと……」


「馬鹿者」


「交渉が破談になったのなら、手付金は回収するのが商取引の基本でしょう。あの馬が市場でいくらの値がつくと思っているのですか。貴方の軽率な判断のせいで、我が陣営は莫大な含み損を抱えたことになります」


「ひぃぃっ!も、申し訳ございませぬ!」


彼にこれ以上小言を言っても、馬は戻ってこない。損失補填は別の形でさせるとしよう。


「まあ良いでしょう。交渉で落ちないのなら……戦うしかありませんね」


天幕の入り口が乱暴に開けられる。


「おい、待て李司!」


血相を変えた孟徳が転がり込んでくる。彼の顔色は、李粛以上に蒼白だ。胃の辺りを手で強く押さえている。また胃痛が再発したらしい。


「『戦うしかない』だと?今、そう言ったか!?」


「ええ、言いましたが。私の聴覚と発声器官に異常はありません」


「異常があるのはお前の思考回路だ!昨日お前自身が言っただろう!あの化け物との勝率は五分五分だと!硬貨の裏表を当てるような確率だぞ!」


孟徳が唾を飛ばさんばかりの勢いで詰め寄る。


「死ぬ気か!?頼むからやめてくれ!お前が死んだら、俺たちの家計はどうなる!いや、俺の精神衛生上も良くない!頼むから俺たちのために、いや俺の資産のために無茶はしないでくれ!」


彼の言葉の端々に、私への愛情よりも資産への執着が見え隠れするが、私が教育した結果なので文句は言えない。むしろ優秀な生徒だと褒めてあげたいくらいだ。


「大丈夫ですよ、孟徳。心配には及びません」


「何が大丈夫だ!相手はあの呂布だぞ!戦場で真正面からぶつかれば、どうなるか分からんのだぞ!」


「ええ、分かっています。ですから、私は呂布とは戦いませんから」


天幕の中に、奇妙な沈黙が落ちる。孟徳も李粛も、口を半開きにして私を見つめている。


「は?」


「どういう意味だ?戦うしかないと言った直後に、戦わない?お前の口は二つあるのか?それとも俺の耳がおかしくなったのか?」


「言葉通りの意味です。真正面からの戦闘行為は、勝率が低い上に疲労が蓄積するだけです。費用対効果が悪すぎます。したがって、私は彼とは戦いません」


「じゃあどうするんだ!明日、あいつは確実にお前の首を狙って突撃してくるぞ!」


「そのための対策を、今から講じに行くのです」


傍らに置いてあった黒い装束を手に取り、素早く羽織る。闇夜に溶け込むための、実用性重視の特注品だ。


「さて、私は少し『夜の散歩』に行ってきます。座りっぱなしで足腰が鈍るといけませんので」


「夜の散歩?こんな時間に?どこへ行く気だ?」


孟徳が訝しげに尋ねる。彼の顔には「嫌な予感しかしない」と大文字で書いてある。


「少し風に当たってくるだけです。星の動きを観察して、明日の相場を予測するのも悪くありません」


私は愛用の刀を手に取り、腰に帯びる。長大な戟ではなく、取り回しの良い、暗殺……いや、護身用の刃だ。


「おい、ちょっと待て!その物騒な得物は何だ!散歩に行く奴の装備じゃないだろ!」


「夜道は物騒ですからね。野犬が出るかもしれません。では、明日の朝、戦場で会いましょう。孟徳はしっかり睡眠をとって、明日の労働に備えてください」


「おい!李司!俺の話を聞け!」


夜の闇が私を包み込む。涼しい風が頬を撫でる。さあ、仕事の時間だ。勝率五割の賭けなど、愚か者のすること。私は常に、勝率十割の盤面を自分で作り上げる主義なのだ。標的の居場所は、すでに脳内に算段がついている。









翌朝。朝霧が晴れ、両軍が再び対峙する。空気は張り詰め、兵士たちの緊張が最高潮に達している。敵陣の最前列。そこに、昨日と変わらぬ巨大な影がある。呂布は、燃えるような赤い毛並みの馬に跨っている。李粛が置いて帰ったあの名馬を、ちゃっかり自分のものにして乗りこなしているのだ。図々しいにも程がある。所有権の移転手続きも済んでいないというのに、窃盗罪で訴えてやりたい気分だ。


「さあ!出てこい李司!!」


拡声器もない時代に、どれほどの肺活量をしているのだ。


「今日こそ決着をつけてやる!逃げ隠れせずに姿を現せ!俺の妻になる覚悟はできたかァァッ!!」


彼は方天画戟を振り回し、挑発を繰り返す。彼の周囲の兵士たちは、その迫力に圧倒されて後ずさりしている。味方でさえ怯えるほどの凶暴さだ。


だが。我が陣営、董卓軍からは誰も出ていかない。前線には盾を構えた歩兵が並んでいるだけで、大将格の武将の姿は皆無だ。静まり返る董卓軍。


「ああん?どうした!ビビって逃げたか!」


「つまらん!あの女が出てこないなら、こちらから踏み潰すまでだ!おい親父!」


呂布は背後の自軍本陣を振り返る。彼を雇っている丁原のいる場所だ。


「命令をくれ!全軍突撃でいいよな!?あの腑抜け共を血祭りにあげてやる!」


彼がそう叫んだ、その時である。


「ほ、報告ーーッ!!」


丁原軍の本陣から、鼓膜を劈くような悲鳴が上がる。一人の伝令兵が、転がるようにして最前線へ駆けてくる。彼の顔は泥と涙で汚れ、兜はどこかへ飛んでいっている。


「大変でございます!丁原様が……丁原様が!」


「親父がどうした!早く言え!」


呂布が怒鳴りつける。伝令兵は、地面にへたり込みながら絶叫した。


「丁原様が……暗殺されましたーーッ!!寝所で、首を刎ねられておりますーーッ!!」


「……何だと!?」


呂布が目を見開く。そして、次の瞬間。丁原軍の陣形が、波を打つように崩れ始める。


「大将が死んだぞ!」


「誰にやられたんだ!?」


「逃げろ!勝ち目はない!」


ざわめきがパニックへと変わり、怒号と悲鳴が飛び交う。指揮官を失った軍隊など、ただの烏合の衆だ。その混乱の真っ只中。董卓軍の盾兵の列が、静かに左右に割れる。


まるで、舞台の幕が開くように。私はその間から、悠々と歩み出る。朝日に照らされ、私の美貌が輝く。足取りは軽く、昨夜の「残業」の疲れなど微塵も見せない。私の右手には、布に包まれた「何か」がぶら下がっている。生暖かい液体が、布の隙間からポタポタと地面に滴り落ちている。


「おはようございます、呂布奉先。いい朝ですね」


私は透き通るような声で挨拶をする。朝の挨拶は、社会人の基本だからだ。呂布の視線が、私に突き刺さる。彼の顔には、驚愕と怒りが入り交じっている。


「き、貴様……!」


彼の手が、方天画戟の柄を強く握りしめる。ギリギリと木が軋む音がここまで聞こえる。


「親父はどうした!なぜ本陣が騒いでいる!貴様、何をした!」


手に持っていた布包みを、軽い動作で前方へ放り投げる。ぽいっ。包みは宙を舞い、呂布の乗る赤兎馬の足元に転がる。鈍い音がして、布が解ける。


「確認してください」


私は事務的な口調で言う。


「『契約解除通知書』です。書面での通達は時間がかかるので、現物をお持ちしました」


呂布が馬の上から、その包みの中身を覗き込む。彼の瞳孔が、極限まで収縮する。そこにあったのは、血の気を失い、苦悶の表情を浮かべた丁原の首だった。昨夜の散歩の折、私が丁重に切り取らせていただいた品だ。


「親父……!」


「貴様、まさか昨日の夜に……一人で……?我が陣営の厳重な警備を潜り抜けて、親父の首を獲ったというのか!?」


「ええ、その通りです。警備体制が非効率的でしたよ。巡回経路の予測が容易すぎました。隙だらけの無駄な人員配置は、経費の無駄遣いですね。私が改善提案書を提出してあげたいくらいです」


「貴方は私と戦いたがっていましたが、貴方の雇用主である丁原氏が死亡したため、貴方の戦闘行為には『報酬』が発生しなくなりました。つまり、貴方が今ここで私に挑むことは、一銭の利益にもならない無駄骨ということです」


「タダ働きはお嫌いでしょう?無償の残業など、誰も望まないはずです」


「は?」


呂布が混乱したような声を出す。彼の脳内処理が追いついていないようだ。


「いや、俺は報酬とかじゃなくて、お前と戦いたくて……純粋に武の頂点を極めるために……!」


「武の頂点?そんな無形資産にこだわってどうするのですか。評価額がつきませんよ」


「ていうか、戦う相手の親玉を暗殺するとか、卑怯だぞ!!武人としての誇りはないのか!!」


卑怯。私の最も嫌いな言葉だ。いや、最も評価しない言葉と言うべきか。


「『効率的』と言ってください」


冷ややかな視線を送る。感情論など不要だ。


「正面からぶつかれば、兵力と時間の多大な浪費になります。たった一人の首を物理的に排除するだけで、敵軍全体を無力化できる。これほど費用対効果の高い戦術はありません。経営の基本ですよ」


「さあ、呂布。現状を正確に認識しなさい。貴方は現在、無所属です。言い換えれば、無職です。帰る場所も、明日の給料を払う主君もいません」


丁原軍の本陣を指差す。彼らは完全に崩壊し、逃げ出そうとする者、立ちすくむ者で溢れかえっている。


「見てみなさい。丁原軍の兵士たちも、主を失って恐慌状態に陥っています。指揮系統が消滅した軍隊は、このままでは烏合の衆として董卓軍に一方的に虐殺されるだけです。哀れですね」


そして、スッと右手を差し伸べる。彼を導くように。


「再就職の斡旋をします」


「私の元に来なさい」


「『夫3号』の枠は、まだ空いていますよ?今なら特別入社祝い金も検討します」


彼に魅力的な条件を提示する。優秀な人材を確保するためには、待遇改善が不可欠だ。


「給料は弾みます。出来高制で、貴方の働きに見合った正当な評価をお約束します。さらに、福利厚生として、私が毎日『組み手』の相手をしてあげます。どうです、悪くない条件でしょう?」


「……毎日?」


金の提示には微動だにしなかった彼が、「組み手」という言葉に食いついた。


「お前と、毎日戦えるのか?」


彼の目が、再び怪しい光を帯び始める。血に飢えた獣の目だ。


「ええ。殺し合いは装備品の損耗が激しいので禁止ですが、寸止めまでの戦闘訓練なら無制限です。互いの技術向上にも繋がりますし、一石二鳥です」


彼が一番欲しているものを、私は理解している。


「どうです?丁原の下で退屈な護衛任務をするより、よほど刺激的な職場ですよ。私という最強の相手と、毎日肌を合わせることができるのですから。退屈な人生とは無縁の、血湧き肉躍る日々をお約束します」


彼は足元に転がる丁原の首と、私を交互に見比べる。葛藤しているのか?いや、単に計算式を組み立てるのに時間がかかっているだけだろう。筋肉で構成された彼の脳細胞が、フル回転している音が聞こえるようだ。


「……………………」


周囲の兵士たちも、息を呑んで成り行きを見守っている。やがて。ぽんっ。呂布は、無造作に足元にあった丁原の首を蹴飛ばした。首はコロコロと転がり、土埃まみれになる。


「……フッ」


「親父も死んじまったもんは仕方ねぇ。弱かったから死んだ、ただそれだけのことだ。感傷に浸る義理もねぇ」


「それに、お前のようなイカれた女の下で働くのも、悪くねぇかもしれん。これほど底知れない女は、天下広しといえどもお前だけだろう」


彼は赤兎馬から飛び降りる。地響きが鳴る。そして、方天画戟を私の目の前の地面に深々と突き刺した。彼は私の前で片膝をつく。臣下の礼だ。いや、夫としての誓いか。


「契約成立だ、李司」


その顔には、隠しきれない歓喜が溢れている。


「俺の武、お前に預ける。お前の望むままに、この刃を振るってやろう」


「ただし!約束通り、毎晩俺の相手をしろよ!俺の渇きを、お前のその体で癒やしてもらうぞ!」


もちろん、戦いの意味で、である。私は彼の言葉の裏にある闘争心を正確に読み取る。


「商談成立です」


彼はその手を取り、強く握りしめる。骨が砕けそうな握力だが、私は顔色一つ変えない。


「歓迎しますよ、我が愛すべき『凶器』さん。これからの貴方の活躍、大いに期待しています。さあ、まずは残務処理から始めましょうか。あそこで逃げ惑っている元同僚たちの身柄を確保しなさい。全員、労働力として高く売れますからね」


「ハハハハ!人使いの荒い主だ!だが、それがいい!」


これで、私の「夫収集事業」は三号まで到達した。孟徳、本初、そして呂布。権力、名声、そして最強の武力。私の資産価値は、今や天井知らずだ。後ろを振り返ると、孟徳が口から泡を吹いて気絶しかけていた。胃の限界を超えたらしい。


まあ良い。後で高級な胃薬を買って請求書に回しておこう。私の乱世における資産運用は、まだまだ終わらない。次の獲物は誰にするか。私は空を見上げ、一人ほくそ笑んだ。








「おい、本初。……なあ、本初ってば。返事をしろよ。生きてるか?」


「……聞こえている。聞こえているが、俺の優秀な脳細胞が、目の前の現実を処理することを全力で拒否しているんだ、孟徳」


「現実から目を逸らすのは非効率ですよ、本初」


振り返らずに、二人に声をかける。目の前では、新しく我が陣営に加わった呂布が、元同僚たちを笑顔で蹂躙している最中だ。彼の働きぶりは素晴らしい。あの一振りで一体何人の捕虜を確保できるのか。私の脳内計算機が弾き出す予想収益は、すでに右肩上がりの綺麗なグラフを描いている。


「あいつ、本当にやりやがった……」


「ああ、見たとも。俺の視力は両目とも極めて正常だ。だからこそ辛いんだがな。最強の武将を、社長ごと物理的にヘッドハンティングしやがった。前代未聞だぞ。転職市場のルールを根底から破壊している!」


ルール?そんなものは勝者が作るものだ。既存の枠組みに囚われているから、貴方たちはいつまで経っても私から搾取される側なのだと、なぜ気づかないのだろうか。


「しかもだ、孟徳。あいつ、ただの用心棒として雇ったんじゃないぞ。はっきりと『夫3号』と言いやがった。つまり、俺たちの家庭に、あんな猛獣が家族として加わるということだぞ!?」


「分かっている。俺の聴力も正常だからな。あの女の狂った求婚の言葉、一言一句たがわず鼓膜に刻み込まれたよ」


家庭会議を始めるには、少し場所が不適切ではないだろうか。ここはまだ戦場だというのに。


「おい孟徳、想像してみろ。俺たちの平和な家庭生活を」


「朝起きて、顔を洗おうと井戸に行ったら、あの巨漢が上半身裸で水浴びをしているんだぞ。朝食の席では、あの筋肉ダルマが俺の隣に座るんだ。食事の時に隣に呂布がいる生活なんて、胃に穴が空くぞ!!」


「お前の胃は弱すぎるんだよ、本初。だが、気持ちは痛いほど分かる。俺だって、夜中にトイレに起きた廊下で、方天画戟を磨いている呂布と鉢合わせなんかしたら、その場でちびる自信がある」


なんだ、この二人は。いつからそんなに仲良くなったのか。私という共通の脅威を持つことで、奇妙な連帯感が生まれているようだ。これもまた、組織運営におけるメリットの一つと言えるだろう。


「それに食費だ!エンゲル係数が爆発するぞ!あの巨体を維持するために、一体一日にどれだけの肉を食うと思っているんだ!我が家の家計は火の車になるぞ!」


少しは教育の成果が出ているようで、妻としては誇らしい気持ちだ。


「安心してください、お二人とも」


これ以上、彼らの非生産的な妄想を聞かされるのは時間の無駄だ。


「えっ?な、なんだ、聞いていたのか李司?」


「当然です。私の聴覚センサーは、半径五十メートル以内の硬貨の落ちる音を拾えるように調整されています。貴方たちの声など、耳元で叫ばれているようなものです」


「まず、本初の懸念事項である食費問題についてですが、完全なる杞憂です。呂布の食費は、すべて彼の完全歩合制の給与から天引きするシステムになっています。彼が肉を食べたければ、その分だけ敵将の首を多く狩ってくれば良いだけのこと。彼自身が自給自足のサイクルを回すので、我が家の家計に一切の負担はかかりません」


「そ、そんなブラック企業の極みみたいな契約を、あの怪物が呑んだのか……?」


「もちろんです。彼は金銭的価値よりも闘争の機会を重んじるという、極めて扱いやすい性格をしていますからね。毎日の食事を『生存競争』と定義づければ、喜んで敵陣に突撃していくでしょう。見事なコストカットの実現です」


「お前のその血も涙もない合理性が、今はただ恐ろしいよ……」


「次に、孟徳の懸念事項である住環境におけるストレス問題についてですが、これも解決済みです」


「そもそも、彼を貴方たちと同じ屋敷に住まわせる予定はありません。彼は私の『直属の武力資産』です。したがって、平時は私が出張の際に滞在する別邸、もしくは常に最前線の陣幕に寝泊まりさせます。貴方たち文官が、彼と日常的に顔を合わせる機会は、私が招集をかける全体会議の時くらいです。安心しましたか?」


「……本当か?本当に、あの猛獣と同じ屋根の下で寝起きしなくていいんだな?」


「誓って。彼を貴方たちの近くに置けば、貴方たちのストレス値が上昇し、業務効率が低下することは私のシミュレーションでも明らかです。労働環境の悪化は、我が陣営の収益減に直結しますからね。私はそんな非効率なマネジメントは行いません」


「良かった……。本当に良かった……。俺、少しだけお前のことを見直したかもしれない」


本初が胸を撫で下ろしている。安上がりな男だ。


「ただし」


「貴方たちの業績が著しく悪化した場合、あるいは私への上納金が滞った場合は、ペナルティとして『呂布との一日同棲体験』を科すことにします。彼と一部屋で、朝から晩まで筋肉の素晴らしさについて語り合うという素晴らしい研修プログラムです」


「絶対に嫌だぁぁぁっ!!」


「ノルマは必ず達成する!血を吐いてでも働くから、それだけは勘弁してくれ!!」


素晴らしい。彼らのモチベーション管理はこれで完璧だ。やはり、恐怖という名のインセンティブは、いつの時代も最高の劇薬だ。


「さて、私たちの家庭内のルール作りはこれくらいにしておきましょう」


呂布の活躍により、丁原軍の残党は完全に鎮圧されつつある。降伏する者は縛り上げられ、逃げる者は容赦なく背中から討たれている。これで大量の労働力が手に入った。後で人材派遣市場に流せば、かなりの利益が見込めるだろう。


「それよりも孟徳。貴方、先ほど『一番ビビっているのは俺たちじゃない』と言いかけていましたね?」


「ああ、そうだ。俺や本初は、お前の底知れない恐ろしさをすでに何度も経験しているからな。ある意味で耐性ができている。だが……」


孟徳は顎で、少し離れた場所をしゃくった。そこは、我が軍の本陣がある場所だ。


「安心しろ、本初。今、この戦場で一番ビビり散らかしているのは、間違いなく……たぶんあいつだ」


西涼の魔王。暴虐の化身。泣く子も黙る董卓仲穎その人が。見事なまでに腰を抜かし、地面にへたり込んでいるではないか。


「り、李司殿……」


彼はガタガタと全身を震わせ、自分の巨大な体を抱え込むようにして丸まっている。


「味方につけておいて良かった……。本当に、本当に良かった……」


彼はブツブツと、呪文のように同じ言葉を繰り返している。


「あの丁原の首を一晩で……しかも、あの呂布を口先一つで寝返らせおった……。もし、もしワシが彼女を敵に回していたら……」


董卓の視線が、私が先ほど投げ捨てた丁原の首に釘付けになっている。


「今頃、ワシの首があそこに転がっていたわ……。ワシのこの太い首が、スッパリと……ヒィィィッ!!」


想像力が豊かなのは良いことだ。リスクマネジメントの基本は、最悪の事態を想定することだからだ。だが、一軍の将がそれでは、兵士たちの士気に関わる。


「董卓様」


背後から声をかけると、董卓は「ヒャンッ!?」という、巨大な熊らしからぬ可愛らしい悲鳴を上げて飛び上がった。そして、不格好に転がりながら私の方を向き、土下座の体勢をとった。


「も、申し訳ございませぬ!命だけは!命だけはお助けを!!」


まだ何もしていないというのに。


「おや、どうされました?砂利の感触でも確かめておいでですか?」


「い、いえ!李司殿のあまりの神々しさに、自然と平伏してしまった次第でございます!はははは!」


完全に主従関係が逆転している。いや、最初から私が主導権を握っていたのだが、彼の中で私のランクが「便利なコンサルタント」から「逆らえば即死の絶対神」へと昇格した瞬間だ。


「それは重畳。私の価値を正確に認識していただけたようで何よりです。ところで、董卓様」


「先ほどの約束、忘れてはいませんよね?『丁原と呂布を討ち取った暁には、報酬は望むがまま』というあの契約です。呂布は討ち取るのではなく買収という形になりましたが、結果的に貴方の最大の障壁は排除されました。完全なる契約履行です」


「は、はい!もちろんでございますとも!李司殿のご尽力、この董卓、生涯忘れません!」


「記憶に留めていただくだけでは、私の口座残高は増えません。具体的なお支払いの話をしましょう」


「まず、基本報酬としての金貨十万枚。これは現金一括払いでお願いします。次に、特別成功報酬として、洛陽の東半分の徴税権の委譲。そして、先ほど申し上げた通り、我が夫である孟徳と本初の『大将軍』および『太尉』への昇進人事の確約。これらすべてを、本日中に決済していただきます」


「じゅ、十万枚!?それに徴税権まで!?」


さすがに要求が過大すぎたか?いや、彼の不正蓄財の総額からすれば、痛くも痒くもないはずだ。


「何か不服でも?」


腰の刀の柄に手をかける。チャキッ、という金属音が鳴る。


「い、いえ!滅相もございません!喜んでお支払いさせていただきます!李司殿の素晴らしい働きに対する、正当な対価でございますからな!ガハハハ!」


素晴らしい。交渉時間わずか一分で、莫大な利益を確定させた。やはり、暴力による威圧を背景にしたビジネス交渉は、極めて効率的だ。


「ありがとうございます、董卓様。貴方のような話の分かるクライアントを持てて、私も幸せです」


「今後とも、末永いお付き合いをよろしくお願いいたしますね。貴方が私に利益をもたらし続ける限り、貴方の首は胴体と繋がったままですから、どうかご安心を」


「は、ははは……ありがたき幸せ……」


これで、都の支配権の実権は完全に私のものとなった。表向きは董卓が暴君として振る舞い、人々のヘイトを集める。そして私は、彼の裏で安全に資金を吸い上げ続ける。完璧なビジネスモデルの完成である。


振り返り、孟徳と本初に向かってVサインを送る。


孟徳という名の「権力と知略」本初という名の「名声と血統」そして呂布という名の「最強の武力」これらすべてを束ね、管理し、そこから生み出される莫大な利益を独占する。それが、私、李司の描く「覇道」である。


「さあ、皆さん!本日の業務は終了です!速やかに残業を終わらせて、帰還しますよ!」

今回、呂布は金ではなく「戦い」を選びました。


そして李司は、真正面からの勝負を拒否し、

盤面を破壊することで勝利しました。


あなたはどちらが強いと思いますか?


・正面からぶつかる強さ

・勝率を操作する強さ


また、呂布は本当に落ちたのでしょうか?

それとも、まだ獲物を狙う獣のままなのでしょうか。


感想をいただければ、次の「夫婦喧嘩」の参考にいたします。

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