第六話:共有財産(妻)の噂と、西園の悪夢
この物語は、後漢末期を舞台にした歴史フィクションです。
しかし、ここに描かれる乱世は、
義や忠、英雄のためのものではありません。
金が流れ、
権力が売買され、
人の誇りが減価償却される世界です。
もし国家が一つの会社だとしたら。
もし英雄が商品だとしたら。
その帳簿を管理する者は、
いったい誰なのでしょうか。
これは、乱世を「経営」する女の物語です。
時は流れる。大河のごとく。そして金も流れる。濁流のごとく。私の仕事は、その濁流の中に網を張り、砂金の一粒たりとも逃さずに回収することである。
西暦一八八年。中平五年。
黄巾の乱という名の、私にとっての「一大収穫祭」が終わりを告げてから、数年の月日が経過している。世の中は平和を取り戻したかのように見える。だが、それは表面上のことだ。水面下では、次なる乱世の芽が、着々と育っている。腐敗した政治、権力闘争、そして地方豪族の台頭。これらすべてが、私にとっては「市場の活性化」を意味する好材料だ。
現在地、洛陽。天下の首都。その一等地に構える、名門袁家の屋敷。今の私は、ここの女主人として君臨している。正確には「半年限定の女主人」だが。
鏡の前に立つ。映っているのは、一人の女性だ。年齢、三十歳。一般的に言えば、もはや「少女」とは呼べない年齢だ。肌の曲がり角?代謝の低下?そんなものは、一般人の戯言に過ぎない。
鏡の中の私は、十代の頃と何ら変わらぬ外見を維持している。肌には一点のシミもなく、髪は絹糸のような艶を保ち、体型は重力に完全勝利している。なぜか?理由は単純だ。「老化」という現象は、細胞の劣化であり、それは即ち「自己資産の価値減少」を意味するからだ。私の身体は私の所有物である。所有物の価値を下げるようなマネジメントは、私のプライドが許さない。
細胞の一つ一つにまで「働け、死ぬな、代謝しろ」と業務命令を下している。結果、私の細胞たちはブラック企業顔負けの過重労働により、若さを維持し続けているのだ。美容液など不要。必要なのは、強烈な意志と管理能力のみである。
「奥様、そろそろ宴のお時間です」
侍女が声をかけてくる。彼女は私の顔を見て、うっとりと頬を染める。私の美貌は、男女問わず魅了する「集客装置」としても機能している。
「分かりました。行きます」
今日の衣装は、袁家の格式に合わせた最高級の絹織物だ。ただし、これは袁家の倉庫に眠っていた五十年前の古着を、私がリメイクしたものだ。材料費ゼロ。技術料プライスレス。見た目は最新流行のドレスだが、原価はタダ同然。これぞ錬金術だ。
大広間へと向かう。足取りは軽い。今日の大広間は、戦場だ。血は流れないが、金と名誉と欲望が飛び交う、ドロドロとした社交場という名の戦場だ。私の計算機が唸りを上げる。さあ、稼ぐ時間だ。
◆
煌びやかな光。天井から吊るされた無数の灯りが、広間を昼間のように照らしている。高価な香の匂いが充満している。一本で金貨一枚はする西域の香木だ。もったいない。私が後で残り灰を集めて、再利用してやる。
広間には、数十人の男たちが集まっている。彼らは皆、この洛陽で権勢を誇る高官や、地方の実力者たちだ。絹の服を着て、宝石を身につけ、脂ぎった顔で笑っている。私には、彼らが「歩く財布」に見える。いや、「歩くATM」だ。暗証番号さえ分かれば、いくらでも引き出せる。
その中心にいるのが、本初だ。私の「夫(その2)」であり、現在の「管理対象」である。彼は今、広間の中央で優雅に杯を掲げている。背筋は伸び、顔には自信に満ちた笑みを浮かべている。数年前、あばら屋で「働きたくない」と泣き叫んでいた男とは思えない。見事な成長ぶりだ。いや、見事な「演技力」だ。
「いやあ、皆様。本日はよくぞお集まりいただきました。粗末な宴ではございますが、心ゆくまでお楽しみください」
本初の声が響く。低音で、よく通る美声だ。彼は生まれながらの貴公子だ。立っているだけで絵になる。それが彼の最大の武器であり、私が彼に投資し続ける理由だ。彼は「袁家」というブランドの広告塔として、完璧に機能している。
「おお、袁本初殿!相変わらず見事な振る舞いだ!」
「この料理、絶品ですな!さすが名門の味!」
「先日の西園軍の編成、本初殿が中軍校尉に選ばれたとか!おめでとうございます!」
称賛の声が彼に降り注ぐ。本初は「はっはっは、過分なお言葉」と謙遜してみせるが、その目は笑っていない。
私は知っている。彼が今、内心で冷や汗をかいていることを。なぜなら、この宴の予算は極限まで切り詰められているからだ。料理は見た目こそ豪華だが、材料は市場の売れ残りや、賞味期限ギリギリのものを私が安く買い叩いてきたものだ。
酒も、水を三割混ぜてカサ増ししている。彼らの舌が肥えていないことを祈るばかりだ。
私は本初の斜め後ろ、影のように控えている。私の立ち位置は絶妙だ。出しゃばらず、かといって存在感を消さず。「本初を支える謎の美女」という演出だ。
「いやあ、袁本初殿の人徳には恐れ入る。これほどの顔ぶれが集まるとは」
一人の男が本初に近づく。恰幅の良い、初老の男だ。着ている服の生地を見るに、相当な資産家だ。鑑定眼が光る。推定資産、金貨一万枚クラス。ターゲット確認。名前は……えーと、脳内データベース検索。該当なし。どうでもいいモブキャラだ。ここでは「高官A」として処理する。
「ところで……そちらの美しい女性は?」
高官Aの視線が、私に向く。ねっとりとした視線だ。値踏みするような目。不快指数が上昇するが、表情筋を制御して笑顔を作る。
「この屋敷の侍女ですかな?いや、ただの侍女にしては気品がありすぎる」
高官Aが私に一歩近づく。酒臭い。呼気に含まれるアルコール濃度、高め。判断能力の低下を確認。交渉のチャンスだ。
「いらっしゃいませ」
一礼する。角度、三十度。最も美しく見える角度だ。
「ドリンクの追加は有料オプションとなっております。一杯につき銅銭百枚ですが、今ならセット割引が適用されます」
「え?有料?」
高官Aが目を丸くする。本初が「おい、やめろ」という目で私を見るが、無視する。宴会はタダではない。回収できるところからは回収する。
「おお、なんと可憐な……。冗談も言えるのか。しっかり者だ」
高官Aは私の言葉をジョークだと受け取ったようだ。笑っている。めでたい頭だ。だが、その財布の紐は緩そうだ。
「本初殿、もし侍女ならば、ぜひ我が家の妻に迎えたいのだが」
爆弾発言。高官Aが本初に向かって言う。本気だ。目が据わっている。
「実は最近、妻を亡くしてな。後添いを探していたのだ。この娘なら、家の切り盛りもできそうだ。結納金なら弾みますぞ?金貨五百枚、いや、千枚でも構わん!」
金貨千枚。私の脳内で、レジスターが開く音がする。チャリーン。悪くない金額だ。私という個体の市場価値が正当に評価されている。だが、残念ながら私は「非売品」だ。正確には「売約済み」だ。しかも二重契約で。
本初の顔色が変る。彼はグラスを強く握りしめる。指の関節が白くなっている。ガラスが割れそうだ。やめてくれ、そのグラスは高価な舶来品だ。割ったら請求するぞ。
「……お断りします」
本初が低い声で言う。怒りを抑えている声だ。
「彼女は侍女ではありません。私の大切な……パートナーです」
「おや、パートナー?では妹御か何かで?それとも遠縁の親戚かな?」
高官Aは食い下がる。空気が読めない男だ。鈍感力というスキルがカンストしている。
「親戚なら話は早い。袁家との縁談となれば、さらに色をつけてもいい。どうだ、本初殿。この場で話をまとめようじゃないか」
高官Aが本初の肩に手を置く。馴れ馴れしい。本初のプライドゲージが限界突破する音が聞こえる。ブチッ。
「――違います!!」
本初が大声を上げる。広間中の視線が集まる。音楽が止まる。静寂。
本初は肩の手を振り払い、私を引き寄せる。そして、高らかに宣言する。
「李司は、私の妻です!!」
ドーン。衝撃の告白。
「誰にも譲らん!!金貨一億枚積まれても断る!彼女は私のものだ!私の財布であり、私の頭脳であり、私の人生そのものだ!!」
後半、余計なことを言った気がするが、概ね正解だ。私は彼を見て微笑む。よく言った、本初。所有権の主張は、資産管理の基本だ。他人に横取りされるような隙を見せてはいけない。
「つ、妻……?」
高官Aが口をパクパクさせる。
「え、でも、本初殿は独身だと……。公式発表では……」
「事実婚です」
私が補足する。
「諸事情により届出はしていませんが、実質的な婚姻関係にあります。夜の生活も充実しております。ね、あなた?」
私は本初の腕に絡みつく。本初がビクッとする。「充実」の中身が、一方的な搾取と折檻であることを思い出しているのだろう。
場が静まり返る。気まずい空気が流れる。高官Aは顔を真っ赤にして引き下がる。
「こ、これは失礼した!まさか奥方とは……!いやはや、お似合いですな!はっはっは!」
乾いた笑い。周囲もつられて笑う。
「なんだ、そうだったのか」
「本初殿も隅に置けないな」
場が和む。危機回避。と思われた、その時だ。
「ん?今なんと申された、本初殿」
新たな声。聞き覚えのある、重厚な声だ。入り口の方から、一人の男がふらりと現れる。顔は赤い。足元もおぼつかない。だが、その眼光だけは鋭い。歴戦の猛者特有の、人を射抜くような目だ。
皇甫嵩将軍。かつての黄巾討伐の英雄であり、現在は左将軍の地位にある大物だ。彼はこの宴の主賓の一人である。かなり酔っているようだ。
「李司殿は……妻だと?」
皇甫嵩将軍が私と本初を交互に見る。彼は記憶の糸を手繰り寄せている。数年前、潁川の戦場での出来事を。あの強風の日。軍議の席で。一人の男が、「彼女は俺の妻だ!」と叫んだ光景を。
「はて?拙者の記憶違いか?李司殿は、汝南にいる曹孟徳殿の奥方では……?」
爆弾投下。核弾頭級の暴露だ。広間の空気が、一瞬で凍りつく。絶対零度。高官たちの笑い声がピタリと止む。
「え?曹孟徳の妻?」
「曹孟徳って、あの宦官の孫の?」
「どういうことだ?本初の妻で、孟徳の妻?」
ざわめきが広がる。疑惑の視線が私たちに突き刺さる。
本初が凍りつく。彼は石像のように固まっている。顔色は青を通り越して白。白を通り越して透明になりそうだ。呼吸が止まっている。心停止の可能性がある。蘇生措置の準備が必要か。
「……………………」
本初は無言だ。何も言えないのだ。否定すれば嘘になる。肯定すればスキャンダルになる。詰んでいる。
皇甫嵩将軍は首を傾げる。悪気はないようだ。ただ、酔っ払いの純粋な疑問として口にしているだけだ。それが一番タチが悪い。
「潁川の戦いでは、夫婦漫才のように見事な連携をしておられたが。曹孟徳殿が『俺の嫁だ!』と叫び、李司殿が『言質取りました!』と返していたのを、拙者は鮮明に覚えておるぞ」
やめてくれ。記憶力が良すぎる。老人の昔話ほど厄介なものはない。
「おい朱儁、お主もいただろう?李司殿は孟徳の妻だよな?」
皇甫嵩が近くにいた朱儁将軍に同意を求める。朱儁将軍も気まずそうに目を逸らす。
「わ、私は耳が遠くてな……」と逃げようとしている。賢明だ。
「いや待てよ、あの時『曹家は私のもの』と叫んでいたが、今は袁家の宴を取り仕切っている……。はて……?これはどういうことだ?」
皇甫嵩が顎に手を当てて考える。
「まさか……重婚?一妻多夫?それとも、曹孟徳殿と本初殿は、妻を共有するほどの仲良しということか?」
「ぶっ!!」
誰かが酒を吹き出す音がする。共有財産。時代の最先端を行く概念だが、この時代の倫理観では「変態」の一言で片付けられる。
本初の手が震える。グラスの中の酒が波紋を描く。彼は限界だ。今にも叫び出しそうだ。
「違う!共有してるんじゃない!奪い合ってるんだ!いや、押し付け合ってるんだ!」
と。だが、それを言えば彼の社会的地位は崩壊する。
この状況を打開できるのは、私の演算能力だけだ。重婚の事実がバレると、法的な説明コストがかさむ。さらに、世間体という名の無形資産が毀損する。ここは、強引に突破するしかない。
ニッコリと笑う。慈愛に満ちた、聖母のような笑顔で。そして、皇甫嵩将軍に近づく。
「皇甫嵩将軍、だいぶ酔いが回られているようですね」
優しく声をかける。手には、氷の入った冷たい水の入った杯を持っている。
「戦場の記憶と、今の現実が混同されているようです。あの時の私は、曹孟徳様の『副官』として従軍しておりました。妻というのは、兵士たちの士気を高めるためのジョークですよ」
「ジ、ジョーク……?」
「はい。曹孟徳様は冗談がお好きですから。それに、私のようなか弱い乙女が、二人の男性の妻になるなんて、物理的に不可能でしょう?」
嘘だ。可能だ。スケジュール管理さえ徹底すれば、三又でも四又でも可能だ。だが、一般人にはその発想がない。
「それに、見てください。今の私は、こうして本初様の妻として、袁家の家紋を背負っております。これが真実です」
本初の腕を取る。本初がハッとして私を見る。
「そ、そうです!」
本初が声を張り上げる。復活した。
「皇甫嵩将軍、貴殿は飲み過ぎだ!曹孟徳の妻だなんて、とんだ夢物語だ!あんな田舎侍に、李司のような至宝が釣り合うわけがない!」
本初が口走る。孟徳への対抗心が、彼を突き動かしている。
「彼女は私のものです!私だけのものです!孟徳など、彼女の足元にも及びません!」
本初が私を抱き寄せる。力が強い。肋骨が軋む。骨折したら治療費を請求するぞ。
皇甫嵩将軍が目をぱちくりさせる。
「ふうむ……。そうか、夢か。確かに、あんな戦場で妻を連れ回すなど、正気の沙汰ではないからな。曹孟徳殿もそこまで狂ってはおるまい」
皇甫嵩が納得する。いや、納得したフリをしてくれたのかもしれない。大人の対応だ。
「失礼した、本初殿。どうやら老いぼれたようだ。さあ、あちらで冷たい水でもいただこうか!」
「ええ、ぜひそうしてください!」
本初が安堵の息を吐く。彼の手はまだ震えているが、顔には営業用の笑顔が戻っている。
「李司……」
本初が小声で私に囁く。
「……ナイスフォローです、本初」
私も小声で返す。唇の動きだけで。
「重婚の事実がバレると、袁家の株価が大暴落するところでしたね。危機管理成功です。後で成功報酬をいただきます」
「……鬼め」
本初が呻く。だが、その目には少しだけ感謝の色がある。私たちは共犯者だ。この嘘という名の城を、共に守り抜く運命共同体なのだ。
宴は続く。音楽が再び流れ出す。人々は笑い、飲み、そして今の騒動を酒の肴にする。「いやあ、本初殿も熱いところがあるな」「愛妻家だ」評価は上々だ。スキャンダルは、エンターテインメントに変換された。
◆
本初の私室
静寂。宴の喧騒が嘘のように、屋敷は静まり返っている。深夜、丑の刻。豪華な調度品に囲まれたこの部屋で、二人の人間が起きている。
本初は、長椅子に深く沈み込んでいる。宴の衣装は乱れ、冠は床に転がっている。彼は天井を見上げている。その目は虚ろだ。魂が抜けたようだ。「燃え尽きたぜ……真っ白にな……」という幻聴が聞こえる。
一方、私は机に向かっている。私の前には、本日の売上帳簿と、大量の硬貨、そして私の相棒である特注の算盤がある。
パチパチパチパチ!!
高速で珠を弾く音だけが、部屋に響く。私は元気だ。金勘定をしている時、私のアドレナリンは最大値を記録するからだ。
「……計算終了」
帳簿を閉じる。満足げなため息。
「本日の収支報告を行います。飲食代、会場設営費、人件費、そして皇甫嵩将軍への口止め料……これら『必要経費』を差し引いても、大幅な黒字です」
「特に、貴方が『彼女は私の妻だ!』と宣言した後の、ご祝儀の集まりが良かったですね。皆様、感動して財布の紐が緩んだようです。貴方の名声ポイントも、洛陽市街で『Sランク』に到達しました。素晴らしい運用実績です」
拍手する。パチパチ。乾いた音がする。
本初は反応しない。彼は天井のシミを見つめたまま、微動だにしない。死んでいるのか?いや、呼吸はしている。
「……ああ、そうだな……」
本初が低い声で呟く。
「お前の言う通り、名声は上がるばかりだ。金も集まる。袁家の威光は、かつてないほど輝いている……」
彼は手を伸ばし、虚空を掴むような仕草をする。
「だがな、李司」
彼がゆっくりと起き上がる。その顔は、疲れ切っている。老人のようだ。
「なぜだ……?」
彼が私を見る。その瞳には、深い闇と、解決不能な問いが渦巻いている。
「なぜ俺の『男としての誇り』が、こうも著しく傷つけられている気がするんだ?俺は成功しているはずだ。誰もが俺を羨んでいる。美しい妻を持ち、富と名声を手に入れたと」
彼は自分の胸を叩く。
「なのに、俺の心は空っぽだ。まるで、操り人形になったような……。俺は本当に袁本初なのか?それとも、李司という巨大なシステムの一部品に過ぎないのか?」
哲学的な問いだ。自己同一性の危機。中年の危機には少し早いが、彼は若くして苦労しすぎた。
算盤を置く。彼に近づく。そして、冷徹に答える。
「それは『必要経費』です」
「……は?」
「感情というパラメーターは、利益の前では誤差に過ぎません。貴方がプライドを感じようが、虚無感を感じようが、結果としての数字は変わりません。気に病むだけ時間の無駄です。脳のCPUリソースを浪費しないでください」
彼の肩に手を置く。慰めではない。事実の提示だ。
「貴方は部品ではありません。貴方は『商品』です。最高級のブランド品です。商品は、消費者に夢を見せるのが仕事です。貴方が空っぽであればあるほど、人々はそこに自分の理想を投影します。つまり、今の貴方は完璧なアイドルなのです」
「商品……アイドル……」
本初が愕然とする。
「経費……か。俺のプライドは消耗品なのか……。俺の魂は、減価償却の対象なのか……」
彼が頭を抱える。深い絶望。だが、私は知っている。彼を救う言葉を。
「安心してください、本初」
少し声を柔らかくする。
「貴方は一人ではありません」
「え?」
「先月、集金に……いえ、様子を見に汝南へ行った時に、孟徳も全く同じことを言っていましたよ」
孟徳の顔を思い浮かべる。執務室で、書類の山に埋もれながら、死んだ魚のような目をしていた彼の姿を。
「彼は言っていました。『俺は汝南で王のように振る舞っているはずなのに、なぜか下僕の気分が抜けない。民衆は俺を讃えるが、俺の心は李司の財布の中に囚われているようだ』と」
クスクスと笑う。
「奇遇ですね。貴方たちは離れていても、同じ思考回路を持っているようです。さすがは親友同士」
本初が顔を上げる。その目に、少しだけ光が戻る。それは希望の光ではない。共感の光だ。「俺だけじゃないんだ」という、底辺での連帯感。
「……そうか。あいつもか」
本初が深くため息をつく。その息には、重荷が少し軽くなったような響きがある。
「あいつも、同じ地獄を見ているのか。俺たちは、同じ穴の狢らしいな……」
彼がフッと笑う。自嘲気味だが、自然な笑みだ。
「あいつにだけは、シンパシーを感じるよ。世界で唯一、俺の苦しみを理解してくれる同志だ」
「良いことですね。苦しみを分かち合う相手がいるのは、精神衛生上プラスです」
机に戻り、再び算盤を手に取る。
「さあ、感傷に浸る時間は終了です。明日のスケジュールの確認をしますよ。明日は西園軍の閲兵式です。貴方の晴れ舞台です。衣装のレンタル料、馬の装飾費、観客へのサクラの動員費……見積もりを出しておきました」
書類を彼に突きつける。
「サインをお願いします。袁本初様」
本初は書類を受け取る。金額を見て、一瞬顔を引きつらせるが、もう何も言わない。彼は無言で筆を取り、サインをする。その手つきは、諦観の境地に達した僧侶のように滑らかだ。
「……分かった。払えばいいんだろう、払えば」
「ありがとうございます。毎度あり」
書類を回収する。夜は更けていく。洛陽の闇の中で、私の算盤の音だけが、小気味よく響き続ける。
本初と孟徳。二人の英雄は、私の掌の上で踊り続ける。彼らが天下を争う日が来ても、その軍資金を管理するのは私だ。つまり、勝者は常に私なのだ。
「ふふ……。次はどんな利益を生み出してくれるのかしら」
窓の外を見る。西の空に、不吉な星が輝いている。董卓という名の、巨大な嵐が近づいている。だが、恐れることはない。嵐が大きければ大きいほど、私のビジネスチャンスも大きくなるのだから。
「さあ、寝なさい本初。明日は稼ぎ時ですよ」
「……ああ。おやすみ、俺の悪魔」
本初が寝室へと消えていく。私は一人、黄金の未来を計算しながら、深夜のティータイムを楽しむのだった。お茶請けは、もちろん「他人の不幸」という名の蜜の味だ。
◆
現在地、宮中の西園。皇帝陛下のプライベートな庭園であり、同時に新たな軍事組織の発足会場でもある。私の目の前には、色とりどりの旗が翻っている。赤、青、黄、白、黒。五行説に基づいた配色は美しいが、あの旗を作るのにかかった染料代と絹代を計算すると、私の眉間には自動的に皺が寄る。
いや、いけない。皺は美容の大敵だ。皮膚の劣化は資産価値の減少を意味する。私は表情筋をリセットし、能面のような、しかし完璧に整った美貌を維持する。
私は今、列の後ろに控えている。本来なら、女が立ち入れる場所ではない。ここは「西園八校尉」という、皇帝直属のエリート部隊の任命式なのだから。
並んでいるのは、この国の武の中枢を担う男たちだ。宦官の蹇碩。名門の本初。そして、私の夫(債務者その一)である孟徳。彼らは皆、煌びやかな鎧に身を包み、緊張した面持ちで整列している。
だが、私はここにいる。なぜか?理由は単純。私がこの西園軍の設立における「特別会計顧問」だからだ。軍隊を作るには金がかかる。装備、兵糧、給与、そして賄賂。それらの資金調達と運用を、誰が計算したと思っているのか。この国の官僚たちは、足し算引き算も怪しい連中ばかりだ。私が電卓を弾かなければ、この軍隊は発足前に破産していただろう。
「……暑いな」
前列の方で、誰かが小声で呟く。孟徳だ。彼は「典軍校尉」というポストを与えられている。序列で言えば四番目か五番目あたり。悪くない位置だ。彼の鎧は新品だ。私が手配した。市場価格の二割引きで仕入れ、彼には三割増しで請求した逸品だ。差額は私のへそくり口座に入金済みである。
その隣には、本初がいる。「中軍校尉」
筆頭校尉である蹇碩に次ぐ、ナンバーツーの地位だ。さすがは名門袁家。そして、私の「夫(債務者その二)」だ。彼は緊張で背中が強張っている。汗が首筋を流れているのが見える。あの汗が鎧に染みると、クリーニング代がかさむのだが。後で請求書に「衣装メンテナンス費」を追加しておこう。
そして、最前列には蹇碩。宦官でありながら、軍のトップに立つ男。体型はブクブクと太っている。歩く脂身だ。彼の鎧は特注サイズだが、腹の肉がはみ出しそうだ。あの中に、どれだけの賄賂が詰まっているのか。解体して中身を確認したい衝動に駆られるが、今は我慢だ。彼は現在のところ、私の「太客」の一人だからだ。
「皇帝陛下、お成りー!!」
甲高い声が響く。全員がバサリと音を立てて平伏する。私も優雅に膝を折る。地面の砂利が膝に食い込む。痛い。この砂利の撤去費用と、膝のケア代も請求項目に追加だ。
壇上に、一人の男が現れる。霊帝。この漢王朝の現皇帝だ。年齢は三〇代前半。私とほぼ同世代だ。だが、その顔色は悪い。酒と色に溺れた生活が、顔に出ている。目の下のクマは、ファンデーションでも隠しきれていない。だが、その目だけは異様にギラギラしている。金への執着の光だ。私と同類の、強欲な光だ。だからこそ、私はこの皇帝と気が合うのだ。
霊帝が壇上に立つ。彼は満足げに、眼下の軍勢を見渡す。
「皆の者、面を上げよ」
彼の声は、少ししわがれている。
「この度は、朕の直属部隊として西園八校尉を設けることとなった。天下の情勢は予断を許さぬ。各地で反乱が起き、賊が蔓延り、朕の安眠を妨げておる。其の方ら、朕の剣となり盾となり、励めよ」
「はっ!!」
全員が声を揃える。形式的な挨拶だ。中身はない。要するに「俺を守れ、そして俺のために働け」と言っているだけだ。翻訳機能を使うまでもない。
霊帝の視線が、列を巡る。蹇碩を見て頷き、本初を見てニヤリとし、孟徳を見てフンと鼻を鳴らす。そして、列の後ろ。規格外の場所にいる私に、その視線が止まる。
ピタリ。
霊帝の目が大きく見開かれる。そして、パァァァッと輝く。恋する乙女のような、いや、宝箱を見つけた海賊のような顔になる。
「おお……そこにいるのは李司ではないか」
霊帝が身を乗り出す。威厳も何もあったものではない。
「そなた、息災であったか!今日も美しいのう。いや、美しさの中に黄金の輝きが見えるぞ」
「恐悦至極に存じます、陛下」
立ち上がり、ニッコリと微笑む。営業用スマイル・ランクS。この笑顔一つで、国の一つや二つは傾けられる自信がある。
「そなた、先日提案してくれた『官位オークションの自動入札システム』、あれは画期的であったぞ!」
霊帝が興奮気味に語り出す。周囲の空気がざわつく。任命式の最中に、いきなり金の話かよ、という空気が流れる。だが、私は気にしない。
「今までは、官位を買いたい者がいちいち現金を運んできて、手作業で数えておったが……そなたの作った『入札箱』と『最低落札価格設定』のおかげで、手間が省けたわ!しかも、競争心を煽るあの『現在の最高入札額表示板』!あれが良い!皆、見栄を張ってどんどん値を釣り上げよる!」
霊帝が手を叩いて喜ぶ。
「おかげで売官の売上が二割増しじゃ!昨日は『太守』のポストが、想定の倍の価格で売れたぞ!ガッポガッポじゃ!」
品がない。一国の皇帝が「ガッポガッポ」などと言ってはいけない。だが、事実は事実だ。私は官位売買のシステムを近代化しただけだ。今までは密室での相対取引だったものを、公開オークション形式に変更し、市場原理を導入した。需要と供給のバランスを可視化することで、価格の適正化を促したのだ。
「お役に立てて光栄です、陛下」
「国庫の潤いは国家の安泰。金がなければ兵も養えませぬ。陛下の懐が温かくなることこそ、万民の願いでございます」
「うむ、うむ!良いことを言う!」
霊帝が頷く。
「して、李司よ。次はどのような策がある?最近、ちと売上が頭打ちでな。何か新しい集金システムはないか?」
貪欲だ。この向上心、嫌いではない。
「ございますとも」
懐から、一枚の羊皮紙を取り出す。そこには、新たなビジネスモデルの概要が記されている。
「次は『免罪符の定額課金制』をご提案いたします」
「ほう?さぶす……くりぷしょん?なんじゃそれは」
「簡単に言えば、月額定額制の安心パックです」
指を一本立てて説明する。プレゼンテーションの時間だ。
「官僚や地方豪族たちは、常に法を犯すリスクを抱えています。賄賂、横領、職権乱用。いつ摘発されるかビクビクしております。そこで、毎月定額の金を陛下に納めることで、『軽微な犯罪なら見逃す』という権利を与えるのです」
「なるほど!」
「これなら、陛下は毎月安定した収入を得られます。一度きりの罰金とは違い、継続的な収益が見込めます。解約しようとする者には、『解約すれば即座に過去の余罪を追及する』と通告すれば、一生契約し続けるでしょう」
「悪魔的じゃ!」
霊帝が絶叫する。褒め言葉だ。
「素晴らしい!天才じゃ!そなたこそ我が剣、いや我が『財布の紐』である!いや、打ち出の小槌じゃ!」
霊帝が感動のあまり、ハンカチで目頭を押さえる。
「そなたの力に期待すること大であるぞ!この西園軍の運営費も、そのシステムで賄うとしよう!余った分は朕の小遣いじゃ!」
「はい!頑張ります!」
力強く返事をする。この「免罪符サブスク」、運用手数料として私が一割いただく契約になっていることは、陛下には内緒だ。
周囲の空気が、完全に変わっている。ざわつきが、さざ波のように広がっていく。任命式の厳粛な空気はどこへやら。完全に「悪徳商人の密会」の雰囲気だ。
私の超高性能な聴覚が、周囲のヒソヒソ話を拾う。
「おい……聞いたか?」武官Bが、隣の同僚に耳打ちしている。「なぜ女があの列に加わっているんだ?しかも陛下と『金』の話で意気投合しているぞ……。あいつ、何者だ?」
「知らんのか?」武官Cが答える。彼は事情通ぶっているが、その情報の半分は噂話だ。
「あの女、李司だ。あの皇甫嵩将軍の功績の半分は、あの女が裏で糸を引いていたらしいぞ。数年前の黄巾の乱……あの時、敵の装備を剥いで転売し、軍資金を作ったとか……」
「剥いで転売?追剥ぎかよ」
「いや、もっと恐ろしい噂があるぞ」武官Dが割り込む。彼は声をさらに低くする。
「ここにいる曹操と袁紹……次代の英雄と名高い二人だが。実態は、あの女に牛耳られているらしい」
「牛耳られてる?まさか」
「本当だ。噂では、あの女は二人と子供を作って、それぞれの家を乗っ取るつもりだとか……。曹家と袁家、両方の資産を吸い尽くす『黄金の吸血鬼』と呼ばれている」
「ひぇっ……!まさに傾国の魔女……。見た目は十代の小娘なのに、中身は妖怪か……」
失敬な。妖怪ではない。実業家だ。子供を作ったのは事実だが、それは「乗っ取り」ではなく「資本提携」だ。それに、吸い尽くすつもりはない。生かさず殺さず、持続可能な搾取を目指している。
その噂話は、当然、当事者である二人の耳にも届いている。私はチラリと彼らの背中を見る。
孟徳は、前を向いたまま微動だにしない。だが、その肩が小刻みに震えている。彼は小声で、隣の本初に話しかけている。
「………………本初。聞こえているか」
蚊の鳴くような声だ。唇をほとんど動かさずに話す、腹話術のようなスキルを習得している。
「………………何も言うな、孟徳」
本初もまた、石像のように固まったまま答える。彼の顔色は蒼白だ。名門のプライドが、噂話によってガリガリと削られている音がする。
「否定すれば、奴は俺たちの実家の『借用書』をここで読み上げるぞ。『いついつ、どこどこで、いくら借りた』と、大声で発表されでもしたら、俺たちは社会的に死ぬ」
本初の危機管理能力は正しい。私は懐に、常に最新の借用書リストを携帯している。彼らが反抗した時のための、最終兵器だ。
「……違いない。あいつならやる。平然とやる」
孟徳が呻く。
「耐えるんだ、本初。これが……俺たちの『覇道』だ。いや、『ローン返済』だ。天下を取れば、あいつへの借金も返せるはずだ……多分」
「無理だろ……。天下を取ったら、あいつは『天下統一手数料』を請求してくるぞ……」
「……言うな。夢を見させてくれ」
二人の会話は、悲壮感に満ちている。西園八校尉。世間からはエリート中のエリート、栄光の部隊と見られている。だが、その内実は、私という一人の女への「債務返済部隊」なのだ。
二人の背中を見て、脳内で計算する。ふふ。二人の精神的負荷が上昇中。数値にして、危険域の八〇パーセント。だが、このストレスこそが、彼らを成長させる糧となる。人は、追い詰められた時にこそ真価を発揮する。借金という名の重圧が、彼らを英雄へと押し上げるのだ。
「これが良いスパイスになって、仕事効率が上がるんですよね」
彼らがこの西園軍で出世し、権力を握れば、私の影響力も拡大する。袁家と曹家、そして漢王朝の中枢。全ての財布の紐が、私の指先に集まってくる感覚。たまらない。これぞ、人生の醍醐味だ。
霊帝の演説が続く。「朕のために死ね」だの「忠義を尽くせ」だの、中身のない言葉が羅列される。私はそれを聞き流しながら、空を見る。西の空。そこには、不穏な雲が湧き上がっている。
私の演算機能が、未来を予測する。変数A:霊帝の健康状態。顔色、声の張り、肌の艶。すべてが「末期」を示している。この皇帝、長くはない。あと一年、いや半年か。彼が死ねば、どうなる?
変数B:後継者問題。幼い皇子たち。それを操ろうとする外戚の何進大将軍と、宦官の十常侍。対立構造は明確だ。必ず揉める。内乱が起きる。
変数C:外部要因。地方で力を蓄えている軍閥たち。特に、西涼の董卓。あの男は危険だ。暴力と欲望の塊だ。彼が中央に介入すれば、市場は崩壊する。
結論:カオス。
私の口角が、自然と吊り上がる。カオス。素晴らしい響きだ。秩序が崩壊する時、既存の価値観は転覆し、富の再分配が行われる。平時ではあり得ないような、一攫千金のチャンスが転がっている。
「さあ、乱世をもっとかき回して、市場を活性化させましょうか」
西園八校尉。それは漢王朝の最後の輝きかもしれない。だが、私にとっては「最大の集金システム」の完成形であり、次なる乱世への布石に過ぎない。
「李司よ」
霊帝が私を呼ぶ。演説が終わったようだ。
「はっ」
「これより宴を催す。そなたも参れ。サブスクの話、もっと詳しく聞きたいぞ」
「御意。特別資料をご用意いたします」
孟徳と本初が、私を恨めしそうに見ている。「また余計な入れ知恵を……」という目だ。構うものか。私は稼ぐ。貴方たちが宴で愛想笑いをしている間に、私は国のシステムごと書き換えてみせる。
「忙しくなりますよ、お二人さん」
二人の横を通り過ぎる際、小さく囁く。
「霊帝陛下が崩御あそばされたら……その時が、本当の『精算日』です」
二人がビクリと震える。彼らも予感しているのだ。この平和な日々に、もうすぐ終わることを。そして、その後に訪れる地獄を。
だが、私にとって地獄とは、最高の狩り場だ。鬼が出るか、蛇が出るか。あるいは、董卓という名の魔王が出るか。誰が出ようと関係ない。すべて、私のそろばんの上で踊らせてやる。
私は空を見上げる。太陽が雲に隠れ、陰りが差す。黄昏。漢王朝の落日。だが、私のビジネスにとっては、これからが夜明け前なのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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