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三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~  作者: 斉宮 柴野


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第四十四話:完璧な書類と、遅れてきた髭

李司の地獄の事務教育を受け続けた張飛翼徳。

ついに彼は、完璧な引き継ぎとともに曹操軍からの退職を決意する。

だが、書類で世界を制する男となった張飛を待つのは、思わぬ無双劇だった――。

【許昌】


夜明け前の許昌。


未決裁の竹簡は完璧に分類された。

支出申請は費目ごとに紐解かれ、兵糧在庫の報告書には赤墨の新しい数値が刻まれている。


目次。

引き継ぎ番号。


几帳面な老文官が精魂尽き果てるまで向き合うべき成果。

それを一夜で成し遂げた事実が、達成感として胸に満ちていく。


蛇矛の冷たさよりも、筆の感触が指先に馴染んでいる。

李司の元で叩き込まれた地獄の秘書業務。


稟議の流れ、予算の組み替え、曹操の怪しい支出申請の看破。

最後の竹簡に印を押し付け、筆を置く。


「……終わった」


戦場で敵将の首を落とした時の熱りとは違う。

脳髄の芯から疲労が滲み出ている。

敵を斬るより、財務諸表を整える方がはるかに神経をすり減らす。


「今月のけっさん、兵糧のざいこかんり、部下どものじんじこうか、関羽兄者の髭オイル予算、曹操様の文化交流費という名の下半身経費の差し戻し……全部終わりだ。全部だ。俺はやり切った」


机の中央には『李司殿不在時における許昌秘書業務引継総覧』

目次は十七項目。


『曹操様の支出申請における虚偽費目判定早見表』と『関羽殿髭関連福利厚生費の適正範囲』まで付随している。


印鑑を布で拭う。

墨の匂いが鼻腔をくすぐる。


かつての自分なら考えられない所作。

印の欠けや墨のにじみが、後日の監査でどれほどの波紋を呼ぶか、骨の髄まで理解してしまっている。


「李司殿……あんたは怖え女だ。俺から酒と昼寝と戦場の単純さを奪い、代わりに経理と監査と内部統制を植えつけやがった。だが、見ろ。俺は逃げる時ですら、机を荒らさねえ男になっちまった」


逃げるなら、後ろを濁さない。

李司に刻み込まれた鉄則。


木簡を一枚、机の中心に据える。


『辞表』

一身上の都合により退職します。業務引き継ぎは別冊を参照ください。未消化の有給休暇は放棄します。貸与筆記具は返却済みです。張飛翼徳。


簡潔。

書式は完璧。


荀彧が見れば保存を命じ、李司が見れば形式の美しさに唇を噛むだろう。

蛇矛の柄を握りしめる。


木の温もりが、ようやく武人としての本能を呼び覚ます。


「さらばだ、血も涙もねえ李司のオフィス。俺は人間に戻る。帳簿じゃなく、道を切り開く男に戻る」


足音を立てずに部屋を後にする。

逃亡者の現場には、一抹の塵すら残されていない。














朝露の匂いが漂う中、馬車が待機している。

甘夫人と糜夫人の落ち着いた佇まい。

夫の突然の逃亡、環境の急変。


長年の経験が、二人の精神を鋼のように鍛え上げている。

御者台の木の感触を確かめ、腰を下ろす。


「奥方様方、準備はよろしいか。ここからは急ぎます。曹操軍の関所を抜け、袁紹の陣にいる劉備兄者のもとへ向かいます」


「翼徳さん。雲長様は……ご一緒ではないのですか」


甘夫人の問いに、胸の奥で何かが冷える。


「奥方様。関羽兄者については、いったんそんぎりしてください」


「そんぎり……」


糜夫人の声に戸惑いが混じる。

李司の影を感じ取っている。


「あの人は今、髭を失って心も判断力も底です。曹操様の福利厚生、特に高級髭オイルと白檀の香りに魂を飼い慣らされています。昔の美髯公ではなく、今は美容にこだわる顎ジョリおじさんです」


「雲長様が……そこまで」


「はい。兄者と髭オイルを天秤にかけて、悩むところまで落ちています」


「劉備様なら、たぶんそれを聞いて泣きますね」


「泣くでしょうな。だが、泣く権利があるかは別です。あの人も散々俺たちを置いて逃げてますから」


「それは……否定できません」


「ご安心ください。兄者が動かないなら、俺が動きます。俺は李司殿の地獄の机で鍛えられました。戦場も関所も書類も、全部まとめて突破してみせます」


「頼もしいですね、翼徳さん。以前より、言葉の中に妙な実務感があります」


「嬉しくねえ褒め言葉です」


「でも、安心できます」


気恥ずかしさが頬を熱くする。


「では、出発します。しっかりつかまっていてくだせえ」


車輪が土を噛む音。

早朝の風を切り裂き、単独脱走が幕を開ける。













城門の前に広がる威圧感。

曹操、荀彧、程昱。


視線の重さが肌を刺す。

馬車の手綱を引き絞る。


「張飛よ」


怒りはない。

どこか楽しげな響きすらある。


「行くのか」


「はい。劉備兄者のもとへ向かいます。奥方様方をお連れします」


程昱の冷たい視線が突き刺さる。


「殿。お考え直しを。張飛はただの豪傑ではありません。李司様の下で行政手腕まで身につけています。今逃がせば、敵方に武力と経理能力を兼ね備えた危険なアセットを渡すことになります。早めにそんぎりすべきです」


「俺を不良在庫みたいに言うな」


「不良ではない。優良だからこそ危険なのだ」


「もっと嫌な評価だな」


武を見る目ではない。

有能な官僚を値踏みする光。


「殿。仲徳殿の言葉には理があります。張飛殿が昨夜までに整えた財務諸表を確認しましたが、あの正確さと美しさは尋常ではありません。費目の分類、補助資料、差異分析、引き継ぎ番号。あれだけの書類を作れる人材は、戦場より経理部門に置きたいほどです」


「荀彧、お前まで俺を机に縛ろうとするな」


「率直な評価です」


曹操の口元が微かに歪む。


「俺も見た。張飛、お前の机は見事だった。逃げる者の机ではない。職を辞す者の机だった」


「……逃げるのも辞めるのも、後始末は大事ですからね。李司殿がうるさいんで」


「李司の教育は恐ろしいな。猛将をここまで社会人にするとは」


「俺の大事な何かが削れた気がします」


「だが、立派だ」


曹操の瞳の奥に、確かな敬意が灯る。


「己の仕事を片づけ、引き継ぎを終え、奥方たちを守って去る。これを止めるのは野暮だ。劉備には色々と言いたいことがある。兵も金も蜂蜜も持ち逃げされた。だが、お前の忠義と律儀さは別だ」


「殿。感情で判断されては困ります。張飛殿を逃がせば、劉備陣営の事務処理能力が跳ね上がります。あの男が今後、詐欺と経理を同時に扱うようになれば手に負えません」


「それは確かに怖い」


背筋に冷たい汗が伝う。


「兄者と俺の経理能力を組み合わせるな。自分でも怖い」


「しかし、張飛殿を無理に止めれば、曹操軍の評判に傷がつきます。劉備殿の夫人方を守って送り届けるという名分もあります。ここで刃を向ければ、義を重んじる武将たちの心証が悪くなるでしょう」


「その通りだ。張飛」


「はい」


「行け。劉備に伝えろ。俺はまだ、あいつが持っていった兵と金と蜂蜜のことを忘れていない。だが、奥方たちを無事に連れていったことについては、お前の働きとして認める」


胸の奥で何かが熱く結びつく。


「短い間でしたが、世話になりました。曹公。李司殿には……まあ、できれば俺の居場所はぼかしておいてください。あと『数字の奴隷になって過労死するな』と伝えておいてください」


「それを俺が言うのか」


「俺が直接言うと殺されるんで」


「俺でも怒られるぞ」


「そこは夫婦のきずなで」


「都合の良い時だけ夫婦を使うな」


曹操の手が動き、道が開かれる。


「武運を祈る」


蛇矛の柄を固く握る。


「そちらも。……関羽兄者を頼みます。あの人、今だいぶ面倒くさいんで」


「分かっている。髭オイルの予算は増やす」


「そこから離れないのかよ」


曹操の沈黙が、すべてを物語っていた。

車輪が再び動き出す。


「惜しい人材です」


「危険な人材です」


背後からの評価が、奇妙なほど心地よく響いた。

誰かのために道を切り開く。

その衝動だけが、今の自分を突き動かしている。










顎を覆う布の感触。

その下にあるはずの誇りが、今は痛ましいほどに短い。

周囲の兵たちのざわめきが、耳障りな羽音のように鼓膜を叩く。


同情。

嘲笑。

疑問。


すべての声が、鋭利な刃となって自尊心を削り取っていく。


美髯公。

その名が、今はただの呪縛。


「張飛将軍はすごいよな。書類も完璧に片づけて、奥方様たち連れて、堂々と出ていった。義の人って感じだ」


「関羽将軍は……まあ、髭の再建中だから」


「再建って城かよ」


胸の奥で、燻っていた火種が弾ける。

恥辱という名の業火。


布を引き剥がす。

外気に触れた顎の短さが、むしろ脳を冷徹に覚醒させる。


「翼徳……待て。拙者も参る」


赤兎馬の背に跳躍する。

鞍の感触、手綱の張り。

これだけは裏切らない。


「文遠には……文遠には、後で詫び状を書く。曹公にも、正式な辞表を……いや、張飛が辞表を出していた。拙者も書くべきか。いや、今は追わねば」


迷いは風に捨て置く。

馬腹を蹴る。


「翼徳!待て!拙者も、拙者も行く!」


兵たちの声を置き去りにし、ひたすらに前だけを睨む。

誇りだけでは動けない。

だが、この胸を焦がす恥があれば、地獄の底までも駆け抜けられる。










◇◇











【第一の関所 東嶺関】


東嶺関。


「止まれ!ここは許可なき者を通すわけにはいかん。丞相府発行の通行手形を出せ」


懐を探る。

指先が触れたのは、分厚い木簡の束。

暴力を期待する兵たちの緊張感が、肌に伝わってくる。


「これでいいか」


突き出された書類に孔秀の呼吸が一瞬止まる。


「ふむ。特別通行許可証……発行元、丞相府秘書課。発行責任者、張飛翼徳。承認印、張飛印。通行目的、担保資産の環境変更に伴う一時的保全移送……何だこの名目は」


「正式なやつだ。李司殿の書式をもとにした」


「添付書類は」


「ある。保護対象者名簿、移送経路案、馬車積載物一覧、非常時対応規程、未消化有給休暇放棄同意書の写し」


「最後のは何だ」


「俺のだ。いちおう添えた」


「……書式は現行のものだ。印も本物。記載漏れなし。添付資料も完備。保護対象者の移送理由も、文面上は成立している」


「隊長、でもこの人たち、どう見ても脱走では」


「黙れ。書類審査中だ」


孔秀の指が震えている。


「通行者、張飛翼徳。発行責任者、張飛翼徳。承認者、張飛翼徳」


「何か不備があるか」


「……いや。規程上、秘書課に一時的な緊急移送権限があるのは事実だ。発行責任者と通行者が同一であってはならないという明文規定は……ない」


明文規定がない。

役人にとっての最大の恐怖。


「よし。通ってよし」


重い門が悲鳴を上げて開く。


「通れるのですか」


孫乾の震える声。


「通れる。書類が通った」


「李司殿直伝だ。戦わずして関を抜く。これが内部統制ハックってやつよ」


「その言葉、かなり危険では」


「使えるものは使う」


馬車が門を通り抜ける。

孔秀の敬礼が、背中に痛いほど突き刺さる。


風が木簡の匂いを運んでいく。

完璧な書式がもたらした勝利の余韻。














「止まれ!」


「拙者は関羽雲長。先ほど通った張飛翼徳を追っている。門を開けよ」


「関羽……?美髯公の関羽か?」


その名が、今はただ痛い。


「今は、その名で呼ぶな」


「なぜだ」


「事情がある」


「通行手形は」


沈黙が、痛みを伴って胃の腑に落ちる。


「手形は……ない」


「では通せん」


「急ぎなのだ。義弟が奥方様方を連れて先へ」


「通せん」


「拙者は曹公の客将であり」


「書類は」


「ない」


「では通せん」


苛立ちが、青龍偃月刀の柄を握る手に力を込めさせる。


「そこまで書類が必要か」


「必要だ。つい先ほど、完璧な書類を持った張飛殿を通したばかりだ。あれは書式上、通すしかなかった。だが、貴殿は手ぶらだ。しかも自称関羽。髭も短い。本人確認にも不安がある」


こめかみの奥で、何かが軋む。


「本人確認に髭を使うな」


「美髯公であろう」


「今は療養中だ!」


「いずれにせよ、手形なき者は通せん。戻って許可を取れ」


「すまぬ。時間がない。翼徳を追わねばならぬ」


「ならば力ずくか」


「できれば避けたい」


「なら書類を出せ」


「ないと言っている」


「なら通せん」


分かり合えない。

刃の冷たさが、唯一の現実。


「許せ」


孔秀の体が宙を舞い、土にまみれる。


「ぐっ……!書類不備のうえ、公務執行妨害……!無念」



ここまでお読みいただきありがとうございました!

「張飛が一番社会人してるじゃねえか」と思った方はぜひ感想をください。

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