第四十一話:奇妙なポーズの猛将と、髭の喪失(二度目)
今回は官渡前哨戦、白馬の戦いです。
正面から曹操に勝ちたい袁紹、帳簿で戦場を見る李司、そしてなぜか鎖付きで前線に出される劉備。
関羽の髭に最大級の危機が迫ります。
【袁紹軍本陣】
数字だけを見れば、こちらが圧倒的に有利。兵力、兵糧、領地、名門の威光、どれを取っても袁紹軍が上回っています。巨大な資本が市場を飲み込むように、その存在自体が抗いがたい圧力として作用するのです。
ただし、巨大な組織はそれだけ燃費も悪い。
人が腹を空かせ、馬が飼葉を求め、将軍が酒を嗜み、文官が紙を消費する。戦争とは、刃を交えるより遥か前に、まず帳簿の数字を削り尽くす一大事業です。
その事実を最も正確に理解しているのは、田豊と沮授の二人でした。
彼らの顔には焦燥が浮かんでいます。主君の前に立ち、正論という名の重い石を幾度も投げ打っていました。
「殿。どうか再考ください。正面決戦は不要です。我々には兵糧があります。兵があります。時間があります。曹操軍は許昌を背負っていますが、地力では我々に劣ります。ここで無理に押し込むより、官渡の要地で圧をかけ続け、補給を絞れば、曹操は自ら干上がります」
田豊の言葉には一片の隙もありません。
あまりにも正しすぎる現実が、その場の空気を硬直させていきます。
「私も同意見です。短期決戦は見栄えこそ派手ですが、リスクが高い。曹操は少数でも粘る男。勝っても損害が大きければ、後に残るのは疲弊した大軍です。殿は河北の覇者として、無駄な賭けを避けるべきです」
沮授の意見もまた真理です。
この二人が揃っている時点で、我が軍の参謀の質は極めて高いと言えます。通常の組織であれば、トップが頷き、持久戦へと移行して曹操軍の体力を静かに削り取っていくでしょう。
普通であれば、です。
問題は、現在の本初が、まともな経営判断を下せる精神状態にないことでした。
この男の視線の先にあるのは、天下ではありません。私です。
曹孟徳に打ち勝ちたい。
私の夫として、一人の男として、正面から彼を打ち破りたい。
非常に面倒で、極めて非合理で、しかし途方もなく投資価値のある感情が、彼の中で燃え盛っていました。
会議室の隅では、麹義が椅子に浅く腰掛け、無遠慮に鼻をほじっています。
袁紹の精神的負荷を高めるため、蔡文姫が意図的に配置した男ですが、その効果は絶大です。効きすぎて、本初の体調に深刻な影響を与えかねないほどに。
「まあ、俺は小難しい持久戦とか補給戦とか知らんけどよ。要するに、田豊と沮授はこう言いたいんだろ。『袁紹様、あんたが正面から殴り合おうとしてるのは、男の意地じゃなくてただの見栄っ張りのバカです』ってな。ガハハ」
麹義の言葉は、正論ではなくただの投石です。
その石は、あまりにも鋭く削られていました。
「おい麹義。お前、今の発言は軍議への貢献ではなく、ただの悪口だよな?しかもかなり直球だよな?」
「でも外れてはいねえだろ」
「外れていないから腹が立つんだ!」
田豊と沮授の正論が深く刺さり、そこに麹義の無遠慮な言葉が傷口を抉る。
この最悪の組み合わせを意図して設計した蔡文姫は、本当に救いようがありません。
当の彼女は、口元を隠し、椅子の上でゆらゆらと楽しげに揺れています。
その目は完全に観劇を楽しむ観客のそれです。
「ああ……素晴らしいですわ。忠臣たちの正論、猛将の低俗な罵倒、名門の主君が板挟みになって歪む精神。音階が合っていないのに、全体として妙に癖になる不協和音です。袁紹様、その額の血管、あと二本ほど浮かせてくださいませ。実に良い曲線ですわ」
「蔡文姫」
「それは貴女の個人的な趣味です。軍議ではなく観劇になっています。黙りなさい」
「はい、李司様」
私には従順なあたり、教育自体は成功しています。
成功しているにもかかわらず、運用先である本初の精神が日々削られている。経営の難しさを痛感します。
私は田豊と沮授に向き直りました。
「二人の意見は、極めて合理的です。持久戦に持ち込めば、我々は高い確率で勝てます。こちらの国力を使い、敵の補給線を圧迫し、曹操軍を市場から退場させる。損害は少なく、勝率は高い。経営判断としては正しい」
「ならば奥方様からも殿をお諫めください」
田豊が身を乗り出します。
その目は真剣そのものです。
自らの正論を通すためなら、私という圧力すら利用しようとする。その執念は評価に値します。
「ですが」
「今回、私は本初の判断を支持します」
「なっ……!」
「なぜですか。奥方様ほどの方が、この無謀を認めるのですか」
「理由は簡単です。これは単なる領土拡大ではありません。夫同士の決算なのです」
会議室が水を打ったように静まり返りました。
「本初は孟徳に正面から勝ちたいと言っています。兵糧攻めで相手が弱り切ったところを刈り取るのでは、彼の投資価値、つまり男としての覚悟が回収できない。非合理です。しかし、トップが全責任を負ってでも正面決戦を望むなら、参謀の仕事はただ一つ」
私は田豊と沮授の目を真っ直ぐに見据えました。
「無謀を現実的な戦術に変換しなさい」
「……奥方様」
「反対するのは簡単です。正論を述べるのも簡単です。ですが、主君が腹を括った後は、その方針を実現可能な事業計画に落とし込む。それが参謀の価値です。貴方たちは価値ある人材です。価値ある人材なら、その価値を示しなさい」
田豊の口元が引き結ばれます。
沮授も一度目を伏せ、決意を込めて顔を上げました。
「……承知しました。そこまで言われては、退けません」
「殿が正面決戦を選ぶなら、勝てる形にするまでです。持久戦案は控えに回しつつ、先鋒の突破、側面展開、補給防衛を再構成します」
「よろしい」
「李司」
「何ですか、本初」
「俺は勝つ。孟徳に勝つ。お前の夫として、あいつの前に立つ」
「その言葉、忘れません」
麹義が鼻を鳴らします。
「へっ。単細胞のバカが本気になったなら、俺も暴れてやるか。正面から殴り合うなら得意だ。小難しい顔した連中の計算ごと、俺が敵の前歯をへし折ってくる」
「麹義。その勢いは評価しますが、勝手に突出した場合は減俸です」
「戦場で減俸って何だよ」
「戦場だからこそ経費管理が重要です」
「やっぱこの軍、怖ぇな」
蔡文姫がうっとりとした表情で、部屋の奥に控える顔良と文醜へ視線を送ります。
二人は不可解な姿勢のまま待機していました。
顔良は腰を人体構造の限界に近い角度で捻り、文醜はその背に重なるように腕を伸ばしています。常人であれば筋を痛めるような姿勢を平然と維持している時点で、彼らの肉体改造は常軌を逸しています。
「顔良、文醜。貴方たちの出番ですわ」
「おう、監査役殿」
「ついに俺たちの幾何学殺法を披露する時か」
私は蔡文姫を見遣りました。
「確認しますが、あれは本当に戦術として有効なのですね」
「もちろんですわ。人間は予測できない関節角度と視線誘導を同時に見せられると、三半規管と距離感の処理に遅延が出ます。特に騎兵や密集隊形の兵士は、初見で確実に認識エラーを起こします。そこへ顔良様と文醜様の高火力を叩き込めば、視覚的嫌悪感と物理的破壊力の合成攻撃が成立します」
「説明を聞くだけでも不快感が募りますね」
「褒め言葉として受け取りますわ」
「褒めてはいません」
部屋の隅では、劉備が鎖に繋がれていました。
逃亡防止のための措置です。
客将と囚人の狭間のような扱いですが、彼の過去の横領履歴を鑑みれば妥当な防衛策です。
「なあ、李司殿。確認なんだけど、俺もあの二人と一緒に前線へ出るの?」
「はい」
「顔良と文醜の奇妙なポーズのすぐ後ろに?」
「はい」
「曹操軍から見れば、俺も変態仲間に見えない?」
「見えるでしょうね」
「そこ、否定してくれよ!」
「虚偽の報告はいたしかねます」
「俺のブランドが落ちる……。皇叔ブランドが変態武将ユニットの付属品になる……」
「借金を完済してからブランドを語りなさい」
「正論が痛い」
本初が立ち上がります。
その声には、先ほどまでとは違う確かな重みがありました。
「明日、白馬で曹操軍の前線を砕く。顔良、文醜、劉備を先鋒とする。蔡文姫の幾何学殺法で敵の士気を崩し、李司が前線の指揮を補佐する。俺は本陣から全体を動かす」
「本初。私は前線へ出ます」
「……危なくないか」
「危ないのは相手の方です」
「そうだったな」
会議室の空気に、ようやくわずかな余裕が生まれました。
「皆、聞け。俺は孟徳に勝つ。正面から勝つ。名門としてでも、河北の覇者としてでもない。一人の男として、夫として勝つ。そのために、お前たちの力を貸せ」
田豊と沮授が深く頭を下げます。
麹義は鼻で笑いながらも、自身の拳を鳴らしました。
蔡文姫は観劇の表情を収め、冷徹な監査役の目つきに戻ります。
顔良と文醜は奇妙な角度で頷き合いました。
劉備だけが、蚊の鳴くような声でこぼします。
「俺、帰りたい……」
「却下です」
◇◇
【白馬・戦場中央】
翌朝。
地形自体は広く、騎兵も歩兵も展開しやすい。正面からぶつかり合うには絶好の舞台です。
しかし、戦場の中央に陣取る顔良と文醜の姿勢が、その地形の利を完全に打ち消すほどの異様さを放っています。
二人の背後には劉備。
彼を繋ぐ鎖の長さは、逃走を試みても五歩で限界を迎えるよう綿密に計算されています。囮としては動けるが、逃亡者としては機能しない。完璧なリスク管理です。
「李司殿、これ外してくれない?士気が下がる」
「逃げなければ下がりません」
「いや、鎖につながれた皇叔って、味方の士気にも悪いだろ」
「むしろ兵たちは安堵しています。『あの劉備が逃げられないのなら、自分たちも逃げるわけにはいかない』と」
「俺、精神的な杭にされてる?」
「はい」
「はいって言うな」
蔡文姫は手にした分度器で、二人の関節角度を厳格に測定していました。戦場に持ち込むべき道具ではありません。
「顔良様、腰の角度が二度甘いですわ。文醜様、左肩をもう少し後ろへ。敵の視線を斜め上へ誘導してから、右下へ殺意を落とすのです」
「こうか」
「おう、これで内臓が少しねじれる感じがするぜ」
「よろしいですわ。その不快感こそが勝利への道です」
「近くで見ている俺の内臓もねじれるんだけど」
「慣れなさい」
「無理だよ。人体の設計に反してるよ」
「人間の設計は更新可能です」
「怖いこと言うなよ」
彼方の土煙の向こうに、曹操軍の前衛が見えます。
見事な陣形。
さすがは孟徳。緒戦であっても一切の隙を見せません。
しかし、こちらの先鋒を視界に捉えた瞬間、敵の前列に明らかな動揺が走りました。
顔良が一歩踏み出します。
文醜が斜めから身体を重ねます。
二人の肉体が、武将としてあり得ない軌道を描きます。
筋肉の連動、関節の角度、武器の傾き、そして視線。そのすべてが、人間の脳が予測する動きを微細に裏切るのです。
嫌悪感という生易しいものではなく、視覚情報を処理する脳内回路が強制終了させられるような感覚。
「文醜」
「おう、顔良兄貴」
「蔡文姫様の特訓、地獄だったな」
「寝ている時も首の角度を矯正されたからな」
「だが、今こそ成果を見せる時だ」
「俺たちの美しい気持ち悪さをな」
二人は同時に躍動しました。
「幾何学殺法、開帳だァ!」
顔良の大剣が斜めに空間を切り裂きます。
文醜の戟が、その死角から滑り出ます。
同時に二人の上半身が全く逆の方向へとねじれ、敵からすれば、どちらが攻撃の起点なのか全く認識できません。
曹操軍の前列が、戸惑いに動きを止めました。
その刹那、最前列の盾兵が紙屑のように吹き飛ばされます。
不気味な光景に敵兵の悲痛な声が上がりました。
「うわっ、気持ち悪い!」
「右から来たのか左から来たのか分からん!」
「見るな!見ると酔うぞ!」
「見ないと斬られる!」
混乱が波紋のように広がっていきます。
確かに絶大な効果です。
ただし、味方にも軽微な被害が生じていました。近くにいる我が軍の兵士が数名、青ざめた顔で口元を押さえています。
これは改善の余地があります。
「俺、曹操軍よりこいつらが怖い」
「敵も同じ感情を抱いています」
「味方なのに?」
「味方であっても不快なものは不快です」
「冷静にひどいな」
私は双頭戟を手に取り、前線へと歩みを進めました。
狙いは前線の動揺をさらに拡大させること。
孟徳は必ずこの異常事態に対処してきます。
そして、その対処役として最も投入される可能性が高いのは――。
地を揺らす赤兎の蹄音。
空間を圧迫する青龍偃月刀の気配。
そして、風に乗って漂ってくる過剰なローズの香り。
予想通り、お出ましですね。
◇◇
【曹操軍本陣】
曹操は遠眼鏡をきつく握りしめていた。
前線の惨状を目の当たりにし、その顔面は険しく引きつっている。
「なんだ、あの動きは」
嫌悪感がそのまま声に滲み出ていた。
常に飄々としている郭嘉も沈黙を守っている。荀彧は深く眉間を押さえ、夏侯惇は現実逃避するように目を背けていた。
「袁紹め、正面決戦と言いながら、視覚への嫌がらせを使ってくるとは……。いや、袁紹の発想ではないな。蔡文姫か。いや、蔡文姫をあそこまで自由にさせる李司か」
「殿、前線の士気が乱れています」
「分かっている。あれは放置できん。見ているだけで兵が酔う。最前線の認識が壊される」
郭嘉が進言する。
「対処するなら、圧倒的な武で一気に斬るしかありません。見て分析するほど不利です」
「ならば関羽だ」
曹操は迷うことなく決断を下した。
背後に控えていた関羽が一歩前へ出る。
今日の彼の髭は、恐ろしいほどの美しさを誇っていた。
西域産の高級オイル、許昌特製のトリートメント、そして仕上げの香油。顎から胸元にかけて流れる漆黒の滝は、武神としての尊厳そのものだった。
「関羽。行け。あの変態的な二枚看板を斬れ。顔良、文醜を討てば、袁紹軍先鋒は崩れる」
「御意」
関羽は青龍偃月刀を手繰り寄せ、赤兎馬の背にまたがる。
その表情は厳粛そのものだ。
しかし、彼自身の髭に対する意識があまりにも強すぎるきらいがあった。
「曹公より賜りし髭オイルの恩義、必ずや戦場にて返しましょう」
「そこは俺への忠義であってほしかったが、まあいい。行け!」
関羽が戦場へと駆け出していく。
その後ろ姿を見送りながら、曹操はわずかに安堵の笑みを浮かべた。
「関羽なら斬れる。あの男の武は本物だ。髭さえ万全なら、顔良も文醜も敵ではない」
郭嘉は遥か彼方を見据え、冷徹に事実を告げる。
「問題は、李司様がそれを理解していることです」
「……言うな」
「言わなくても、現実は来ます」
◇
関羽の突撃は、ため息が出るほどに美しい。
武人としての絶対的な格が備わっています。
周囲は髭が本体だと揶揄しますが、彼自身の武の純度も極めて高い。あの青龍偃月刀の軌道は重く、鋭く、そして揺るぎない。
「顔良、文醜、下がりすぎないように。関羽は強いです」
「知ってるぜ」
「髭がすげぇ」
「髭に見とれるな。あれは不純物です」
彼は顔良と文醜を視界に収め、ほんのわずかに眉根を寄せました。
あの関羽でさえ不快感を覚える。貴重な実戦データです。
しかし、彼の集中力が途切れることはありません。
青龍偃月刀が高く振り上げられます。
狙いは顔良の首。
初手で敵の大将格を落とし、戦局を覆す腹積もりです。
その瞬間、関羽の視界の端に劉備の姿が映り込みました。
「兄者!?」
想定よりも早い反応です。
劉備が即座に声を張り上げます。
「雲長ォ!助けてくれ!俺は無理やり囮にされてるだけなんだ!顔良と文醜の変な動きとは無関係だ!俺はノーマルだ!」
戦場のど真ん中で何を自己弁護しているのでしょうか。
しかし、その言葉は劇的な効果をもたらしました。
関羽の極限の集中が、音を立てて砕け散ります。
義兄弟への情愛が、研ぎ澄まされた武を鈍らせる。
良くも悪くも、彼の忠義は重すぎるのです。
「兄者をそのように鎖で繋ぐとは、李司殿……やはり恐ろしい御方!待っていてくだされ、今すぐお助けいたす!」
関羽が刀の軌道を変えます。
劉備を救出するため、顔良と文醜の防衛線を強行突破する構えです。
あの膂力と速度。常の手段では押し留めることは困難です。
通常であれば、の話ですが。
手にした双頭戟を滑らかに回転させます。
私が狙うのは彼の首ではありません。
彼を討ち取れば後処理が煩雑になります。曹操が嘆き悲しみ、関羽という極めて優秀な武力資産が永遠に失われる。
ゆえに、私が狙うのはただ一点。
髭です。
戦場における香料の無秩序な使用。
これは衛生管理および軍紀の観点から、断じて看過できない問題です。
「関羽殿」
「ぬっ!?」
「戦場に香水を持ち込むなと、以前から申し上げております」
双頭戟の刃が、冷酷な弧を描きます。
関羽は反射的に青龍偃月刀で防ごうとします。
しかし、私の標的は武器でも肉体でもありません。力で張り合う必要は皆無です。
刃は彼の防御網の隙間を縫うように滑り込み、その顎下を正確に通過しました。
ジョリッ。
実に小気味良い音が響きました。
手入れの行き届いていない枝毛も、香油で固まった毛束も、戦場の汚れを吸い込んだ部分も、すべてを一律に刈り取ります。
残した長さは、約二ミリ。
青髭としては均整が取れていますが、武神の誇りとしては致命傷です。
関羽が呆然と自らの顎に手を当てました。
彼の指先が触れたのは、誇り高き漆黒の滝ではなく、ざらついた二ミリの感触。
「あ……」
「拙者の……拙者の髭が……!曹公より賜った高級オイルを吸い、日々の手入れで艶を増し、武神としてのブランド価値を支えていた、我が魂の資産が……またしても、李司殿に……!」
「関羽殿。以前より清潔度は向上していましたが、香料が強すぎます。戦場における自己主張としては不適切です」
「そんな理由で!?またそんな理由で拙者の人生を刈り取ったのですか!?」
「人生ではなく髭です」
「拙者にとっては同義です!」
関羽の纏う気迫が、目に見えて萎縮していきます。
本当にしぼんでいくのです。
武力値という指標が存在するならば、現在の彼は本来の三割減といったところでしょう。
髭に対する精神的依存が深刻すぎます。
絶大な武力を誇りながら、システム設計が脆弱極まりない。
曹操軍の兵士たちの間に、絶望のざわめきが広がりました。
「関羽殿の髭が!」
「武神の髭が刈られた!」
「だめだ、関羽殿の顔がただの赤いおっさんに!」
「言うな!聞こえたら斬られるぞ!」
劉備が青ざめた顔で呟きます。
「雲長……すまん。助けに来てくれたのに、髭が……」
「兄者……ご無事ならば、それで……いや、やはりよくない。髭がない。力が出ない」
「髭で動いてたのかよ」
文醜が素早く体勢を立て直しました。
「顔良兄貴、敵の精神が折れたぞ」
「今だな。蔡文姫様に教わった必殺のメビウスの輪斬りを試すぞ」
「おう」
精神的打撃を受けたとはいえ、一般兵とは格が違います。青龍偃月刀の重みは健在で、守りは強固です。
しかし、その攻めには明らかな迷いが生じていました。
無意識に顎を気にする。
視線が定まらない。
顔良と文醜の異様な姿勢に対する抵抗力も著しく低下しています。
「ぐっ……その腰の角度、何なのだ!気持ちが悪い!しかも髭がないせいで集中が保てぬ!」
「見ろ文醜、武神が酔ってるぞ!」
「なら畳む!」
顔良の大剣が青龍偃月刀を弾き飛ばし、文醜の戟が赤兎馬の退路を断ちます。
関羽に反撃の余力はありません。
劉備を救出したい。しかし、髭がない。敵の動きが理解不能。そして、私が控えている。
多重の精神的負荷が彼を押し潰しています。
「袁紹軍、押し込みなさい!敵の主力アセットが衛生管理により機能低下を起こしています!今が利益確定の好機です!」
袁紹軍の兵士たちが一斉に怒涛の進軍を開始します。
顔良と文醜の特異な動きに続くように、歩兵が雪崩れ込みます。
劉備もまた、鎖に引かれるままに最前線へと引き摺り出されました。
「ちょっと待て!俺まで前に出るの!?俺は囮だけど盾じゃない!いや盾だった!でも物理的な盾じゃない!」
「皇叔、前進です」
私の息子ながら、徹底した仕事ぶりです。
「袁譚殿、君、若いのにやることがえげつないね!」
「母上に学びました」
「納得しかない!」
◇
【曹操軍】
曹操は遠眼鏡を取り落とした。
その顔には血の気が一切ない。
「関羽の髭が……」
周囲の幕僚たちは誰一人として言葉を発しない。
かけるべき言葉が見つからないのだ。
「また李司に刈られた……。俺が毎月支給していた西域産の高級髭オイルが……。経費で落としたあのオイルが……」
「殿、今そこですか」
「そこも大事だろう!関羽の忠誠心を維持する福利厚生だぞ!」
郭嘉が冷徹に戦況を分析する。
「関羽殿の戦意が失われました。顔良・文醜の圧力が増大しています。さらに劉備を囮にされ、関羽殿は攻め手を欠いています。これ以上の前線維持は困難です」
「分かっている!」
李司を敵に回した代償が、最悪の形で実戦に表れている。
しかし、曹操は感情だけで意地を張る愚将ではない。
「退け。関羽を回収しろ。前線を下げる。ここで被害を広げるな」
「よろしいのですか」
「緒戦で負けを認めるのは癪だが、関羽を失うよりましだ。あいつの髭は失ったが、命と武は残っている。髭はまた伸びる!」
夏侯惇が全軍に号令をかける。
「全軍、後退!関羽殿を援護しろ!」
「李司め……。俺の客将の髭まで刈るとは、徹底してやがる。だが、次はない。次こそ勝つ。泣き寝入りはせんぞ」
「髭寝入りですね」
「奉孝」
「失礼しました」
◇
曹操軍が速やかに兵を引き始めます。
見事な撤退戦です。
陣形を崩すことなく、被害を最小限に抑えながら後退していく。
さすがは孟徳。
敗北を察知した後の損切りが極めて迅速です。ここで意地を張ってくれればさらに打撃を与えられましたが、その冷徹な判断力こそが彼の恐ろしさです。
「李司殿……この屈辱、忘れませぬぞ……。次に会う時までに、拙者はさらに清潔で、さらに艶やかで、さらに武神らしい髭を育てて参る。その時こそ……」
「香料は控えめに」
「最後まで衛生指導!」
彼は涙を堪えるような顔で去っていきました。
少し哀れに思えなくもありません。
しかし、戦場に無用な香りを持ち込む彼自身の自己管理能力の欠如が招いた結果です。
「勝った……勝ったけど、俺の尊厳は何も戻ってこない……」
「劉備殿、無事に生き残ったではありませんか」
「生き残っただけで借金は減る?」
「減りません。貴方はまだ当軍に利益をもたらしていません」
「戦場で囮になったのに?」
「囮は貴方に割り当てられた予定業務です」
「ブラック!」
袁譚が劉備を繋ぐ鎖の強度を確認します。
「逃走の兆候なし。母上、引き続き管理可能です」
「よろしい」
「俺、完全に家畜の扱いじゃない?」
「家畜は餌代に見合うだけの肉や乳を提供します。貴方の提供価値はまだその域に達していません」
「家畜以下認定!」
蔡文姫が、地面に散らばった関羽の髭の一部を丁寧に紙で包んでいました。
「それは何ですか」
「貴重なサンプルですわ。関羽殿の戦闘力と髭の相関関係を後日分析いたします。毛質、香油の成分、精神的依存度。研究対象としての価値は極めて高いです」
「本人に返却しなさい」
「えっ」
「返しなさい。妙な呪物にでも加工されたら後処理が面倒です」
「残念ですわ」
この女は、少し目を離すとすぐさま軍紀を乱す危険物を生み出します。
冀州から即座に回収すべきか、真剣に検討する時期が来ているようです。
「白馬は取ったな」
「ええ。緒戦の成果としては申し分ありません」
「孟徳に勝ったか」
「局地戦においては勝利しました。ですが、全体の決算はまだ終わっていません」
「分かっている。だが、まず一つ勝った」
「はい」
「李司。関羽の髭を刈るのは、戦術としては見事だった。だが、少し可哀想ではないか」
「戦場において『可哀想』という感情の評価軸は不要です」
「いや、あの絶望した顔を見るとだな……」
「本初。貴方には敵に同情する悪癖があります。その点は早急に修正すべきです」
「分かった。だが、あの関羽の悲鳴は、少し胸に来た」
蔡文姫が横から口を挟みます。
「私はひどく美しいと感じましたわ。誇りをへし折られた武人の、弦が切れるような悲痛な音色。官渡前夜の不協和音とはまた趣の異なる、実に澄み切った絶望でした」
「蔡文姫」
「はい、黙ります」
「俺はやっぱりこいつが怖い」
「同感です」
「李司でも怖いのか」
「能力の高い部下ほど、暴走した際の損害額も甚大になります」
顔良と文醜が意気揚々と戻ってきました。
二人ともひどく興奮しています。
「袁紹様!どうだ、俺たちの幾何学殺法は!」
「曹操軍の奴ら、すげえ嫌な顔してたぜ!」
「見事な働きでした。ただし、味方の一部にも軽度の吐き気を催させています。次回までに、味方陣営から見た際の不快指数を低減させなさい」
「そんな細かい調整できるのか?」
「できるように改善しなさい」
「無茶言うな!」
私は二人の武器の摩耗具合と動線を確認します。
確かに戦果は絶大です。
しかし、あまりにも癖が強すぎる。局地的な奇襲には劇的な効果をもたらしますが、長期戦で使用し続ければ味方の精神衛生に深刻なダメージを与えかねません。
蔡文姫の発明は、総じてこの傾向があります。
極めて効果的。
しかし、副作用が異常に重い。
劉備がおずおずと手を挙げました。
「李司殿。俺も一応、曹操軍の注意を引いたよね。関羽が俺に気づいたから、隙ができたよね。これは成果では?」
「そうですね。限定的な成果として評価します」
「じゃあ借金を」
「利息の増加を、今日一日だけ停止します」
「増えないだけ!?」
「特大のサービスです」
「怖い金融だなあ!」
「劉備殿は、今日の戦場で極めて有効な囮として機能しました。母上、次戦でも活用できます」
「その通りですね」
「待って。次もあるの?」
「当然あります」
「俺の過労死ルートが濃くなってる!」
「皇叔。今日の働きは認める。逃げずに前線に立った」
「逃げられなかっただけだけどね」
「結果がすべてだ。今後も我が軍のために尽力せよ」
「待遇改善を要求する!」
「李司に言え」
「一番言っちゃいけない相手に回された!」
白馬での短期的な利益は確定しました。
次は、官渡全体の莫大な利益確定です。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は白馬の戦いを、李司式の最悪な戦術運用でお送りしました。
袁紹軍、曹操軍、関羽の髭、劉備の尊厳のうち、どれが一番被害を受けたと思ったか、感想で教えていただけると嬉しいです。




