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三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~  作者: 斉宮 柴野


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第三十三-四話:白馬の崩壊と、美学の衝突

界橋の戦いが始まりました。

冀州の命運を懸けた戦場のはずなのに、途中から少々おかしな方向へ熱を帯びていきます。

【界橋 袁紹軍本陣】



董卓会長の死亡。呂布将軍の離脱。玉璽所在不明。そして、お子様たちの所在も不確定。

天幕の中では、袁紹様が地図を睨みつけながら腕を組み、いかにも名門の棟梁らしい威厳ある表情を構築しておいでです。構築してはいますが、眉間に刻まれた浅い皺の角度から、内心の五割ほどは不安に支配されているのが読み取れます。残りの三割は意地と見栄、二割は「今日こそ華々しい勝利を」という少年のごとき願望。


「袁紹様。長安より緊急の報告が届いております」


その一言だけで、あの方の肩がぴくりと跳ねました。危機管理の初動反応としては非常に優秀です。ただし、反応速度が速い人間ほど感情の波も先走りやすい傾向があるため、直後の制御機構が必須となります。


「何事だ」


「董卓会長が裏切りにより死亡。呂布将軍は玉璽とお子様方を連れて離脱した模様です。現在、両名とも所在不明。負傷の情報あり。長男の顕思様、三男の尚様、さらに董白様も行方の確認が取れておりません」


「何だと!?」


「顕思と尚が危ないだと!?おい田豊!全軍回れ右だ!長安へ向かうぞ!公孫瓚など後回しだ!俺の子だぞ!李司の子でもあるんだぞ!」


田豊が制止の言葉を口にするより早く、私は乾いた音を立てて木簡を閉じました。


「却下です」


袁紹様がこちらを振り向きました。瞳に浮かぶ怒りと焦燥、そしてごくわずかな期待。私が「冗談ですわ」と微笑む可能性に賭けている顔つきです。残念なことですが、私の辞書にその種のユーモアは登録されていません。


「感情に駆動された即時撤退は最悪の悪手です。今ここで本陣が背を向ければ、公孫瓚は背後から容赦なく噛みついてきます。勝敗を問う以前に隊列が崩壊し、冀州の兵站線は修復不能なまでに引き裂かれる。長安に到着する前に、我々の組織が瓦解します」


「だが子供が!」


「ええ。ですので、なおさらここで貴方に死なれては困るのです」


「顕思様と尚様が無事であっても、袁紹様がここで討ち死になされば会社は倒産です。仮に顕思様が無事でなくとも、袁紹様さえ生存していれば組織の立て直しは可能。尚様はまだ一歳であり、現時点での実務能力はゼロ。よって最優先すべき絶対条件は、貴方の生存です」


「……お前は冷たいな」


「ええ。熱に浮かされた判断は、大抵の場合対象を黒焦げにしますので」


ついでに、もう一つの事業計画も提示しておきます。


「ご安心を。長安で本当に挽回不可能な事態が発生した場合、私が現在冀州で直接養育中の袁煕様を後継機として繰り上げます」


「後継機って言うな」


「では予備機でも構いませんが」


「もっと悪い!」


「まだ精神のチューニングが不足していますが、人格の基本骨格はそこそこ仕上がっています。少々打たれ弱く、褒めるとすぐに顔面へ感情が露呈しますが、壊れても交換部品が少なくて済む経済的なタイプです」


「煕に謝れ!」


「十分可愛がっておりますよ。毎朝きっちり定時に起床させ、帳簿の読み方を叩き込み、無意味な感傷を三割削り落とし、他者の発言の裏を読み解く高度な訓練を施しています」


「それを世間では洗脳と呼ぶんだ!」


私はそこで初めて、口元の筋肉をわずかに緩めました。


「ご子息方のうち、現時点で最も伸び代が大きいのは顕思様です。李司様の直轄環境にありますから、合理主義の注入も順調に進行しているでしょう。尚様はまだ何も書き込まれていない白紙。非常に高価な白紙ですね。煕様はその中間。ですので、ここで貴方が損失となるのが一番の痛手なのです。私情は後回しになさいませ。まずは目の前の界橋を片づけます」


ただし、完全な納得には至っていない。不純物である父親の感情が底に沈殿している。その不純物があるからこそ人間はひどく面倒で、面倒だからこそ観察のしがいがあるというものです。


「……李司は動くか」


「動くでしょう」


「身内を傷つけた者をあの方が放置するはずがない。数字の帳尻が合わなくなりますから」


「お前たち主従、復讐を損益計算の用語で語るのをやめろ」


ですが、そこでようやく袁紹様は長く呼気を漏らし、床几へと腰を下ろしました。完全に落ち着きを取り戻してはいませんが、剣の柄を握りしめていた指先からは力が抜けています。


「では、作業を始めましょうか」


「公孫瓚という不良債権の処理を」











白馬義従。あの軍勢は、見栄えという一点においてのみ大変優れています。純白で統一された騎馬隊が砂塵を巻き上げて押し寄せる光景は、遠目から鑑賞すれば祝祭のパレードにも見紛うほど。


ただし、距離が縮まれば人間が挽肉に変わる音しか聞こえませんが。


盾列の傾斜角、伏せた弩兵の配置間隔、麹義の肩の力み具合、銅鑼の担当が構える槌の高さ。すべてが、私が事前に構築した数式の中に寸分違わず収まっています。美しい。こういう瞬間、世界はようやく私の理解できる整然とした形を見せてくれます。兵士の悲鳴も馬のいななきも、すべてはただの入力値に過ぎません。


「蹴散らせぇぇぇッ!」


白い奔流が加速し、殺意となってこちらへ迫る。地面の揺れが足の裏から内臓へと伝わり、兵たちの喉が極度の緊張で引きつる音が耳に届きます。遠く後方の本陣では、袁紹様がさぞかし見事な青白い顔を晒していることでしょう。確認するまでもないので視線は向けません。


「距離百。まだです」


馬蹄の音が鼓膜を叩く。


「八十。まだ」


味方の荒い呼吸音が連鎖する。


「五十。息を殺しなさい」


最前線に立つ麹義の背中は、微動だにしません。優れた現場監督です。あの男は命令を忠実に実行するだけでなく、実行に至るまでの見栄えの良さまで心得ている。


「三十。風向き固定。地面の反発係数、許容範囲内」


白馬の群れが目の前に迫ります。白という色は、そもそも汚れることを前提に設計された色ではありません。だから私はあの部隊が好きです。鮮血の赤が乗った瞬間、最も美しく映えるから。


「二十。今です。開いて」


甲高い銅鑼の音が空気を切り裂きました。

分厚い盾の壁が左右へ綺麗に割れ、背後に伏せていた強弩隊が一斉に起き上がる。八百人の兵士が立ち上がる動作がコンマ一秒の狂いもなく揃うと、それだけで一種の洗練された演目です。


「発射」


空気が裂ける。


先頭を駆けていた白馬義従が、目に見えない巨大な壁に激突したかのようにまとめて崩れ落ちました。

馬が前脚を無残に折り、騎兵が宙へ放り出され、後続が避けきれずに次々と乗り上げていく。素晴らしい。強弩という兵器は飾り気がなくて非常に好ましい。刺さる、貫く、止める。ただそれだけの機能美。無駄な美辞麗句など一切不要。


「次弾」


私は瞬きをするのと同じ自然さで指示を出します。


「三秒」


弦を引き絞る音。


「発射」


第二の波が崩壊する。


「三秒」


装填。


「発射」


「止まるな!撃ち込め!在庫を積み上げるな、今ここで全部落とせ!」


粗野な言葉遣いですが、趣旨は完全に合致しています。

白馬義従の先鋒が死体と土塊のもつれ合いに変わった場所へ、麹義自身が刃となって突っ込んでいきます。一瞬の交錯の後、敵将の首が宙を舞いました。厳綱。あの者の名前は記憶に留めておく価値があります。首の落ちる軌道が完璧な放物線を描いていたので。

不意に、後方の本陣から袁紹様のやたらと元気な大声が響いてきました。


「おおっ!止まった!本当に止まったぞ!」


振り返れば、先ほどまで息子の安否で顔を覆っていた人間とは思えぬほど両目を見開き、興奮で頬を紅潮させてこちらを指差しています。人間という生き物は、勝ち筋が見えた途端に急に饒舌になる。実に単純で結構なことです。


「蔡琰!お前、やはりすごいな!」


「ありがとうございます」


「李司よりも」


「そこは比較対象を伏せていただきたく存じます」


「じゃあ今のは取り消す」


「一度発声された言葉の取り消しは受理しません」


戦況は圧倒的優勢。ですが戦場という流動的な空間において、優勢を確信した瞬間から別種の致命的な事故が発生しやすくなります。人は「勝てる」と認識した途端に動作が雑になる。雑は死を呼び込む。ゆえに私は、勝利が目前に迫った時ほど思考の刃を研ぎ澄まします。


網目をすり抜けた敵の騎兵部隊が、盾列の外側を大きく迂回している。数はざっと二千。無視するには多すぎます。彼らは崩壊した白馬義従の残骸を見捨て、こちらの陣形の最も薄い部分、へと一直線に流れ込んでいく。

極めて合理的な判断。指揮官の首を取ることは、いつの時代も最も安上がりな近道ですから。


本陣で田豊が叫ぶ声が風に乗って届きます。


「殿!お下がりください!あの壁の裏へ!」


まっとうな進言です。完全なる正論。経営トップは心臓を動かしているだけで価値がある存在。泥にまみれ、壁の裏に隠れ潜んででも生存を優先させるべきです。

ですが、袁紹様はそこで奇妙な壊れ方をしました。


「うるさいッ!」


普通であれば恐怖で縮み上がる場面において、あの人は妙に存在感を膨張させます。恐怖が許容の限界値を超過すると、逃走本能ではなく見栄が暴走を始める。そのような珍妙な精神のバグを隠し持っていたとは。


「大丈夫たる者、壁の裏で縮こまって何が名門だ!かかってこい白い悪魔ども!」


豪奢な兜を自ら叩き捨て、剣を抜き放ち、挙げ句の果てには周囲の兵から強弩まで奪い取ろうとしている。全く意味が分かりません。ですが、意味が分からないからこそ、突撃してきた敵兵も一瞬だけ怯む。常識の枠組みから外れた人間は、それだけで時として強烈な武器になり得る。


「……なるほど」


設計図には存在しない挙動。ですが、たまに工業製品は仕様外の異常な性能を発揮することがあります。非常に迷惑で、そして非常に興味深い。


「極度の恐怖で逆に勇気が湧き上がる、ですか。貴重な資料です」


「麹義将軍を直ちに本陣へ戻しなさい。急がせること。トップが想定外の動作を開始しました」


「想定外の動作、でございますか」


「ええ。要するに暴走です」


とはいえ、あの暴走が完全な無価値かと言えばそうでもありません。本陣のど真ん中で主君が自ら怒鳴り声を上げ、弩を抱え、泥だらけになって立ちはだかっていれば、周囲の兵は妙な熱に当てられて踏みとどまるものです。


本陣の狂騒を横目に確認しつつ、私は前方から迫る明確な異物へと意識の焦点を絞りました。


あそこだけ、大気の屈折率が違う。混戦のど真ん中において、一騎だけが目を射るように発光している。


銀。

鎧も、槍も、そして持ち主の顔面も、すべてが「自分はここに存在している」と強烈に主張している。うるさいですね、その過剰な存在感が。


その男は、わざわざ夕方の傾きかけた太陽光を背負う位置を計算して馬を進めてきます。偶然の産物ではありません。あれは意図的な演出。戦場という血生臭い場所で演出を気にする人間は、だいたいにおいてひどく面倒な性質を持っています。


「公孫瓚軍客将、常山の趙子龍――」


声高らかに名乗る途中でピタリと馬を止め、男は前髪を指で払いました。


「……いや、今の入りは駄目だな」


いったい何が駄目だと言うのでしょう。


「風の入り方が甘い。鎧の反射角も足りない。もう一度やり直す」


私は思わず無言になりました。周囲で殺し合っていた敵も味方も、全員がピタリと動きを止め、完全に同じ表情を作っています。「何を言っているのだこいつは」という、非常に正しく健全な顔です。


「今の登場シーン、もう一度最初からだ。そこのお前、少し下がれ。俺の馬の進路が最も映える角度を作れ」


「知るか!死ね!」


「無粋者!」


趙雲の槍が閃き、兵士が二人まとめて吹き飛ばされます。動き自体は非の打ち所がありません。無駄な動作が多いにもかかわらず、圧倒的に速い。厄介極まりないですね。


私は蛾眉刺を手に、馬を進めます。あの男を放置しておけば、戦場の一部が彼の個人的な劇場へと作り替えられてしまう。劇場は指揮系統を著しく乱します。許可できません。


「貴女は美しい。驚いた。黒という色がここまで似合う女はそうはいない」


「お褒めに預かり光栄です」


「ただ、冷たい。まるで氷を彫り出した細工物だ。俺の好む美には、もっと熱が必要なんだ」


「戦場に熱などという不確定要素は不要です」


「必要なのは、最短距離で対象の生命活動を停止させる論理的な方法だけです。貴方の槍は、見栄えは派手ですが工程が多すぎる。いちいち型を決め、無意味な溜めを作り、最後に決め顔まで挟んでいる。その一つ一つが〇・五秒の無駄を生んでいます」


「無駄ではない。美だ」


「工程表に記載できない要素はすべて無駄です」


「夢がないな」


「夢は帳簿の数字にはなりませんので」


そこでようやく、男の瞳の奥に宿る光が本気の色を帯びました。軽薄な笑顔の下に隠された、奇妙なほど強固な自尊心。なるほど。これは手強い。自分自身を完璧に美しいと信じ切っている人間は、しばしば化け物じみた力を発揮します。己の存在を一切疑わないからこそ、刃先が微塵も鈍らない。


「なら、ここで決めようか」


趙雲が手首を返し、槍を旋回させます。空気を切り裂く高音が、耳障りなほど澄み切っている。悔しい事実ですが、たしかに美しい。


「俺の槍舞と、貴女の数式。どちらが真の美か」


「数式に決まっておりますわ」


激突は、瞬きの一回分。

銀の穂先が一直線に私の喉元を穿ちに来る。蛾眉刺の刃でそれを最小限の動きで弾き流し、手首を返して脇腹の隙間へ入り込む。趙雲は即座に穂先の軌道を折り曲げ、馬上にありながら上体を大きくずらして回避する。素晴らしい反応速度。つま先の向きから重心の移動まで、完全に計算され尽くしている。


「速いな!」


「貴方も」


「だが顔は狙うな!」


「知りませんわ」


最も効率的な急所がそこに存在しただけの話です。

刃が頬のすぐ横を掠める。趙雲が楽しげに笑う。次は心臓を狙われる。体を捻って躱す。首、脇腹、目。目は良いですね。美しい造形物ほど、それを物理的に破壊した際の対比が鮮やかに映える。


「おっと、今の角度は駄目だな」


不意に、趙雲がまた動きを止めました。


「何がです」


「陽の入り方が悪い。俺の横顔に余計な影が出た。もう一度最初からやり直す」


「そのまま死んでください」


この男、命のやり取りをしている最中に本当にリテイクを要求してきます。あまりの厚顔無恥ぶりに、怒りを通り越して感心すら覚えます。厚かましさも限界を突破すれば立派な才能ですね。


「そちらこそ」


趙雲は槍を軽く持ち直し、やけに真剣な面持ちで提案してきました。


「今の場面、貴女が左胸を貫かれてゆっくりと膝を折る構図なら完璧だったんだ。そこへ俺が哀愁をたたえて立ち尽くす。舞台の幕引きとして非常に美しい」


「却下です」


「何故だ」


「私が死ぬ計画だからです」


「そこは至高の芸のために飲め」


「芸のために死ねるのは、他人の命だけですわ」


自身の頬に跳ねた血の雫を指先で拭い取ります。ほんのかすり傷。肉体的な問題はなし。


「では、私の考案した計画を採用してくださいませ。貴方はここで喉の動脈を切断され、四十五度の角度で落馬する。磨き上げられた銀の鎧に、鮮やかな赤が飛散する。地面に叩きつけられた瞬間、背後で白い馬がいななけば完璧です」


自ら口にしながら、その光景を想像して少しばかりうっとりしてしまいます。ええ、極めて優れた構図です。切り捨てる側にも、多少の鑑賞権くらいは認められるべきでしょう。


「白と銀、そして赤の完璧な色彩対比。しかも夕方に差しかかれば色温度まで味方します。どうです。かなり文学的な結末ではありませんか」


「急に文学性を持ち込むな」


「貴方が先に演出などと言い出したからです」


背後では、まだ袁紹様が何か意味不明な叫び声を上げています。


「おい!あそこだけ変な美学対決になってるぞ!誰か俺に説明しろ!」


激突、回避、火花。趙雲の槍はたしかに一級品です。滑らかで、どこまでも伸びてくる。


本人がいちいち「今の入りは八十点だな」だの「足運びは完璧だったが、表情の作り込みが甘い」だのと自己講評を挟み込んでくるせいで、殺し合いのテンポがことごとく分断されるのです。テンポの悪い戦闘は不必要に経費がかさむ。一秒でも早く終わらせたい。


「貴方、本当に無駄が多いですわね」


「無駄ではない。余白だと言っている」


「その余白のせいで人は死ぬのです」


「余白が存在するからこそ、人は美しい」


「帳簿に余白が多いと、監査役としては横領を疑います」


「本当に夢がないな!」


その不毛な問答の最中、遠くで響いていた鬨の声が劇的な変化を遂げました。

袁紹軍が完全に押し始めた。


理由は極めて単純。こちらの本隊が趙雲という異物に視線を奪われている敵陣の側面へ、袁紹様が自ら突撃を敢行したからです。漁夫の利。卑怯とは言わせません。戦場において、他人の派手な立ち回りに気を取られている方が完全に悪いのです。


田豊の張り裂けんばかりの絶叫と、兵士たちの怒号が幾重にも重なり合う。公孫瓚軍の隊列がドミノ倒しのように崩壊していく音が、肌を通して伝わってきます。ああ、これはもう大局が決まりましたね。


趙雲も周囲の空気の変化に気づきました。槍の穂先が、ほんの数ミリだけ静止する。


「む」


「遅いですわ」


私はその僅かな隙間へ、蛾眉刺の刃を滑り込ませます。狙うは脇腹、装甲の継ぎ目。しかし、男はひどくしぶとい。咄嗟に馬を引いて間合いを外し、かすり傷一つで死地から逃れる。


「やめだ」


「は?」


「観客の存在しない舞台に価値はない」


いったい何を言い出すのでしょう、この人は。


「本日の公演はここまでとさせてもらう」


「公演ではありません。これは戦争です」


「俺にとっては同義だ」


そう言い捨てて馬首を返しかけたところで、趙雲は急に動きを止め、再びこちらを見直しました。その顔が妙に爽やかで、私の神経を逆撫でします。


「だが最後に一つだけ言わせてくれ」


「遺言ですか」


「ただの感想だ」


「近くでよく見てみると、貴女」


趙雲は目を細めました。観察する目。品定めをする目。大変不快な視線です。


「思ったより大人だな」


この男は、何を言っているのかしら。


「完成度は非常に高い。だが、どこか尖りすぎている。もう少し若い、いや、初々しい危うさのようなものがあれば絵になるんだが」


「仰っている意味が全く理解できませんわ」


「簡単なことだ。貴女は完成しすぎている」


そこで、あの男はあろうことか爽やかな笑みを浮かべました。


「俺の舞台には、もう少し瑞々しい存在の方がよく似合う。貴女は美しいが、姉御だ。熟れすぎだ」


――――私は、完全に沈黙しました。


「年上が悪いとは言わない。だが俺の個人的な趣味ではないんだ。もう少し軽やかさを身につけてから出直してくれ。ではな、黒衣の姉御」


爽やかに、白い歯まで見せて微笑みやがりました。

殺意という感情は、本当にコンマ数秒で沸点まで到達するものなのですね。


「……何歳に見えまして?」


「二十はとうに越えているだろう」


「十九ですわ」


口が勝手に音声を出力していました。どうしてサバを読んだのか、私自身にも解析不可能です。たぶんこの瞬間、私の脳内の理性を司る区画のどこかが物理的に吹き飛んだのでしょう。


「十九でも二十でも、誤差の範囲だろう」


同じではありません。


「とにかく、俺の舞台の配役だと貴女は姉御枠だ」


その決定的な一言を最後に、趙雲は白馬を翻しました。風のように去る、という陳腐な表現は嫌いですが、あの男はたしかに風のように去っていきました。腹立たしいことに、遠ざかる後ろ姿のシルエットまで完璧に整っている。

私は、その場に縫い付けられたように立ち尽くします。



「姉御」


口の中で、その単語を転がします。


「熟れすぎ」


もう一度。


「完成しすぎ」


三度目の反芻で、私の中で何かが明確に音を立てて断裂しました。


私は、ゆっくりと顔を上げます。たぶん現在の私は、般若の面のような恐ろしい表情を張り付かせているのでしょう。自分自身では確認できませんが、周囲で戦っていた兵士たちが、敵味方問わず一斉に数歩後ずさった気配で察しがつきます。結構です。そのまま下がっていなさい。今の私は少々、上品さというリソースの在庫を切らしていますので。


「絶対に、殺します」


「李司様の壮大な計画?知りませんわ。冀州の安定的統治?後で適当に何とかします。公孫瓚との今後の勢力図?勝手に動きなさい」


私は血の匂いが充満する空へ向かって、高らかに宣言します。


「私はあの銀ピカの自己愛の塊を、いずれ必ず解体します。頬骨の角度がどうだの、光の入り方がどうだの、舞台だの公演だの、全部まとめてミンチにして差し上げますわ」


趙雲殺害計画。


段階一、徹底的な情報収集。


段階二、行動パターンの完全解析。


段階三、奴の顔面が最も美しく映える瞬間に、その顔面を物理的に粉砕する。


顔から先に破壊するのは私の美学に反しますが、今回ばかりは優先順位が異なります。


「皮を綺麗に剥いで、本陣の座布団に」


いけません。怒りのあまり少々具体性が過ぎました。


「いえ、訂正します。まずあの形の良い鼻を叩き折り、次に整った顎の線を完全に崩し、最後にその腐った美意識を喉仏ごと縫い止めてやります」


「貴方の人生の貸借対照表を、この私の手で徹底的に真っ赤に染め上げて差し上げますわ、趙雲子龍……!」











遠く離れた場所から、袁紹様がひきつった顔でこちらを窺っています。つい先ほどまで公孫瓚軍の只中へ狂戦士のように突撃を指示していた男とは到底思えないほど、見事な土気色です。


「……田豊」


「はい、殿」


「あれ、本当に味方か?」


「味方であるはずです」


「『はず』って何だ」


「小官も、自身の認識に少々自信が揺らいでおります」



最後までありがとうございました。

界橋の戦場での袁紹軍と、蔡文姫の戦いぶりを楽しんでいただけたら何よりです。

もしよろしければ、印象に残った場面やキャラの感想などをいただけると励みになります。

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