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三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~  作者: 斉宮 柴野


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第三十二話:冀州の数式と、美しき粛清

今回は、袁紹の冀州掌握を、蔡琰視点で描いた回です。

整理整頓と監査と恐怖演出で、冀州がきれいに片付いていきます。

書類というものは、無造作に積み上げられているだけでは、ただの紙のしかばねに過ぎません。


そこに順序が与えられ、分類が施され、優先順位と締切、そして責任者の明確な線が通った瞬間――初めてそこに「美」が宿るのです。


私はそう信じてやみませんし、むしろ、それ以外の混沌とした状態を視界に入れるだけで、頭の奥底がひどく痒くなってきます。


 だからこそ、袁紹様の本陣へ初めて足を踏み入れた時、私は軽い眩暈めまいすら覚えました。


 机の上には未決裁の書類が雪崩を起こし、床には地図が無残に開きっぱなし。急を要する報告書と浮かれた酒宴の招待状が同じ箱に雑多に押し込まれ、あろうことか、命を繋ぐ兵糧表の上に果物の皮までが載っている始末。


埃っぽい湿気と、腐りかけの果実の甘ったるい匂いが鼻を突きます。冀州の豊かさがどうこう以前に、およそ職場環境として許容できる惨状ではありません。


 人は、乱れた部屋で乱れた判断を下し、その乱れた判断によって無駄に死んでいく生き物です。無駄な死体というものは、得てして美しくありません。つまり、整理整頓とはすなわち人命救助なのです。


私はまず、机の上を完全に空にしました。書類を大中小の規格に分け、期限順に並べ替え、内容別に真新しい札を差し込み、決裁済みと未決裁で木箱を厳格に分割する。兵站、税収、徴発、農政、登用、対外折衝。項目ごとに美しく整列した木簡の列は、それだけで一幅の名画です。ああ、なんて気持ちがいいのでしょう。


 情報は、正しく並べた瞬間に歌い出します。乱雑な時はただの耳障りな雑音ですが、整えてやれば、見事な和音を奏でるのです。

 その心地よい和音を聞きながら筆を走らせていると、軽快な足音が近づいてきました。つま先が浮き上がるような、野心に浮かれた人間の歩き方です。振り向かずとも、誰かは分かります。


「おお! 蔡琰! いるか!」


「――おりますわ」


私は静かに立ち上がり、完璧に計算された角度で礼を尽くします。挨拶は消費する経費ではなく、未来への投資です。最初の一礼で相手の脳に「こいつは話が通じる」と錯覚させることが、その後に控える暴力的な改革の滑走路となりますから。


 袁紹様は部屋の中央で立ち止まると、整列した書類の山を見て目を丸くしました。


「……すごいな。さっきまで山賊の塒みたいだった俺の机が、ちゃんと役所みたいになっている」


「役所なのですから、役所然としているべきです」


「う、うむ。そうだな。いや、李司が寄越したのは伊達ではないな。さすがだ」


「ええ。李司様は出立の際、私にこう仰いました。『本初様には、私以上の精密機械が必要だ』と」


「……精密機械」


「はい。私は大量の情報を圧縮し、保存し、必要な時に最適な形で取り出すことができます。言ってしまえば、歩く外部記憶装置ですわ。李司様はご多忙の身。この広大な冀州の案件は、私が受け持つのが最も合理的かと存じます」


あの方は「李司本人に来てほしかった」という本音と、「代理でも有能なら都合がいい」という打算を同時に抱え込める、実に欲張りな器の持ち主です。


「まあ、本音を言えば李司本人に来てほしかったが……あいつも忙しいのだろう。で、蔡琰。どうすればいい? 今の俺は渤海を預かる身に過ぎん。この広い冀州を手に入れるには、どう動くのがいい」


私は手元の木簡を一本、硬い音を立てて机の上へ置きました。さらにもう一本。そして最後にもう一本。三本の木簡が形成する線は、誰の目にも明らかな正三角形です。


「簡単な数式ですわ」


「ほう」


「冀州を手に入れるには、現在の冀州牧である韓馥様という存在が不要です。ですが、武力で奪うのは下策中の下策。兵も金も無駄に傷みますし、何より見た目が美しくありません。よって、彼には自分から進んで印綬を差し出していただきます」


「どうやって?」


「――恐怖を代入します」


「人は理屈で地位を守ろうとしますが、絶対的な恐怖の直前に立たされると、自分の命しか見えなくなります。公孫瓚の脅威を過大に演出し、韓馥様の脳内へ『このままでは一族郎党が皆殺しにされる』という鮮明な未来図を定着させるのです。そうすれば、地位も印綬も、命と引き換えに喜んで投げ出しますわ」


「……なるほど。だが、そう上手くいくか?」


「上手くいくように計算してあります」


「怖いな、その言い方」


「ご安心ください。まだ誰も死んでいませんから」


「『まだ』って言ったか、今」


「高幹様と郭図様に先行していただきます。お二人には『袁紹様なら助けてくれる』『地位を譲れば平穏な余生が待っている』という、甘く心地よい幻覚を担っていただきます。私は最後に入り、極めて苦い現実を担当します。飴と毒は、与える順番が何よりも大切ですから」


「毒って言ったな」


「比喩ですわ」


もちろん、比喩でもありますし――比喩で終わらないこともあります。
















その数日後。


韓馥は自室で小刻みに震えていた。机の上には乱暴に開封された報告書が散乱し、手元の杯は何度も倒されたせいで、床板まで酒の染みが広がっている。彼は一人で歩いては止まり、止まってはまた歩く。気の小さな人間ほど、こういう極限状態で足だけはよく動くものだ。


「ど、どうしよう……! 公孫瓚が来るぞ! あの白馬義従が来たら終わりだ! 文官上がりの私の軍など、一息で吹き飛んでしまう! 誰か、誰か助けてくれ!」


高幹と郭図は、まさにそこへ絶妙なタイミングで足を踏み入れた。声はどこまでも穏やかに、表情は頼もしげに。詐欺師の基本中の基本である。


「韓馥様、どうかご安心を。我らが主、袁紹殿が援軍となり、必ずや貴方をお守りいたします」


「そうです。袁紹殿は四世三公の誉れ高き名門。天下の人望も厚いお方です。彼に冀州の経営権を一時的にお譲りになり、韓馥様は名誉ある隠居の身となられれば、流石の公孫瓚も手出しはできません」


韓馥は青ざめた唇を震わせた。


「し、しかし……この冀州は漢室より預かった重要な州だ。そうやすやすと……」


そこへ、私が入ります。一切の衣擦れの音を立てないのは私の礼儀でもありますが、同時に優れた恐怖演出でもあります。人は、気配もなく背後に現れた存在に対し、必要以上の死の予感を嗅ぎ取るものですから。


「――失礼いたします」


「ひっ! な、なんだお前は!」


「袁紹様の監査役を務めております。蔡琰と申します」


私は流麗に一礼し、間髪入れずに一枚の紙を広げました。情報は一枚に極限まで圧縮した方が、相手の脳髄へ深く突き刺さります。分厚い報告書は言い訳の逃げ道を作りますが、一枚の冷徹な結論は、すべての退路を塞ぐのです。


「韓馥様、こちらをご覧ください」


「な、なんだ、これは」


「シミュレーション・レポートですわ」


そこには、彼の脆弱な兵力、公孫瓚の圧倒的な騎兵戦力、城壁の耐久値、糧秣の残量、味方の士気、裏切り率、逃散率、民心の離反――すべてを変数化した計算式が羅列されています。


数字は、物理的な暴力以上に人を殴りつけます。特に、自分では反論のしようがない形式で美しく並んだ数字は、鈍らな棍棒よりもずっと致命的に効くのです。


「結論から申し上げます。貴方がこのまま地位に恋々と執着した場合、一族郎党が虐殺される確率は九九・八パーセントです」


「きゅ、九九・八……?」


「はい。しかも、死に様が非常によろしくありません。騎兵の蹄に踏み荒らされ、兵は散り散りになり、城は内部から瓦解し、貴方は最後まで決断できないまま無様に捕縛されます。最終的に、貴方の内臓が外気に触れる確率が――」


「やめてくれぇっ!」


人は聞きたくない現実こそ、骨の髄まで響かせなければならないのです。


「なお、公孫瓚の白馬義従は見た目こそ華やかですが、蹂躙された後の光景は非常に醜悪です。血の散り方にも規則性がなく、まったく美学がありません。そのような雑な最期は、貴方には似合いませんわ」


「び、美学ってなんだ! 死ぬのに美学も何もあるか!」


「――あります」


「無様に醜く死ぬより、美しく退く方がよろしいでしょう?」


傍らの高幹と郭図が「そうですとも」「袁紹殿ならば名誉を確約できます」と畳み掛けます。実に滑らかな連携です。彼らが甘い幻想を、私が冷たい現実を流し込む。飴と毒の配分が完璧に調和した時、人間は驚くほど素直な生き物に成り下がります。


「わ、分かった……! 譲る! 印綬も権利も全部譲る! だから助けてくれ! 命だけは! 平穏な老後を保証してくれぇ!」


「賢明なご判断です。ええ、お約束いたしますわ。貴方の、誰にも邪魔されることのない『平穏な眠り』を」














冀州の無血開城が成立すると、城の広間には新旧の有力者たちがずらりと整列しました。


 広間では、旧韓馥陣営の者たちが順に恭順の意を示していきます。媚びへつらう者、虎視眈々と様子を窺う者、ただ怯えて顔を伏せる者。だいたい私の計算通りの反応です。


 しかし、そんな群れの中で、二人だけ明らかに空気の比重が違う男たちがいました。田豊と沮授。媚びのない真っ直ぐな立ち姿。いつでも喉から刃を放てる声。こういう人材は極めて貴重です。ひどく面倒ですが。


案の定、田豊が一歩前へ進み出ました。


「申し上げます、袁紹様!」


太く、よく響く声です。


「いかに公孫瓚の脅威があったとはいえ、韓馥殿を言葉で脅して地位を簒奪するなど、名門のなすべきことではありません! これでは冀州の民心が離れましょうぞ!」


良いですね。出だしから一切のへつらいを削ぎ落としている。文章にすればただの棘ですが、組織というシステムに組み込めば、強靭な筋力となります。


「なんだ田豊、いきなり新しい主に説教か? 今や俺は冀州の主だぞ。少しは言葉を選べ」


「直言こそが忠義にございます!」


今度は沮授が前へ出ます。


「広大な領地を得たからといって浮かれていては、足元から瓦解します! 今すぐ無駄な祝宴を縮小し、農政を整え、兵站を固め、富国強兵の確固たる土台を構築すべきです。冀州は広いが、ただ広いだけの器では天下の覇権は握れません!」


怒りの青筋が浮かびました。本当に分かりやすいお方です。


「うるさい奴らだな! せっかく気分が良かったというのに! おい蔡琰、こいつらを黙らせろ! お前のその計算とやらで徹底的に論破して、叩き出せ!」


いい。実にいい。こういう人間は、組織の中ではひどく扱いづらい。しかし、扱いづらいというその一事においてのみ、彼らには存在価値があるのです。


 すべてが予測通りに作動する組織は、一見美しいようでいて、実は致命的に脆い。完璧な直線だけで組み上げられた建築物は、一箇所に負荷がかかると全体が一気に崩壊します。そこに、少しだけ反発力のある歪んだ材木を混ぜ込んでやることで、組織は却ってしぶとくなるのです。


「――いいえ」


「は?」


「このお二人は、採用といたします」


「……何?」


「側近として、すぐ手元に置きましょう」


当の田豊と沮授の方が、むしろ虚を突かれた顔をしています。

残念でしたね。私は、利用価値のある資源の無駄な廃棄を何よりも嫌うのです。


「なぜだ! 俺のやり方に文句ばかりつける頭の固い連中だぞ!」


「だからこそです」


「イエスマンばかりが並ぶ会議など、美しさの欠片もありません。思考の数式が単調になり、同じ誤差を何度も反響させて増幅させるだけです。ですが、このお二人は違う。耳の痛い直言という『乱数』を運んできてくれる。私の構築する整然とした数式の中に、彼らのようなノイズを敢えて組み込むことで、組織の脆弱性は完璧に補完されます」


「ノイズって言ったか、今」


「最高の褒め言葉ですわ」


「褒められている気が微塵もしないんだが!?」


田豊が本気で嫌悪感を露わにしました。素晴らしい表情です。


「農業振興、兵站整理、富国強兵。彼らの提言は極めて合理的で無駄がない。袁紹様、貴方は見栄えの良い派手な祝宴に予算を回したがる傾向にありますが、冀州は広すぎます。広い土地においては、豪華な見栄よりも先に、血液たる流通経路と税の回収線を整えるべきです。その点において、お二人の方が遥かに理解が速い」


「つまり……俺の頭が遅いと言いたいのか?」


「直接口に出して申し上げた方がよろしいですか?」


「やめろ!」


悪くない空気です。絶対的な権力者がほんの少しだけからかわれる隙を見せると、組織は適度に息がしやすくなります。その圧力の加減が重要なのです。まあ、行き過ぎれば首が物理的に飛ぶことになりますが。


「ただし」


二人の肩が、反射的に強張りました。可愛らしい反応です。


「今後、トップに対する口の利き方が度を越して見苦しい場合は、私が物理的な手段を用いて矯正いたします。建設的なノイズは大いに歓迎しますが、知性のないただの罵声には、芸術性が皆無ですので」


私は黒衣の懐から、暗殺用の蛾眉刺の切っ先をほんの一寸だけ覗かせました。見せすぎないのが、恐怖を御するコツです。凶器は全体を見せびらかすより、冷たい先端だけをちらりと見せた方が、相手の脳内で勝手に巨大な刃へと成長してくれるからです。


「ご理解いただけましたか?」


田豊が、ごくりと生唾を飲み込みました。


「……承知した」


沮授も、苦虫を噛み潰したような顔で頷きます。


「採用された喜びよりも、別種の得体の知れない不安が勝っているがな」


「良い感性をお持ちです」


「その『不安』を忘れない限り、貴方たちは組織にとって有用ですわ」















数日後


冀州を明け渡した韓馥は、最初こそ命が助かったという安堵でぼんやりと日々を過ごしていた。だが、その脆い安堵は長くは続かない。袁紹の配下である朱漢という男が、個人的な怨恨から勝手に韓馥の隠居所を襲撃し、長男の足を叩き折るという事件を起こしたのだ。


 袁紹からの正式な命令ではない。だからこそ、余計に質が悪かった。「命令の存在しない暴力」は、この世界が無秩序であるという絶望を容赦なく突きつけてくる。


 韓馥の精神は、ここで一気に崩壊した。彼の頭の中で、「袁紹は約束を守る」という前提は、「袁紹はいつでも気まぐれに私を殺せる」という強迫観念へ変換された。人間は一度『恐怖』という種を植え付けられると、あとは自身の想像力で勝手にそれを増殖させていく。恐怖とは、自己完結で燃え広がる、非常に燃費の良い感情なのだ。


「や、やはり袁紹は私を許す気なんだ……! あの襲撃は、次は私だという警告に違いない! 殺される! 殺される前にここから逃げないと……!」


彼は脂汗にまみれ、ふらつく足取りで薄暗い廊下を進む。這うようにして向かった先が厠であるあたり、人間の生理とは実に滑稽で不思議なものだ。命の危機に直面してなお、内臓の具合は待ってはくれないらしい。


薄暗く、澱んだ湿気の漂う厠の中。闇に溶け込むようにして待っていたのは、私です。


「――失礼いたします」


「ぎゃああっ! な、なぜここに!?」


厠という空間は、人をひどく脆弱にします。狭く逃げ場のない密室であり、おまけに排泄という誰にも格好のつかない営みの場。


人の尊厳を削り、追い詰めるにはこれ以上ないほど理想的な環境です。むせ返るようなアンモニアの臭いの中、私は黒衣の裾を一ミリたりとも乱さぬよう真っ直ぐに立ち、冷え切った声で静かに告げました。


「韓馥様。貴方の存在は、すでに冀州統治の数式において、計算外の剰余ノイズとなっております」


「な、何を言っている……私は隠居した身だ! 何も企んでなどいない! お願いだ、命だけは助けてくれ!」


「今は何も企んでいなくとも、貴方がここから逃げ出した瞬間に、必ず誰かに利用されます。公孫瓚か、袁術か、あるいは得体の知れない反乱軍か。『旧冀州牧』という肩書は、反袁紹勢力にとってあまりにも都合の良い旗印になり得る。貴方が生きて外の空気を吸うだけで、美しく整った冀州の式がまた濁るのです」


「そんな……!」


「ご安心ください」


懐から一本の書刀を抜き出しました。木簡の文字を削り落とすための、短く細い刃。人を殺める武器としてはあまりに頼りない代物です。ですが、極限状態の人間の心を根元からへし折るには、これで十分すぎるのです。


武骨な大剣を突きつけられるより、こういう半端で生活感のある刃物の方が、肉を裂く痛みをリアルに想像させてしまうことがあります。


「私は、直接手を下すことはいたしません。他殺では、どうにも美しさが足りませんので」


「ま、待て! 待ってくれ!」


「ですから、これは悲惨な事故ではなく――悲観による衝動です」


私は、韓馥様の震える手を取り、冷たい書刀の柄を無理やり握らせました。彼の骨の髄からの震えが、刃を伝って私の指先へと響いてきます。


「連日続く命の恐怖、愛する長男が襲撃された凄惨な事件、そして未来への完全な絶望。その重圧の果ての、自己破綻。ストーリーとしての筋は完璧に通っています」


「嫌だ……死にたくない……!」


「私に処理されて形を失うよりは、ずっとマシな最期のはずです」

「せめて、最後だけは自分の意志で選んだのだと誇りを持って、終わりになさいませ」


韓馥様の顔から、人間としての最後の判断力が抜け落ちていくのが分かりました。焦点の合わない瞳孔。


恐怖と疲労と罪悪感。人はそのすべてを一度に抱え込まされると、音を立ててちゃんと壊れます。私はただ、その壊れていく角度を、ほんの少しだけ美しく整えてやったに過ぎません。












翌朝。袁紹様の執務室へ、慌ただしい足音と共に凶報が飛び込んできました。


「急報にございます! 先代の韓馥様が、昨夜、隠居所の厠にてご自害なされました!」


「な、なんだと……自害? 俺は殺せなどと命じてはいないぞ……!」


それから、袁紹様は首の関節が軋むような恐ろしいほどの遅さで、私の方へ顔を向けました。動きが極端に鈍るのは、直視したくない現実から逃避しようとする人間の防衛本能です。


「蔡琰……まさか、お前が……」


私は、きょとんと小首を傾げてみせました。『きょとん』という表情は、使いどころが極めて重要です。ここで怒れば黒だと認めたも同然。笑えばさらに真っ黒です。よって、純粋無垢な『きょとん』こそが、この場における最適解なのです。


「え? どうなさいましたか、袁紹様」


「いや……その……韓馥の件だ」


「誠に、お気の毒なことですわ」


「私は昨夜からずっとこの部屋に籠もり、来期予算の編成をしておりました。兵糧の計算、徴税の割り当て、農地再配分、そして界橋方面への緻密な輸送計画。おかげで睡眠時間は二刻にも満ちませんのよ」


「……本当に、お前はそこから一歩も動いていないのだな?」


「ええ」


「帳簿も、出入りの記録もすべて揃っております。むしろ、誰かに私の働きぶりを目撃していただきたいくらいでしたわ」


袁紹様は震える手で茶碗を受け取りながらも、未だに私の顔を凝視しています。怖いのでしょう。


「……だが、あいつは昨夜まで酷く怯えていた。まるで、目に見えない何かにじわじわと追い詰められているように」


「そうだったのでしょうね。精神的な疲労が限界に達していたのでは?」


「お前、本当に、何もしていないのか?」


「『直接』は、何も」


「……直接は?」


「私は、美しくない無駄な殺生は好みませんので」


「その言い方やめろ!」


「私はただ、因果関係の線を整え、環境変数にほんの少し干渉し、必要な処理が『自動的』に実行されるよう、条件を揃えて差し上げただけです」


「それを世間一般では、仕組んだと言うのではないか!?」


「そこまで露骨で下品な真似はしておりません」


「露骨じゃなければいいってものでもないだろう!」


私はわりと本気で思うのですが、彼はこうやって適度に腹の底から叫んでいる方が、精神衛生上よろしいかもしれません。怯えを腹の内に溜め込むと、確実に胃腸へ来ますから。


会話は、この絶妙なタイミングで切り替えるのが最も合理的です。人間は恐怖のテーマを長く引きずると、判断の質が著しく低下します。即座に次の業務へ視線を移させることで、強制的に精神を別のレールへと乗せ替えるのです。


「さて」


「……まだ何かあるのか」


「もちろんです。韓馥様という邪魔な余剰ノイズは無事に消去されました。よって、次なる目標は北の公孫瓚です」


界橋周辺の地図に、朱墨と黒墨で冷酷な線を引いていきます。


「彼の誇る白馬義従は、たしかに見た目だけは華やかです。ですが、見た目の美しさと戦術的強度は全く別物。速い騎兵には、それよりさらに速く突き刺さる矢の雨を当ててやればいいだけのことです」


「口で言うほど簡単ではないぞ」


「簡単です」


「お前の言う『簡単』は、たぶん人が虫けらのようにたくさん死ぬ方の『簡単』だろう」


「ご慧眼の通りですわ」


「麹義の部隊を主軸として使います。強弩の兵を最前列に配置し、盾兵の層を薄く張り、その後ろに長槍を忍ばせる。白馬義従が誇り高く美しく疾走してきたところを、一斉射撃でさらに美しく粉砕します。圧倒的な速度を持ったものほど、一瞬にして動きを止められる瞬間が、最も美しいのですから」


「お前、たまに『勝つ』ことよりも『綺麗に壊す』ことの方に比重が偏っていないか?」


「両立は可能です」


「勝利と美学は決して対立しません。むしろ、芸術的なほど美しい勝利は、後世の記録に深く刻み込まれやすい。記録に鮮烈に残れば正統性が増し、正統性が増せば、領民から税が取りやすくなる。最終的には、すべてが完璧な数式として繋がるのです」


「最後は絶対に『税』に行き着くんだな……」


「当然です。金脈なき統治など幻想ですわ」


兵数、配置、糧秣の計算、弩の想定消耗数、矢の補給ライン、そして戦勝後の宣伝文句に至るまで。戦というものは、ただ勝って終わりではありません。勝った後に、その勝利を大衆にどう語らせるか――そこまでを含めて、ひとつの完璧な商品設計なのです。


「公孫瓚に大勝すれば、冀州支配の正統性は盤石となります。民には『袁紹様が白馬の脅威から冀州を救った英雄である』と大々的に宣伝します。田豊と沮授にはブツブツと不満を垂れ流させつつも、最終的には農政の要へ回してこき使っていただく。彼らはうるさいでしょうが、有能ですから必ず結果を出します」


「本当にあの口煩い二人を重用するのか?」


「します。あれほど分かりやすく面倒で、かつ有能な人材は滅多にいません」


「面倒を褒めるな」


「面倒というのは、優れた能力の副産物であることが多いのです。無能な人間はだいたい、面倒を起こす前に役立たずの烙印を押されますから」


彼の表情は、「広大な冀州を手に入れた喜び」と、「冀州とセットでこのとんでもない女まで抱え込んでしまった絶望」が、四六時中脳内で激しい綱引きをしている顔です。素敵ですね。人はそういう極限の葛藤の中にいる時こそ、ちゃんと生きているという実感に溢れています。


私にとって、李司さんはこれ以上ないほど最適な上司です。無駄のない短い指示、一切の迷いがない速やかな判断、そして何より、無価値な感情で計算式を濁らせない。たまに守銭奴の度が過ぎて呆れることもありますが、それすらも彼女の美点です。冷徹な金勘定すらできない愚かな主君に、忠義など尽くせるはずもありませんから。


 私は残りの茶を静かに飲み干しました。香りは最後まで崩れることなく、心地よい余韻を残します。本当に優れたものは、終わり方まで美しい。


「では、次の工程へ移りましょうか」


「……まだあるのか」


「山ほどございます。冀州は広大ですから」


「……今夜、一人で厠へ行くのが少し怖い」


「ご安心くださいませ。私は夜、帳簿付けで手が離せませんので」


「その『ご安心ください』が、一番安心できないんだよ!」


まったく、失礼なお方です。

本陣の夜半は、耳が痛くなるほど静かですからね。自分の足音ひとつで、首筋に冷たい刃を当てられる想像をしてしまうのでしょう。

 それもまた、統治システムを維持するために必要なコストです。


恐怖は人を動かし、数字はその恐怖に具体的な形を与える。


冀州はこうして、袁紹様のものとなります。

主役は日の当たる表舞台へ。式は暗い裏方へ。これが最も破綻のない、綺麗なレイアウトです。


 さあ、次は界橋です。

 白馬義従という見掛け倒しの派手な直線を、もっと芸術的で美しい赤色へ塗り替える時間がやってきました。


 その作業が終わる頃にはきっと、袁紹様は夜中に一人で厠へ行く前に、念入りに三回くらい、私のいる帳簿部屋の方を怯えた目で確認するようになっていることでしょう。


実に結構なことです。

 上司が部下を適切に恐れている組織というものは、緊張感を保ったまま、意外なほど長持ちしますから。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

今回は蔡琰のやり方と、袁紹陣営の再編を書いてみました。

好きな場面や台詞など、気軽に感想をいただけると嬉しいです。

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