第二十六話:徐州の宴、常識人は苦労する
徐州行きと聞いた時点で、ろくでもないことになる予感しかしなかった。
うちの天下無双は酒と筋肉でできているし、相手方の劉備三兄弟もどう見てもまともじゃない。
そして、そんな連中の間に立って、実務と常識を必死に繋ぎ止める役目を負わされたのが、この私である。
お腹が重い。比喩とかそういう面倒な話じゃなく、文字通りガチで重いんだっての。
けどさ、だからって仕事がパッと軽くなるわけじゃないのが、うちの会社――李司様が牛耳る組織のえげつないところなんだよね。
妊婦だから後方でふんわりお留守番、なんて甘っちょろい世界はどこを探してもない。「妊婦でも脳みそは動くでしょ?じゃあ現場監督よろしく」ってな涼しい顔で、最前線のキツい実務を平気でバンバンぶん投げてくる。私だっていい加減この無茶振りには慣れたけど、心の底から納得してるわけじゃないんだからね。
土埃にまみれた徐州城を遠目に睨みつけながら、私は馬の上で深ーいため息を吐き出した。隣を見れば、私の愛しい旦那様――奉先が、立派な腕を組んでうーんと低い声で唸っている。その無駄に整った威圧感たっぷりの横顔だけ見れば、天下無双の名将が戦を前にすっごい高度な戦略を練ってるように見えるだろうさ。でも騙されちゃダメだ。長年連れ添った私にはわかる。あれ、たぶん脳みその三割くらいしか動いてないから。
「で、結局、俺は何をすればいいんだ?」
ほらキタ。絶対にそう言うと思ってたし。
「李司は『徐州へ行け。あとは臨機応変に』としか言わなかったぞ。臨機応変ってなんだ?とりあえず城門をぶち破って、あの耳のデカい劉備ってやつを殴り飛ばせばいいのか?」
「お待ちください、奉先様」
ここで優しく手綱を引かないと、この大好きなバカ旦那はすぐ「なるほど、じゃあ殴ればいいんだな!」で思考を強制終了して、物理的に城門を粉砕しに行っちゃうから。
「暴力は最終手段です。いえ、うちの会社では割と初手から候補に入りますけど、今回は一応最後です。劉備は以前、曹操様とは敵対しましたが、それは献帝を擁立する前の話。今は形式上、彼も朝廷の臣であり、明確な逆賊ではありません。まずは『理』を説いて、恭順を迫るのが筋です」
「理……」
やめてよ、その顔。だいたい次に、とんでもない斜め上の解釈が飛び出す前兆なんだから。
その横で、軍師の公台殿が羽扇で口元を隠しながら静かに笑ってた。最近このおじさん、だいぶ顔色が良いんだよね。許昌の本社で李司様のプレッシャーを直接浴びないってだけで、人間ってこんなに健康を取り戻せるもんなんだ。
「左様です、貂蝉殿のおっしゃる通り。李司殿からの指示書にも『大義名分を構築しつつ、徐州の経営権を合法的に接収せよ』とあります。まずは表敬訪問。それから内部に入り込み、相手がボロを出したら即座に実効支配。今回はそういう案件です」
「なるほどな!」
奉先が、パァッと子供みたいに顔を明るくした。
「最初は仲良くするフリをして、相手がボロを出したら正当防衛で殴り倒して、城を奪えばいいんだな!」
「……まあ、八割はそうです」
「任せておけ!一番得意だ!」
一体どこでそんな物騒なスキルを磨いてきたんだか。いや、答えなんてわかりきってる。李司様との容赦ない夫婦生活全般が、そのままこの人の過酷なサバイバル訓練場だったからなんだけど。
「相変わらずの脳筋思考……」
私がこっそりボヤくと、奉先は聞こえてないのか、聞こえないフリをしてるのか、愛馬の赤兎の首をバシバシ叩いてすっごくご機嫌だった。まあ、そういう裏表のない単純なところ、私はたまらなく好きなんだけどさ。好きだけど、現場を預かる監督としては頭痛の種でしかないのよ。
「本社のCEOが直接口出ししてこない環境は、確かに裁量権があってありがたいのですが……。舵取りをする私の胃の粘膜がもつかは、また別の問題ですな」
「お気持ちはわかります」
「わかっていただけますか」
「ええ。私は昼も夜も奉先様の管理ですので」
「貂蝉、お前その言い方だと、俺が厄介な猛獣みたいじゃないか」
「違うんですか?」
「違う!」
「どこがですか?」
「……たぶん、優しいところ?」
「自分でたぶんと言ってしまったら終わりですわよ」
そんな感じで、本陣の空気は呆れるほど緩い。徐州って土地は豊かで、劉備って男は底知れなく胡散臭い。そこにうちの天下無双を送り込むんだから、何事もなく平和に終わるはずがないんだよね。
◆
同じ頃、徐州城の奥深くでは、三兄弟による緊迫した緊急会議が開かれていた。
「なに?あの呂布が軍を率いて来たって?」
劉備は豪奢な玉座で苛立たしげに爪を噛みながら、ひどく面倒くさそうに吐き捨てた。世間に対しては救民の英雄という完璧な仮面を被れる男だが、裏の素顔は驚くほど雑で俗っぽい。
「厄介なのが来やがったな……。とりあえず歓迎の宴を開いて、酒に酔わせたところで暗殺すればいいのか?」
「兄者、それが最も無難で確実でしょう」
関羽が自慢の立派な髭を撫でながら、一ミリの迷いもない真顔でうなずく。
「懇意にしている商人から、極上のトリカブトを仕入れておきましょう。酒に混ぜれば、いくら豪傑でもイチコロです」
その直後、凄まじい音が響いた。張飛の巨大な拳が執務机に叩きつけられ、哀れな机が真っ二つに砕け散る。
「違うわ!!!」
張飛の怒声が室内に轟いた。最も野蛮で粗暴な見た目をしているにもかかわらず、非常事態においては誰よりも真っ当な倫理観を発揮する。彼はこの義兄弟の中で、常に最も損な役回りを背負わされていた。
「何をしに来たのかも聞かないうちに、何を物騒な謀議をしてるんだ兄者達!いきなり暗殺とか、完全に山賊の発想だぞ!コンプライアンスの欠片もねえのか!」
「でもさあ、翼徳」
劉備は耳を小指でほじりながら、気怠げに返す。
「呂布って、辺境の并州出身の田舎者だろ?どうせ粗暴で裏切り者の危ない男じゃないか。殺られる前に殺る。それが乱世の基本だぜ?」
「偏見だ!!」
張飛は間髪入れずに吠えた。
「思い込みで判断するな!呂布将軍の経歴をちゃんと見ろ!」
彼は情報屋から極秘に仕入れた木簡を、勢いよく机の残骸の上に広げた。この粗野な軍団の中で、真面目に会議資料を読み込んでいるのは彼だけである。
「丁原殿に仕えた頃から異民族と戦い、董卓に仕えてからは献帝を命懸けで保護し、長安でも逆賊を討った!今や天下に名高き忠義厚い無双の名将だぞ!」
劉備と関羽は言葉に詰まり、気まずそうに黙り込んだ。確かに、現在の呂布の経歴だけを表面上なぞれば、超優良企業が誇る完璧なエース社員のように輝かしい。その実態は、彼を裏で操る李司という存在が、契約と物理的な暴力で徹底管理し、裏切りの芽を端から全てへし折ってきただけなのだが、彼らがそれを知る由もなかった。
「……むう」
関羽が再び髭を撫でながら唸る。
「確かに、呂布が主君を裏切ったという悪い噂は聞かんな。どこぞの誰かのように、主君をコロコロ変える兄者とは大違いだ」
「おい雲長、今、さらっと俺を刺したか?」
「事実です」
「お前も時々容赦ないよな」
「とにかく!まずは会って話を聞く!礼を尽くす!それが外交だ!雲長、毒は懐にしまえ!」
「はいはい」
「返事が軽い!」
そんな三兄弟の激しい温度差を乗り越えて、その日の夜には城を挙げての盛大な歓迎の宴が整えられた。
◆
「劉備将軍」
奉先の深く通る声が、広間の空気をビリッと震わせた。こういう儀礼的な場において、彼の顔立ちと声の説得力は本当に完璧で、見惚れちゃうくらいカッコいい。
「この度は陶謙殿より、徐州牧の印章を譲り受けたとのこと。聞き及んでおります」
無学で野蛮な武将って事前の想定が、見事に裏切られた瞬間の顔だ。
「へ、へい。そうでさぁ。私が長官に就任いたしました」
その情けない声のトーンは何なのよ。せっかく場が引き締まりかけてたのに、一瞬にして場末の安酒場の空気に引き戻されちゃったじゃない。
奉先は懐から重々しく書状を取り出した。そこには李司様の印が鮮やかに押されている。
「許昌の帝、及び我が妻・李司におかれては、貴殿の地位を追認する用意があります。漢室の藩屏として、大いに励まれよ」
劉備の目が、欲望を隠しきれずにギラリと輝いた。
「おっ、それはありがたい!ってことは、堂々と税金取ってもいいってことかい?住民から絞れるだけ搾り取っても、国からお墨付きってこと?」
「……」
展開が早すぎる。本性がバレるスピードが異常だわ、この男。
「税の徴収は、統治者の権利であり、同時に義務です。決して、貴殿の私腹を肥やすためのものではありません」
この見事な台詞、出発前に李司様が三回も復唱させてたやつだ。言葉の真意をちゃんと理解してるかはすっごく怪しいけど、暗記だけは完璧にこなしてる。えらいえらい、よくできました。
「つきましては、我々は近隣の小沛に駐留し、徐州の復興と治安維持をサポートさせていただきましょう」
要するにウチが監視役を務めるぞ、っていう明確な宣告だ。劉備は露骨に舌打ちしかけたけど、次の瞬間には胡散臭い笑顔を貼り付けた。この切り替えの早さ。こういう油断ならないところが、本当に悪徳商人みたいでゾッとする。
「まあいいや!堅苦しい話は抜きだ!呂布将軍、あんた、イケる口かい?」
だめよ、その安っぽい誘い水に食いついちゃだめだってば。
「ふっ……酒にはうるさいですよ」
ああ、もう手遅れだ。この人は、酒と己の筋肉を褒められると、いとも簡単に警戒心を解いてしまうんだから。
「長安の高級酒という高級酒を、全て飲み尽くしてきた自負があります」
「よし!」
「話が早い!俺も酒には目がなくてね!今日は無礼講だ!一番いい酒を持ってこい!盛大な酒盛りだァァァ!」
私はお腹の子供を気遣って、静かに酸っぱい果汁の杯を傾けるしかない。それなのに目の前では、いい大人の男二人が開始わずか五分で意気投合してる。主にアルコールっていう触媒の力で。
宴が本格的に始まると、案の定、二人はあっという間に肩を組んで歌い出す始末だ。こうなっちゃうと、まともな処理能力と常識を持った人間は、自然と広間の端っこへと追いやられる運命にある。
関羽が、やたらと視線を泳がせている。警戒レベルが異常に高い。完全に通報されるレベルの不審者よ、あれ。
「……関羽殿」
背後から声をかけると、巨漢の肩がビクッと大きく跳ね上がった。
「先ほどからひどく挙動不審ですが。どなたかをお探しですか?お酌でもいたしましょうか?」
「い、いや!」
関羽の声が妙に上ずって、小さくなる。その威圧的な巨体と立派な髭で、ビビった小動物みたいな反応を見せるのはやめてほしいんだけど。
「あの……美しい奥方様。一つ、お伺いしたいのですが……『李司殿』は、本日の宴には来ておりませんかな?あの……刃物を持った、衛生管理に異常に厳しい、恐ろしい女は……」
ああ。なるほど、そういうことね。
「はい。李司様は許昌で留守番です。今回は呂布様と私、そして軍師の陳宮のみの編成です」
関羽の強張ってた顔から、みるみるうちに緊張の色が剥がれ落ちていく。大袈裟な表現じゃなく、全身の骨格が溶け落ちちゃうんじゃないかと思うほどの安堵ぶりだ。
「そうですか……!」
そして彼は、自慢の長い髭を慈しむように両手で包み込んだ。恐ろしく愛おしそうな手つきで。この人は自分の髭に恋情でも抱いてるのかしら。
「今日は素晴らしい夜だ。月が美しい……。髭が健やかに伸びる音が聞こえるようだ……」
「大丈夫ですか?」
「ええ……。今日は顎を不良債権にされずに済む……」
「そこまで深いトラウマを刻み込まれてるんですの……」
「奥方様にはわかるまい」
いや、少しは理解できるわよ。私だって出会った当初は、李司様が木刀を振るう風切り音だけで胃が冷たく縮み上がってたんだから。でもこの人の場合、もはや髭が命より大事なアイデンティティの本体なんだ。それは重症化しても仕方ないわね。
◆
「陳宮殿。お初にお目にかかる。主君たちがアレなので、まずは我々実務担当者で具体的な折衝を詰めましょう。こちらが、小沛に駐留する呂布軍への当月分の兵糧および物資提供の目録です」
公台殿が恭しく木簡を受け取り、視線を落とす。途端に彼の顔色が劇的に変わった。もちろん、すっごく良い意味で。
「ほう……これは見事な書類だ。兵糧のカロリー計算、効率的な輸送ルートの構築、全てが理にかなっている。張飛殿、その威圧的な外見に反して、中身は相当なインテリですな」
張飛は照れ隠しみたいに、無骨な手で頭を掻いた。
「いやあ、書や絵画も嗜むもので。数字の計算も少しばかり。うちの兄者がどんぶり勘定の強欲なもので、私が財布の紐を厳重に締めないと、一瞬で債務超過に陥るんです」
その切実な言葉を聞いた瞬間、公台殿は木簡を置き、張飛の両手を力強く握りしめた。これ以上ないほど深く、何度も頷きながら。
「……わかる。痛いほどわかりますぞ、張飛殿。私も以前は李司殿という歩く計算機の下で胃を削り、今はあの燃費の悪い猛獣の手綱を握って、日々ロジスティクスに追われております。見た目によらず苦労人……我々は気が合いそうです」
痛みを分かち合える共感って、かくも偉大なものなのね。
「陳宮殿……一杯、どうですか。互いのトップの理不尽な愚痴と、日々の苦労を分かち合いましょう」
「ええ、ぜひ。我らの胃袋の平穏に乾杯」
「……ふふ」
思わず口元が綻ぶと、関羽が訝しげな視線を向けてきた。
「何がおかしいのです、奥方様」
「いえ。表では天下の英雄と仁君が肩を組んで騒ぎ、裏では苦労人同士が経費削減の話で熱く意気投合している。なんだか、この混沌とした乱世の縮図を見ているようだなと思いまして」
「乱世そのもの……」
「ええ。上の人間が奔放に騒げば騒ぐほど、下の人間が血の滲むような苦労をして帳尻を合わせる。どこの会社でも起こり得る普遍的な現象ですわ」
「……会社とは?」
「お気になさらず」
その頃には、奉先と劉備は完全にアルコールの海にどっぷり沈んでいた。
「おい玄徳!お前、思ったよりいい飲みっぷりだな!」
「へへっ、将軍こそ!さすが天下無双!酒の減り方まで豪快で惚れ惚れするぜ!」
「よし気に入った!今度一緒に赤兎馬で競走するか!」
「いいねえ!でも俺、馬術はそこそこだから、ちょっと手加減してくれよ?」
「手加減は嫌いだ!」
「そこをなんとか!」
どうしてこの二人は、ここまで急速に親交を深めてるのよ。ほんの数十分前まで、お互いの城の経営権をめぐってバチバチ腹を探り合ってたはずでしょうに。酒っていう劇薬の恐ろしさを実感するわ。
「張飛殿」
静かに声をかけると、張飛は少し驚いたように振り返った。
「ん?なんだ、貂蝉殿」
「貴方、事前の想像よりずっと真っ当で、理知的な方ですのね」
「それ、褒めてるのか?」
「この場においては、最大級の賛辞ですわ」
張飛はフッと鼻を鳴らし、それでもほんの少しだけ口角を上げた。
「そりゃどうも。こっちから見ても、あんたは事前の噂よりずっと過酷な環境にいるみたいだな。呂布将軍みたいな規格外の暴風雨を、日常的に管理してるんだろ?」
「ええ。昼も夜も、休みなく」
ほんと、あんたみたいな真っ当な人がいてくれて助かるわ。
「……本当にお疲れ様です」
「そちらこそ。無軌道な兄君たちの尻拭い、骨が折れるでしょう?」
「だいぶな」
「乾杯します?」
「するか」
そうして私は、張飛とも軽く杯を打ち合わせる。私の中身は酸っぱい果汁で、相手は強い濁り酒だけどね。こういうものは、魂の共鳴っていう気持ちの問題よ。
その横で、関羽がまだしつこく髭を撫で続けてる。本当にこの人は、宴の最中ずっと髭のメンテナンスをしてる気かしら。摩擦で毛根が死滅しないか本気で心配になってきたわ。
「関羽殿も一杯いかが?」
声をかけると、関羽は微動だにせず、真顔のまま首を横に振った。
「いや、拙者は今、髭の健康状態を最適に維持するため、油分と湿度の精密なコントロールに全神経を集中しているところだ」
「宴の場でやることじゃねえだろ!」
「以前、酷く乾燥した夜に髭の毛先が少し枝毛になったことがあってな」
「知らねえよ!」
だめね。こういう生産性のない、底抜けにどうでもいい会話の応酬、実は嫌いじゃないのよ。
「奉先様」
「くれぐれも、飲みすぎないでくださいね」
「おう!わかってる!」
十中八九、私の言葉の意味を全く理解してない反射的な返事ね、あれは。
「玄徳殿も」
「んー?何?」
「今夜はあくまで歓迎の宴です。探り合いや余計な腹芸はなしでお願いしますわ」
劉備はへらっと笑う。しかし、その奥底にある瞳だけは冷ややかにこちらを観察していた。やっぱり、底知れない男よね。
「奥方殿、俺はいつだって誠実さの塊だぜ?」
「その台詞を一切の躊躇なく即答できる男は、だいたい誠実とは対極にいますのよ」
「辛辣だなあ」
「変えようのない事実ですもの」
張飛が吹き出し、関羽が「全くその通りです」と無駄に威厳のある真面目な顔で頷く。劉備は「お前ら、どっちの陣営の味方だよ」と情けなくぼやく。公台殿は静かに酒を煽りながら、「この場にいる全員、多かれ少なかれ人格に難があるな」と顔にデカデカと書いてる。
宴が深夜の静寂に差しかかるころには、懸念してた通り、トップ二人の会話のレベルは完全に幼児のそれにまで退行していた。
「おい玄徳!お前、よく見ると耳が異常にでかいな!」
「将軍こそ、声が異常にでかいね!」
「耳の大きさと声のデカさ、どっちが物理的に強いんだろうな!」
「それを比べる意味ある!?」
というか、この二人はさっきから交わしてる会話の八割方が完全に意味不明なのよ。それなのに、当人たちが妙に楽しそうなのが無性に腹立たしい。
劉備は既に全身がゆでダコみたいに真っ赤に染まり、だらしなく膝を崩したまま空の杯を振り回していた。
「なあ呂布将軍。俺ぁ思うんだが、世の中ってのはもっと適当で楽でいいよなあ。難しい理屈とか面倒な帳簿とか、ああいう頭の痛くなる仕事は全部、賢いやつに丸投げしちゃえばいいんだよ」
「激しく同意する!」
「難しい話を聞かされると、せっかくの筋肉が萎縮していく気がする!」
「だろう!?やっぱ英雄ってのは、細かいことを気にしちゃダメなんだよ!」
「だが、我が妻の李司は絶対に聞けと強要してくる!」
「うちも翼徳がうるさく言ってくる!」
「ははははは!」
「ガハハハハ!」
ああ、これはもう駄目だ。最も危険な種類の、破滅に向かう共鳴だわ。
私は即座に公台殿へ視線を飛ばす。公台殿も険しい顔でこちらを見た。張飛も同時に、青ざめた顔でこちらを振り向いた。実務担当者三人の思考が、完全に一つの結論へと到達した瞬間だった。
「止めます?」
緊迫した声で提案すると、張飛が即座に首を横に振った。
「いや、今無理に止めると逆上して余計に面倒なことになる。こういう質の悪い酔っ払いは、ある程度自分で喋り疲れて物理的に潰れた方が、後処理が圧倒的に楽だ」
「随分と実践的な経験値が高いですね」
「兄者で散々慣らされてるからな」
「本当にお気の毒に」
張飛は疲労困憊の苦笑いを浮かべて杯を置く。公台殿も、地を這うような低い声で分析を重ねた。
「呂布将軍の場合、本格的に酔って暴れ出す前に、どこで破壊衝動のスイッチが入るかを見極める必要があります。過去の凄惨な傾向から分析すると、摂取した酒量そのものよりも、変な勝負を持ちかけられた時が最もレッドゾーンに近いです」
「痛いほどわかります」
過去の数々の惨劇を思い出しながら即答する。
「筋肉の美しさ比べ、腕相撲、馬の全力疾走比べ、誰が一番強いかの不毛な話題。あの辺りの単語が出た瞬間が、命の危険信号です」
「貂蝉殿、貴女は本当に、常軌を逸した苦労をしているのだな……」
一方の関羽は、周囲の緊迫した空気なんて知る由もなく、ひたすら無心で髭を撫で続けている。摩擦で髭が発火しないか、本気で心配になってきたわ。
「雲長!」
劉備がろれつの回らない舌で叫び、大きく手を振った。
「お前もこっちへ来い!呂布将軍と一緒に飲め!熱い友情を深めろ!」
「兄者、拙者は丁重に遠慮しておきます。現在、髭の湿度管理が最もデリケートな佳境に差し掛かっておりますゆえ」
「なんだよその理由は!」
「それに、呂布将軍の相手はともかく……もしも酒の勢いで、うっかり李司殿の恐ろしい話題が飛び出そうものなら、拙者の精神衛生に多大なる悪影響を及ぼします」
「そこまでトラウマになってるのかよ!」
「関羽殿」
彼を落ち着かせるよう、なるべく穏やかな波長で語りかけた。
「ご安心なさい。今夜、この徐州城に李司様はおりませんし、私は貴方の髭を無慈悲に刈り取る係ではありません」
「本当に、本当ですかな……?」
「ええ。ただし、不衛生な状態を見つけたら別ですが」
「ひっ」
「冗談ですわ」
「全くもって冗談に聞こえぬのですが!?」
そんなコントみたいなやり取りをしてるうちに、劉備が唐突に立ち上がった。いや、立ち上がったというより、バランスを崩して転びそうになりながら無理やり起き上がったっていう表現が正しい。
「よーし!じゃあ次は、桃園の誓いみたいに、この酒の盃で義兄弟の契りを結ぼうぜ!呂布将軍、今日からあんたは俺たちの第四の兄弟だ!」
「おお!それは名案だ!」
いや、全く名案じゃないわよ。酒場のノリで勝手に義兄弟を増殖させないでちょうだい。
「増やすな!そんな飲み会の延長みたいなノリで兄弟を増やすな!しかも相手は、バリバリの別陣営の主力武将だぞ!」
「別に減るもんじゃねえだろ、翼徳!」
「仲良くなっといて損はないだろ?ほら、ビジネスの世界でも人的コネクションって何より大事だって、お前もいつも口酸っぱく言ってるじゃねえか」
「方向性が根本的に違う!そういう薄っぺらい人脈作りの話をしてるんじゃねえ!」
「張飛殿、ここは諦めましょう」
公台殿が、悟りを開いた僧侶みたいな顔で張飛の丸太みたいな肩を叩いた。
「我々がここでどれほど論理的思考を説こうとも、あの二人の脳髄には今、高濃度のアルコールと場の勢いしか存在していないのです」
「くそっ……!どうしてどこの組織も、トップに立つ奴はこうも扱いづらいんだ……!」
「本当に、おっしゃる通りですわね」
宴がいよいよ終盤に差し掛かるころ、私の最悪の予感はついに的中した。奉先が目を爛々と輝かせて、力強く立ち上がっちゃったのだ。
「よし玄徳!勝負だ!」
はい、来ました。この世で最も聞きたくなかった最悪のワード。絶対に止めないと。
「何の勝負だい?」
劉備も完全にアルコールに脳を支配されてるから、危機感ゼロで普通に乗っかっちゃう。お願いだからやめて。
「ただの酒の強さ比べ……ではつまらん!やはり乱世を生きる英雄たるもの、最後は肉体と肉体のぶつかり合い、腕相撲だろう!」
「却下です!!」
「なんだよ貂蝉、陳宮、張飛。お前ら三人、妙に息がぴったりだな!」
「そこを呑気に評価している場合ではありません!」
「ここで腕相撲など始めた瞬間、凄まじい衝撃波でこの宴席の机ごと床が吹き飛びます!建物の甚大な損害と深刻な外交問題が同時発生する未来が見えませんか!」
「左様!呂布将軍の規格外の握力と、うちの兄者の見栄っぱりを同じ卓上に乗せるのは、火薬庫で松明を振り回すような危険行為だ!」
「そもそも兄者は腕相撲が決定的に弱いです!見栄だけで無謀な勝負に挑んで、右肩の関節を粉砕される未来しか見えません!」
「張飛、お前実の兄に向かってひどくない?」
「客観的な事実です!」
奉先は不満げに鼻を鳴らして不貞腐れかけたけど、そこは優秀な軍師である公台殿がすかさず見事な代替案を提示した。ほんと、陳宮殿さまさまだわ。
「では、お二人とも知勇兼備の英雄らしく、ここは『これまでに飲んだ酒の銘柄を何種類言えるか』という知的なゲームで競ってはいかがです?これなら暴力も物理的破壊も伴わず、しかも高度な記憶力の勝負となります」
「おお!」
劉備が子供みたいに食いつく。
「それなら俺でもいける!」
「記憶力の勝負か!悪くない!」
奉先も単純な理由で納得する。本当に助かったわ。この人たち、プライドをくすぐる代替案さえ適切に与えれば、意外とあっさり流されてくれるのよね。奉先も素直で可愛いし。
徐州での初手は、殴り合いではなく歓迎の宴でした。
その結果、見事に別方向の危機が発生したわけですが。
貂蝉・張飛・陳宮による実務担当トリオの連帯感や、酔っ払い二名の危険な友情など、楽しんでいただけたなら幸いです。




