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三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~  作者: 斉宮 柴野


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第二十五話:損益分岐点の愛と、燃費の悪い猛獣

失うかと思った。

本当に、全部。

だから取り戻したあとでさえ、私は安心するより先に、損失と回収の計算を始めてしまう。

これはそういう女が、家族と会社と次世代を抱えたまま、再び前に進む話だ。

血の滲むような速度で馬を駆けさせながらも、脳内の損益分岐点を見極める演算は決して止まりません。


奉先の負傷率。

貂蝉の残存戦闘力。

子供たちの生存可能性。

追撃してくる敵兵の総数と、廃寺周辺の地形データ。


あらゆる変数を高速で並べ替え、最も凄惨なケースから順に徹底的に潰していく。

董相国という巨大な絶対的支柱を失った今、我が陣営においてこれ以上の資本損失は断じて許可できません。

とりわけ、私が多大な教育コストと愛情を注ぎ込んで育て上げた最高の人材と、次世代を担う子供たちは。


「見えた!前方、廃寺だ!」


孟徳の鋭い声が風を切り裂きます。

私は無駄な返答を省き、力強く馬腹を蹴り上げました。


荒れ果てた境内に飛び込んだ瞬間、粘り気のある血の悪臭と、燻る木々の焦げた匂いが容赦なく嗅覚を蹂躙します。

視界に広がるのは、無数に転がる追手の屍、無惨にひっくり返った荷車、そして急造された罠の痕跡。


竹槍、縄、落石、油。

限られた資材と極限の状況下で構築された防衛陣地としては、実に優秀な出来栄えです。

短時間でこれほどの遅滞戦闘を指揮できる人材の存在は、現在の我々にとって極めて価値が高い。


崩れかけた本堂の前に、一人の男が静かに佇んでいました。

文官を思わせる衣服には生々しい血飛沫が点在し、土気色の顔貌を晒していますが、その双眸だけは冷徹なまでの静けさを保っています。


「お待ちしておりました」


「私は陳宮、字を公台。追手は、私が即席の罠で足止めし、可能な限り撃退いたしました」


「陳宮……?」


文官でありながら死地において腰が据わっており、状況判断の速度も申し分ありません。

間違いなく、実務に耐えうる優秀な資産です。


「おお!公台!まさかここで会うとは!以前、助けてくれたこと、礼を言う!」


「恩などと言われると困ります。私はただ、曹操殿が殺されるには惜しいと投資的判断を下したに過ぎません」


「今は感動の再会に浸る段階ではありません。お子様方は無事です。もっとも……奥におられるお二人が、文字通り物理的な防壁となって死線を潜り抜けましたので。現在、極めて致命的なステータスにあります」


本堂の内部は重苦しい薄闇に沈み、破壊された像の奇怪な影が床一面に這いずっています。


その最も深い闇の奥で、小さな塊が身を寄せ合っていました。

曹昂、袁譚、袁尚、董白、玲綺。

全員の生体反応を確認。

顔は煤と涙に塗れ、瞳は恐怖に充血していますが、欠損はなく四肢も健在です。


胸の奥底で、冷え切っていた感情の歯車が安堵という熱を帯びて微かに回りました。

しかし、その安堵を味わう暇すら与えられないほどの最悪の光景が、私の網膜を焼き払います。


全身を凄惨な朱色に染め上げた貂蝉が、鋭く光る短剣を、自らの喉元へ深々と押し当てていたのです。


「来ないでください」


普段の彼女が持つ、あの反骨精神に満ちた力強さは微塵もありません。

魂の芯から粉々に砕け散った、絶望のノイズです。


「申し訳ございません、李司様……。私の父である王允が、あのような致命的な裏切りを……。私の命で、その負債を全額償います……!」


愚かですね。

呆れるほどに、底抜けの馬鹿です。

この娘は、自身が現在の我が社においてどれほど代替不可能な超高額資産であるかを、全く理解していない。


思考するよりも早く肉体を駆動させ、死神の刃が彼女の命を刈り取る寸前で、その凶刃を素手で力任せに握り潰しました。


掌の皮膚が容易く裂け、神経を焼くような激痛が走りますが、そのような軽微なダメージはどうでもいい。


ここでコンマ一秒でも介入が遅れれば、計り知れない甚大な損失を計上することになるのですから。


「……馬鹿な真似はやめなさい」


「李司様!手が……!」


「関係ありません」


引き裂かれた肉から、赤い滴が床へと等間隔で滴り落ちます。


泣き崩れそうな、酷く幼い顔。

いいえ、すでに彼女の瞳からは、せき止められていた感情が溢れ出しています。


「なぜ止めるのですか!私は裏切り者の娘です!我が陣営のブランド価値に致命的な泥を塗った、救いようのない不良債権です!ここで私が自らを処分するのが、一番の……」


「貴女、今、自分の口で明言しましたね。不良債権であると」


「は、はい……」


「却下します」


「王允は王允であり、貴女は貴女です。連座制などという前時代的で極めて非効率的なシステムは、我が社の人事規定には存在しません」


私は彼女の震える手から短剣を無造作に奪い取ると、暗がりの奥深くへと投げ捨てました。


「それに貂蝉。貴女は私の家族です。私が莫大な資本を投じて鍛え上げ、私が手塩にかけて育て、私が最後の最後まで使い潰すと決めた、大切な家族なのです。経営トップの決裁なく、勝手に自身の命を償却処理しないでください」


「……家族」


見開かれた瞳から、大粒の真珠のような涙がとめどなく溢れ落ちます。


「私のような、裏切り者の血を引く者を……家族と……?」


「ええ。ただし、感動的な美談で終わらせるつもりは毛頭ありません」


「ここで貴女に勝手に死なれてしまえば、今日という日まで貴女というアセットに費やしてきた膨大な教育コスト、食費、衣料費、最新の武具代、高度な医療費、そして大量に消費したプロテイン代に至るまで、その全てが完全に回収不能に陥ります。ROIの観点から見て、最悪の結末です。私が投資分をきっちりと回収し終わるまでは、貴女の勝手な自己破産申請など断じて認めません」


切り替えが早くて非常に便利な仕様ですね、この娘は。


「……ピキッ」


「やっぱりそういう結論に行き着きますのね!!感動して損しましたわ!!家族とか温かい言葉を並べながら、最後はきっちりとそろばんを弾き直すんですもの!」


「当然の危機管理でしょう。組織のトップに立つ経営者にとって、ウェットな感情とドライな計算は不可分な両輪なのですから」


「いや、こういう極限状況では普通、もうちょっと感情寄りの対応になりません!?」


「なりません。ですが、貴女が私の保護下にある家族であるという事実に、一切の偽りはありません」


「だからもう二度と、このような無価値な自傷行為は実行しないように。貴女が父親の負債を不当に背負い込む法的義務はどこにもありません。もしどうしても何かを背負いたいと渇望するのなら、今まで通り、私の提示する無理難題だけを背負いなさい」


貂蝉は赤くなった鼻を微かにすすりながら、ひどく悔しそうに、しかし確かな生気を取り戻した様子で唇を強く噛み締めました。


「……はい。完全に理解いたしました。いいでしょう、その天文学的な負債、私の労働力で一文残らず返済して差し上げます!そしていつの日か、絶対に貴女を純粋な物理的暴力で打ち倒し、完全な自由を勝ち取ってやるんですから!」


「ええ、極めて素晴らしい向上心です。貴女からの敵対的TOBを、心よりお待ちしておりますよ」


「そのビジネスライクな例え方、本当に腹が立ちますわね!」


彼女の生存を確定させた後、私はようやく本堂のさらなる深淵へと視線を滑らせました。


全身に無数の矢が突き刺さり、痛々しい針山の如き有様を晒す大男。

彼から常に発散されていた、周囲の酸素を奪うほどの圧倒的な熱量は、すでに八割近くが失われています。

私の最強の矛たる、奉先です。


私は血溜まりの中へ崩れ落ちるように膝を突きました。

今まで完璧に回っていたはずの思考回路が完全に停止し、頭の中が真っ白に染まります。


傷の数が多すぎる。

肩、腕、脇腹、腿。


致命傷を外しているのは、彼が背後の子供たちを庇うため、意図的に肉体で矢を受け止めたからです。

そんな理屈や分析など、今の私にはどうでもよかった。


ただ、彼の体から大切な命の熱がとめどなく流れ出ているという事実だけが、私の心を滅多刺しにします。


「奉先」


「ぐうう……」


漏れ出した声は、ひどく掠れて弱々しいものでした。


「李司……か。迎えに、来てくれたのか……。遅ぇよ……」


「喋らないで……っ!お願いだから、今は喋らないで……!」


「もう……ダメだ……。目の前が……完全に真っ暗だ……」


私は無我夢中で、血で濡れた彼の手を両手で強く握り締めました。

熱い。


でも、その熱が今にも指先からすり抜けて消えてしまいそうで。

脈が、恐ろしいほど弱々しくて、今にも永遠に止まってしまいそうで。


「嫌……嫌よ、奉先!お願い、目を開けて!こんなところで、私を置いていかないで……っ!」


「はは……いかにも、お前らしい強引な言い回しだな……」


「また……お前と……本気で、戦いたかった……な……。あの双頭戟が空を裂く……風切り音が……ひどく恋しいぜ……」


「奉先!!」


胸の奥が引き裂かれるように痛い。

苦しい。

息ができない。


どうして。どうしてこんなことに。

彼を永遠に失うという絶望的な恐怖だけで、気が狂いそうでした。


「死なないで……っ!嫌よ、嫌……!私には、まだ貴方が必要なの……!まだ、貴方の子を一人しか産んでいないのに……っ!こんなの、こんなのって……!」


視界が完全に涙で滲んで、大好きな彼の顔が見えません。

自分がどれほど無様な声で泣きじゃくっているのか、自分の感情がどうなってしまったのか、そんな客観的な自己分析すら、もはや今の私には一切できませんでした。


「まだ……っ、ちゃんと、貴方に『愛してる』って……言ってないのに……っ!!」


その直後。

奉先の太い首が、糸が切れたようにがくりと崩れ落ちました。


終わった。

目の前の世界が、音を立てて完全に崩れ去っていく。


「奉先ーーーーッ!!」


自分でも信じられないような、獣のような悲痛な叫びが喉を裂きました。

彼の上に縋り付き、なりふり構わず声を上げて激しく泣き叫びます。


「私の最高峰の物理資産がああああ!!」


すると。


「…………はら、減った」


「……はい?」


「猛烈に腹が減った。飯……干し肉とか……持ってないか?極度のエネルギー切れで……もう一歩も動けん……。あと、全身に刺さってるこの矢、チクチクして最高に邪魔だからさっさと抜いてくれ」


頬を濡らしていた液体を、指先で冷静に拭い去りました。

涙液の排出処理、完了。


不要な感情モードを強制終了。

冷徹なる演算モード、再起動。


「………………」


「孟徳」


「お、おう」


「この男はここに廃棄して帰還しましょう。ただの深刻なカロリー不足です。私の絶望と損失計上予測を狂わせるなど、極めて紛らわしい」


「絶対にダメだろ!!見捨てるな!!どう見ても瀕死の重傷である事実は微塵も変わっていないだろ!お前のその異常な情緒の切り替え速度、一体どういう構造になってんだよ!!」


「郭嘉。緊急用の兵糧を」


「はっ。直ちに」


郭嘉が状況の落差を妙に楽しむような足取りで干し肉の束を取り出すと、それを奉先の大きな口へ片端から無造作に放り込み始めました。


これはもはや医療行為ではなく、完全な給餌です。

極度の空腹に陥った大型犬と何ら変わりありません。


「むしゃ……むしゃ……うめぇ!!急速に生き返る!!すり減った筋肉の隅々にまで、良質なアミノ酸が染み渡るのがわかるぜ!!」


「本当に物理的に生き返りやがったぞ、この化け物……」


「このような極限の非常事態に、原因がただの燃料切れって……。私、つい数分前までこの方のために本気で取り乱して泣き叫んでいた己の感情が、最高に馬鹿みたいに思えてきません?」


「いいえ、泣き叫んでいたのではなく、完全に獣のように慟哭していましたよ」


「それを事実として指摘しないでください!」


奉先は顎を動かして干し肉を咀嚼しながら、無邪気な瞳で私を見上げました。


「李司、お前も一つ食うか?ここの干し肉、塩加減が案外悪くねえぞ」


「結構です」


「今回の件で発生した高額な治療費、および先程消費した莫大な食費は、全額、来月の貴方の歩合給から容赦なく天引きしておきますので」


「ええー!?命懸けで戦って子供たちを守り抜いて、その結果として腹を減らしただけなのに!?」


「圧倒的に燃費が悪い貴方の燃焼機関に責任があります」


「あんまりな理不尽だ!」


「企業の経営というものは、根本的に理不尽で構成されているのです」


的確な手順で彼に突き刺さった矢を抜き払い、迅速に止血処理を施していきます。


貂蝉と陳宮を即席の医療スタッフとして動員し応急処置のタスクを並行処理させつつ、子供たちの精神状態のモニタリング、安全な逃走ルートの再計算、敵増援による追撃リスクの算定など、膨大なタスクを同時進行で処理していきます。


極めて多忙です。

ですが、脳のメモリを完全に使い切るほど忙しい方が、先程のような余計なバグ的感情に支配されずに済むため、私としては都合が良いのです。


「陳宮」


「はい」


「想像以上に使えますね、貴方は。今この瞬間をもって、我が社への仮採用を決定します」


「光栄の至りです。ですが、本音を言えばあまり嬉しさを感じませんね。その有難い採用通知、生存率が著しく低い命がけで手渡されておりますので」


「実戦の極限状態で機能しない無能な人材に、安易に内定を出すほど、私の人事考課は甘くありませんよ」


「そのブラックな企業体質は、この短時間で重々理解いたしました」


曹昂は長兄として必死に強がっていますが、顔色は未だ蒼白です。

袁譚は震える唇を噛み締め、恐怖の涙を必死に堪えています。


董白はなぜか異常なまでの回復力で元気を取り戻しており、玲綺に至っては奉先の砕けた鎧の破片を新たな玩具にしようと画策し、貂蝉に慌てて没収されていました。


本当に精神的耐久値の高い、強い子たちです。


「本社へ帰還します」


「はい。今度こそ絶対に、我が陣営の資産は誰一人として奪わせません」


「ええ。その意志の通りに実行しなさい」











あの激戦から、数ヶ月の月日が流れました。

許昌は、新たな都として、異常なほどの活気と、計算し尽くされた安定した日常のサイクルを回し始めています。


天子という絶対的なアイコンを擁しているだけで、都市のブランド価値が暴騰するのですから、世の権威主義というシステムは本当に面倒で非合理的です。


ですが、マーケティングにおける利用価値が極めて高いのもまた事実ですので、この看板は骨の髄まで最大限に活用させていただきます。


呂布は医学の常識を根底から覆す驚異的な細胞分裂速度を見せ、肉体機能をほぼ完全に修復させました。


到底、同じ人類の治癒速度とは思えません。

あれほど全身に風穴を開けられていたというのに、現在では早朝から玲綺を背中に括りつけ、自重スクワットを日課としてこなしています。


次世代への育児と、自身の筋力トレーニングの合理的融合というわけですね。

視覚的には極めて暑苦しいことこの上ないですが、彼本人の幸福度パラメーターはカンストしているようなので放置します。


孟徳は帝を奉戴したことでCEOとしての自覚が芽生えたのか妙に張り切っており、郭嘉と程昱、荀彧などは相変わらず、重要な決裁書類を彼を飛び越えて私に直接持ち込んできます。


企業組織図のガバナンスとしては少々異常な状態ですが、意思決定の処理速度という点においてはこれが最も最適化されたフローです。


陳宮も過酷な試用期間を経て、正式に我が社へジョインしました。

入社当初こそ私に対して強い警戒心を抱いていましたが、彼を奉先専属の暴走制御コンサルタントというポジションに配置したところ、予想以上に精神的安定を見せました。


「血も涙もない李司様直属で精神をすり減らすより、脳筋の呂布将軍の物理的な手綱を握って振り回される方が、まだ人間的なストレスで済みます」


彼がポロリとこぼした本音を耳にしましたので、人事評価シートの特記事項に『極めて正直者』と記載しておきました。








「ふぅ……」


「天子を奉戴し、これで天下に号令をかける大義名分は完全に我らの手にある、というわけだ。優秀な公台も正式にこっちへ参加してくれたし、我が社……いや、我が陣営の時価総額は順調に右肩上がりだ。いやあ、実にいい事業だな」


「そうですね。これまでの自転車操業を脱し、ようやく堅実な中長期の成長曲線を描くことができます」


「それにしても、お前があの時本気でブチギレて、単騎で長安の方角へ突っ走っていった時は、一体どうなることかと思ったぞ。まさに世界の終わりのような、恐ろしい顔をしてたからな」


「世界の終わりなどという非科学的なものではありません。私の保有する中核資産が、深刻な毀損の危機に瀕していただけです」


「ほら見ろ、そうやってすぐに冷酷な守銭奴の顔に戻る」


「紛れもない客観的事実を述べているまでですが」


私たちの不毛な雑談を遮るように、茶を運んできたのは貂蝉でした。

あの日の深い傷はすでに完治していますが、彼女の纏う空気が以前とは少しだけ変質しています。


持ち前の荒々しさや刺々しさが摩耗したわけではありません。

むしろ、精神の根底に絶対に折れない強靭な芯が、新たに一本打ち込まれたような重厚感があります。


そして彼女の背後には、まるで所有権を主張するかのように、当然の顔をして奉先がぴったりと追随してきます。


野生の大型犬どころか、もはや完全に飼い慣らされた筋肉質の忠犬です。


「奉先様。私の背後で少し、じっとしていてくださいな」


「なんでだよ。お茶を運ぶ程度の単純作業なら、俺も十分に手伝えるぞ」


「貴方がその規格外の力で急須を持つと、過剰な握力によって陶器の取っ手が物理的に粉砕されるからですわ」


「なるほど、そうか!」


そんな物理法則のバグみたいな理由で、あっさりと納得しないでほしいですね。


貂蝉は優雅な所作で卓上に茶器を配置すると、それから少しだけ、柄にもなく頬を朱に染めてこちらを見つめました。


「李司様、孟徳様。本日はお二人に、極めて大切な事業報告があるのです」


「事業報告だと?」


孟徳が不思議そうに首を傾げ、私は目を通していた帳簿から視線を完全に引き上げました。


貂蝉がこのような神妙な前置きをするケースは、過去の統計上、甚大な被害をもたらすろくでもない報告か、あるいは莫大な利益をもたらす非常に喜ばしい報告かの、極端な二択に絞られます。


「私……」


「この度、奉先様の子を身籠りました。あの激戦の直前に、ほんの少しだけ……就業規則およびコンプライアンスの枠組みから、意図的に外れてしまいまして」


コンマ数秒のラグを置いて、事態を把握した奉先が両目を限界まで見開きました。


「本当か!!」


執務室の窓ガラスが、物理的な衝撃波でビリビリと震えました。


「俺と、お前の血を引く子か!?やったぞ!!聞いたか李司!俺の二人目の子だぞ!!」


「ええ、誠におめでとうございます」


私は自身の強張っていた口元が、自然なアーチを描いて緩んでいくのを感じました。

これは非常に素晴らしい報告です。

極めて良質な、次世代アセットの獲得。


「貂蝉、我が社における見事な大金星です。貴女の持つ強靭でしなやかな身体能力と、奉先の常軌を逸した規格外の武力。この二つの極めて優秀な遺伝子を戦略的に掛け合わせれば、間違いなく前例のない高出力のサラブレッドが産出されますね」


「うわ、こんなおめでたい報告の第一声が、その徹底した品種改良目線かよ」


孟徳が心底呆れたようにツッコミを入れますが、私はただ客観的な事実と期待値を述べているに過ぎません。


「ガハハ!絶対にバカつええに決まってるぞ!生まれたその日のうちから、徹底的に腕立て伏せを叩き込んでやる!」


「即座にやめなさい。人体構造上、まずは首が完全に座るのを待つフェーズからです」


「なるほど、じゃあ首がしっかり座った翌日から、全力のスクワット開始だな!」


「そのフェーズでの一般的な推奨アクションは、愛情を込めた抱っこですわ」


貂蝉が極めて微妙な表情を浮かべ、まだ平らな腹部へとそっと両手を当てました。


「……あの、私個人のささやかな感情としては、もう少しだけ、世間一般の人間らしい普通の祝福のされ方を期待していたのですが」


「私は今、最大級の賛辞をもって十分に祝福していますよ」


「なんで未来の損益分岐点を予測するような、冷たい計算式みたいな祝福なんですの!?」


「不服ならば表現を修正しましょう。本当におめでとうございます、貂蝉。これ以降の徹底した母体管理と、出産後の緻密なエリート教育計画は、この私が全責任をもって策定・実行いたします」


「その無機質なプロジェクト管理宣言も、普通の母親からしたら十分にホラーですわ!」


奉先が満面の笑みを浮かべ、私の方へと顔を向けました。


「なあ李司、もし生まれてくるのが男だったら、間違いなく俺の立派な跡継ぎになるよな!?」


「ええ。貴方の正統な後継者であり、我が陣営の次世代を担う武力の絶対的象徴として、細胞レベルから徹底的に仕込み上げます。もし女の子であった場合は、私と貂蝉のプロデュースにより、『世界最強の美女(物理)』として完璧に育て上げましょう」


「いや、その不穏な物理っていう注釈をつけるのはやめておけよ。頼むからもう少し、普通の感性で育ててやってくれよ」


孟徳の常識的な突っ込みはごもっともですが、残念ながら我が陣営という特殊環境下において、世間一般の『普通』の枠組みで育つような凡庸な子供など、ただの一人も存在し得ません。


「これは即急に、新規アセット用の専用教育プログラムの策定に取り掛からねばなりませんね。乳幼児期からの高度な握力強化訓練、絶対的な体幹の形成、冷徹な判断力を養う情緒教育、そして何より、複雑な数字や財務諸表への抵抗感の完全な除去――」


「ちょっと待ってくださいな」


貂蝉が真剣な顔つきで、私の壮大なカリキュラム案に割り込みました。


「この子は絶対に、李司様のような血も涙も枯れ果てた、計算高い守銭奴には育てません。人の温もりを知るよう、愛情たっぷりに育て上げます」


「それは極めて残念な方針ですね。冷徹な商才とシビアなコスト意識は、この血で血を洗う不合理な乱世を生き残るための、最も重要な必須スキルですよ?」


「そんな殺伐としたスキルは、もっと成長してから後付けで教え込めばいいんです!土台としてまず必要なのは、温かい人の心ですわ!」


「非情な決断を下すべき経営者にとって、感情などというものは判断を鈍らせるだけの致命的なバグ――」


「バグではありませんわ!」


「……まあ、実の母親の情操的見地からの意見も、一理あるとは認めておきましょう」


産出予定である超優良な新規資産の品質に、深刻な悪影響が出ては本末転倒ですから。


「ですが、譲歩するにしても、最低限の高度な会計感覚と損益計算の概念だけは、幼少期から脳髄に深く刷り込んでおいてください。価値ある金貨や資産が入った財布を、道端に落ちている無価値な石ころと同列に扱うようなコスト意識の欠如した子供は、将来の幹部候補として全く使い物になりません」


「その点に関しては、全面的に同意いたしますわ」


「そこはすんなり同意するんだな、お前ら……」


孟徳が呆れと諦めが入り混じったような苦笑いを漏らします。

彼はこういう特殊な会話に巻き込まれるたび、自分自身の『常識』の基準値が少しずつ、しかし確実に異常な方向へと揺らぎ始めているという事実に、まだ気づいていないようです。


それからしばらくの時間が経過し、奉先の身体に開いていた無数の風穴が完全に塞がり、貂蝉の初期のつわり症状も安定期へと向かい始めた頃。


私は会社の更なる規模拡大のため、次なる大規模な人事異動と新規プロジェクトの立ち上げを決裁しました。

ターゲットは、徐州です。


「あの一帯は大陸全土をつなぐ巨大な物流の要衝であり、未開拓のまま放置しておくにはあまりに惜しい、莫大な利益を生む潜在的優良市場です」


「現在、あの人面獣心とも呼べる胡散臭い詐欺師――劉備が、現地の最高責任者として図々しく居座っていますが、あの男の増長をこのまま野放しにすれば、後々になって必ず我が社のシェアを脅かす面倒な負債へと成長します。そこで、病み上がりのなまった身体のリハビリテーションも兼ねて、奉先に現地への長期出張を命じます」


「おう!俺は命令とあらば、どこへでも飛んで行くぞ!」


奉先は今日も有り余るほどの元気です。

本当に、恐ろしいほどの元気さです。


何なら、全身に数十本の矢を浴びる前よりも、基礎パラメーターが底上げされている気さえします。

燃費の悪さは相変わらず最悪の部類ですが、それを補って余りある耐久性と出力は、まさに異常の一言に尽きます。


「貴方の目的地は『徐州』です。表向きは客将として潜り込み、劉備の不穏な動向を24時間監視。そして隙あらば容赦なく物理的・政治的圧力をかけ、徐州全土に我が陣営の経営権が及ぶよう、盤石な下地を構築してきなさい」


「要するに、あの耳のデカい得体の知れない野郎を徹底的にビビらせて、徐州という会社ごと、力尽くで丸ごと乗っ取っちまえばいいって話だな!」


「概ね、その極めて暴力的な解釈で構いません」


「お前ら、経営戦略の合意形成がいくらなんでも雑すぎないか!?」


「やれやれ……。我が社に入社して早々、会社そのものを揺るがすような特大の炎上案件に派遣されるとは」


「その過酷な労働環境が嫌なら、今すぐ自主退職の道を選びますか?」


「いいえ。理不尽の極みである李司様直属で日々胃粘膜をすり減らすより、呂布将軍という極めて単細胞で扱いやすい猛獣の現場監督を務めている方が、私個人の戦術的裁量を自由に活かすことができますので」


「おい公台!扱いやすい猛獣って、俺のことか!」


「ええ。将軍の素直さを、最大限の賛辞をもって褒め称えているのですよ」


「なるほど、そうか!なら許す!」


「それ、本当に褒め言葉として受け取っていいやつなのか……?」


陳宮は孟徳の突っ込みを綺麗にスルーし、極めて真面目な顔つきのまま戦略的分析を続けます。


「とはいえ、徐州で相対する最大の障害は、あの劉備です。単純に正面からの圧倒的な武力だけで、綺麗に片付くような底の浅い男ではありません。表向きのパッケージは民を思いやる仁君を装いながら、その内側には底なしの強欲を隠し持ち、なぜか周囲からはカルト的な妙な人望を集めている。ああいうタチの悪い手合いは、物理的に叩き潰すより先に、盤面上でどう追い込んでいくか、その緻密な法務的・政治的設計から入る必要があります」


「見事な現状分析能力です。さすがですね、公台」


「だからこそ、その厄介な盤面を制圧するために、貴方を奉先の専属サポートとしてつけるのです。奉先は圧倒的な暴力による圧力担当、貴方はその暴力の方向性を定める制御担当。我が社が誇る、完璧な適材適所の采配ですね」


「現場の私にも、非常にタスクの境界線がわかりやすい役割分担で助かります」


「小難しい理屈や計略は、全部公台の頭脳に丸投げして任せる!俺はただ、目の前の障害を全力で殴り飛ばすだけだ!」


「将軍のそのブレない『いつも通り』のシンプルな思考回路に、今は心底安心いたしました」


そして迎えた、出張部隊が出立する前夜。


「全員、直ちに静粛にしなさい」


私が絶対的な権力者としての一言を落とすと、一応は全員の動作がピタリと停止します。

停止はしますが、たった三秒後にはリミッターが解除され、また全く別の方向性で新しい騒音を生み出し始めました。


子供という未完成な生命体は、本当に予測不能なノイズの塊です。

ですが、将来的に巨大な利益を生み出す『極めて価値のあるノイズ』でもあるため、システム的に完全消音して排除するわけにもいかないのが、教育の厄介なところです。


「母上!」


曹昂が、妙に自信に満ちた生意気な笑顔を浮かべて、勢いよく手を挙げました。


「無敵の奉先叔父上が徐州という最前線に行くのなら、俺も同行して実戦を経験したいです!」


「即座に却下します。貴方はまだ、基礎的な財務帳簿の文字すら雑で読みづらいレベルですし、肝心の剣の振りも実戦に耐えうるものではなく甘すぎる。死と隣り合わせの戦場というハードな現場に出るには、貴方自身への教育的投資額が全く足りていません」


「えー、そんなの厳しいよ!」


すると、今度は袁譚が負けじと前へ進み出てアピールを始めました。


「じゃあ、成績優秀な僕が行く!僕は今日だって、木剣の素振りを千回もやったんだから!」


「事実確認を行います。本当に、厳密なカウントで千回やったのですか?」


「……えっと、正確には八百九十七回くらい、かも」


「自己申告の数字を意図的にごまかすような人間は、ビジネスにおいても戦場においても信用されません」


「うっ……ごめんなさい」


幼い董白は、そんな無能な兄二人のプレゼン合戦など完全にどうでもいいらしく、太い丸太のような奉先の脚に力強くしがみついたまま、決して離れようとしません。


玲綺は玲綺で、自分も精鋭部隊の主力として同行する気満々の様子で、特注の小さな木剣を危なっかしく振り回して自己主張しています。


「おとう、わたしも、いく!」


「おおお玲綺ぃ、お前のその熱い気持ちは最高に嬉しいがな!」


奉先が、あの天下を震え上がらせる鬼神とは思えないほど、だらしなく目尻を下げています。

戦鬼の面影は消え失せ、そこにいるのは完全に一人の『親バカな父親』の顔でした。


私の敬愛する恩人であり、絶対的なボスであった董相国がもし今も生きていれば、この光景を見てたぶん「ガハハ!まるで俺の孫みたいで、目の中に入れても痛くないほど可愛いのう!」と、豪快に笑い飛ばしていたことでしょうね。


失われた巨大な資産を思い出し、少しだけ、胸の奥の古い傷が鈍く痛みます。

ですがその感傷的な痛みも、現在の私の冷徹な業務遂行を妨げるノイズにはしません。


「奉先」


「おう?なんだ?」


「くれぐれも言っておきますが、出張先の徐州では、分別を忘れて子供みたいに見境なく暴れ回らないでください。騒がしい子供は、今ここにある在庫だけで十分に供給過多です」


「俺を信じろ!俺はこう見えても、分別のある立派な大人だぞ!」


「真夜中の酒場で突然重い机を担ぎ上げ、高笑いしながら腕立て伏せを始めるような人間は、一般社会のコンプライアンスにおいては確実に問題視される異常な大人です」


「あれは違うだろ!酒場の客どもが俺に向かって、ぜひとも自慢の力を見せてくれって熱烈に煽ってきたから応えてやっただけだ!」


「誰もそんなこと本気で要求していません。場を盛り上げるための、ただの空虚な社交辞令です」


横でやり取りを聞いていた孟徳が、たまらず吹き出しました。


「ははっ。奉先、お前、戦闘に関しては天才的だが、社会的な文脈を読むことに関してはたまに本当に素直すぎるんだよ」


「孟徳様も、他人の失態を無邪気に笑っている場合ではありませんわよ」


貂蝉がすかさず、鋭い言葉の刃で孟徳の脇腹を容赦なく刺しにいきます。


「この間の朝議の際だって、畏れ多くも帝の御前で、あろうことか俺もたまには有給休暇が欲しいなどと不用意に口走っていたでしょう。よりにもよって、人事と労務の全権を握る李司様の目の前で」


「うっ、それは……」


「ええ、全く問題ありませんよ孟徳。貴方のその怠惰な発言は、私の人事ファイルに一言一句違わずきちんと記録済みです。次回のボーナス査定に、マイナス評価として厳密に反映させておきますので」


「だからなんでお前は、そういう他人の不利益を宣告する時だけ、そんな満面の笑顔になるんだよ!」


郭嘉は部屋の隅で酒杯を傾けながら、面白くて仕方がないというように肩を震わせて笑いを堪えています。


彼は本当に、こうした殺伐とした家族会議めいた日常の修羅場を、エンターテインメントとして消費する悪癖がありますね。


一方の程昱は、「なんという騒がしく非効率な空間だ……」とあからさまに顔に書きながらも、混乱に乗じていつの間にか、奉先が使用する遠征用兵站表の数値を、より最適なものへと無言で補正し終えていました。


文句を言いながらも実務は完璧にこなす。極めて有能なアセットです。


「李司様」


貂蝉が先程までの刺々しい態度を収め、少しだけ真面目な、懸念を帯びた顔つきへと変化しました。


「徐州という危険な火薬庫へ奉先様を送り出すのは、やはり、情勢的に見て今このタイミングしかありませんのね?」


「ええ、市場の好機は待ってくれません。それに、これ以上彼を平和な許昌に留め置いても、無尽蔵の体力を持て余した結果として、我が家の高価な庭木と堅牢な塀の数が物理的に減っていくだけですから」


「庭木と塀が減るって、一体どういうことですの?」


「過去のトレーニングによる破壊のデータとして、確かな実績が存在します」


私の指摘を受け、奉先が気まずそうにスッと目を逸らしました。

見事なまでの図星ですね。


「それに」


「貴女はこれから出産を終えるまでの期間、攻撃的なフロントラインから退き、後方の『守る側』へと自身のポジションを少しシフトしなさい。今まで通りのリスクの高い前線に出られて万が一のことがあっては、私が多大な損失を被り、非常に困惑します。将来的に私の手駒が増えるのは喜ばしいことですが、現在機能している貴重な手駒が減ることは、絶対に許容できません」


「相変わらず、人を労わる言い回しが致命的に下手くそですわね。はいはい、業務命令として確かに承りましたわ」

死にかけた戦力は復活し、壊れかけた家族はまた騒がしく回り始めました。

そのぶん、今後はさらにろくでもない方向へ強くなっていく気がしています。

呂布と貂蝉の子の未来や、徐州出張編への期待なども含め、ぜひ感想をいただけたら嬉しいです。

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