第二十二話:人事異動と、棒読みの愛
李司が動けば、地方は震える。
蔡文姫が動けば、数式が震える。
そして曹操と袁紹は、泣く。
今回もまた、相国府の監査は極めて順調であった。
「董相国。ではこれから、孟徳が営業所を立ち上げた兗州へ出張してまいります。計算上、今期は孟徳との間に新規アセットを製造する順番ですので」
感心と、若干の引きが五対五で混ざり合った、実に複雑で良い表情です。
「お、おう……。相変わらずよくそう都合よく産めるもんだな。畑の輪作じゃあるまいし、順繰りに種付けされるたぁ、曹操の奴も立派な種馬扱いだな」
「輪作は土壌の疲弊を防ぎます。血族経営においても理屈は同様です。特定銘柄に投資を偏らせるのは、組織運営における致命的なリスクですので」
「言ってることは難しそうなのに、結論だけ聞くと恐ろしいのう……」
恐ろしいかどうかは主観の問題です。
経営において重要なのは、それが合理的かどうかという一点のみでしょう。
私は視線を横にずらし、貂蝉を捉えます。
私の意図を即座に学習したようです。
非常に良い傾向ですね。
「私が不在の間、長安本社の管理は貂蝉に一任します。董白の教育はもちろん、会長が夜の福利厚生をお求めの際は、貂蝉をご指名ください。彼女なら私の代理として十分な耐久性能を誇ります」
こめかみには微かな青筋が脈打ち、彼女の内部で沸騰する怒りのゲージを如実に物語っていました。
「……ピキッ。李司様?私を何だと思っているのですか?私は警備部長であって、夜のコンパニオンではありませんわよ?」
「マルチタスクの訓練です。それに、現場責任者は予期せぬ夜間対応にも常に備えるべきですから」
「予期せぬ夜間対応って言い方で誤魔化さないでくださいまし!」
「さらに奉先。私はしばらくスパーリングの相手ができません。貴方の有り余る体力と性欲は、全て貂蝉のインフラにぶつけなさい。彼女の強靭な筋肉なら受け止めきれます。物理的に」
「は?」
貂蝉の額で、血管がさらに一本弾ける音がした気がしました。
実に元気ですね。
「り、呂布様の相手を昼も夜も!?私の体が粉砕されますわ!!」
奉先は一瞬きょとんとした後、子供のように無邪気で前向きな顔で深く頷きました。
この単純さは管理コストが低くて助かります。
「おう、安心しろ李司!お前がいない間、董相国は俺が守る。貂蝉との手合わせも楽しみだぜ!」
「手合わせの方だけを楽しみにしてくださいね、奉先」
「お、おう?夜の方は違うのか?」
「そこを今ここで深掘りすると貂蝉が泣きますのでやめましょう」
貂蝉は深々とため息をつき、全てを諦めたような表情へと移行します。
理不尽に対する素早い諦観。
それもまた、過酷な現代社会を生き抜くために必要な資質です。
「……承知いたしました。呂布様が暴発して街の固定資産を破壊しないよう、徹底的に管理させていただきますわ」
「期待していますよ。我が陣営のスーパーナニー兼防衛インフラ」
「肩書きがどんどん増えていく……」
次に、私は蔡文姫へと向き直ります。
ただそこに在るだけで周囲の気温を下げるような不気味さ。
非常に便利な特性です。
「蔡文姫」
「はい、李司様」
「貴女は本初の治める冀州へ監査役として派遣します。彼、最近少し経費の使い方がどんぶり勘定になっているようなので、貴女の頭脳で徹底的にコストカットしてきなさい。これで全夫の管理が完了します」
その微笑みが絵画のように美しいからこそ、背筋が凍るほど不吉なのです。
「承知いたしました。袁紹様の治める冀州……無駄な贅肉を削ぎ落とし、数式の具現化にしてまいりますわ。都市設計も、住民の動線も、全て黄金比に基づいた美しき監獄……いえ、ユートピアに再構築してみせます」
「いえ、そこまでの過剰な設備投資は求めていません。ただの帳簿監査と、本初の浮気調査だけで十分です」
「まあ」
「まあ、ではありません。彼が精神崩壊しない程度に手心を加えてくださいよ?」
「善処いたしますわ」
この女の『善処』という言葉ほど信用に値しないものはありません。
ですが現時点では、彼女以外にこの任務を完遂できる適任者が存在しないのも事実。
人材不足というのは、いつの時代も経営者の胃を痛める最大の要因ですね。
「李司殿、これでしばらくは三人……いや、子供たちも入れると賑やかな留守番になるのう」
「ええ。では私は行きます。皆さん、留守中の数値を悪化させないように」
「お前、旅立ちの言葉がそれかよ」
「経営者の愛情表現は数字です」
「たまには花とか詩とかにしてやれ」
「その辺の情緒的なタスクは孟徳に一任していますので」
それでは、と私は手綱を引き絞ります。
貂蝉が最後に、肺の底から空気を絞り出すように言いました。
「はぁ……わかりましたわ。長安のオペレーションは全て私がお引き受けします。子脩、顕思、董白、呂玲綺の育成も、責任を持って行います。李司様が帰還される頃には、全員立派な戦士に仕上げておきますから」
「物理偏重になりすぎないように注意してください」
「もう遅い気がしますわ!」
その懸念は私の中にも確実に存在していますが、今は沈黙を選択します。
組織運営においては、時に見て見ぬふりをする胆力も必要なのです。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、李司様」
「うむ、孟徳をしっかり種馬にしてこい」
「言い方をもう少し考えてください、会長」
そうして私は、冷たい朝の空気を切り裂き、兗州へ向けて馬を駆けさせました。
◆
冀州という土地は、帳簿の数字上では極めて魅力的です。
肥沃な穀倉地帯。
潤沢な人口規模。
名門袁家が築き上げた地盤。
しかし、屋敷の敷居を跨いだ瞬間、私の眉間には深い皺が刻まれました。
美しくありません。
数字の羅列以前に、空間の配置が絶望的に野蛮なのです。
応接間に通されると、袁紹様が満面の笑みで私を迎え入れました。
顔立ちは決して悪くありません。
声もよく通り、領主としての風格は備えています。
けれど、その笑顔の裏に張り付いている「自分は名門だから全て許されるだろう」という根拠のない安心感が透けて見え、私の神経を微かに逆撫でしました。
「おお、君が李司の言っていた新しい監査役か!蔡文姫……噂に違わぬ、儚げで美しい才女と聞いている。よろしく頼むよ。まあ、ここ冀州は平和で豊かだから、肩の力を抜いてのんびりしてくれ」
のんびり。
なんて恐ろしく、反吐が出る言葉でしょう。
それは組織を内側から腐らせる、最も致死率の高い病です。
椅子の角度が悪い。
采配書を置く棚の位置に至っては、歩数計算の観点から完全に非効率の極み。
視界を埋める無駄な空白が多すぎます。
「……袁将軍。大変申し上げにくいのですが、この部屋の家具の配置……全く美しくありませんわ」
「え?」
彼の能天気な笑顔が、石膏のように固まります。
少しだけ可愛いですね。
「いや、これは洛陽の一流の職人に作らせた最高級の……」
「高級かどうかは一切論点ではございません。配置の問題です」
「動線に致命的な無駄があります。風水学的にも、幾何学的にも最悪の部類です。人が一歩歩くたびに、視界と足取りに不協和音が走ります。精神衛生に強烈な悪影響を及ぼしますわ」
「精神衛生?」
「はい。見ているだけで吐き気がいたします」
「そんなに!?」
袁紹様は本気で驚愕しているようです。
無知であることは可哀想ですが、知らなかったという事実が罪を消し去るわけではありません。
「今から全て、修正させていただきますわ」
「待て待て待て!今来たばかりだろう!?」
「来たばかりだからこそ、最初に根本の腐敗を切り裂くのです」
「あとなんで暗器まで出してるんだ!?」
「言語による説得で事態が収拾しない場合に備えてです」
「何が備えだ怖いわ!!」
空間の歪み以上に、数字の歪みは醜悪です。
こちらの方が、家具配置よりも遥かに深刻な癌細胞と言えるでしょう。
「それと、先ほど領内の税制データを全て暗記いたしましたが……複雑怪奇すぎて、再び吐き気がいたします」
「また吐き気!?」
「はい。無駄な中間搾取のパイプが多すぎます。計算式が泥水のように汚いのです」
「いや、それは地元豪族との持ちつ持たれつのアライアンスで……」
「不要です」
「明日より、私が独自に考案した完全対数螺旋課税システムを全土に導入いたします」
「なんだその怖い名前は」
「収入に応じて税率が黄金比で美しく上昇していく、非の打ちどころのない完璧な数式ですわ」
「全然説明になっていない!」
「安心してください。導入後は、誰がどこでどの程度の嘘をつき、いくら横領したか、水面の油のように瞬時に浮き上がります」
「それ、俺が安心する要素がどこにあるんだ?」
「私にとっては極めて安心です」
冀州のトップとして、その程度の精神力で激動の時代を生き抜けるのでしょうか。
少しだけ心配になってきます。
「もし、それに豪族たちが反対したら……?」
「簡単なことですわ」
「絶対簡単じゃないだろうその前振り」
「脱税や反抗を企てた者は、その身体の関節を全て外し、螺旋状にねじ切る刑に処します」
「なんで税制改革の反対者への罰がそんなに芸術寄りなんだ!?」
「人体構造の限界を超える曲線美は、恐怖の植え付けと再発防止に極めて有効な手段です」
「お前、冀州を何だと思ってるんだ!!」
「より美しい組織へと生まれ変わるべき、未完成の地方支店、でしょうか」
「言い方が綺麗なだけでやってることが完全に暴政だぞ!」
この方は本当に観察のしがいがあります。
叫び声のバリエーションは豊かですが、発声に無駄が多い。
もっと腹式呼吸を使えば、喉を痛めずに短い音節で恐怖を表現できるのに。
「……李司!助けてくれ!」
ついに袁紹様は、目の前の私ではなく、遠く離れた長安の李司様へ向けて虚空に悲鳴を上げました。
「なんだこの女は!?物理で殴ってくる貂蝉よりタチが悪いぞ!?数式の悪魔が冀州に来たぁぁ!!」
最高の褒め言葉として、謹んで受け取っておきます。
「恐縮です。監査役として、冷徹に最善を尽くすのみですわ」
「尽くさなくていい!もう十分怖い!」
こうして私は冀州着任初日から、順調に現地責任者の精神を圧迫し、恐怖による支配構造を確立することに成功しました。
素晴らしい滑り出しです。
まずは部屋の家具を全て黄金比に沿って動かし、次に腐った帳簿を焼き払い、その次に豪族たちの顔色を伺いながら税率を再設定しましょう。
美しき監獄の建設には、何よりも強固な基礎工事が不可欠なのです。
「そこの机、三尺右です」
「そんなに動かす必要があるか!?」
「あります。今の位置ですと、朝日が斜めに差し込んだ時、筆の影が帳簿の四行目に重なります。視認性が悪く、何より美しくありません」
「そんな理由で重い机を動かすのか!?」
「そんな理由ではなく、業務効率における致命的な理由です」
皆、最初は私の細腕を見て戸惑っていましたが、手近な机に蛾眉刺を深々と突き立てた瞬間から、一切の無駄口が消え失せました。
非常に良い反応です。
暴力とは、最も伝達速度の速い言語の一種なのですから。
「棚は北側へ。巻物は長さ順ではなく、内容の流線で並べ直します。縦横の比率が揃っていないと、視界に入るたびに脳の処理能力を無駄に消費しますわ」
「内容の流線って何だ!?誰に通じるんだその整理法は!」
「私に通じれば十分です」
「独裁だぁぁ!!」
部屋がある程度美しく整うと、私は次に悪臭を放つ帳簿を広げます。
豪族ごとの税率、徴収率、免除特権、裏口の献納記録。
見れば見るほど醜悪な数字の羅列。
よくこんな泥舟でこれまで経済を回してきたものです。
いえ、回っていたのではなく、ただ惰性で沈没を先延ばしにしていただけでしょう。
「袁将軍」
「な、なんだ」
「この三家、切ってよろしいですか?」
「何をだ!?」
「不当な優遇措置です」
「心臓に悪い言い方をやめろ!」
「では正確に言い換えます。優遇措置を剥奪し、過去の未納分を徹底的に追徴し、支払いを拒否した場合は速やかに関節を外します」
「結局怖いだろ!!」
「大丈夫ですわ。最初に一人だけ見せしめに解体すれば、残りはだいたい恐怖で従います」
「見せしめを前提にプランを組むな!」
「組織運営の基本中の基本です」
「お前の基本が全部重い!」
黄金比を基礎にした、冷酷なまでに美しい階層課税。
これです。
やはり数字は、寸分の狂いもなく整っている状態が最も心地よい。
「袁将軍。ここに判を」
「まだ何の説明も聞いていない!」
「説明のフェーズは終了いたしました」
「終わってない!」
「では極めて簡潔に。今までより取れるところから限界まで搾り取り、余計な横流しを完全に遮断し、私が気持ちよくなるように全体を美しく整えます」
「最後の一文が統治者として完全に終わってるんだが!?」
本当に面白い方です。
ついでに、水面下で浮気調査のトラップも仕掛けておきましょう。
監査役とは、帳簿の数字だけでなく、責任者の下半身の動きも厳密に管理する職務ですから。
「ところで袁将軍」
「今度は何だ……」
「最近、夜の外出が二回ほど増えておりますが、どちらへ?」
「ひっ」
「門番の記録上、北門から出て、東の離れに入っていますわね」
「そ、それはだな、その……星を、見に……」
「お一人で?」
「……」
「その星は、人型をしていますか?」
「してない」
「では虚偽の報告ですね」
「くそっ、長安からの李司の遠隔監査より怖い!」
そうして私は冀州を、少しずつ、しかし確実に私好みの冷酷な計算空間へと染め上げていきます。
責任者の悲鳴が絶えないのは課題ですが、整い始めた数字の羅列を見ると私の心は満たされます。
やはり地方支店とは、一度完全に破壊してから基礎を組み直すのが、最もコストパフォーマンスに優れているのです。
◆
その頃、私はすでに兗州の地を踏んでいました。
孟徳が私の到着予定を甘く見積もり、油断しきっていることは道中の諜報データで完全に掌握済みです。
故に私は三頭の馬を物理的な限界まで酷使し、予定を十五日も前倒しして着任しました。
馬の調達コストは嵩みましたが、コンプライアンス違反を未然に防ぐサプライズ監査の効果は、それを遥かに凌駕します。
「ふふふ……。ここ兗州は本当に良いところだ。長安の李司の厳しい監査の目も届かんし、文若は真面目だが、俺の個人的な経費の使い込みくらいは適当に誤魔化せるしな」
「……曹公。私は誤魔化しているのではなく、後で李司様に報告するために『別帳簿』にプールしているだけですが」
「固いこと言うな!さて、今夜あたり、街の歓楽街へ新規開拓に繰り出して――」
十分です。
処分を下すための証拠音声は揃いました。
私は躊躇なく、執務室の扉を蹴り開けます。
破城槌のような大きな音は、たるみ切った組織への注意喚起として極めて有効ですから。
「げっ!?」
孟徳の顔から笑顔が消失し、一瞬で絶望のどん底へと突き落とされます。
見事な表情の変化ですね。
商売の宣伝文句に使いたいくらいです。
「孟徳」
「り、李司!!?」
「馬を三頭乗り潰し、予定到着時刻より十五日短縮して着任しました」
「そういうところだけ異常な気合いを入れなくていいんだよお前は!」
「久々の再会の挨拶より先に、言い訳から入るおつもりですか?」
「い、いや、ようこそ!長旅ご苦労だったな!元気そうで何よりだ!」
「ありがとうございます」
傍らに控える荀彧はすでに状況を察知し、一切の動揺を見せずに静かに姿勢を正していました。
優秀ですね。
この男の絶対的なスルースキルは、組織を回すための極上の潤滑油です。
「孟徳」
「な、なんだ」
「貴方に伝えるべき台詞を、あらかじめ木簡に準備してきました」
「えっ、珍しいな」
「『孟徳。貴方に会いたくて、夜も眠れませんでした。愛していますよ』」
孟徳の身体が重力に負けたように傾き、豪奢な執務椅子から無様に滑り落ちそうになりました。
「ズコーッ!!心が一ミリもこもってない!!」
「そうでしょうか」
「そうだよ!目が完全に死んでるぞ!『愛しています』のイントネーションが『未払い金の請求書を渡します』と全く同じトーンなんだよ!」
「意味の伝達としては成功したでしょう?」
「伝わったけど!こっちの脳内処理がエラーを起こしてるんだ!」
「些細なバグは気にしないでください」
私は木簡を閉じます。
「さて、愛の確認プロセスは完了しましたね。次は本題の『生産活動』に移行します」
「えっ?」
「私の基礎体温と排卵サイクル、そして貴方の現在のバイタルデータを掛け合わせると、今から四十五分後に行為を完了させるのが、受胎確率の最も高い最適解となります。さあ、一刻も早く服を脱いでください。無駄な手順は全て省略します」
顔面が蒼白ですね。
「ちょ、ちょっと待て李司!今すぐ!?真昼間だぞ!?」
「昼夜の区別は問題ではありません。データ上、排卵のタイミングと精子の質の方が遥かに重要です」
「ムードとか!前戯とか!せめて愛の詩を朗読させてくれ!!俺のロマンと性癖を大事にしてくれぇぇ!!」
「その稟議は即時却下です」
「貴方の優秀な遺伝子を確保し、次世代のアセットを製造するのが私の今期のトッププライオリティです。ロマンや詩の朗読で受精卵の細胞分裂が促進されるわけではありません」
「言い方!!もっとこう、夫婦っぽい甘い雰囲気を出せ!」
「では要求に従い修正します」
私は少しだけ声のトーンを上げ、ピッチを調整します。
「孟徳、愛しています。だから早く脱ぎなさい」
「怖いわ!!」
「何が不満なのですか」
「全部だよ!」
その横で、荀彧が静かに耳栓を取り出し、耳の穴を塞ぎました。
実に素晴らしい判断力です。
「助けてくれ文若ーーッ!!俺は種馬じゃないーーッ!!」
荀彧は視線すら上げません。
「……私は何も見えませんし、何も聞こえません。曹家のご繁栄と、時価総額の向上を、心よりお祈り申し上げます」
「文若まで俺を裏切った!!」
「裏切っていません。彼は最初から会社側の人間です」
「最悪の構図だ!」
抵抗はしますが、力の入れ方の効率は私の方が上ですので何の問題もありません。
「さあ、時間がもったいないです。文若、午後の決裁は一刻後に回すように」
「承知いたしました」
「ちょっと待て!回すな!止めろ!」
「それと」
「孟徳が今後、歓楽街の方向に足を向けようとした場合は即時報告を。必要であれば、城壁上からの狙撃による威嚇射撃も許可します」
「すでに貂蝉殿から、運用実績のデータと報告書を受領しております」
「最悪の連携体制だな本当に!」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「誰も褒めてない!!」
その後の具体的な行為については、重大な業務上の機密事項に該当しますので詳述は避けます。
会社にも守秘義務は存在しますから。
ですが一つだけ明確な事実を述べるなら、孟徳の掲げるロマンは今回もまた、圧倒的な業務効率の前に完全敗北を喫したということです。
夕刻。
荀彧が新たな稟議書の束を持参した時、孟徳は精根尽き果てた様子で机に突っ伏していました。
顔は死人のようでしたが、未来の資産形成というマクロな観点から見れば何の問題もありません。
むしろ計画は順調そのものです。
「曹公、大丈夫ですか」
「大丈夫に見えるか……?」
「いいえ、全く」
「文若……俺はもう少し、夫婦ならではの情緒というものを期待していたんだ……」
「李司様にそのようなものを期待すること自体が、そもそもの見積もりミスかと存じます」
「正論で俺の傷口を刺すな……」
「では、こちらの書類に押印を」
「今かよ……」
「今です」
冀州でも、そしてこの兗州でも、人材は順調に悲鳴を上げています。
非常に健全な状態ですね。
悲鳴が上がるうちは、組織の部品はまだ壊れきっていませんから。
私は荀彧が提出した別帳簿を机いっぱいに広げます。
彼は本当に良い仕事をします。
真面目で優秀な人材は、放っておいても不正の証拠をきれいに積み上げてくれるので非常に便利です。
「孟徳。この支出は何ですか」
「……何って、へそくり」
「業務外資金ですね」
「そうとも言う」
「そしてこちらの名目は?」
「接待交際費」
「歓楽街での散財予定が、接待ですか?」
「将来の有益な人脈づくりという建前で」
「建前の構築が雑すぎます」
証拠の木簡を一枚抜き出します。
「文若、こちらの金額を本会計へ組み戻し、規定のペナルティ額を上乗せして徴収してください」
「承知いたしました。会計の科目名はどう設定いたしましょうか」
「『夢見がちな浪費』で」
「やめろ!!そんな情けない項目で歴史の帳簿に残されたくない!」
「では『私的流用・下半身由来』に変更しますか?」
「もっと嫌だ!!」
荀彧が顔色一つ変えずに、淡々と木簡に墨を入れていきます。
良いですね。
この男のプロ意識は高く評価できます。
「曹公。李司様、こちらの妓楼の名簿についてもご確認を」
「文若、お前一体どこまで情報を集めてるんだ」
「業務の一環ですので」
「業務の範囲が広すぎる……」
名簿に目を通し、軽く眉を寄せます。
「随分と数が多いですね」
「まだ実行前だ!ただの予定表だ!俺の夢だ!」
「夢を見るのにもコストはかかります」
「夢にまで課税するな!」
「素晴らしいアイデアですね」
「採用するな!」
私が少しだけ微笑むと、孟徳が露骨に嫌な顔をしました。
学習効果が表れていますね。
「安心してください。今回は実行前なので未遂扱いとして処理します」
「未遂にも扱いがあるのか……」
「もちろんです。次に実行フェーズに移った場合は、貂蝉による威嚇射撃の距離を十尺縮めます」
「人事罰より先に物理的な脅威が来るの、怖すぎるだろ」
「抑止力としては極めて優秀なソリューションですから」
「孟徳。私は別に、貴方の楽しみを全て奪い取るつもりはありません」
「珍しい。たまには優しいことを言うじゃないか」
「ええ。ただし、私の完全な管理下で、私の描いた計画に沿って、私が許可した範囲内においてのみ楽しみなさいと言っているだけです」
「結局全部お前の掌の上じゃないか!」
「経営とはそういうものです」
「夫婦でやることじゃない!」
「夫婦だからこそ、徹底的なリスクヘッジが必要なのです」
完全に言い返せなくなった孟徳が、ゴツンと机に額を打ちつけました。
そのすぐ横から、荀彧が静かに新しい木簡を差し出します。
「曹公、黄巾残党の再雇用計画案の決裁です」
「今か……」
「今です」
「お前ら二人、息がぴったり合いすぎてて怖いんだが」
「管理効率を最大化する上で、呼吸を合わせるのは当然のプロセスでしょう」
「そこも夫婦っぽくないんだよなあ……」
「また生産性のないロマンの話ですか?」
「そうだよ!!」
組織のモチベーション管理において、たまには歩み寄りも必要不可欠でしょう。
「では今夜、この書類を十件片付けたら、五分だけ貴方の自作の詩を聞いてあげます」
孟徳の顔に、光が差したように明るさが戻りました。
この単純さは本当に助かります。
「本当か!?」
「ええ。ただし厳格に五分間です。それ以上の延長は私の睡眠時間と、明日の精子品質に悪影響が出ますので」
「最後の一言で全部台無しなんだよお前は!!」
地方支店の再編は順調です。
そのぶん責任者の精神状態は順調ではありません。
今回の監査回でお気に入りのやり取りや、蔡文姫・李司それぞれの怖さについて感想をいただけたら嬉しいです。




