第十六話:連環の計(不発)と、爆誕! 筋肉貂蝉~(前編)
王允は完璧な計画を立てた。
美女を使い
英雄を誘惑し
董卓政権を崩壊させる。
ただ一つだけ、誤算があった。
相手が筋肉バカだったことだ。
私たちの前に立っているのは、董卓の知恵袋であり、実務担当のトップを務める李儒である。
私の要求する膨大な書類作成と、董卓の突発的な筋肉アピールに挟まれ、彼の精神状態は常に限界スレスレで推移している。
「董相国、そして李司様」
「先日の汜水関での戦いにおいて、我々は見事に反董卓連合軍を撃退いたしました。孫堅軍は壊滅し、袁術は恐れをなして逃げ散りました。それは紛れもない大勝利であります」
「しかしながら……」
「洛陽の民心は、依然として極めて不安定な状態にあります。連合軍の残党がいつ再び結集するかも分かりませんし、城内の士大夫たちの中にも、密かに反乱を企てる不穏な分子が潜んでいるという報告が相次いでおります。我々の足元は、決して盤石とは言えない状況なのです」
李儒の懸念は、リスク管理の観点から言えば至極真っ当なものである。
「そこで、念のための安全策として、ここ洛陽から西の長安へと遷都してはいかがでしょう?長安は四方を険しい山々に囲まれた天然の要害であります。特に、東には函谷関という難攻不落の関所が控えております。この堅牢さを活かせば、我々の守りは万全となります。いざという時の防衛コストを大幅に削減できるというメリットがございます」
彼は「守りを固める」という極めて常識的な戦略を提示したつもりなのだ。
「却下です」
「な、なぜですか李司様!長安への遷都は、相国のお命と、我々の体制を安全に維持するための最も確実な保険ですぞ!」
「保険の掛け金が高すぎます。貴方は経済というものを全く理解していませんね。洛陽は現在、中華における商業の中心地であり、巨大なハブ(物流拠点)です。ここの地価の高さ、行き交う商人たちから徴収できる莫大な関税と営業税、そして何より『都』というブランドがもたらす無形の経済効果。それらすべてを手放して、西の田舎である長安に引きこもるなど、自らの資産価値を自ら暴落させるだけの愚策中の愚策です」
「長安への引っ越し費用を計算したことがありますか?何十万という人口、官僚、兵士を大移動させるための輸送コスト、食糧費。さらに、長安で彼らを住まわせるためのインフラ整備の初期投資。現在の長安は宮殿も市街も老朽化しており、一から再開発を行わなければなりません。その莫大な建設費用はどこから捻出するのですか?国庫の資金繰りが一瞬でショートしますよ」
「それに、領地を自ら減らすなどという行為は、市場に対する完全なネガティブキャンペーン(弱気な姿勢の露呈)です。投資家(諸侯)たちは一斉に我々を見限り、反乱の火種はさらに大きくなるでしょう。商業の中心地を放棄し、わざわざ貧しい土地へ後退する経営者など、ナンセンスの極みです。そんな非効率なプロジェクトには、私は一銭の予算も下ろしません」
「うむ、李司殿の言う通りだ!全くもってその通りだぞ、李儒!」
「我々は先日の戦いで大勝利を収めたのだ!圧倒的な筋肉の力で敵を粉砕したのだぞ!勝っているこの状況で、なぜわざわざ尻尾を巻いて逃げるように長安へ引っ越さねばならんのだ!!」
「それに、引っ越しなどという長旅は、李司殿の胎教にも極めて悪いではないか!馬車に長時間乗せれば、李司殿のお腹の中にいる儂の愛しい子供が目を回してしまうかもしれん!妊婦には安静と、適度なスクワット運動が必要なのだ!ガハハハハ!」
彼の言う「適度なスクワット運動」を妊婦に推奨する時点で医学的知識は皆無だが、私の意見に賛同して権力で押し切ってくれる分には都合が良いので放置する。
(たぶん、李司様なら、馬車で一ヶ月走り回ろうが、戦場で双頭戟を振り回そうが、胎教にも母体にも全く問題ないと思いますが……むしろ運動不足でストレスが溜まるのでは……)
李儒のツッコミは極めて的確である。
しかし、彼がそれを大声で口に出す勇気はない。
こうして、歴史を揺るがすはずだった「長安遷都」という一大プロジェクトは、私の徹底的なコスト計算と利益至上主義によって、企画の段階で完全に頓挫となったのである。
◆
洛陽の一角にある、豪奢な造りの王允の屋敷。
今夜の宴のために徹底的に磨き上げられ、最高級の香が焚き染められている。
すべては、漢の未来を救う(と本人は本気で信じている)ための、極秘のハニートラップ作戦、「連環の計」を成功させるためだ。
ターゲットは、李司の夫コレクション・ナンバースリーであり、天下無双の武力を誇る男、呂布だ。
「いやあ、呂布将軍。本日は我がむさ苦しい屋敷へようこそお越しくださった。ささ、粗茶ではございますが、最高級の酒と、腕によりをかけた料理をたっぷりとご用意しておりますぞ。さあ、遠慮なくやってくだされ」
「おう、すまんな王允殿。こんな豪勢な席に呼ばれるとは光栄の至りだ。だがな、俺は基本的に酒は口にしないのだ。筋肉の分解を促進しちまうからな。せっかく李司との毎晩のスパーリングでパンプアップさせた上腕二頭筋が、一滴の酒でしぼんじまうのは耐えられねえ」
「それにな、このテーブルに並んでる料理……見た目は綺麗だが、脂質と糖質が多すぎる。こんなもん食ったら、明日の朝のトレーニングで体が重くなってしまう。悪いが、酒の代わりに鶏の胸肉を塩茹でしたやつと、生卵を十個ほどジョッキに入れて持ってきてくれねえか。あと、ブロッコリーを山盛りで頼む。味付けは一切不要だ。素材の味とタンパク質だけがあればいい」
「……は、はい?」
「と、鶏の胸肉の塩茹で……と、生卵をジョッキで、ですか?い、いや、我が家の料理長が丹精込めて作った燕の巣のスープや、豚の角煮が……」
「だから、角煮なんて論外だ!あんな脂身の塊、俺のこのシックスパックに対するテロ行為だぞ!李司にも『食生活の乱れは戦闘力の低下に直結する』ってきつく言われてるんだ。俺は妻の教えを忠実に守る男だからな。さあ、早くその鶏肉を持ってきてくれ。腹が減ってカタボリック(筋肉の分解)が始まっちまう!」
王允は滝のような冷や汗を流しながら、後ろに控える使用人に目配せをする。
「は、ははっ!すぐに手配させましょう……。少々お待ちを……」
料理や酒で籠絡できないなら、早々に本命のカードを切るしかない。
「と、ところで、奉先将軍。本日は、将軍にどうしてもお見せしたい……いや、お聞かせしたいものがございましてな」
「ほう?俺に見せたいもの?新しい筋トレの器具か何かか?それとも、西域から仕入れた新しい馬か?」
「い、いえ、そういった類のものではございません。実はですね、前々から我が養女が、将軍の比類なき武勇と、その……素晴らしい肉体美に深く憧れておりましてな。ぜひ一度将軍にお会いして、自ら琴の音色を聞いていただきたいと、日夜申しておるのです」
王允は、最後の「肉体美」という言葉を半ばヤケクソで付け足しながら、色仕掛けの導入を図る。
「ほう?俺の武勇と筋肉に憧れている娘が?なるほど、俺のこの大胸筋の仕上がりが、ついに女にも理解され始めたというわけか。それは非常に嬉しいことだ」
「そうですか。ぜひお聞きしたい。俺も李司に『筋肉だけじゃなくて教養も身につけろ』といつも小言を言われているからな。琴の音色とやらを聞いて、精神統一の修行をさせてもらおうじゃないか。さあ、その娘を呼んでくれ!」
「おお!それは重畳!では、すぐに娘を呼びましょう。貂蝉!貂蝉や!入ってきなさい!」
広間の奥の襖が、静かに、そして優雅に開く。
シュルリ、という絹の衣擦れの音が響き、ほのかに甘く高貴な香の匂いが漂ってくる。
現れたのは、洛陽一の美女と名高い貂蝉だ。
彼女は透き通るような白い肌を仄かに染め、切れ長の美しい瞳で上目遣いに呂布を見つめる。
「初めまして、呂布将軍。貂蝉と申します。将軍の勇名は、かねがね耳にしております……。本日はお目にかかれて、まことに光栄に存じますわ」
彼女の顔の角度、視線の送り方、息継ぎのタイミング、すべてが計算し尽くされた「男を落とすための完璧なフォーム」だ。
「おお、初めまして。俺が呂布奉先だ。お前、なかなか細くていい筋肉の筋をしているな。体脂肪率もかなり低そうだ。その無駄のない足運び、日頃から相当な走り込みでもしているのか?それとも体幹トレーニングか?」
奉先が、目を爛々と輝かせながら貂蝉の全身を舐め回すように観察する。
だが、その視線には色欲など微塵もない。完全にフィットネストレーナーが新規の顧客の体を査定する時の、あの極めて真面目で純粋な目である。
「……は?」
「き、筋肉の筋……?体脂肪率……?」
「さ、さあ貂蝉!将軍のために、心を込めて琴を弾きなさい!将軍は今日、お前の琴で精神統一の修行をなさるそうだ!」
「余計なことを喋るな!早く弾け!」という王允の目配せを受け、貂蝉はハッと我に返る。
「は、はい……お義父様。それでは、呂布将軍。未熟な腕前ではございますが、心を込めて演奏させていただきますわ」
貂蝉は優雅な手つきで琴の前に座り、スッと姿勢を正す。
そして、白魚のような美しい指先が、琴の弦に触れる。
チャラン……ポロン……。
それは、まさに絶品と呼ぶに相応しい演奏だった。
音の強弱、旋律の滑らかさ、内に秘めた情熱を表現する見事な指さばき。
彼女の美貌と相まって、その空間はまるで仙人の住む桃源郷のような幻想的な雰囲気に包まれる。
一曲が終わり、最後の音が空中に溶けて消える。
広間には、深い、深い余韻が残っている。
「いかがでしたか?呂布将軍」
「……うむ」
「指の動きに、一切の無駄がない」
「弦を弾く瞬間の指先の筋肉の収縮スピード、そしてすぐさま次の動作に移るための手首の可動域の広さ。あれは一朝一夕で身につくものじゃない。さらに素晴らしいのは、あの背筋だ。ピンと伸びたまま、長時間の演奏にも耐えうる完璧な体幹のバランスを維持している。呼吸の乱れも一切ない。見事なスタミナと、精密な筋肉のコントロールだ。いやあ、いい動きを見せてもらったぞ」
口から飛び出したのは、音楽の美しさに対する感動でも、女性の色気に対する賛辞でもなかった。
完全に、アスリートの運動力学に対する分析レポートである。
「……え?」
「娘殿は、おいくつかな?」
(よし!食いついたぞ!やはり年齢と若さに興味があるのだ!ここからが本番だ!)
王允の心の声が急に元気を取り戻し、前のめりになる。
「一八にございます。まだまだ若く、未熟な身でございますが……」
王允が、娘の若さを最大限にアピールするように答える。
「なるほど……一八か」
「その若さで、あれほど見事な指先の腕前(テクニックと筋力)を身につけているとは、よほどの過酷な鍛錬を積んできたのだな。感心したぞ。おそらく、指立て伏せを毎日五百回はこなしているに違いない」
「い、いや、指立て伏せなどはしておりませぬが……」
貂蝉が引きつった笑顔で否定するが、奉先は聞いていない。
「どうかな?王允殿」
「我が妻である李司も、実は琴を深く嗜んでいてな」
「ほほう?李司様も琴を?」
「ああ。妻の琴の扱いは、お前の娘なんか目じゃないくらい凄まじいぞ。音を鳴らす前に、相手を物理的に黙らせるからな」
「この前なんか、暗殺者が夜襲を仕掛けてきた時、あいつ、部屋にあった琴の弦を素手で引きちぎって、そのまま暗殺者の首に巻きつけて絞め上げたんだ。さらに、残った琴の分厚い木の本体を両手で持ち上げて、フルスイングで敵の頭蓋骨を粉砕しやがった。あの時のあいつの指先の力と、広背筋の使い方は芸術的だったぜ。まさに鋼の弦すら引きちぎる、最強の指力だ」
王允と貂蝉は、完全に意味が分からず、恐怖で顔を引きつらせている。
琴というのは、そういう用途の道具ではないはずだ。
「そこでだ」
「この貂蝉という娘、せっかく一八歳という若さで素晴らしい指の筋肉と体幹のバランスを持っているのだから、我が妻・李司の『直属の弟子』になれば、さらにその能力を上に引き上げることができるはずだ!」
「……は?」
「武術としての琴の扱いを極めれば、立派な戦力になるぞ!指先を鍛え抜けば、素手で敵の喉仏をぶち抜くことも夢ではない!どうだ、王允殿。俺から妻に紹介してやろうか?俺の紹介なら、あいつも特別に弟子入りを認めてくれるかもしれんぞ!」
「……え?」
王允の頭の中から、すべての思考が完全に吹き飛んだ。
(で、弟子?愛人として囲い込むのではなく?妻の直属の弟子として紹介するだと!?この男、本物のバカなのか!?ハニートラップの『ハ』の字も理解していないのか!?)
「…………ピキッ!」
それは、琴の前に座っていた貂蝉が、弦を押さえている指に異常な力が入り、手の甲に青筋を立てている音だ。
「私が……あの李司とかいう年増女の……弟子、ですって……?」
彼女の目は完全に据わっている。
「この洛陽一の美女である私が、武力と金しか取り柄のないような野蛮な女の下で、琴の弟子になれとおっしゃるのですか?しかも、敵の頭蓋骨を砕くための修行をしろと?……ふざけるな!!」
貂蝉の巨大なプライドが、完全に大爆発を起こしている。
絶世の美女としての彼女の自尊心は、木っ端微塵に切り裂かれているのだ。
「おっ、なんだなんだ?急に凄い殺気が出てきたな!やる気十分ってことか!いいぞ、娘殿!その闘争心こそが筋肉を育てる最高のスパイスだ!」
「武であれ芸であれ、自らの限界を超えて道を極めるということは本当に素晴らしきことよ!いやー、今日はいい音色を聞かせてもらったし、いい筋肉のポテンシャルを見せてもらった!俺も負けてられないな!今すぐ家に帰って、赤兎馬を担いでスクワットを千回やって筋トレしよう!」
「王允殿、鶏肉と生卵、ごちそうになった!娘殿の弟子入りの件、帰ったらすぐに李司に話を通しておくから、楽しみにしててくれよな!じゃあな!」
後に残されたのは、開いた口が塞がらないまま白く燃え尽きている王允と、怒りのあまり琴の弦を素手で引きちぎっている貂蝉だけである。
王允の「連環の計」第一弾(対・呂布編)は、筋肉という名の絶対的な壁に阻まれ、見事なまでに不発に終わったのであった。
今回は
・長安遷都の話
・王允の連環の計
・そして呂布と貂蝉
という三国志でも有名なエピソードを書きました。
ただ、この物語では
歴史通りには全く進みません。
李司の合理主義と、
呂布の筋肉主義によって、
すべての陰謀が台無しになります。
皆さんは今回の話で
・李儒の遷都案
・王允の計略
・貂蝉の怒り
どのシーンが一番印象に残りましたか?
また、この世界の呂布について
「実は結構いい奴では?」
と思った方がいれば、ぜひ感想を教えてください。




