辺境の動向
王都の空は冬の気配を孕んでいた。
石畳の隙間に冷たい風が吹き込み、衛兵の外套が音もなく揺れる。
騎士団本部の書記室では、厚く綴じられた報告書が机の上に並び、朱印の押された一枚が静かに差し出された。
「王命だ。ヴァイトリング辺境伯領、領都リュドミラへ赴き、魔族側の情勢を確認せよ。必要があれば、事態の打開に当たれ」
文官の声は平坦だったが、言葉の奥にある緊張は隠しきれなかった。
悠斗はその紙を受け取り、朱の印を指先でなぞった。
王都で起きた騒乱が収束した直後、魔族領でも同時期に内乱が発生していることが判明していた。
王都の混乱は、魔族側への介入を封じるための工作だった可能性が高い。
勅命は、その真偽を確かめるためのものだった。
寮に戻った悠斗は、食堂の隅で湯を沸かしていた。
薬草の香りが漂い、静かな夜の気配が広がる。
そこへ、エリスが包みを抱えて現れた。
「行くんでしょう?辺境に」
彼女の声は穏やかだったが、問いではなかった。
「王命だ。魔族の情勢を見てこいって」
悠斗は答えながら、湯の温度を確かめる。
エリスは包みを差し出した。
中には緊張を和らげる薬草と、寒冷地用の調合品が入っている。
「私も行く。薬が必要になるかもしれないし、あなたが一人で背負うには重すぎる」
悠斗は頷いた。
翌朝、寮の玄関にはリィアが立っていた。
荷車の脇にどんと大鍋を据え、蓋を抑えながら具材を詰め込む手を止めない。
鍋の蓋の端からは湯気が上がり、寒い朝の空気のなかでほのかな匂いが漂う。
「辺境って、寒いんだよね。食べるもの、ちゃんと持っていかないと。鍋があれば、士気も保てるしね」
その言葉は同行の意思表示であり、約束でもある。
リィアは鍋を縦に抱え、手早く包みを結わえた。
荷車に載せられた鍋は、行程の間ずっと香りと温かさを供するだろう。
悠斗が何かを言う前に、ミラが剣を背負って現れた。
「魔族が動いてるなら、戦力は必要だ」
彼女は短く言い切ると、剣の鞘を軽く叩いた。
「お前が行くなら、私も行く。無駄な血は流させたくない」
ミラの視線は冷たく確かだ。
悠斗は彼女の直裁な判断を信頼していた。
そして、セレネが現れた。
王都にとどまり続けた彼女は、外套の裾を払って悠斗の隣に立つ。
口元には余裕の笑みが浮かぶが、瞳の奥には鋭い光が宿っている。
だが、その正体が王女であることは、ここでは誰にも明かされていない。
悠斗のみがその事実を知っている。
「辺境とは。ずいぶん寒そうな任務ね」
セレネはそう言って、荷馬車へと歩き出した。
言葉は軽く見えて、しかし動きには目的があった。
出発の朝、王都の門前には小さな一団が集まっていた。
悠斗、エリス、リィア、ミラ、そしてセレネ。
命令を受けたのは悠斗一人だったが、彼の背には仲間の意志が重なっていた。
馬車の荷台に最後の包みを積み終えると、悠斗は振り返った。
王都の空は曇りがちで、遠くの鐘の音が微かに響いていた。
「行こう。境界の向こうに、何があるかを確かめるために」
誰も答えなかった。
だがその沈黙は、確かな同意だった。
馬車が動き出す。
石畳を軋ませながら、王都を離れていく。
境界へ向かう旅が、今始まった。
馬車の車輪が石畳を離れ、土の道を軋ませながら進んでいく。
王都の背後には灰色の空が広がり、遠くの鐘の音が風に流されて消えていった。
悠斗は荷台の端に腰を下ろし、地図を広げた。
目的地であるヴァイトリング辺境伯領、領都リュドミラは王都から北西へ三日ほどの距離だ。
魔族との国境に接するその地は、かつて幾度も戦火に晒され、今もなお緊張の空気が抜けきらない。
「風が冷たいね」
リィアが鍋の蓋を指先で押さえながら言った。
鍋の匂いが柔らかく周囲を満たし、仲間たちの表情をわずかに和らげる。
「気圧が下がってる。天気、崩れるかも」
エリスが馬車の外に顔を出し、空の色を見上げた。
指先で薬草を確かめる手つきは、旅の間も変わらない。
ミラは馬車の後方に立ち、剣の柄に手を添えたまま周囲を見張っている。
道の脇に立つ枯れ木、遠くに見える野営跡、通り過ぎる旅人の荷――すべてを一瞥で把握していた。
「魔族が動いてるって話、どこまで本当なんだろうな」
悠斗が地図に目を落としながら呟くと、ミラは短く答えた。
「本当かどうかは関係ない。動けるようにしておく。それだけだ」
セレネは馬車の前方、御者台の脇に座っていた。
外套の裾を風に揺らしながら、遠くの山並みを眺める。
言葉は少なく、視線は遠くを往く。
悠斗には、彼女が何かを測っているように見える。
「セレネ、寒くないか?」
悠斗が声をかけると、彼女は振り返らずに答えた。
「寒いわ。でも、辺境はもっと冷えるでしょう。慣れておかないとね」
その口調にはいつもの余裕があるが、悠斗は彼女の指先が外套の端を少しだけ強く握っているのを見逃さなかった。
馬車は丘を越え、森の縁に差しかかる。
道は細くなり、木々の影が車輪に絡むように伸びてくる。
風が強まり、馬が鼻を鳴らした。
「この先、夜は野営になるかもしれない。宿場は飛ばした方がいい」
ミラが地図を覗き込みながら言う。
悠斗は頷き、荷の中から野営用の道具を確認する。
「火を起こす場所、見つけておくね」
リィアが鍋を抱えたまま馬車から降り、素早く周囲を見回す。
彼女はまるで鍋を中心に世界を整えるかのように動く。
乾いた薪を集め、鍋を据えて火を起こすと、湯気が立ち、すぐに熱い汁が煮え始める。
仲間たちはその火の前で手を暖め、短い休息を取った。
鍋は単なる食べ物以上のものだった――疲労を溶かし、共同体の空気を作る。
エリスは薬草を束ね直しながら、悠斗の隣に座った。
声は小さく、問いかけに似ている。
「ねえ、セレネは……大丈夫なのかな」
悠斗は答えず、前方の彼女の背を見つめる。
セレネは風に髪をなびかせ、何かを考えているようだった。
表情は変わらず余裕を保っているが、その笑みの奥になにかが潜んでいることを悠斗は感じていた。
馬車は再び動き出す。
森の影が深くなり、空は灰色から鈍い青へと変わっていく。
境界は近づいていた。
三日目の夕刻、馬車はヴァイトリング辺境伯領の城門に辿り着いた。
森を抜けた先に広がる石造りの城塞は、風雪に晒されて灰色に沈み、壁面には古戦の痕が刻まれている。門前には槍を構えた守備兵が並び、旅人の到着に目を光らせる。
「王都からの使いか」
門番は勅命の文書を受け取り、目を通してから無言で頷いた。
「辺境伯がお待ちです。お通りください」
だがそのとき、守備兵の一人がセレネに目を留めた。
彼女の外套の下から覗く耳の形、肌の色、そしてその気配――人間ではないと即座に察したのだろう。
「待て。そちらの者は……魔族か?」
場の空気が一瞬で張り詰めた。
兵たちの手が槍にかかり、ミラがわずかに前に出る。
セレネは眉一つ動かさず、静かに兵を見返した。
「ええ、そうよ。何か問題でも?」
その声音には、いつもの余裕があった。
だが悠斗は、彼女の背筋がわずかに強張ったのを感じ取った。
「魔族を城内に入れるわけにはいかん」
門番の声は硬い。明確な警戒心だ。
悠斗は一歩前に出て、両手を広げるようにして言った。
「彼女は王都の許可を得て、長らく我々と共に生活してきた。今回の任務も、王都の勅命に基づいて同行している。彼女の存在は、我々の調査にとって不可欠だ」
兵の一人が低く言い放つ。
「だが、魔族だ」
悠斗はその視線を正面から受け止める。
「だからこそだ。魔族の動きを探る任務において、彼女の視点は貴重だ。ここでその身元の詮索をする時ではない。文書が我々の正当性を示しているはずだ」
沈黙が落ちる。
兵たちは互いに視線を交わし、やがて門番が小さく息を吐いた。
「……辺境伯に判断を仰ぐ。ただし、監視はつけさせてもらう」
「構わないわ」
セレネがさらりと答える。
口元には微笑が浮かんでいるが、その目は冷たく光っている。
城内は寒々としていた。
石の床は踏むたびに音を返し、壁に掛けられた古い旗は風もないのに揺れているように見える。
案内役の兵に導かれ、一行は謁見の間へと通された。
謁見の間に立っていたのは、ヴァイトリング辺境伯――グラウス・ヴァイトリング。
彼の姿は、まるで城壁の一部が動き出したかのようだった。
二メートル近い偉丈夫。肩幅は扉の枠に迫るほど広く、背筋はまっすぐに伸びている。
年齢は五十を越えているはずだが、肉体は衰えを知らず、戦場の空気を今も纏っている。
腰には家宝とされる大剣が吊られている。
異常な重さで知られるその剣を、彼は片手で軽々と持ち上げてみせる。
普段から刃を抜くことは稀だが、刃を帯びる瞬間の威圧は明白である。――その所作は、やがて訪れる決断の局面で刃が振るわれることの前兆として、静かに場の空気に刻まれた。
顔は彫りが深く、目元には幾度もの戦を越えてきた者の静かな警戒が宿っている。
口数は少ないが、言葉の一つ一つが重く、無駄がない。
彼の存在そのものが、辺境の防衛線であり、抑止力であり、最後の壁だった。
城の者たちは彼を「動かぬ剣」と呼ぶ。
戦を好まぬが、戦を恐れぬ。
判断は遅くないが、軽くもない。
彼が本当に剣を抜くとき、それは世界の一線が越えられる時である。
「王都からの使いか。……魔族を連れてくるとは、聞いていなかったが?」
グラウスの声は低く、だが怒気は含まれていなかった。
ただ事実を確認する口調だ。
「彼女は王都にて、長らく我々と共に過ごしてきました。今回の任務においても、王都の監視下にある者として同行を許されています」
悠斗は一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「ふむ……」
グラウスはセレネを見やる。
彼女は一歩も引かず、まっすぐに彼の視線を受け止めていた。
「名は?」
「セレネ。……ただの随行者です」
「ふん、そうか」
辺境伯はそれ以上は問わなかった。
だがその目は、セレネの一挙手一投足を記憶に刻むように動いていた。
「魔族が動いている。こちらでも、風の向きが変わったのを感じている。補給路に不審な影、偵察隊の報告の乱れ、民の不安。何かが、確実に近づいている」
悠斗は頷き、地図を広げた。
王都から得た情報と、道中で拾った噂を照らし合わせながら、現地の状況を確認する。
「王都での騒乱は、魔族側の内乱への介入を封じるための工作だった可能性があります。魔族領では強硬派が実権を握り、前体制の後継者を裏切り者と断じている。軍を動かす準備も進んでいると聞いています」
その言葉に、グラウスは眉をひそめた。
彼は大剣の柄に手を添え、静かに言った。
「ならば、ここは最前線になる。我が領は、戦の始まりを告げる場所になるかもしれん」
その言葉に、場の空気がわずかに張り詰めた。
ミラは壁際で剣に手を置き、エリスは薬草の包みを握り直す。
リィアは鍋の中身を確認しながら、静かに周囲を見渡していた。
セレネは何も言わなかった。
ただ静かに立ち、辺境伯の言葉を受け止める。
彼女の沈黙は多くを語る。
謁見は短く、だが濃密だった。
一行は城内の客間に通され、今後の調査と情報収集の段取りを整えることになった。
外では風が強まり、城壁の旗が音を立てて揺れている。
城内の客間で、補佐官が資料を差し出す。
偵察隊の報告書、焼け焦げた文書の切れ端、通行人の断片的な証言。
どれも完全な証拠には足りないが、偶然の一致とは言い難い。
「この文書、印章は前体制のものだ。だが内容は消されている。何かを隠した形跡がある」
悠斗は焦げ跡を指でなぞりながら言った。
「王都の騒乱と魔族の政変が連動していたなら、情報の遮断はその第一歩だ。外との接触を断つのは、秩序を固める上で筋の通った行動になる」
セレネは窓辺に立ち、紙片を見つめていた。
彼女は何も言わず、ただ風の音に耳を澄ませている。
だが悠斗は、彼女が補佐官の言葉も、報告書の行間も、すべて聞き逃していないことを知っていた。
「この印章、外交局のものね」
セレネがぽつりと呟いた。
補佐官が顔を上げる。
「ご存じで?」と問われ、彼女は頷いた。
「ええ。前体制の中でも外との接触を担っていた部署よ。……この文書が焼かれたということは、何かを断ち切ろうとした証拠」
その一言で、悠斗は確信した。
セレネはすでに、騒乱と魔族の動きが連動していることを肌で感じ取っている。
「王都の混乱が、魔族の内乱を覆い隠す陽動だとすれば……この辺境が、最初の火種になる」
悠斗は地図に視線を落としながら言った。
「火はもう、ついてるかもしれない」
ミラが低く返す。
灰色の空の下、城壁の向こうに広がる森が風にざわめいている。
そのとき、扉が控えめにノックされた。
補佐官が応じると、一人の兵が息を切らして報告に入ってきた。
「魔族の使者が来ています。単身で。ヘンリエッタと名乗っています」
空気が変わった。
補佐官が顔をしかめ、悠斗が立ち上がるその前に、セレネが先に口を開いた。
「……愚直のヘンリエッタ」
その名を口にした瞬間、彼女の表情にわずかな緊張が走ったが、すぐにそれを押し隠した。
悠斗が眉をひそめる。
「知ってるのか?」
セレネは窓辺からゆっくりと振り返り、静かに語り始めた。
「ええ。彼女は裂律座の一員よ。魔族政庁の中枢に設けられた七つの“座”からなる執行機関――旧き戒律を断ち、必要とあらば新たな秩序を強引に打ち立てる者たち。各座には異名を持つ幹部が就いている。ヘンリエッタの二つ名は“愚直”。その名は、命令に対してひたむきで、手段を選ばない性質から付けられている。あの子が来るのは、交渉のためではない。何かを終わらせるためよ」
説明は簡潔だが重い。
客間の空気が一段と静まる。
ミラは剣に手をかけ、リィアは鍋の火を落とし、エリスは薬包を握り直した。
悠斗は立ち上がり、目を細める。
「どうする?」とミラが問う。
「会うしかないわ」
セレネは即答した。
声は落ち着いているが、瞳の奥には鋭い光が宿っている。
「彼女が来たということは、向こうも“始める”気ね。こちらが黙っているわけにはいかない」
リィアが鍋の蓋を外して、熱々の汁を小椀に分ける。
湯気が立ち上り、短い間だけ客間に温もりが戻る。
リィアは案内の兵に軽く一声かけ、城の簡易暖炉に鍋をかけて温め直してもらっていたのだ――城内に持ち込めるのは好意的に受け入れられた例外で、鍋の匂いが辺境の冷たさをやわらげた。
だが誰の表情も緩まない。
鍋は慰めになるが、やがてやるべき判断が待っている。
彼らは客間を後にした。
風が強くなり、城の旗が音を立てて揺れている。
境界は、確かに動き始めていた。




