薬草と記憶と、湯の温度
朝の光はまだ柔らかく、寮の窓辺に並べた乾燥棚の端から明るさが差し込んでいた。
エリスは指先で薬草の葉を確かめるように撫で、茎を丁寧に束ねては麻紐で結んでいく。
風が葉の間を通ると、薄い苦味のある匂いが室内に満ちた。
彼女にとって薬草の匂いは、人の声に似ていた。
目に見えないけれど、確かにそこにあるものの言葉だ。
「ゆうとくん、湯の温度は?」
声に出して聞くのは習慣だった。
調合や煎じ物を扱うとき、湯の温度は薬効を左右する。
悠斗は作業台の端で小さく笑い、湯加減を示す小さな器を差し出した。
彼の手は温かく、そこにあるだけで安心が広がる。
「ちょうどいいよ。いつもの感じで」
エリスは答えながら、じっと彼の手元を見た。
頼りにしている。だけど、頼るだけにはしたくない。
彼のために、彼が気づかない細やかな配慮をしておきたい——その考えが彼女の動きを速める。
「ゆうとくん、少し時間を貰えるかな」
言葉に隠れた躊躇いを自覚しつつ、エリスは伝えたいことを整えた。
悠斗は違和感を見せず、短く頷く。
二人は学園の裏手、薬草園へと向かった。
古い石垣に沿って植えられた薬草の列が薄く影を落とす。
葉の間の匂いが、昼の空気を柔らかくする。
土を掘り返したのは偶然ではなく、長年の習性だった。
エリスは足下で指が何かに触れた感触を確かめ、しゃがみ込む。
指先に当たったのは陶器の蓋で、古びた瓶が半ば隠れていた。
彼女は素手で土を払い、瓶を取り上げ、慎重に蓋を外した。
中には乾いた草と、折れた紙片が入っている。
紙の縁は擦り切れ、文字はにじみかけていた。
見覚えのある筆致が、胸の奥の記憶を軽く揺らす。
「師匠が残してくれたものなの」
言葉は小さく、しかし確かだった。
師匠のことは、口にするだけで胸が詰まるのをエリスは知っている。
悠斗が紙片に記された印を覗き込み、眉を寄せる。
度々現れるあの丸い印。
彼の体表に微かな兆しが走り、空気は一瞬だけ張る。
悠斗の「適応」は混ざり物や変化を整える性質だ。
その能力が、どこまで世界の均衡に触れるのか――エリスはふと考える。
「この印は、何か関係あるの?」と悠斗が訊く。
声は控えめだが、真っ直ぐだ。
エリスは一瞬ためらい、瓶を抱え直した。
「わからない。師匠はそういうことをする人ではないと思う。でも、古い研究所か、集まりの印かもしれない」
答えは推測でしかない。
だがその推測の背後に、エリスの胸に残る不安が透ける。
午後、学園の医務室へ戻ると、手当てを終えた生徒たちが静かに寝息を立てている。
エリスは包帯を巻き替え、煎じ薬を準備する。
薬草の葉を浸せば、すっと香りが立ち上る。
隣で悠斗は寮の噂をぽつりとつぶやく。
ミラの配置換え、新体制の空気、届けられたばかりの小さなニュース。
悠斗の言葉は淡々としているが、エリスはその合間にある沈黙を読む。
そこには彼が自分の持つ力の重さを意識している気配がある。
「ゆうとくん、最近……よく眠れてる?」と彼女は問いかける。
問いは直接的で、彼女なりの気遣いだ。
悠斗は湯の表面に浮く葉を指でつつき、視線を一瞬そらして答える。
「うん、まあ。眠れる。でも、最近は自分のスキルが少しだけ怖い。知らないうちに誰かの心をいじってしまっているんじゃないかって」
その正直さは、余計な飾り気のない彼自身の本音だ。
エリスは薬の匙を差し出し、湯気の立つ器を悠斗の前に置く。
「私がそばにいるよ。あなたが迷いそうなとき、見ている人がいるって思ってほしい。無理に強くならなくていいんだよ」
頼りながらも相手を気遣う。
エリスの声は静かだが、揺るがぬ誠意を含んでいる。
悠斗の目がふっと柔らかくなるのを、彼女は見逃さない。
夕暮れ、エリスは瓶の中の紙片をもう一度取り出した。
紙に書かれた一行が、かすかな灯火のように胸に触れる。
師匠の文字は力を持って、こう記していた。
「整える者と癒す者が揃ったとき、帳簿は閉じられる」
言葉は短いが、含意は重い。
もし「整える」行為が世界の均衡に関わるなら、悠斗の力はただの手当てを越えるものに触れているかもしれない。
エリスは胸の奥で何かが波立つのを感じる。真実に近づくことは必要だが、突き詰めることで誰かの何かを消してしまうのは彼女の本意ではない。
夜、寮の小さな湯船で二人は並んで座った。
湯気が二人の間に柔らかい膜を作り、外界の雑音を遠ざける。
エリスは布で髪を拭い、悠斗の肩越しに小さな声で言った。
「師匠は『薬は記憶を整えるものだ』って言ってた。過去を消すんじゃない、痛みを和らげるって。」
「師匠の言葉は、怖いけれど。私は選んだ。誰かの過去を消すようなことはしたくない。痛みを和らげること、それが私の薬だから」
悠斗は指先で水面に輪を描き、その輪がゆっくりと広がり、やがて消えていくのを見つめた。
「君がいるなら、俺は整えてもいい。全部じゃなくて、必要なところだけ。君が見てくれるなら、怖がらずにいられる」
言葉は真摯だが不完全だ。
適応という力に「選べるか」という疑問は残る。
だが悠斗は誠実にそう言う。エリスは一瞬目を閉じ、頷く。
夜更け、月の光の下でエリスは瓶を再び掘り起こした。
紙片の裏側に、小さな走り書きが見えた。
師匠の筆致とは違う、別の手による痕跡。
字は雑で、警告にも取れるが、同時にどこか救いを残す言い回しだった。
誰の字かはまだわからない——だが紙の匂いの中に、古い警告と優しさが混じっているのをエリスは感じた。
彼女は紙を胸に当て、そっと土を戻す。
真実を暴くことで動く影を恐れるのではない。
エリスには他者の痛みをまず和らげる倫理がある。
走り書きが示す余波はいつか向き合わねばならぬが、その時までの仕事は今ここにある人々のためだと、彼女は静かに決めた。
寝床へ戻る前、エリスは悠斗の寝息を確かめる。
彼の呼吸は穏やかで、手の先にはまだ小さな震えが残る。
エリスは布団を寄せ、自分の手を彼の手に触れさせた。
頼ることと気遣うことは、彼女にとって同じ一線の上にある行為だ。
「明日も、一緒にいようね」と囁くと、悠斗はかすかな笑みを返し、眠りに落ちた。
窓の外、薬草園は月に銀色に照らされ、葉が静かに揺れる。
師匠の声は遠く、道は明確ではない。
ただ、エリスの胸の内には小さな灯りがともっている。薬は記憶を整え、人を癒すためにある——彼女はその灯りを確かめながら、次の朝を迎えることにした。




