月夜に響く地下の子守歌
満月が湯気を銀色に撫でる夜、村はいつもより静かだった。
焚き火の影は長く、女たちは微睡み、悠斗は湯冷めを嫌っていつまでも縁に座っていた。
どこかで子供が笑う声。だがその笑いは、やけに遠くて途切れ途切れだ。
「最近、夜に地下から音がするって聞いた?」
リィアの声は小さく、耳元で囁くようだった。
彼女の目が湯面を見つめる角度はいつもより真剣だ。
誰も笑わない。
夜風が、話を遮るように草を撫でる。
村の古い井戸は、昔から「忘れられたもの」を吐き出す場所だった。
年老いた鍛冶屋が言うには、戦争の頃に地下に穴が掘られ、人々はそこで何かを埋めたという。
だが記録は消え、言葉だけが残っている。
その夜、エリスが薬棚の小箱を整理していると、引き出しの奥から古い紙片が滑り出した。
墨は滲み、文字は途中で切れている。
そこに書かれていたのは、子守歌の断片と奇妙な図形――丸が連なり、中心が空洞になっているような、視線が吸い込まれる図。
「これ……何かの呪文?」
エリスが小さく震える。
ミラは剣の柄を強く握り、セレネは眉を寄せてその紙片を覗き込む。
悠斗は無意識に「適応」の感覚を探した。
だがその瞬間、世界の縁がざわついた。
夜中、地下から低く、節が外れた子守歌のような声が聞こえた。
音はリズムを持たず、語りかけるでもなく、ただ延々と続く。
耳を塞いでも止まらない。
村の犬が順番に遠吠えを始め、井戸の水面が押し波のように揺れた。
「夢じゃないのか」
ミラの言葉は震えていた。
誰かが戸を閉め、鍵を掛ける。
だが鍵は無意味に感じられた。
時間の感覚が歪み、長かったはずの数分が、胸の鼓動の一撃のように感じられる。
地下へと続く隠し階段が、村の古い倉庫裏で発見される。
入り口は小さく、埃に埋もれていた。
村人の誰かが――声だけが提案しているように――その階段に光を投げ込むと、空気の味が変わった。
硫黄でも鉛でもない、忘却の匂いだ。
階段を降りると、壁には無数の小さな手形が刻まれていた。
手形は年を重ねるごとに深くなり、色が違って見える。
中心には空洞があり、そこだけが光を吸い込む。
床に散らばる古いおもちゃ、折れた人形、紙切れ。刻まれた言葉は、途中で必ず途切れている。
「ここは……何を埋めたんだ」
ルドが震えた声で言う。
彼はここで立ち尽くし、台詞が止まるタイプの端役らしく、文字通り言葉を失う。
周囲の輪郭が溶けて、誰の顔も少しずつ他人の顔に変わる。
エリスの笑顔が歪み、リィアの髪が夜影に溶ける。
なぜか、地下の中心部には鏡があった。
鏡は曇っていて、自分の顔が反射するはずの位置に、別の風景が映っている。
遠い町の路地、満員の駅、前世のオフィス。
悠斗は自分の顔を探した。
鏡の中の自分は微笑み、しかし目だけが別の時間を見ていた。
「記憶が戻る」
セレネが小声で言う。
その言葉は祝福のように聞こえ、同時に刃物のように鳴る。
地下の空気が、過去の断片を吐き出し始める。
村で忘れられた子どもの名前、失われた約束、消された罪。
記憶は個々に襲いかかり、登場人物たちはそれぞれの過去の断片に飲み込まれていく。
時間が引き伸ばされ、彼らは自身の幼い姿を見たり、見知らぬ家族の影を追ったりする。
人によってはそれが癒しに見える。
だが多くは自己崩壊に向かい、叫び声が互いに重なっていく。
世界は「誰かの観念」に反応して形を変える。
錯乱の渦が、静かな村を侵食する。
悠斗の「適応」はいつも通り働こうとするが、今回だけは違った。
適応は「最適化」を求めるが、ここでは「最適解」が見つからない。
彼が思い出すのは前世のデスク、打ち合わせ、数字の列。
そちらの景色と、村の子守歌が同居し、境界は破れる。
「助けてくれよ……これは……」
ルドが床に膝をつき、そして急に笑い出す。
笑いは高く、弾け、次の瞬間には空っぽな静寂に変わった。
そこに残されたのは、ぽつりぽつりと零れる紙端の断片と、意味のない文字列だけだ。
地下の中心が、ゆっくりと開く。
空洞からは冷たい空気と一緒に、かすかな子守歌の続きを吐き出す声が漏れ出た。
歌詞は意味を持たない言葉の羅列であり、しかし聞く者の胸に触れて、そこにあった何かをつまみ上げる。
彼らは顔を捻り、涙を流し、ある者は笑い、ある者は隠れ、ある者は叫ぶ。
次の瞬間、空気が引き締まり、ページをめくる指が強く触れた感覚があった。
作者っぽい声が、やけに冷静に言う。
「ここで一度、この流れを止めます。読み手が耐えられない場合もありますからね」
悠斗はその声に抗うように目を閉じる。
湯気の匂い、井戸の水音、エリスの手の温度――それらが次々に引き剥がされ、目の前が白く剥がれていく。
世界が紙に戻るような手応え。
声は更に続ける。
「さて。夢オチ注意報を発令します。安心して下さい。すべては説明のための夢です」
言葉通り、次の瞬間には焚き火の匂い、布団の柔らかさ、隣で寝息を立てる誰かの鼓動が戻ってきた。
地下の手形も、鏡も、子守歌も、朝日とともに薄れていく。
村人たちは何事もなかったかのように朝仕事を始め、犬はいつものように吠える。
悠斗は布団を跳ね起き、湯を沸かす。
昨夜の恐怖を思い返すと、胸がざわつくが、やがてそれは夢の残り香へと変わる。
エリスが窓辺で微笑み、リィアはパンを焼き、ミラは朝稽古へ向かう。
セレネはと言えば、城へ戻る途中に何事もなかったように手を振る。
夜明けの光がページを照らすと、作者っぽい声がひとつ、淡々とつぶやいた。
「恐怖は演出。だが時々、夢が現実を拾うこともあるのです」
悠斗は湯気に顔を埋めながら、小さく呟く。
「夢でもいい。温泉があるなら、それで充分だ」
だが、読者の背筋を微かに冷やすために、エピローグの端に小さな紙片が描かれている──隅に黒い丸が一つ。
誰にも気づかれないほど小さく、しかし確かにそこにある。
ページは次へ進む。
終幕。
次回、夢の余韻が現実に残した小さな手掛かりが、誰かを追いかけ始める。




