揺らぐ絆、固まる決意
収容室の空気は重く、誰もがエリスの言葉を咀嚼していた。
「彼女が“愚直”だったことを逆手に取り、魔族領に潜入する」
エリスの提案は静かだが、確かな熱を帯びていた。
グラウスは険しい表情を崩さず、腕を組んだまま低く反論する。
「軽々しく言うものではない。魔族領への潜入は命賭けの行為だ。
彼女が裏切れば敵地で孤立する。そこまで信用する理由がない。」
ミラも眉をひそめ、慎重な声を添える。
「同感です。彼女を利用するということは、生殺与奪の権利を彼女に預けるということ。
情に流されて判断を誤るべきではない」
しかし、エリスは一歩も引かなかった。
「危険なのはわかっている。
でも、ここで拘束し続ければ本当に安全になるの?
次に同じような攻勢があったら、防ぎきれると思う?」
一息で言うと、グラウスに向き直る。
「ヴァイトリング伯、私たちには情報が不足しています。
彼女の立場を利用すれば魔族領へ潜入し、事態を打開できるかもしれない。
少なくとも、情報を得ることはできると考えます。」
リィアも鍋を抱えたまま強く言葉を重ねる。
「彼女が協力すると言っているなら、その気持ちを信じたい」
議論が行き詰まる中、悠斗に視線が集まった。
「悠斗、どう考える?」
グラウスの問いに、悠斗は深く息を吐き、言葉を絞り出す。
「……魔族領への潜入が、現状取りうる最善策です。
彼女を拘束し続けても危険は残る。なら、前に進むしかない」
グラウスはしばし沈黙し、やがて頷いた。
「……わかった。リュドミラを守るのが私の役目だ。お前たちの提案を採用する。」
完全に納得したわけではなかった。
ただ、強力な魔族を城内に留める危険性と、潜入失敗時の損失を天秤にかけた。
仮に悠斗たちを喪失したとしても、本来のリュドミラに戻るだけだ。
辺境伯としての冷徹な計算がそこにはあった。
一定の結論が見えたところで、ヘンリエッタが小さく呟いた。
「……お腹、すいちゃった」
恥じらいでいるのか、俯いたままのヘンリエッタを見て、リィアは苦笑し、鍋を抱え直す。
「じゃあ、遅めの昼食にしましょうか。みんな疲れているしね」
グラウスは城兵から斥候部隊の帰還を知らされ、報告を受けるため退室した。
去り際にヘンリエッタの拘束の解除を指示し、セレネとミラに監視を厳にするよう言い含めた。
一同は収容室を後にし、城内の広場へと向かった。
広場に鍋が運ばれると、瓦礫の匂いに混じって、次第に温かな香りが漂い始めた。
リィアは袖をまくり、手際よく水を汲み、薪を組んで火を起こす。
火花がぱちりと弾け、鍋底がじわじわと熱を帯びていく。
「まずは野菜を細かく刻んで……」
彼女は城兵が用意してくれた食材を選び、玉ねぎや人参を素早く切り分ける。
刃がまな板を打つ音が、広場に小気味よく響いた。
刻んだ野菜を鍋に入れると、油がじゅっと音を立て、香ばしい匂いが立ち上る。
リィアは木杓子で丁寧にかき混ぜ、次に肉の切れ端を加えた。
「これで栄養もつくはず」
彼女の声は柔らかく、まるで母が子に語りかけるようだった。
やがて鍋の中で具材が煮え始め、湯気が立ち上る。
薬草をすり潰していたエリスが近づき、香りを嗅いで頷いた。
「これなら傷ついた兵士にも効きそうね」
リィアは微笑み、塩をひとつまみ加える。
「もう少しでできるよ」
彼女の言葉に、周囲の兵士たちが自然と集まり始めた。
焦土の匂いに満ちた広場に、久しく忘れられていた家庭の香りが広がっていく。
ヘンリエッタは、恐る恐る鍋の前に座る。
初めて見る物を警戒する、経験の浅い子猫のような姿に、リィアが優しく告げる。
「食べてみて。きっとおいしいから。」
ヘンリエッタはスプーンを手にすると、一口入れると目を輝かせた。
「……おいしい! リィアはお母さんみたいだね!」
その無邪気な声に、兵士たちも思わず笑みをこぼした。
リィアは照れた様子でおたまを振り回す。
「お母さん?!じゃあ悠斗がお父さん?!どうしよう悠斗!」
「そういう意味じゃないと思うわよ。」
セレネは振り回されたおたまを避けながら諫める。
「悠斗はお兄ちゃんだよ。」
ヘンリエッタは至極当然といった様子で答える。
エリスはその様子を見つめ、ふと問いかける。
「どうして悠斗を“お兄ちゃん”って呼ぶの?」
ヘンリエッタはスープを飲みこむと、少し考えるように視線を落とした。
「夢の中でね、私を助けてくれたの。
暗い場所で泣いている私を、明るい場所に引っ張り出してくれたの。
その時、……ああ、この人はきっと私のお兄ちゃんだ、って思ったんだ」
悠斗は返す言葉を探したが、見つからなかった。
ただ、彼女に優しく笑みを向けることを選んだ。
昼食を終えた一行は、鍋を片付けながら城内を歩いた。
最初、ヘンリエッタに向けられる兵士たちの視線は鋭く、手は剣の柄にかかっていた。
「魔族の幹部だぞ」「油断するな」――そんな囁きが耳に届く。
しかし、ヘンリエッタは怯える様子もなく、兵士たちに小さく笑みを向けた。
「……ありがとう。さっき荷物を運んでくれてたよね?」
声をかけられた若い兵士は一瞬戸惑い、やがてぎこちなく頷いた。
「……ああ。まあ、仕事だからな」
「すごいと思う。重いのに、みんなを助けてて」
その言葉に、兵士の表情がわずかに緩んだように見えた。
別の兵士が通りかかると、ヘンリエッタは手を振った。
「おじさんも怪我してるの? 大丈夫?」
「……おじさん、か」
兵士は苦笑し、肩の包帯を見せる。
「大したことはない。だが、気遣ってくれるとはな」
「えへへ……だって、痛そうだから」
その無邪気な返答に、周囲の兵士たちから小さな笑いが漏れた。
やがて、警戒していた兵士たちも自然と彼女に声を返すようになった。
「気をつけろよ」「飯は食ったか?」
「うん、リィアの鍋、とってもおいしかった!」
その答えに、兵士たちの顔から険しさが消え、まるで娘や妹に接するような柔らかさが広がっていった。
悠斗はその光景を見つめ、胸の奥で疑念を抱いた。
――これは何かの能力か?人心を操る魔族の術なのか?
だが、ヘンリエッタの瞳に宿る純粋さを見ているうちに、その疑念は静かに解けていった。
ただの少女の笑顔が、人の心を動かしているのだ。
先の戦闘で、彼女が城兵には危害を加えていなかったことも、今となっては救いに思えた。
一行は城内の会議室へ向かった。
魔族領への潜入という方針は決まったが、その詳細を詰める必要があった。
会議室の長机の上には地図が広げられ、蝋燭の炎が揺らめきながらその輪郭を照らしている。
セレネが地図に指を置き、静かに言葉を紡いだ。
「潜入の目的は三つ。まず、魔族領で起きているクーデターの状況を確認すること。次に、今回の侵攻の目的を探ること。そして可能であれば、その侵攻そのものを阻止すること」
その声は冷静で、場の空気を引き締めた。
エリスが続ける。
「ヘンリエッタの“愚直”としての立場を利用すれば、容易に魔族領に潜入できる可能性がある。
疑念を抱かせずに潜り込めれば、情報収集という今回の目的も達成しやすくなるはず」
しかし、グラウスが険しい表情で腕を組み、低く反論した。
「ヘンリエッタが制御された捨て駒であるなら、幹部としての肩書が有効かは疑わしい。魔族の中で既に切り捨てられている可能性もあるのではないか」
ミラも頷き、慎重な声を添える。
「彼女の肩書を利用することが、かえってリスクを高めることになるかもしれない」
セレネは静かに首を振り、言葉を重ねた。
「この子が制御されていることは、王女である私ですら知らなかった。
それは相当前から続いていた。少なくとも50年以上前、私が初めてこの子と対面した時から。
だから、事前にこの子の情報が共有されていることはあり得ない。
私は今、裏切り者と布告されている可能性が高い。
でも、この子についてはまだその手が及んでいないはず。
彼女の肩書は、潜入に有用と考えるわ」
悠斗は地図を見つめながら頷いた。
「情報収集が目的なら、集落を避けて進むわけにもいかない。
ヘンリエッタの協力は潜入実施の前提条件だ。」
グラウスは反論せず、静かに頷いた。
この場合は実施者の判断に委ねるのが最適であることを、彼は理解していた。
リィアは鍋を抱え直し、強い眼差しを向ける。
「私もついて行くよ。なんたって私はヘンリエッタの“お母さん”だからね!」
セレネは短く頷き、言葉を添える。
「私ももちろん同行するわ。裂律座と対峙することになるかもしれない。万が一この子が裏切った場合の処理も私の責任だからね。」
ミラは腕を組み、険しい表情を崩さない。
「わ、私もついていくぞ。悠斗一人前衛では荷が重いだろうからな」
「ということだけど、構わないわね?」
セレネは椅子に座って険しい顔をしているヘンリエッタに問いかける。
「難しくてよくわかんない……けど、みんなのために頑張る!」
頼りなく、だが元気あふれる返事にセレネはため息を吐く。
「知性まで退化したのかしら……」
そして軽く口元を歪める。
「そうと決まれば、“愚直のヘンリエッタ”として振舞えるよう、お勉強をしましょうか。」
そういうと、ぐずるヘンリエッタを引きずりながら、会議室の外へと去っていった。
夜、城内の浴場には湯気が立ち込め、石造りの壁に水滴が滴っていた。
戦闘と復旧の疲労を癒すため、潜入組の面々は湯に身を沈めていた。
悠斗が肩まで湯に浸かり、深く息を吐いたその隣に、ヘンリエッタがぴたりと寄り添う。
「お兄ちゃん、あったかいね」
無邪気な笑みを浮かべ、彼の腕に身を預けるように密着する。
齢80の魔族であることを、今だけは忘れようと悠斗は思った。
湯の中では皆平等なのだ。
その様子を見ていたエリスは、湯の表面を指先でなぞりながら視線を逸らした。
「……もう、子どもじゃないんだから」
声は低く、不機嫌さを隠しきれない。
リィアは湯船の端で笑みを浮かべ、鍋を抱えるように腕を組んでいた。
「ふふ、まるで本当の兄妹みたいね」
そう言った後、ふと小さくつぶやいた。
「……ミラは来ないのかな」
セレネは肩をすくめ、冷静に答える。
「昼間、ヘンリエッタに強く当たりすぎたのを気にしているのかもしれないわ。あの子なりに距離を取っているのよ」
リィアは「そうなのかな……」と呟き、少し寂しそうに湯面を見つめた。
悠斗と話していたヘンリエッタが急に湯の中で身を起こし、滔々と語り始める。
「だって……セレネとの特訓、すっっっごく大変だったんだよ!
歩き方から話し方まで、何度も何度もやり直しさせられて……間違えると冷たい目で睨まれて、背筋が凍っちゃった。
笑い方も、声の出し方も、全部“愚直”としての振る舞いを覚えなきゃいけなくて……もう、泣きそうだったんだから!」
彼女の必死な訴えに、リィアは目を丸くし、エリスは思わず悠斗に視線を送る。
悠斗は苦笑しながらも、心の奥で「いったい何をされたんだ」と訝しんだ。
セレネは湯気の中で涼しい顔を保ち、静かに宣言する。
「今のままじゃ最初の町で全員捕えられて終わりよ。
出発までに、愚直としての演技を完璧に仕上げてみせるわ。
とことんやるわよ。……失敗すれば皆を危険にさらしてしまう」
最後の言葉だけは、自分だけに聞こえるよう呟いた。
その言葉に、ヘンリエッタは肩を震わせ、湯の中で小さく身を縮めた。
「ひ、ひぃ……またあんな目にあうの……?」
リィアは慌てて彼女の背をさすり、エリスは眉を寄せてセレネを睨む。
「……あなた、いったい何をしたの?」
悠斗もまた、心の奥で同じ疑問を抱いていた。
浴場の空気は湯気に包まれながらも、微妙な緊張を孕んでいた。
ヘンリエッタは悠斗の肩に頭を預け、安心と怯えが入り混じった表情を浮かべる。
その姿に、悠斗は複雑な思いを抱えながらも、静かに湯の温もりを受け入れていた。
やがて湯船の水音だけが響き、潜入前夜の静けさが訪れる。
だがその静けさは、嵐の前の一瞬の安らぎに過ぎなかった。




