霧消した愚直
明け方まで続いた戦闘はようやく終息し、すっかり夜は明けていた。
東の空から昇る陽光が瓦礫を照らし、黒く焦げた壁や崩れた塔を赤金に染めている。
その光は新しい一日の始まりを告げるはずだったが、城内に漂うのは安堵ではなく重苦しい疲労だった。
戦いが終わった直後の城内は、勝利の余韻とは程遠い姿を晒していた。
瓦礫が積み重なり、壁は裂け、焦げ跡が黒々と広がる。
兵士たちは負傷者を担ぎ、崩れた梁を取り除き、必死に復旧に追われていた。
「非戦闘員は後方へ退避させる。更なる攻勢を受ければ、防ぎきれる保証はない」
グラウスの判断は人道的な理由もあるが、残存戦力で非戦闘員の庇護に割く余剰戦力を抽出できないという戦略的判断だった。
住民たちは荷をまとめ、子どもを抱えながら疎開の列を作り始めた。
泣き声と呼びかけが交錯し、城門の外へと続く道は混乱の中で人々を押し流していく。
戦闘不能と見做された負傷兵も同様に後送されることになった。
彼らは残って戦うことを訴えていたが、グラウスは冷徹にそれを拒絶したのだ。
「……辛うじて持ちこたえたな」
グラウスが避難民の列を眺めながら、低く呟いた。
剣の束を握る手にはまだ震えが残っている。
悠斗はその言葉に答えなかった。
胸の奥にあるのは同じ思い――勝ったのではない、ただ敗北を免れただけだ。
その現実が、城内に残る者の胸に重くのしかかっていた。
ミラは負傷者の手当てに走り、リィアは鍋を抱えたまま動き回る。
鍋に水を汲んで負傷者に渡し、瓦礫を運ぶ際には即席の容器として使う。
その姿は戦場の母のようで、誰もが自然に彼女を頼った。
エリスは薬草をすり潰し、即席の薬を調合して傷口に塗布する。
確かな薬効で兵士たちを支える姿に、周囲は安堵の息を漏らした。
誰も休む暇はない。
戦場の余韻はまだ消えず、焦土の匂いが城を満たしている。
兵士たちの目には疲労と恐怖が混じり、それでも闘志を奮い立たせるように各々の務めを果たしていた。
悠斗は瓦礫を抱えながら、心の奥で噛みしめる。
これは勝利じゃない。
次に備えるための、わずかな猶予だ。
復旧の喧騒が続く城内で、悠斗は瓦礫を運びながらグラウスと短く言葉を交わした。
「このままでは次の一手を読めん」
グラウスの声は低く、疲労と苛立ちが混じっていた。
悠斗も頷く。
「敵の狙いが分からなければ、守りようがない」
そこへセレネが歩み寄る。
彼女の顔には冷静さが宿っていたが、その瞳は鋭く光っていた。
「ヘンリエッタから情報を得るべき。彼女は裂律座に属していた。何か知っているはず」
グラウスは眉をひそめる。
「尋問か……危険だ。油断すれば牙を剥く」
セレネは静かに首を振った。
「だからこそ、私が行きます。彼女の心の揺らぎを見極めるのは、私の役目」
悠斗は一瞬ためらい、やがて深く息を吐いた。
「……頼んだ。俺は復旧作業を続ける。何かわかったら教えてくれ」
セレネは踵を返し、ヘンリエッタの収容場所へと歩み去った。
その背中を見送りながら、悠斗は胸の奥に不安を覚える。
”愚直”から、果たしてどんな言葉が引き出せるのか――。
陽はすでに高く昇り、瓦礫の影を短くしていた。
復旧作業はまだ終わる気配を見せないが、城兵は高い士気を発揮し、必要な作業を続けていた。
通路脇には仮置きされた瓦礫が小さな山を形作っていた。
その中を、セレネが静かな足取りで悠斗のもとへ現れる。
彼女の表情は冷静さを保っていたが、どこか言葉を選んでいるような気配があった。
「悠斗……ヘンリエッタの様子が少し変だわ」
声は低く、慎重さが滲んでいた。
悠斗は瓦礫を抱えていた手を止め、振り返る。
「変……?」
セレネは短く頷く。
「詳しくは、直接見てもらった方がいい」
その言葉に、グラウスも眉をひそめた。
「相手は魔族だ。何を企んでいるか分からん。」
悠斗は深く息を吐き、決意を固めるように言った。
「……わかった。確認しよう。」
セレネは静かに頷き、一同はヘンリエッタを収容している城兵の詰め所に向かう。
歩きながら、悠斗は戦場で見たヘンリエッタの姿を思い出していた。
あどけない少女のような見た目、穏やかで柔らかな振る舞い、狂気に塗れた笑顔が向ける殺意。
どんな姿を目にすることになるのか――その不安が胸を締めつけていた。
収容室の扉の先で目にしたヘンリエッタは、まるで別人のようだった。
「セレネが着替えさせたのか?」
悠斗は問う。
「ええ、城兵に用意してもらったの。戦闘でボロボロになっていたから。」
セレネは短く答えた。
身に着けているのは淡い生成り色のワンピース。
襟元には小さなレースが縁取りされ、袖はふんわりと膨らんだパフスリーブ。
腰には細いリボンが結ばれ、裾は膝下で軽やかに広がっている。
足元は革靴ではなく、柔らかな布靴に履き替えられていた。
その装いは戦場で見せた軍装とは異なり、年相応の少女を思わせるものだった。
しかし、真の変化は服そのものではなかった。
彼女は足をぶらぶらと揺らし、落ち着きなく視線を彷徨わせている。
悠斗を見つけると、無邪気な笑みを浮かべて小さく呼びかけた。
「……お兄ちゃんはだあれ?私はヘンリエッタ!」
その声音は幼さを含み、戦場で対峙した時とはまるで別人だった。
予期せぬ少女との邂逅に、室内は困惑に包まれた。
生成りのワンピースに身を包んだヘンリエッタは、まるで年相応の少女のように振る舞っていた。
リィアがヘンリエッタの隣に立ち、優しく微笑みかける。
「お姉ちゃんが手に持っているのはなぁに?」
「これはね、お鍋だよ!」
時折笑顔を見せながら会話する二人をよそに、彼女の変化をどう受け止めるかで意見は割れていた。
「どういうことだ?」
悠斗の問いに、セレネは少しの間を置いて答える。
「あの子を拘束した時にわかったことだけど、私たちと対峙した時のあの子は何者かの制御下にあった可能性がある。魔力の流れが作為的だった。」
「つまり?」
グラウスが短く問う。
「私の推測が正しければ、おそらくはあれが本来のあの子の姿。」
セレネは静かに続ける。
「私だって困惑しているし、理解できていない。でも、今ある情報からはこの答以外は導けない。」
静かに、だが確信を持った声色に一同は一瞬沈黙する。
「見た目や振る舞いがどう変わろうと、魔族は魔族。危険であることに変わりはない。」
グラウスの声は低く、鋭い。彼の眼差しは一瞬たりともヘンリエッタから離れなかった。
彼はいつでも抜刀できるよう、大剣の束を握っていた。
ミラも頷き、短く言葉を添える。
「油断すれば、また牙を剥くかもしれない。ここで情に流されるのは危うい」
一方で、エリスは薬草の匂いが残る手を握りしめながら口を開いた。
「でも……本来の人格に戻ったのなら、助けるべきです。彼女も犠牲者かもしれない」
リィアは鍋を抱えなおし、ヘンリエッタに優しい笑みを向けると悠斗に向き直った。
「悠斗、私は信じても良いと思うよ。」
室内の空気は張り詰めたまま、結論はまだ出ない。
だが確かに、ヘンリエッタの存在は一同に新たな問いを突きつけていた――敵か、味方か。
悠斗は皆の言葉を聞きながら、胸の奥で葛藤していた。
戦場で敵として対峙した魔族の幹部――“愚直”と、今目の前にいるあどけない少女――その落差が大きすぎる。
「……彼女が何者で、何を知っているのか。まずはそれからだ。」
疑念の中から絞り出すように、悠斗は言葉を紡いだ。
張り詰めた空気の中、沈黙していたヘンリエッタがふいに口を開いた。
「……みんな、怖い顔してる」
彼女は椅子の上で膝を抱え、視線を落としたまま小さく呟いた。
ワンピースの裾を指先でいじりながら、怯えたように続ける。
「私……どうしてここにいるの? 気づいたら、知らない服を着せられてて……」
悠斗は息を呑んだ。
「昨夜のことは……俺たちと戦ったことも……覚えていないのか?」
ヘンリエッタは首を横に振り、瞳に涙を浮かべて答えた。
「わからない、何も思い出せない。気づいたら、ここにいて……私何かお兄ちゃんたちにひどいことをしたの?」
ヴァイトリング伯は険しい表情を崩さず、低く言葉を投げる。
「記憶がないと言うか……それもまた演技かもしれん」
リィアは鍋を抱え直し、そっと彼女の肩に手を置いた。
「なら、今のあなたは誰なの?」
ヘンリエッタは震える声で答えた。
「……私はヘンリエッタ。私が何をしちゃったのかわからないけど、リィアやお兄ちゃんに嫌われたくない……」
その言葉に、室内は混迷の度をより深める。
室内の空気は重く、誰もが言葉を失っていた。
その沈黙を破ったのは、セレネだった。
彼女は一歩前に進み、ヘンリエッタの正面に立つ。
瞳は冷静に澄み渡り、声は柔らかくも鋭さを帯びていた。
「ヘンリエッタ。あなたは昨夜の戦いを覚えていないと言ったわね」
セレネの問いに、少女は小さく頷く。
「では、最後に覚えていることを話して。どこで、誰と、何をしていたのか」
言葉は淡々としていたが、逃げ場を与えない響きを持っていた。
ヘンリエッタは裾を握りしめ、視線を泳がせる。
「……暗い場所にいた気がする。冷たい石の匂いがするところ。誰かの声が聞こえて……でも、顔は思い出せない」
セレネはその答えを聞きながら、眉をわずかに寄せた。
「声だけ、ね。それは命令のようだった?それとも何か別のもの?」
一拍置いて、さらに問いを重ねる。
「あなたの意思は、そこにあった?」
「……命令、だったと思う。頭の中で声がして、従わなきゃいけないって、体が勝手に動いて……」
ヘンリエッタの声は震え、涙が頬を伝った。
ヴァイトリング伯は腕を組み、険しい表情を崩さない。
ミラは鋭い視線を向けながらも、セレネの問いを見守っていた。
エリスは胸に手を当て、祈るように少女を見つめる。
リィアは鍋を抱えたまま、そっと肩に触れて支え続けていた。
セレネは静かに息を吐き、結論を急がずに言葉を重ねる。
「あなたが何者であるかを決めるのは、まだ早い。けれど――この証言が真実なら、あなたが“愚直”として戦った時、自分を見失っていた可能性がある」
室内の空気はさらに張り詰める。
敵か、犠牲者か。
その境界線を見極めるための尋問は、まだ始まったばかりだった。
一時間ほど尋問は続けられたが、ヘンリエッタから得られる情報は断片的で、結局それ以上の手掛かりは得られなかった。
室内には重苦しい沈黙が漂い、やがてグラウスが口を開く。
「信用に足る証拠はない……ならば、利用価値を考えるべきだ。魔族に対して人質として機能するかもしれん」
その声は冷徹で、戦場を生き抜いてきた者の現実を映していた。
ミラも腕を組み、短く言葉を添える。
「ヴァイトリング伯の意見に賛同する。無条件に信じるのは危険だ。情に流されて判断を誤るわけにはいかない」
しかしリィアは即座に反発した。
「人質なんて……そんな扱いは許せない!彼女は怯えているだけなのに!」
鍋を抱え直し、怒りを隠さずに声を張る。
セレネは静かに首を振り、冷静な声で告げた。
「おそらく人質としての価値はないわ。魔族にとって彼女は駒にすぎない。……人質としての価値がないのは私自身も同じだけど」
その言葉に、一同は一瞬言葉を失った。
沈黙を破ったのはヘンリエッタ自身だった。
「……私にできることなら、何でも協力する。お兄ちゃんたちの役に立てるなら、人質でもなんでもやる。」
涙を拭いながらも、その声には決意が宿っていた。
エリスは彼女を見つめ、慎重に言葉を選ぶ。
「なら、魔族の幹部としての地位を利用できないかな。彼女が“愚直”だったことを逆手に取れば……魔族側に疑念を抱かせずに接近できる可能性がある。……魔族領に潜入する手がかりになるかもしれない」
その提案に、室内の空気は再び張り詰める。
魔族領への潜入――危険な道だが、今の状況では唯一の突破口でもあった。




