焦土の縁にて
北門の外は、焼け焦げた匂いで満ちていた。
霜を帯びた空気に、血と灰が混じる。
風は止まり、音は沈み、戦場は一瞬だけ静寂を取り戻していた。
第一波は退けた。
だが、勝利の実感はなかった。
城壁は裂け、補強材は焦げ、兵士たちは疲弊していた。
弓兵の半数は矢を失い、盾列は布で縫い止められたまま、息を整える暇もなく次の命令を待っている。
グラウスは剣を下げたまま、門前に立っていた。
左腕に巻いた布は血で重く、甲冑の隙間から冷気が染み込む。
だが、彼の目は前を見ていた。
地平の向こう、まだ何も現れていない場所を。
「……浅かったな」
誰に向けた言葉でもない。
第一波の攻勢は激しかった。
だが、押し切る意志がなかった。
数は揃っていた。
炎もあった。
だが、波は浅く、突破のための芯が欠けていた。
まるで、試されていたかのようだ。
兵士たちは黙々と動いていた。
負傷者を運ぶ者、崩れた石を積み直す者、血に濡れた武器を拭う者。
歓声はない。
安堵もない。
ただ、次が来ることを知っている者たちの動きだけがあった。
グラウスは剣を地面に突き立て、短く息を吐いた。
白い息が霜に溶け、すぐに消える。
「静かだ……まるで嵐の前触れだな」
その言葉に、近くの兵がわずかに肩を強張らせた。
誰もが感じていた。この静寂は、終わりではない。
始まりの前の、わずかな隙間なのだ。
グラウスは前へ一歩踏み出す。
剣を引き抜き、左腕の布を締め直す。
彼の目は、地平の向こうを見据えていた。
次は、深い。
それだけは、確かだった。
霜を踏み砕く音が、北門の静けさを裂いた。
三つの影が駆けてくる。
先頭は剣を背に、次は鍋を抱え、最後は薬包の重みを肩に受けていた。
ミラ、リィア、エリス――焦土の縁に、援軍が到着した。
門前の空気は重い。
城壁は裂け、補強材は焦げ、兵士たちは疲弊していた。
弓兵の半数は矢を失い、盾列は布で縫い止められたまま、息を整える暇もなく次の命令を待っている。
負傷者の搬送は滞り、血の匂いが風に乗って城壁の外まで漂っていた。
グラウスは剣を下げたまま、三人を迎えた。
「来たか。助かる」
声は掠れていたが、確かな安堵があった。
ミラは返事をせず、剣を抜いた。
焦土の空気を吸い込み、前線の裂け目を一瞥する。
「私が前線に加わる。崩壊する前に、防衛線を立て直すぞ」
彼女の声に、兵士たちの背筋がわずかに伸びた。
ミラは戦列の薄い箇所へ滑り込み、剣を低く構える。
刃先が地面の熱を拾い、微かに震えた。
リィアは鍋を地面に据え、金属の縁を叩いた。
淡い光が門前に広がり、崩れかけた防壁を結界が覆った。
「搬送路は右へ。負傷者は結界の内側に。ここなら守れるから」
彼女の声に応じ、兵士たちが負傷者を運び込む。
結界は壁ではない。
時間を稼ぐための膜だ。
リィアはその膜を、寸分の狂いなく張り直していく。
エリスは薬包を握り直し、後方から列を支える。
「傷は深いけど、まだ助かる。これを噛んで、痛みを抑えて」
血に濡れた兵士の手に薬を押し込み、次の瞬間には矢を番えて側面を警戒する。
「空気が重い……すぐそこまで来ている」
感覚で迫る危機を察し、声を張る。
兵士たちが盾を寄せ合い、列の角度を整える。
三人の到着は、兵士たちにとって一筋の光だった。
乱れた列に再び秩序が戻り、焦土の縁に立つ防衛線は辛うじて形を取り戻す。
だが、余裕はない。
兵の数は減り、城壁は傷だらけ。
援軍が加わってもなお、次の波を受け止める力はぎりぎりだった。
グラウスは短く頷いた。
「縫い目は何とか整った。あとは、破れないことを祈るだけだ」
その言葉に、ミラは剣を構え、リィアとエリスは後方で支援の位置を定めた。
戦場の呼吸が、わずかに整い始める。
だが、その底にはまだ不穏な震えが潜んでいた。
次の波は、もうすぐそこまで来ている。
風が止まった。
いや、止んだのではない。
空気が、別のものに変わった。
霜を含んでいたはずの冷気が、じわりと湿り気を帯びる。
焦げた匂いが再び濃くなり、地面に残っていた白霜が、音もなく溶けていく。
兵士たちの吐息が白くならないことに、最初に気づいたのは弓列の端にいた若い兵だった。
彼は何かを言いかけて、口を閉じた。
ミラは剣の柄を握り直し、地面に耳を澄ませるように目を細めた。
「……来る」
その一言に、前列の兵たちが無意識に足を詰める。
盾と盾の隙間が狭まり、呼吸が浅くなる。
リィアは鍋の縁に手を置き、結界の膜を見つめた。
光の揺らぎが、わずかに波打っている。
「膜が……押されてる。まだ何も触れてないのに」
彼女は低く呟き、補強の術式を重ねる。
膜の縁がきしむように震えた。
エリスは薬包を握ったまま、矢を番える。
側面の兵が盾を傾け、弓兵が配置を変える。
誰もが、まだ見ぬ敵の気配を感じ取っていた。
グラウスは剣を肩に担ぎ、門前に立った。
「第一波より深いぞ。列を崩すな。押し返すな。耐えろ」
声は低く、だが確かに届いた。
兵たちの背筋が、わずかに伸びる。
地面が、鳴った。
それは足音ではない。
熱が土を踏みしめ、空気の密度を変える音だった。
焦土の上に、再び熱が立ち上る。
ミラの刃がわずかに震えた。
リィアの鍋が低く唸り、膜の縁が赤く染まり始める。
エリスの矢羽が、湿った空気にわずかに引っかかる。
地平が歪んだ。
熱の揺らぎが空気を裂き、焦土の向こうに一つの影が現れる。
それは炎ではなかった。
だが、炎よりも確かに熱を孕んでいた。
男が歩いてくる。
甲冑も武器も持たず、ただ布のような外套をまとい、ゆっくりと、だが確実に。
その足取りに合わせて、地面の霜が蒸気に変わり、空気が焼けるように軋む。
彼の周囲には、誰も近づけない。
熱が、空間そのものを拒絶していた。
「……何だ、あれは」
ミラが低く呟く。
刃を構えたまま、彼女の足がわずかに後ろへ下がる。
だが、すぐに踏み直す。
グラウスは剣を肩に担ぎ、前へ出た。
「前線は、俺とミラが支える。後列は守りを崩すな!」
その声に、リィアとエリスが頷く。
リィアは鍋の縁を叩き、結界を厚くする。
膜が赤く染まり、熱を押し返すように震える。
「この熱、結界が吸いきれない……でも、まだ持つ」
エリスは矢を番え、薬包を口に咥える。
「風が逆巻いてる。矢が流される……でも、撃つ」
彼女の指が震えながらも、確かに弦を引いた。
男は門前、十歩の距離で立ち止まった。
その目は笑っていない。ただ、観察している。
そして、何の前触れもなく、手を上げた。
空気が爆ぜた。
熱が一点に集中し、地面が膨らむように弾ける。
爆風ではない。
熱そのものが衝撃となって押し寄せた。
前列の兵が吹き飛ばされかけ、グラウスが剣を盾のように構えて踏みとどまる。
ミラはその背後から回り込み、男の側面を狙う。
だが、刃は届く寸前で逸らされた。
空気が歪み、熱の膜が軌道を変えたのだ。
「……空間ごと、焼いているのか」
ミラが呟く。
男は微笑んだ。
「焼くのではない。整えているだけだ」
彼は一歩、前へ出る。
その足元で、地面が音もなく蒸気を上げる。
そして、静かに名乗った。
「列の密度、反応速度、熱耐性……なるほど。
観測は十分だ。
私は裂律座第四席、焔喰のヴェルデ。
熱とは混沌ではない。秩序だ。
君たちがどこまで“整えられる側”でいられるか、確かめさせてもらおう」
その言葉に、兵士たちの背が強張る。
誰もその名を知らなかった。
だが、今目にした出来事だけで、彼がただ者でないことは理解できた。
ヴェルデが動いた。
その一歩は静かだった。
だが、空気が焼けた。
彼の足元から放たれた熱が地面を這い、前列の兵士たちの足元を撫でるように走る。
皮膚が焼ける前に、感覚が先に悲鳴を上げた。
「下がれ!」
グラウスの声が飛ぶ。
だが、兵たちは動けない。
熱が空気を縫い止めている。
動けば、焼かれる。止まっても、削られる。
ミラが前へ出た。
刃を低く構え、ヴェルデの懐へ踏み込む。
だが、彼の周囲には見えない壁があった。
熱の流れが空間を歪め、刃の軌道を逸らす。
「……近づけない」
ミラの声は低い。
だが、怯えではない。
彼女はすでに、次の動きを探していた。
グラウスが横から斬り込む。
剣が熱の膜を裂きかけた瞬間、ヴェルデが指を鳴らした。
爆ぜたのは空気だった。
一瞬で膨張した熱が衝撃波となり、二人を弾き返す。
ミラが地面を転がり、グラウスが膝をつく。
「……すばらしい、期待以上の反応だ。
だが、限界は近い」
ヴェルデは淡々と呟く。
彼にとって、これは戦いではない。
観測の延長。
秩序の調整。
リィアの鍋が悲鳴のような音を立てる。
鍋の内側に刻まれた術式が、赤く脈打つように光っていた。
この鍋は、彼女が独自に編み出した結界術の核だ。
鍋の内壁に刻まれた螺旋式の封熱紋が、周囲の熱を吸収し、結界膜へと変換する。
本来は局所的な防御や搬送路の保護に使われる術だが、今は戦場全体を支えている。
「持たない……この熱、もう限界……!」
リィアは必死に術式を重ねる。
だが、鍋の縁が波打ち、膜がじわじわと崩れ始めていた。
熱の流入が吸収速度を超え、結界の縫い目が焼き切れようとしている。
エリスは矢を放つ。
だが、風が熱に巻き込まれ、矢は軌道を失う。
「……届かない。でも、撃つしかない」
彼女は薬包を噛み、次の矢を番える。
戦場が焼かれていく。
空気が重く、音が鈍くなる。
兵士たちの動きが遅れ、列の密度が崩れ始める。
「ミラ、下がれ」
グラウスが立ち上がり、剣を構え直す。
「俺がここを支える。お前は戦線を縮小し、秩序を回復するのだ。崩壊を防げ」
ミラは一瞬だけ迷った。だが、頷く。
「……わかった。戦線は崩させない」
彼女は後方へ下がり、戦力の再配置を指示する。
一刻も早く、戦線崩壊に対処し、グラウスに加勢するのだ。
逸る気持ちを抑えながら、ミラは務めを果たしていた。
グラウスが一人、ヴェルデの前に立つ。
「君は、よく持った」
ヴェルデの声は静かだった。
「だが、秩序は崩れるためにある。
私はそれを壊し、整え直すだけだ」
グラウスは応じない。
ただ、剣を構え、足を踏みしめる。
その姿は、焦土の上に立つ最後の杭のようだった。
熱が再び膨らむ。
空気が震え、地面が軋む。
戦場が、限界の縁に達しようとしていた。




