整える者と壊す者
魔術式が再び脈打つ。
空気が震え、戦場が動き始める。
紫と黒の光が渦を巻き、地面を裂きながら迫ってくる。
式の輪郭はもはや幾何学ではなく、感情の奔流そのものだった。
破壊のための構造ではない。
壊すこと自体が目的になった魔術。
「来る……!」
俺は剣を構え、セレネの横に立つ。
彼女の障壁が展開される。
六角形の紋が連なり、空間を包む。
だが、先ほどまでのような安定はない。
式盾の縁がわずかに軋み、魔力の流れが乱れている。
「……防ぎきれない」
セレネが低く呟いた。
「この魔術、もう“構造”じゃない。感情で動いてる。だから、整えられない」
「じゃあ、どうする」
俺は問いながら、視線を前に向ける。
ヘンリエッタは笑っていた。
その笑みは、壊れていた。
優雅で、整っていて、なのに明らかに狂っていた。
「うふふ……ふふふふふ……」
彼女は両手を広げ、まるで舞うように魔術式を操っている。
「もっと壊して……もっと、もっと……あなたたちの秩序を、全部、ぐちゃぐちゃにしてあげる……!」
次の瞬間、地面が爆ぜた。
俺たちは跳ぶ。
だが、着地の先にも式が展開されていた。
熱の奔流が足元を焼き、視界が白く染まる。
「っ……セレネ、大丈夫か!」
「……なんとか。でも、もう長くは持たない」
彼女の声がかすかに揺れる。
「このまま受け続ければ、式盾が崩れる。そうなれば、私たちは……」
言葉の先は、言うまでもなかった。
俺は歯を食いしばる。
防御では、もう限界だ。なら――
「攻めるしかないな」
俺は剣を構え直す。
「次の一手で、崩す。あの式の“間”を狙う」
セレネが横目で俺を見る。
その瞳に、わずかな光が戻っていた。
「……わかった。整えるわ。あなたの間合いに」
魔術式がうねる。
俺は剣を構えながら、ヘンリエッタの魔術式の動きを見ていた。
紫と黒の光が渦を巻き、空間を裂く。
それはまさに統制された無秩序であり、不連続性を持った反復でもあり、破壊という結果以外に一貫性を持たなかった。
だが、その展開には“癖”がある。
再構築のたびに、式の縁がわずかに遅れる。
魔力の流れが、ほんの一瞬だけ滞る。
「……見えた」
俺は低く呟いた。
「悠斗?」
セレネが横目で俺を見る。
「式の再構築、毎回同じ軌道をなぞってる。癖っていうか、最短手順に固執してる。……だから、次の展開が読める」
セレネの瞳がわずかに見開かれる。
「それ、確信ある?」
「ある。……“適応”ってやつかもしれないけど、今はただ、見えるんだ。式の“間”が」
彼女は一瞬だけ沈黙し、そして頷いた。
「なら、整える。あなたの間合いに合わせて、式の流れを断つ」
俺は剣を握り直す。
ヘンリエッタの魔術式が、次の展開に入る。
空間が軋み、熱が走る。
「今!」
俺は踏み込む。
剣が地面の術式の接点を断ち切る。
その瞬間、セレネの魔力が流れを整え、式の再構築が一瞬だけ止まる。
だが今回は、ただの“遅延”ではなかった。
「そこだッ!」
俺はさらに踏み込み、剣を振り抜いた。
狙ったのは、術式の中心――魔力の“核”が集中する座標。
刃がそこを貫いた瞬間、空間が軋み、紫の光が逆流した。
「っ……!」
ヘンリエッタの身体がわずかにのけぞる。
術式の輪郭が崩れ、再構築のための基盤が破断されていく。
「核構造……破損。魔力流路……逆流。再構築……不能」
彼女の声が、かすかに震えていた。
セレネがすかさず魔力を展開し、崩れた式の残響を封じる。
「今の一撃で、術式の“根”が断たれた。構造が壊れた以上、もう再現はできない」
俺は息を整えながら、ヘンリエッタを見た。
彼女は、まだ立っていた。
だが、その瞳には明らかな動揺があった。
「……反応速度、乖離。命令手順、逸脱の兆候……」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いていた。
「これは……これは、想定外……?」
その言葉に、俺は確信した。
“愚直”が、揺らぎ始めている。
紫の光が逆流し、黒の紋が崩れた。
空間が一瞬だけ静まり返る。
熱も圧も消え、ただ、風の音だけが残った。
ヘンリエッタは、膝をついていた。
彼女の周囲に展開されていた魔術式は、すでに崩壊している。
式の輪郭は消え、地面に残ったのは焼け焦げた痕跡だけ。
再構築のための基盤は破断され、魔力の流路は逆流していた。
彼女の身体には、術式の残響がまだまとわりついているが、それはもはや制御不能な“残骸”だった。
「……命令、遂行……不能」
その声は、かすれていた。
セレネは静かに彼女を見ていた。
魔力の収束を解き、外套の裾を整える。
俺も剣を下ろし、呼吸を整える。
「もう終わりよ、ヘンリエッタ」
セレネの声は冷たくも、優しかった。
「でも、私は……」
ヘンリエッタは言葉を探すように、唇を震わせた。
「私は、命令を……守ろうと……」
「それはもう命令じゃない」
俺は言った。
「お前がやってたのは、願望だ。自分の壊れた秩序を、他人に押しつけてただけだ」
ヘンリエッタの瞳が揺れる。
その奥に、何かが崩れていく音がした。
「……そう、ですね」
彼女は微笑んだ。
「私、壊れてたんですね。セレネ様が逸脱したとき、私の中の“最短距離”が、見えなくなった」
セレネは何も言わなかった。
ただ、静かに彼女を見ていた。
「でも、嬉しかったんです」
ヘンリエッタは続けた。
「命令じゃなくて、自分の意思で、あなたを殺したいと思えたこと。……それって、私にとっては、愛だったんです」
「“愚直”は、命令の器であるべきだった。感情なんて、持っちゃいけなかったのに……」
ヘンリエッタは、ゆっくりと地面に手をついた。
魔力はもう、残っていない。
彼女の術式は、完全に崩壊していた。
風が、止んでいた。
戦場に残るのは、焦げた地面と、魔力の残響がかすかに軋む音だけ。
紫と黒の光は消え、空間の歪みも収束しつつある。
だが、完全には戻らない。
裂かれた境界は、まだどこかで呻いていた。
ヘンリエッタは膝をついたまま、動かない。
術式は崩壊し、魔力の流路は逆流している。
再構築は不可能。
それでも、彼女はまだ意識を保っていた。
その顔には、敗北の苦悶ではなく――どこか、満ち足りた微笑が浮かんでいた。
「……負けた、私が……」
その声は、ひどく静かだった。
まるで、壊れた玩具が最後の音を鳴らすように。
セレネは無言で外套の紋を展開した。
王家の拘束術式――対象の魔力残響を封じ、空間ごと固定する構造。
淡い金の光が空気に滲み、六重の封印陣が静かに回転を始める。
「拘束するわ。彼女は魔族。しかも、裂律座の構造に深く関わっている」
術式が展開されると同時に、ヘンリエッタの身体が淡く光に包まれた。
彼女は抵抗しない。
ただ、静かに目を閉じる。
「……セレネ様に、捕まるなら……それも、幸せです」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
命令に従う“端末”としての彼女は壊れた。
けれど、感情は残っている。
歪んだまま、確かに。
セレネは、彼女の魔力残響を解析しながら、低く呟いた。
「……やっぱり、異常ね。百年も生きていない魔族が、ここまでの術式を扱えるなんて」
「百年も……って、そんなに若いのか?」
「ええ。魔族としては、まだ“幼い”部類よ。せいぜい、八十年程度」
セレネはさらりと言ったが、俺は思わず彼女を見た。
(“幼い”で八十年……? じゃあ、セレネは……何歳なんだ)
問いかけかけたが、言葉にはしなかった。
彼女の横顔は静かで、どこか遠くを見ていた。
「この魔術構造、通常の魔族でも到達できる領域じゃない。魔力の密度も、式の展開速度も、常識外。……本来、あり得ないのよ」
「つまり……誰かが、意図的に作った?」
「ええ。裂律座の上位階層。彼女は、設計された“端末”だった可能性が高い」
その言葉に、空気がわずかに震えた気がした。
風が、再び吹き始める。
だがその風は、さっきまでとは違う。
境界の空気が、わずかに逆巻いている。
まるで、誰かがこちらを“見ている”かのように。
「……俺たち、見られてるな」
「ええ。彼女を通じて、私たちの“適応”も」
セレネは魔力の流れを閉じ、拘束術式を固定した。
六重の封印が静かに沈み込み、空間が再び静寂に包まれる。
「まずは解析と隔離。……処分は、それから考える」
その声は冷たくも、揺らぎがなかった。
俺は頷いた。
だが、次の瞬間、セレネが空を見上げる。
「……北門が揺れてる。魔力の流れが乱れてるわ」
「援護に行くか?」
「ええ。ここは封じた。次は、あちらを整える番」
俺たちは踵を返す。
焦げた地面を踏みしめ、北門へ向かって歩き出す。
その背後で、封印の中心に眠るヘンリエッタへ、セレネが小さく囁いた。
「あなたは、命令に従うことで自分を保っていた。
でも、壊れた命令の先に残ったもの――それが、あなたの本当の形なのかもしれない」
風が、静かに吹いた。
その言葉が、封印の中に届いたのかどうかは、誰にもわからなかった。




