裂律の火蓮
地面が、鳴った。
ヘンリエッタの足元に淡い光の輪が広がり、霜を帯びた草原に幾何学的な紋様が刻まれていく。
赤と黒の魔力が交錯し、空気がきしむ。
俺は剣の柄に手をかけたまま、彼女の動きを見逃さないように視線を固定した。
「来る!」
セレネの声が鋭く響く。
外套の裾が翻り、彼女の指先から光が放たれた。
空間に展開されたのは、淡い青の魔力障壁。
六角形の紋が連なり、蜂の巣のような構造を形成する。
そこに、ヘンリエッタの魔術が衝突した。
轟音はなかった。
ただ、空気が一瞬だけ震え、視界が白く染まった。
「王家式盾術……」
俺はその構造を見て、思わず息を呑んだ。
あれは、ただの防御じゃない。
魔力の流れを“整える”ことで、衝撃そのものを受け流す構造だ。
セレネの横顔は冷静だった。
だが、その額にはわずかに汗が滲んでいる。
「初撃でこれとは……さすが“愚直”。殺すための最短手順を、迷いなく選んでくる」
ヘンリエッタは、障壁の向こうで静かに立っていた。
魔術式はまだ消えていない。
むしろ、次の攻勢へと移行しつつある。
「あなたたちが止めると決めたのなら、私は排除する。それだけです」
その声は、まるで祈りのように静かだった。
俺は剣を抜いた。
空気が、戦場に変わった。
魔術式は、止まらなかった。
地面に刻まれた紋様は、第一波を放ったあとも再構築を続けていた。
赤と黒の光が脈打つように交互に明滅し、式の輪郭がわずかに変化していく。
まるで、相手の動きに合わせて自動で“最適化”されているかのようだった。
「式が……動いてる」
俺は剣を構えながら、足元の魔力の流れを見た。
「固定式じゃない。連鎖式か?」
「ええ。連鎖式・火蓮陣」
セレネが答える。
声は冷静だが、視線は鋭い。
「対象の動きに応じて、式が再構成される。予測不能じゃない。むしろ、最短で殺すための“最適化”よ」
ヘンリエッタは、魔術式の中心に立ったまま動かない。
だが、彼女の周囲には常に“次の一手”が用意されていた。
俺が一歩踏み出すと、地面の紋様が即座に反応し、熱の奔流が足元を狙って走る。
「っ……!」
俺は剣で魔力の流れを断ち切り、横へ跳んだ。
だが、跳んだ先にも式が展開されている。
「動きに合わせて、式が追ってくる……!」
「それが“愚直”よ」
セレネが言う。
「命令を遂行するために、最短距離で最適化された殺意。思考の余地はない。だからこそ、止めづらい」
ヘンリエッタは、俺たちの動きを見ていた。
だが、その目に感情はなかった。
ただ、命令を遂行するために、最も効率的な手段を選び続けているだけ。
「あなたの剣技、記録にありました」
彼女が言った。
「王都騒乱での動き。魔族との接触時の対応。……反応速度、判断力、戦闘域。すべて、解析済みです」
「……俺のこと、どこまで調べてるんだよ」
俺は低く返す。
「使い走りの任務じゃなかったのか?」
「ええ。任務は“選択を促す”ことでした」
ヘンリエッタは頷いた。
「でも、あなたが“整える者”の兆しを持っているなら、話は別です。排除は、命令の範囲内」
「勝手な解釈ね」
セレネが一歩前に出る。
「それはもう“愚直”じゃない。逸脱よ」
「逸脱ではありません。命令の“最短距離”を選んだだけです」
ヘンリエッタの声は、祈りのように静かだった。
魔術式が再び脈打つ。
地面が震え、空気が熱を帯びる。
俺は剣を構え直した。
セレネの魔力が、再び指先に集まっていく。
「……なら、こっちも最短で止める」
俺はそう言って、前へ踏み出した。
式が、わずかに遅れた。
俺は跳びながら、足元の魔術式の再構成を見ていた。
赤と黒の紋が交差し、次の攻撃が生まれるはずの瞬間――ほんの一瞬、光の流れが滞ったように見えた。
「……今だ」
俺は剣を振る。
狙ったのは地面の式の縁、魔力の流れが集中する接点。
刃がそこを断ち切ると、式が一部崩れ、熱の奔流が逸れた。
ヘンリエッタの目が、わずかに動いた。
「反応速度、変化」
彼女は呟くように言った。
「記録と乖離。……適応、兆候あり」
俺は息を整えながら、彼女の言葉を反芻する。
“適応”? 何の話だ。俺はただ、動いた。それだけだ。けれど――
「悠斗」
セレネの声が背後から届く。
「今の動き、意図してた?」
「いや……なんとなく、式の“間”が見えた気がして」
俺は正直に答える。
「いつもなら、ああいう式は連鎖が止まらない。でも、今回は……」
セレネは俺の横に並び、視線を前に向けた。
「あなた、やっぱり……兆しがあるわね」
「兆し?」
「“適応”のことよ。魔術式の流れを読むなんて、普通はできない。けれど、境界に感応し始めた者には、時折そういう瞬間がある」
セレネの声は低く、しかし確信に近いものを含んでいた。
「裂律座が警戒するのは、そういう存在」
俺は言葉を失った。
そんなこと、考えたこともなかった。
けれど、今の感覚は確かに“見えた”のだ。
式の再構成が、ほんの一瞬だけ遅れたことを。
ヘンリエッタは、静かに魔術式を再構築していた。
だが、その動きは先ほどよりもわずかに粗い。
俺の一撃が、彼女の“最短距離”を乱したのだ。
「……なら、もう一度」
俺は剣を構え直す。
「今度は、狙ってやる」
セレネが横目で俺を見た。
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「いいわ。合わせる」
魔術式が再び脈打つ。
空気が震え、戦場が動き始める。
式が、乱れた。
俺の剣が再び地面の接点を断ち切ると、魔術式の一部が崩れ、連鎖が一瞬だけ途切れた。
熱の奔流が逸れ、空気が揺らぐ。
ヘンリエッタの動きが止まる。
その瞳が、俺を見た。
さっきまでと違う。
無表情でも、無感情でもない。
そこには、確かに“感情”があった。
「……なるほど」
彼女はぽつりと呟いた。
「そういうことですか。あなたは、私を“止める”つもりなんですね」
その声は、どこか嬉しそうだった。
「いいえ、違う。あなたは、私を“否定”した。私の最短距離を、あなたは拒んだ。……それは、つまり――」
彼女の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「私の存在そのものを、否定したってことですよね?」
魔術式が、変質する。
赤と黒の紋様が崩れ、代わりに紫が混じり始める。
式の輪郭が不安定に脈打ち、空間が軋むような音を立てる。
地面がひび割れ、空気が焦げる。
「セレネ、下がれ!」
俺が叫ぶと同時に、彼女は障壁を再展開した。
「これは……制御を外してる。自分の式を、壊してるわ」
「壊してる?」
俺は思わず聞き返す。
「ええ。最短距離を最適化する“愚直”の構造を、自分で破壊してる。……つまり、これはもう命令じゃない。彼女自身の意思よ」
ヘンリエッタは笑っていた。
その笑みは、どこか壊れていた。
優雅で、整っていて、けれど明らかに“狂って”いた。
「うふふ……ふふふふふ……」
彼女は口元を手で隠しながら、肩を震わせて笑っていた。
「嬉しい……こんなに、嬉しいなんて……! 私、今、命令されてないのに、あなたたちを殺したいって思ってる……!」
「ヘンリエッタ……」
セレネが低く呟く。
「ねえ、悠斗さん。あなた、私のこと、怖いですか?」
ヘンリエッタは首を傾げた。
「“整える者”って、境界を安定させるんですよね? でも、私は今、境界を壊したい。あなたの中の秩序を、ぐちゃぐちゃにしたい。……それって、矛盾ですね?」
俺は言葉を失った。
彼女の言葉は、論理的で、整っていて、なのにどこか根本から狂っていた。
「だから、殺しますね」
彼女はそう言って、両手を広げた。
紫と黒の魔術式が爆ぜた。
空間がねじれ、地面が裂ける。
熱と圧が一気に押し寄せ、視界が歪む。
俺は剣を構え、セレネの背に並んだ。
「来るぞ……!」
セレネは応えず、静かに魔力を収束させていた。
彼女の指先に王家の紋が浮かび、空気が震える。
詠唱はない。
ただ、意志と構造だけで術式が形を成していく。
俺は、彼女の横顔を見た。
初めて会ったのは、王都じゃない。あの村だった。
魔族の残滓が漂う、境界のほころびの中で。
彼女は、誰よりも冷静で、誰よりも遠かった。
けれど、今は違う。
俺の動きに合わせて、魔力の流れが変化している。
彼女は俺を信じている。
俺の剣が、彼女の術式と噛み合うと知っている。
「セレネ」
俺は小さく呼びかける。
彼女は振り返らない。
ただ、短く答えた。
「合わせるわ。あなたの間合いに」
その言葉に、俺は息を整えた。
この戦いは、俺たちのものだ。
境界の形を決めるのは、命令じゃない。
意志だ。
魔術式が炸裂する。
だが、セレネの障壁は崩れなかった。
六角形の紋が連なり、蜂の巣のような構造が空間を包む。
紫と黒の奔流がぶつかっても、式盾は揺るがない。
衝撃は受け流され、熱は分散される。
「完璧な防御……」
俺は思わず呟いた。
ヘンリエッタの動きが止まる。
その瞳が、セレネを見ていた。
さっきまでと違う。
無表情でも、無感情でもない。
そこには、確かに“感情”があった。
「セレネ様ぁ……」
彼女は甘えるような声で呼びかける。
「あなたは、私の“理想”だったんですよ。命令に忠実で、秩序を守って、誰よりも冷静で、誰よりも美しい。……だから、だからこそ……!」
その声が、軋む。
「あなたが“逸脱”したとき、私、壊れたんです。あなたが王都を捨てて、境界に立ったとき。あなたが“整える者”に肩入れしたとき。……私の秩序が、崩れたんです」
セレネは何も言わない。
ただ、魔力を整え続けていた。
「だから、殺しますね」
ヘンリエッタは微笑んだ。
「あなたを殺して、秩序を取り戻すんです。あなたがいなくなれば、私はまた“愚直”に戻れる。……そうすれば、きっと褒めてもらえる」
「……それが、あなたの願いなのね」
セレネの声は静かだった。
「私を殺して、命令に戻る。自分の意思を否定して、安心する。……それが、あなたの“忠誠”」
ヘンリエッタは頷いた。
「ええ。それが、私の“愛”です」
魔術式が収束する。
だが、今度は違う。
式の輪郭が不安定に脈打ち、空間が軋むような音を立てる。
地面がひび割れ、空気が焦げる。
これはもう、命令の魔術じゃない。
執着の衝動だ。
「悠斗、合わせて」
セレネが言った。
「了解」
俺は剣を構え直す。
彼女の魔力の流れに合わせて、動く。
だが――
「速い!」
俺が叫ぶと同時に、式が変則的に展開された。
予測不能な軌道。
魔力の流れが乱れ、障壁が一部軋む。
「崩される……!」
セレネが魔力を再構成する。
だが、ヘンリエッタの式は止まらない。
「うふふ……ふふふふふ……」
彼女は笑っていた。
「嬉しい……こんなに、嬉しいなんて……! あなたを壊せるなら、私も壊れていい……!」
俺たちは、押されていた。
完璧な防御は、執着の暴走に軋み始めている。
「セレネ、次の一手で決める。俺が動く。合わせてくれ」
「……わかった。整えるわ。あなたの間合いに」
魔術式が再び脈打つ。
空気が震え、戦場が動き始める。




