裂律の幕開け
城門の外、霜を帯びた原野に、ひとりの少女が立っていた。
風は冷たく、空は鈍く曇っている。
冬の気配が地面を這い、草の先端を白く染めていた。
だが、少女の足元だけは不思議と霜が降りていない。
まるで彼女の存在そのものが、周囲の空気を拒んでいるかのようだった。
彼女は、裂律座第六席――“愚直”のヘンリエッタ。
年の頃は十四、五。
背は低く、細身の体つき。
だが、その印象は決して幼くはなかった。
肩までの銀灰色の髪は、風に揺れても乱れず、まるで静止した水面のように整っている。
瞳は淡い琥珀色。
感情の起伏を感じさせないその目は、見つめられる者の内側を静かに削っていく。
身に纏っているのは、深紅と墨黒を基調とした軍装風の外套。
装飾は最小限だが、襟元と袖口に施された銀糸の刺繍が、彼女の所属と階級を物語っていた。
胸元には裂律座の紋章――七つの破線が円環を断ち切る意匠――が、控えめに縫い込まれている。
外套の下には、動きやすさを重視した黒の戦闘服。
だが、どこにも武器らしきものは見当たらない。
手ぶらのまま、ただそこに立っている。
にもかかわらず、彼女の周囲には誰も近づこうとしなかった。
空気が違う。
視線の動き、足の置き方、呼吸の間合い――すべてが、戦場のそれだった。
悠斗とセレネは、城門を越えて彼女の前に立った。
背後にはミラが控え、距離を保ちながら周囲を警戒している。
城門の上では兵たちが弓を構え、緊張に満ちた視線を少女に向けていた。
ヘンリエッタは動かない。
まるで風景の一部のように、そこに立ち尽くしていた。
だが、その静けさは沈黙ではなかった。
彼女の存在が、場の空気そのものを支配していた。
「ご足労いただき、感謝します」
ようやく、ヘンリエッタが口を開いた。
声は澄んでいて、どこか幼さを残している。
だがその語調には、奇妙な柔らかさがあった。
「寒い中、わざわざ外まで出てきてくださるとは。礼を尽くさねばなりませんね」
「……あなたが礼を口にするなんて、珍しいこと」
セレネは即座に応じた。声は静かだが、言葉の端に警戒が滲む。
「裂律座の“愚直”が、交渉の前置きをするなんて。何かあったのかしら?」
ヘンリエッタは微笑んだ。
だがその笑みは、どこか空虚だった。
「私はただ、選択肢を提示しに来ただけです。あなた方がどう動くか、それを見極めるために」
「選択肢、ね……」
セレネは一歩前に出た。足音は雪を踏むように静かだった。
「あなたが“選ばせる”なんて言葉を使うとは思わなかった。いつからそんな器用な真似ができるようになったの?」
ヘンリエッタは答えない。
ただ、悠斗に視線を向けた。
「あなたが、王都からの使者ですね。……あなたの判断が、境界の形を決めることになるでしょう」
悠斗は眉をひそめた。
彼女の言葉は、どこか曖昧だった。
核心を避けている。
だが、それが意図的なものだとすれば――
「セレネ」
彼は小声で呼びかけた。
「この子、本当に“愚直”なのか?」
「ええ、間違いなく」
セレネは即答した。
だがその声には、確かな違和感があった。
「だからこそ、おかしいのよ。彼女は命令をそのまま実行するタイプ。こんなふうに言葉を選ぶなんて……」
そのときだった。
遠く、城の北方から、鈍い音が響いた。
地面がわずかに震え、空気が一変する。
城壁の上から、兵の叫び声が上がった。
「北門に火の手! 敵襲――!」
セレネの目が鋭くなる。
ヘンリエッタは、微笑を崩さない。
「焔喰のヴェルデが、動きました」
その声は、報告のように淡々としていた。
「ヴェルデ……裂律座第四席。炎と混乱を好む戦術家。民を焼き、秩序を崩すことを是とする男」
セレネは低く呟いた。
「彼が来ているなら、城兵だけでは持たない。加勢が必要よ」
悠斗は剣の柄に手をかけたまま、ヘンリエッタを見据える。
彼女は動かない。まるで、ここに留まることが命令であるかのように。
「分けるしかない」
セレネの声は冷静だった。
「彼女はここに留まる。なら、私たちで止める。ミラ、エリス、リィアを北門へ。グラウスが動いているなら、彼らが加われば防衛線は持ち直す」
悠斗は一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。
「ミラ、エリス、リィア。北門へ向かってくれ。グラウス殿の指揮下に入って、防衛を支えてほしい」
ミラはすでに剣を背負っていた。
「了解。ヴェルデが相手なら、剣を抜く価値はある」
エリスは薬包を握り直し、リィアは鍋を抱えて静かに頷いた。
「鍋、展開する。結界で防壁を張る。……火には火で、守る」
三人は城門へと駆けていく。
背中に、それぞれの役割を背負って。
悠斗とセレネが再びヘンリエッタに向き直ったとき、彼女はまだその場に立ち尽くしていた。
風もなく、音もない。
だが、空気は確かに変わっていた。
「選択は、完了しましたね」
ヘンリエッタはそう言って、静かに微笑んだ。
「あなたたちは、私を止めると決めた。ならば、私はあなたたちを排除する。それだけです」
「命令にないことを、あなたが?」
セレネの声は冷ややかだった。
「“愚直”の名が泣くわね。勝手な判断は、裂律座ではご法度でしょう」
「ええ、そうです」
ヘンリエッタは頷いた。
「でも、例外はあります。たとえば――」
彼女は悠斗を見た。
まっすぐに、まるで何かを確かめるように。
「“整える者”の兆しを持つ人間が、境界のこちら側に現れたときとか」
悠斗は眉をひそめた。
セレネが一瞬、悠斗の横顔を見やる。
「……俺のことを、どこまで知ってる」
「断片的に、です」
ヘンリエッタはあっさりと答えた。
「あなたが王都の騒乱を止めたこと。魔族との接触を繰り返していること。そして――」
彼女は一歩、悠斗に近づいた。
「あなたの“視線”が、境界の向こうを見ていること」
悠斗の背筋に冷たいものが走った。
セレネがすっと前に出る。
「それ以上、踏み込むなら――」
彼女の声が低くなる。
「あなたの命令違反は、確定するわよ」
「ええ」
ヘンリエッタは微笑んだ。
「でも、構いません。私は“愚直”ですから。命令を遂行することに、何の疑問も持ちません。けれど――」
その笑みが、わずかに歪んだ。
「ただの使い走りの任務だったはずが、思いがけず“整える者”と“旧王女”を同時に排除できる機会を得られた。……こんな好機、逃す理由がありません」
その言葉と同時に、空気が弾けた。
ヘンリエッタの足元に、淡い光の輪が広がる。
地面に刻まれた紋様が瞬時に展開し、彼女の周囲に複数の魔術式が浮かび上がった。
赤と黒の光が交錯し、空間がきしむ。
「来る!」
セレネが叫ぶと同時に、彼女の手が動いた。
外套の裾が翻り、指先から放たれた魔力が空気を裂く。
ヘンリエッタの瞳が細められ、口元に笑みが浮かぶ。
「反応、良好ッ!!」
次の瞬間、地面が爆ぜた。




