吾輩は迷探偵である。
「探偵はどこに消えた?」
其の一
目覚めると、同居人の姿がない。
それも新年早々、元日の朝である。
探偵はいったい、どこに消えたのか。
*
吾輩は寝床を這いでると、ウーンと大きく伸びをした。反射的に小さく欠伸がもれる。
ふわああ。よく寝た。
いつの間にか部屋の暖房が切られており、吐く息が微かに白い。窓から外を眺めると、家々の屋根は雪化粧で、どうやら夜中に積もったらしい。事務所内は冷え切っていて、室温は一桁に違いあるまい。
どうりで寒いわけだ。
さて、本日は一月一日。
謹賀新年。初春のお慶びを謹んで申し上げる。
今年も一年、無事に無難に平穏に過ごせますように。
吾輩が起居する〈松下探偵事務所〉は今日も平和で、閑古鳥が鳴くほど静か――というのは比喩であるが、何故か家主の姿が見当たらなかった。
いつも「日曜と午前中は労働しない」と豪語しているのに、どういう風の吹き回しだろう。ピカピカの新年第一日目は、国民の祝日のはずである。
応接テーブルの上には、正月特有のぶ厚い新聞が折り畳まれて、折りこみチラシが散らばっている。〈新春初売り大セール〉などと大書きされた文字が躍っていて、目出度さが空回りしている気がした。
この事務所の家主、松下耕作の職業は私立探偵である。
とはいっても、決して名探偵の類ではないし、ましてやハードボイルド小説のそれでもない。某探偵ドラマの影響を強くうけ、恰好だけはそれなり――細身のダークスーツに派手なカラーシャツとネクタイ、丸縁のサングラスにソフト帽を愛用している――であるが。正直申し上げて、勘は悪いし、堪え性はないし、それほど賢くもない。
探偵事務所の看板を掲げてはいるが、顧客からは風采のあがらぬ便利屋だと思われている節がある。実際、一番多い案件は、いなくなったペットの捜索依頼であるほどなのだ。
今も事務机の上には「窓からオウムが逃げ出して行方不明」だの「シベリアンハスキーの仔犬が迷子」だのといった、未処理案件が山積しているくらいだ。これではまるでペット探偵ではないか。そのうちタランチュラに噛まれたり、アナコンダに飲み込まれてしまうんじゃないかと、吾輩は呆れつつも危惧している。
かくいう吾輩は、探偵の同居人であり、ビジネスパートナーでもある。冴えない探偵が仕事に行き詰まった時には、吾輩がそれとなく有益なアドヴァイスをしてやっているのだ。
――何ならそう、吾輩を名探偵と呼んでくれてもかまわない。
*
空腹を覚えた吾輩は、給湯室の食糧ストッカーを漁ってみるが、缶詰ひとつ見つけられなかった。
何ということだ。
玄関脇に置かれたコート掛けからはダウンジャケットとソフト帽が消えていて、おそらく探偵はコンビニへでも出かけたのだろう。
もしかすると、実家に顔を出しに行ったのかもと考えたが、それはあり得ない話だった。一族ほとんどが公務員だらけの家系にあって、私立探偵などというヤクザな商売は到底許容されず、勘当同然の身だと聞いていたからだ。
吾輩も、うだつの上がらぬ探偵生活にはそろそろ飽きてきた。応接用ソファーに寝ころびながら「この街に来てずいぶんたつし、次の春にはどこか暖かいところへ引っ越すのも悪くないな」などと、夢想して過ごした。
一年の計は元旦にあり、というからな。
――ところが、である。
同居人は、昼を過ぎても戻らなかった。
探偵はどこへ消えたのか。
吾輩は、腹がへった。
***
其の二
鳴り止まぬ腹の悲鳴に耐えかね、吾輩は意を決して事務所を出た。道路を挟んだ向かい側にある、スナック〈流星群〉へと赴くためである。
正月の商店街は人気もなく、どこかうら寂しい。そしてこの寒気だ。凍てつく外気に身を晒した瞬間、回れ右をして帰りたくなった。
吾輩は寒いのが大の苦手なのだ。
だが、背に腹は代えられぬ。
腹が減っては推理はできぬ。
覚悟を決めて道を渡り、吾輩はスナックの扉を潜った。
*
『ちょっとお邪魔するよ』
『あーら、先生。いらっしゃい』
艶やかな声が、暖かな室内に響いた。店内は程よく暖房が効いており、まるで南国リゾートのようである。
キャリ子は小ママなどとも呼ばれている、〈流星群〉の看板娘だ。吾輩を「先生」と呼ぶが、それは吾輩を尊敬しているためだ、と思いたい。
美女でありながら人懐っこくもあり、常連客たちに人気なのもうなずける。
『何か、食事を頂けないかな。ボンクラ探偵が朝食の用意を怠ってね』
『あらやだ、お腹が空いているのね。とりあえず、これでも飲んでいて頂戴』
そういってキャリ子は、飲みかけのホットミルクを吾輩に譲ると、店の奥へと引っこんだ。ママを呼びに行ったのだろう。
吾輩は頭脳労働を専門としており、家事というものを断固拒否している。必然的に共同生活における炊事は探偵の担当となるのだが、壊滅的に不器用な彼も料理は得意ではない。
そこで吾輩たちは、時折このスナックで食事の世話になるというわけだ。スナックの営業は夕方からなので、簡単な賄い程度のものであったが、暖かい飯が喰えるだけで十分だ。
吾輩はホットミルクを舐めながら、キャリ子を待った。ミルクの甘さと暖かさが体に染み渡る。普段はあまり口にしないのだが、今はこの一雫が大変に滋味深くありがたい。ようやく生き返った気分である。
そうやって吾輩が感動に打ち震えているところへ、申し訳なさそうな顔をしてキャリ子が戻ってきた。
『先生、ごめんなさい。ママ、熟睡しちゃってて、とても起きてくれそうにないわ。ホラ、朝方まで年越しパーティーしてたから』
そういわれてみれば、店内には宴会の名残が見てとれた。天井からはキラキラ光るモールが垂れ下がり、床にもクラッカーの紙テープが貼りついたままである。
『常連さんたちが帰った後、お昼近くまで御節料理を仕込んでたみたいだし――』
『ミルクだけで十分だよ、ありがとう。ところでキャリ子、そのパーテイーにうちのヘボ探偵も参加してたのかな?』
『もちろんいらしてたわよ。ご機嫌にジンジャーエールを空けていたわね』
なるほど。カウンターの上にはウィルキンソンの空瓶が何本も転がっている。探偵は下戸で、ビールひと舐めでひっくり返ってしまうから、気分だけでも味わいたかったのだろう。
まったく、しょうがない奴だな。
『たぶん夜半過ぎにはお帰りになったと思うけど、顔をみてないの?』
『吾輩は紅白を観ながら寝てしまったからなぁ。事務所には帰ったと思うが、所在不明だ』
『そうなの――探偵さん、どこに行っちゃったのかしら。心配ね』
心優しいキャリ子はそういったが、吾輩は少しも心配してはいなかった。不良探偵の朝帰りなど珍しくもない。何なら12時間くらいの張りこみができなくては仕事に差し障る。ほっときゃそのうち帰ってくる、などと鷹揚に構えていたのだ。
小腹を満たした吾輩は、キャリ子に礼をいって〈流星群〉を辞した。足を雪に濡らして帰る道すがら、晩飯こそは好物の鰹印の缶詰を食さねばと、心に固く誓った。
――だがしかし、である。
大方の予想に反して探偵は帰らなかった。夕方になり、夜が来ても事務所に灯りが点ることはなかった。
冷え切った薄暗い事務所の中で、吾輩は探偵を待ち続けたのだ――空が白み始めるまで。
*
一月二日。
事ここに至っては認めざるをえない。
探偵は失踪した。
何らかの原因で逐電したか、事務所へ帰れなくなったと推察できる。前者の可能性は限りなく低い。我が探偵事務所は儲かってはいないが、かろうじて借財はしていない。気は小さいが根が善人である探偵に夜逃げはできまい。となると――。
事件か事故か、何か問題に巻きこまれたと考えるのが妥当だ。
吾輩は仕方なく、愚鈍な探偵の捜索を開始した。
無駄だとは知りつつ、念のため固定電話で探偵のスマートフォンに電話をしてみるが、コール音が続くばかりで出ることはない。そこで――。
吾輩はデスクトップPCを起動して、スマホのGPSを調べることにした。迂闊な探偵はパスワードどころか、もっと簡易なPINコードをモニタ画面に付箋で張りつけており、不用心極まりない。
アプリで地図上にスマホの位置を映し出すと、どうやらN市北部を東西に流れるS川の堤防上にスマホはあるようだ。
まったく。どこで油を売ってやがるんだ、あの昼行灯め。
*
吾輩は助手の九郎を現地へ向かわせることにした。
名探偵たるもの、無闇に自ら動いてはならないのだ。
それに吾輩は寒いのが大の苦手であるからして。
事務所の窓から目印のバンダナを下げておくと、それを見つけた九郎は自分からやって来る。何しろ住所不定の風来坊なので、直接連絡を取る手段がないのである。
目印を出してからしばらくすると、コツコツと窓を叩く音がした。どうやら今日は発見が早かったらしい。吾輩は窓を開けて九郎を招き入れた。
『よう、先生。寒いね、今日も。オイラに何用だい』
『良く来た、九郎。すまないが、今すぐこの画面の場所へ行ってくれ。うちのバカ探偵がいるはずなんだ。少なくとも付近にスマホがあるはず。何か動けない事情があるらしい』
『なんでェ、珍しく慌ててるじゃないか。偵察に行くのは構わないけどさ、今日は何をくれるんだい』
『とっておきだぞ。クリスマスの残りの唐揚げだ。味変にマヨネーズもつける』
『うほほーい、それなら文句はねえや。早速行ってくるぜ!』
九郎は唐揚げが大好物なのだ。いつも腹を空かせているから食事で釣るのが手っ取り早い。目も良いし、足も速いから、こういう時は何かと役に立つ。
有能な助手を送り出すと、吾輩はPC画面を凝っと見守った。
――すると、しばらくして画面上のスマホが動き出したのだ。
一直線に事務所へと移動してくる。
探偵は無事に発見されたのだろうか?
***
其の三
アプリに表示されたアイコンが高速で移動して――画面上の事務所と重なると同時に、九郎は再び窓から帰還した。
そしてゴトリ、と一台のスマートフォンを事務机へ投げ出す。
『おい、九郎。探偵はどうした!?』
『それが――指示された場所まで行ったのに、辺りには誰もいなかったんだ。道路脇にこいつが落ちていたから拾ってきた』
スマホの画面にはヒビが入り、強い衝撃が加えられた事を物語っていた。寒さでバッテリーは消耗しているようだが、吾輩からの着信履歴が表示されているのは確認できた。
そして、極わずかであるが、水ではない液体が外装に付着している。これは――どういうことなんだ。
『こいつァ、血だな。探偵の旦那のものかまでは判らないけど――』
最早、悠長に構えている場合ではないらしい。
『九郎、すまない。帰ったばかりで申し訳ないが、もう一度現地まで行ってくれないか。今度は吾輩もついて行く』
『出不精の先生まで御出馬かい。ならオイラも、否とはいえないなァ』
*
こうして吾輩たちは、S川沿いの堤防へとやってきた。
ほぼ東西に流れるS川は、両岸に河川敷を有しており、堤上の道路は道幅5mほど。川側には一段高くなった歩道があって、この歩道上でスマホを見つけたという。川風によって冷やされている為か、辺りはまだ一面の雪景色だった。
寒さをこらえつつ、吾輩たちは現場検証を始めた。
スマホ型に抜かれた雪面を中心に、何か痕跡がないか周囲を隈なく捜索する。
すると眼光鋭い九郎が、再び何かを発見した。枯れた草むらから突き出ている、鈍く光る金属だ。
『こいつァ、もしかして――先生?』
『――ふむ、単車のミラーだな。見覚えがあるぞ、これは〝ヴェスパ〟のものだ』
貧乏なくせに酔狂な探偵は、イタリア製スクーターのヴェスパを愛車としていた。追跡にも張りこみにも向かないから、自動車に変えろといっても聞きやしない。
『状況的に見て、この道路をヴェスパで走ってきた探偵は、歩道の縁石に乗り上げたんだろう――やはり、縁石に擦れた跡がある。そしてその衝撃で転倒し、右側ミラーを破損、スマホを落としたと考えられる』
『じゃあ血はその時についたものかァ。大した怪我じゃないといいけど――にしても、先生。探偵の旦那は、どこに行ったんだろうね』
そこだ。探偵が命の次ぐらいに大事にしているヴェスパを壊し、破損したミラーを捨て置いても、その場から立ち去るような事態。それはいったい何事だ?
吾輩は東側、川の上流を観た。数百メートル先に橋が架かっている。隣県まで南北を繋ぐ道路である。探偵はこちらから西側、下流方向へ走っていた。交通量の少ない堤防道路にはまだ雪が積もっており、薄っすらと轍が残っている。この幅は恐らくスクーターのものだ。
『見えるか、九郎。この跡を追ってくれ』
『合点、承知ィ!』
轍は時折、蛇行しながら川下へと続いていた。運転に支障がでるほど単車が壊れているのか、乗り手が重傷を負って操作が覚束ないのか。はやる気持ちを押さえながら、吾輩は九郎の後を追いかけた。
そして、追跡からほんの五分ほどのことだ。
『あッ! 先生、あれ見て!』
『ヴェスパか!?』
川に沿って緩やかにカーブを描く道路の、川側斜面にスクーターが転がっていた。堤防にガードレールはなく、道を逸れて滑り落ちたような格好である。近づいてよく観察すると片側のミラーが破損している。探偵の愛車であるヴェスパに間違いなかった。
だが、辺りに人影はない。
そしてヴェスパの周囲に足跡すらない。
これはいったい、どういうことだ?
『先生、探偵の旦那は――一体どこに消えちまったんだい? これじゃあ、まるで雪密室じゃあないか』
九郎がまたぞろ不穏なことをいった。
どこで覚えてきたんだ、そんな言葉。
*
雪密室とは――ある家で他殺死体が見つかる。家の周囲には雪が降り積もり、来訪者の足跡はない。侵入者の痕跡がない状況で、どうやって殺されたのか――という不可能状況を示す言葉だ。
今回の事件に当て嵌めるなら、
「辺り一面の雪景色。車の轍が続く先で、転倒した単車は発見されるが、運転者の姿はなく、そこから立ち去った形跡もない。ならば、スクーターが勝手に自走してきて、勝手に転んだのだろうか?」
と、いったところだが――バカをいえ、そんなことあるはずがない。
雪道に轍は残っている。これは雪が降っている最中か降ったあとにスクーターがやってきたことを示している。倒れたスクーターのボディ前面には雪が残ってるが、シートやエンジンに雪は積もってはいない。
やはりスクーターが倒れた後に、雪が降り積もったわけではなさそうだ。すると九郎がいうように、おかしなことになる。スクーターから立ち去る運転者の足跡が残ってなければならないからだ――しかし。
一面の銀世界にそんな痕跡は残されてはない。
そこで先刻の問いに戻るというわけだ。
これはいったい、どういうことか?
探偵はどこに消えたのか?
消えるわけがないのに。
吾輩は視力が悪いので、更に近づいて慎重に付近を捜索した。横倒しになったスクーターには不用心にも鍵がつけっぱなしで、これも臆病な探偵には似つかわしくない行動だ。
ヴェスパが転がる斜面の下方、河川敷より一段高くなったところは農地になっており、収穫し忘れたのか大根が雪に埋もれていた。畑の隅にある小屋の屋根にも数cm程積もっている。
そもそも探偵は何故、事務所とは正反対のこんな場所までやってきたのか。
川の上流を見る。
橋が架かっている。
探偵が橋むこうに行く用事といえば、業務用スーパーへの買い出しぐらいだが――うん!? まてよ。
『おい、九郎。昨日、雪が降った時刻を覚えているか』
『そうだなァ、日の出の少し前じゃないかなァ。それからたぶん数時間は降り続いたと思うけど』
『今の時期だと、日の出は7時前後か――だとすると、すでに撒かれていたんだな』
『まかれた? なにが?』
九郎の頭の上には、特大の〝?〟が浮かんでいるようだった。
***
其の四
『撒かれていたのは、おそらく凍結防止剤だ』
合理的な推理の下、吾輩はそう結論した。
『とうけつぼうしィ?』
純朴な九郎はオウム返しにそう繰り返した。
『橋の上に予め撒かれていたんだ。大晦日には、すでに雪の予報が出ていたからな』
『それじゃあ――』
『だから、轍が残っていたんだ。タイヤに付着していた融雪剤によって、道路上の雪は溶かされたんだよ。そして、転倒後もヴェスパはしばらくエンジンが掛かったままだった。キーがつけっぱなしだったからね』
『ははァん。その熱でスクーターに積もった雪も溶けちまった、と』
『そうだよ。お前が〝雪密室だ!〟なんて騒ぐから混乱してしまったが、最初から謎なんてなかったんだ。探偵が運転するヴェスパは、雪が降る直前か、降り始めに転倒したんだ。だから、その後の探偵の痕跡は、雪に覆い隠されてしまったのだ』
『でも、だとしても探偵の旦那がどっかに消えちまったことに、違いはないと思うけど――』
『消えるわけないだろ、幽霊じゃないんだから。お前の特別な目なら、何か見つけられるんじゃないか』
『無茶いうなよ、先生。いくらオイラでも、雪の下まで透視できるわけがないよう』
そういいながらも、吾輩たちは雪に埋もれた「何か」を見つけ出そうと、ヴェスパの周りを中心に探し回った。雪に足をとられて思うように歩けないが、そろりと斜面を滑り降りて畑の縁に立った。
雪の降り積もった畑というのは寒々しいものだな。
――と、吾輩の足に何か硬いものが当たった。急いで雪中から掘り出してみる。
それは鰹印の缶詰であった。吾輩が大好物の逸品である。
何故こんなところに缶詰が落ちているのか。
まさか思って周囲を探すと、ひとつ、またひとつと埋もれた缶詰が発掘された。
『先生、これはもしかして――』
『うむ、ヘンゼルとグレーテルだな』
パンくずよろしく、缶詰が点々と畑に落とされていたのだ。大方、新春初売り大セールとやらで大量に買いこんだのだろう。
缶詰が続く先には、畑の端に雪の積もった木造の小屋があって、鍬やらスコップやら手箕といった大型の農具が、何故か外に放り出されていた。
中身が出されて空いたスペースを、何が代わりに占有しているかといえば、それはもちろん――。
吾輩はコンコンと、控えめに小屋の扉を叩いた。
すると、ガタガタと軋みながら扉が開いて――。
「迎えに来るのが遅えよ、名探偵」
お騒がせな探偵、松下耕作は開口一番そういった。
小屋の中には案の定、寒さに震えながら座りこむ探偵がいた。傍らには底に穴のあいた買物バッグが投げ出してあり、蓋が開けられ中身が空となった缶詰が転がっている。大量に買い込んだ缶詰を喰って、飢えをしのいだのだろう。
「連絡ひとつ寄こさないの悪いんだろうが、このポンコツ探偵」
吾輩はそう人語で答えた。
「どっかでスマホ落としちまったんだから、しょうがないだろう。まァそう怒るなよ、ニャン太郎」
「吾輩をその名前で呼ぶんじゃない!」
九郎が「カァ」と鳴いて、探偵のスマホを放り投げた。
「おお、見つけてくれたのか、助かったぜ! 単車でコケて、足を挫いたんだ。腫れちまってるし、事によると骨が折れてるかもしれん。人を呼ぼうにも連絡手段がなくな――斜面を滑り降りて、この小屋に非難するのが精一杯だったんだ」
「何をそんなに慌てていたんだ。必要以上に安全運転のあんたらしくもない」
「ああ、それならこいつが急に飛び出してきてな――」
そういって、探偵がダウンジャケットのファスナーを少し開けると、「ワン!」と元気にひと鳴きして、マロまゆの仔犬が顔を出した。
ああ、そういうことか。
山積みになった捜索依頼、「シベリアンハスキーの仔犬が迷子」。
まったく。お人好しな探偵だよ、あんたは。
*
――こうして、新年早々に発生した〈探偵失踪事件〉は無事解決したのだが、その後の顛末を短くお伝えしておこう。
まず「怪我をした! 歩けない!」と大騒ぎした探偵であるが、救急車を呼んで病院で検査した結果、骨折どころか骨にヒビすら入っておらず、単なる打撲であると判った。入院の必要もなく、何なら医者に少々厭味をいわれながら、帰宅させられる始末である。体だけは頑丈な男なのだ。まぁ、大事に至らず良かったといっておこう。
迷子のハスキー犬も、あの後すぐに飼い主と連絡がついて、持ち主が連れ帰った。探偵の懐でお互いに暖を取り合っていたのだから、風邪の心配などはないだろう。健やかに育つが良い。
助手の九郎には、約束通り唐揚げをマヨネーズつきでたらふく喰わせてやった。飛ぶのに支障がでるんじゃないかという、腹の膨れ具合だった。あいつも段々ずうずしい性格になってきた。それが誰の影響かは――いわずにおこう。
そして吾輩である――。
吾輩は待望の鰹印の猫缶を、夕食として腹いっぱいに堪能することができた。そう、あの味音痴探偵は、猫缶で飢えをしのいでいたのだ。何ということだろうね。
腹を満たした吾輩は、程よく暖房の効いた寝床で丸まって、ゆっくりと目を閉じた。そして、夢の国への階段を一段一段降りながら「春までとは決めず、まだこの街にゆっくりと滞在してやってもいいかな」と、そう思ったのだ――。
*
――さて。
ここまでおつき合い頂いた賢明なる読者諸氏は、すでにお気づきのことと思う。
そう、吾輩は猫である。
猫であり、名探偵でもある。
種明かしをすると、スナック〈流星群〉の看板娘キャリ子は三毛猫であり、吾輩の有能なる助手の九郎は鴉だ。
ナニ、そんなのとっくにお見通しだって?
そうだろうとも、そうだろうとも。
ほう。何故お前はそんな流暢に人語を操るのか、それが知りたいと。
それには深甚なる秘密があるのだが、その講釈は又の機会にしよう。
だからこのことは、ペラペラと他人に話さないでくれよ?
まァ話したところで、信じてもらえるとは思わないがね。
***
余談:あの日交わした約束は
吾輩は猫であり、名探偵でもある。
今ここに〝ある真実〟を、こっそりと君にお教えしよう。
それは〝万物の霊長を自認する人間族よりも、我ら猫族の方が賢い〟という、純然たる事実だ。
これはエジプト猫族が奉ずる「猫女神の御力により、奉仕種族として人間は創造された」という牧歌的信仰にも表れている――まぁ、吾輩自身は無神論猫であり、この説にはいささか懐疑的であるのだが。
なんだ、疑うのかね?
吾輩はこうして人語を解し、君とも会話しているじゃないか。
夢でも見ているみたいだ、狐につままれた気分だって?
狐なんて昨今、ここいらじゃそうそう見かけるもんじゃない。古来、狐や狸が人を化かすなんてのは、微笑ましい妄想ないしは、不条理をやり過ごす為の方便にすぎないのだよ。
もう一度、説明しよう。
この地球上で一番賢いの人間である――なんて妄言は、米国巨大資本が新世界秩序を築かんとするプロパガンダにすぎないのだ。なにしろあの連中は、鼠なんていう繁殖力が高いだけの卑しい生物を、偶像として祀るような連中だからね、信ずるに足る弁ではないよ。
一番賢いのはそう、我ら猫族だ。
それは宇宙の法則に等しい、否定されざる真実なんだ。
嘘じゃあないぜ。吾輩は、嘘と坊さんの頭はゆったことがない。
ほうほう。
ならば「どうして人間に代わってこの地球を支配しないのか」だって?
ふむ。君もいっぱしの口を聞くじゃあないか。
それは我ら猫族の高貴なる精神性に依るところが大きい。かいつまんでいえば、古来から我らは「優雅さや愛らしさ、そして少々の茶目っ気」によって、人間族の精神に平和と安定をもたらしてきたのだ。バステトの民がいう、奉仕する側される側とは、そういう意味だよ。
我らは些事に慌てふためく人間に代わり、常に泰然自若にして、絶えず豪放磊落。大いに飯を喰らい、優雅に昼寝を楽しむ。君たちは、我らの雄姿に和み癒され、明日への活力と生きる希望を得るというわけだ。
つまり、君たちに〝万物の霊長の座〟を、譲ってやっているのだよ。
その方が我らにとっても何かと都合が良い。
猫たるもの躍起になって鼠を獲ったりしちゃあいかんのだ。あくせく働くなんてのは、我らの間では酷くみっともない、なんなら不道徳な行為だからね。
どうだい、これが高貴なる精神さ。
――さて、そこでだ。
吾輩は提案したい。
先程申し上げたとおり、吾輩は猫であるが、名探偵でもある。吾輩の明晰な頭脳でもって、難航している君の仕事を手助けしてやろうじゃないか。君に少し助言を与える程度ならば推理とも呼べない、ほんのお遊びだ。
そのかわり、君は吾輩に美味い食事と暖かな寝床を提供する。ギブ&テイク。そう、これは契約だ。
ふむふむ。素早い決断だな。
いいぞ、いいぞ。猫族は拙速を貴ぶ。
口頭ではあるが、その意思をもって契約の成立としよう。
だがいいか、気をつけてくれたまえ。このことは他言無用、決して世間に知られてはならない。いいかい、決してだ。大事なことだからな、二回いったぞ。
さもなくば――猫族の掟に従い、遥か遠い土地へと、吾輩は追放されてしまうことになる。ことによると、君だって吾輩の仲間から口封じされてしまいかねない。くれぐれも気をつけてくれよ。
ゆめゆめお忘れなきよう。
(吾輩は迷探偵である 了)