嘘つきトカゲの願い事
「俺今回のテスト満点だったんだよ。ごめんな瑠璃。順位抜かして」
「何言ってんのあんた赤点でしょ」
いつもの帰り道、隣を歩く男は本日十四回目の嘘をついた。
私には非常に残念なことに、とんでもなく虚言癖の幼馴染がいる。
「妬むなって」
いや違う、訂正させて。やっぱりただの腐れ縁。
「ごめんけど私の席からあんたの点数見えちゃったんだよね」
「え……あ、いや、あれは」
「またおばさんに怒られるよ。だから『勉強見てあげようか?』って聞いたのに」
「…………」
明後日の方を向くこいつはトカゲ。幼稚園のとき、親に隠れてトカゲを大量に飼ってたからトカゲって呼んでるんだ。
「いや俺、最近ゲーム配信やってて。五万人以上のリスナーが待ってるから勉強どころじゃない」
「寝言は寝て言え」
トカゲはいつも、くだらない嘘ばかりつく。高校生になってまだ一か月と少しなのに、こいつは既に「変な奴」というキャラを確立させていた。もちろん悪い意味で。
正直言って、私はこいつの虚言癖に迷惑している。「あんな変なやつに懐かれてるってことは、綾瀬さんもやばい人なんじゃ……」って影で言われてるの聞いちゃったからね、私。
「瑠璃、喉乾いた。自販機でジュース買っていい?」
「うん」
「俺自販機の当たりを当てた回数でギネス持ってんだよね」
「はいはい」
それなのに嫌いになりきれないのはなんでだろう。瑠璃、瑠璃って私についてくる様が、ちょっとだけ大型犬っぽいとか思っちゃうからかもしれない。
なんて、前髪を整えるトカゲを眺めながらぼんやり思った。
トカゲは自販機にお金を入れて、コーラのボタンを押す。当然、当たりはでなかった。
ガコン、と落ちてきたペットボトルをゆっくりと気だるげに取ったかと思ったら、すぐに私に差し出してくる。
「開けて」
はぁ……。
私はわざとらしいため息を吐いて渋々受け取った。
こういうのって普通逆じゃないの? 女の子が男の子に開けてもらって、「わっ、力強い……やっぱり男の子なんだ……トゥンク」ってなるのが定番でしょ。っていうかせめて一回くらいはトライしようよ。
フタを開けると、プシュっと小気味良いガスの音がする。なんか私もジュース飲みたくなってきたな。
「ほら」
「うん」
ペットボトルを突き返すと、ありがとうも言わずにトカゲは受け取った。
そういうとこだぞお前、なんて思ったときだった。
「あ」
「うわっ!?」
ペットボトルはトカゲの手をすり抜けて地面へと落ちる。遮るもののない飲み口からは茶色い液体が溢れだした。
「ちょっとトカゲ!? どうしたの?」
トカゲは何も言わずにただ右手を見つめていた。ペットボトルを掴み損ねた右手。震えているように見えるのは、気のせいだろうか。
「瑠璃、俺さ」
呟くように、トカゲは言う。なぜか私はその真っ黒な瞳から目が離せなかった。
「余命三か月なんだって」
トカゲはいつも嘘をつく。
だけど足元から聞こえる炭酸の音が、頬を撫でる初夏の風が、ほんの少しだけ胸をざわつかせた。
*
きっとあれも嘘に違いない。
次の日、体育の授業中トカゲを盗み見ながらそう思った。今日の授業、女子はバレーで男子はバスケだ。
運動神経が中の下であるトカゲは特に活躍することも足を引っ張ることもなく、なんとなくボールを追いかけてなんとなくパスを回している。……あ、転んだ。
のっそりとやけにゆっくり体を起こして、トカゲは再びボールを追いかける。おかしいな。なんであんなのそのそしてるんだろう。
「__綾瀬さん!」
すぐ近くでそんな声が聞こえてきて、私は慌てて前を向く。それがいけなかった。
ボコン、という音とともに、視界は一瞬闇に染まる。同時に鼻に鈍い痛みが走った。
顔面キャッチ。
そのことを理解するのに数秒かかった。
「瑠璃!」
バスケしていたはずのあいつの声が聞こえた瞬間、止まっていた時が動き出したような感覚に襲われる。
あれ? どうしてか鼻水が止まらない。いや違う、これは鼻血か。
「綾瀬さん大丈夫!?」
「血が! 先生!」
「誰かティッシュ持ってない!?」
私を取り囲む女子をかき分けて顔をだしたのは、やっぱりあいつだった。
「瑠璃! 保健室行こう!」
私が返事をするより先に、トカゲは私の腕を掴んで引っ張った。そのまま頼りない背中について行く。女の子たちの視線がほんの少しだけ痛い。
トカゲに連れられて来た保健室には、優しそうな女の先生がいた。ベテランっぽくて頼りになりそう。そういえば、高校生になってここにくるのは初めてだ。
先生の指示通り座ってしばらく鼻を圧迫していると、氷嚢を貸してくれた。トカゲから事情を聞いた先生は「災難だったね」と優しく微笑んでくれる。
「……ありがとうございます」
とても優しい先生みたいだ。穏やかな雰囲気が心地いい。
しかし次の瞬間、先生は柔らかい笑顔を崩してトカゲを見つめた。
「あなたは? 大丈夫なの?」
大丈夫です、と答えるトカゲを見る目はどこか心配そうだ。
「転んだり足攣ったりしてない?」
「はい」
思いっきり転んでたくせに、トカゲは素知らぬ顔でまた嘘をつく。
それにしても、先生は何がそんなに心配なんだろう。だってトカゲは元気じゃないか。鼻血出してる私よりも元気だ。元気なはずなんだ。
だから、昨日のあれも全部嘘で……。
「あ……ごめんね、私職員室に行かないといけなくて。何かあったら呼びに来てくれる?」
私がぐるぐる考えているうちに、先生は保健室を出て行ってしまった。残された私とトカゲの間には沈黙が落ちる。二人きりなんて慣れっこなはずなのに、どうしてか気まずい。
だって昨日、こいつが変なこと言うから。
いっつも嘘しか言わないからあれも嘘だってわかってるけど、でも。あれが本当なら、さっきの先生の態度も説明ができてしまう。
もしかして昨日、ペットボトルを落としたのは何かの病気が原因? 自分でフタを開けないのも? さっき転んでたのも?
もし、あの言葉が全部嘘ってわけじゃなかったら? 嘘なのは「三か月」ってところだけだったら? もしも、トカゲが……。
「瑠璃」
トカゲの声にはっとする。嫌だ。もうこんなこと考えたくない。だってこいつは、ただの嘘つきのはずなんだ。
「小学生の時、よく保健室で遊んでたよな」
髪の毛をいじりながら、トカゲは懐かしそうに話し出す。その話は私を程よく現実から遠ざけてくれるものだった。
「……確かに。懐かしいね」
トカゲは小学校のとき、保健室登校をしていた時期がある。休み時間に遊びに来てとトカゲに言われていた私もよく顔を出していた。
「トカゲ、ずっと虫の本読んでた」
「だって俺『トカゲ』だし」
「なにそれ」
そうだ、思い出してきた。トカゲはよく蝶の図鑑を読んでいた。「オオルリシジミ」っていう名前の蝶がいるんだって、その頃トカゲに教えてもらった。瑠璃と同じ名前だねって。羽が青くて綺麗なんだよって。そして……。
「……やっぱ俺、瑠璃とオオルリシジミが見たい」
トカゲはポツリと呟いた。
*
コンコン。
「………………」
コンコンコン。
ゴンゴンゴン。
ガンガンガン!
「うるせえ!」
窓の向こうから聞こえてきた声に耐え切れず、私は吹き出した。
トカゲに用があるときはいつも、こうやってベランダの窓を叩く。するとヤツは不機嫌そうに顔を出してくれるのだ。家が隣同士で部屋も偶然向かいだからこそできる芸当である。
「トカゲ、早く準備して。じゃないと置いてくよ」
「なんか約束してたっけ」
「してたよ。オオルリシジミ見に行くんでしょ?」
保健室での一件があってから、私はオオルリシジミについて徹底的に調べた。どうやら九州にもいるらしい。ちょっと遠いけど、週末の日帰り旅行にはピッタリだ。
部屋の中がバタバタとうるさくなったのを確認して、私は玄関へと迎えに行く。やっぱりあいつは今日も元気だ。
「行くならもっと早く言えよ!」
勢いよく玄関を開けて、トカゲはそう叫んだ。髪の毛が二か所跳ねている。なんか、犬の耳みたい。
「早く行こ」
それだけ言って、私は駅へと歩き出した。
ここからオオルリシジミがいる草原までは電車で一時間半くらいかかるし、さらに三十分歩かないといけない。もたもたしていたら一日が終わってしまう。
オオルリシジミが見られるのは一か月の間だけなんだ。
後ろをついてくるトカゲは何やらぶつくさ言っている。事前に言っとけとかもっと寝たかったとかそんなことだろう。私だって朝五時に起こされて宇宙人呼び出す儀式に付き合わされたこと、忘れてないからな。それに比べて九時半に起こす私は優しいほうだ。
運よく今日はいい天気で、すっきりとした青空が広がっている。こんな日に草原で写真でも撮ったら映えるだろう。
「疲れた。もう歩きたくない」
「はあ? まだ駅にもついてないのに」
晴れた空とは対照的に、立ち止まったトカゲは顔を曇らせる。いきなり連れ出したことそんなに嫌だったんだろうか。
「その……ごめん。強引に誘ったりして」
「別に」
ため息をついて、トカゲはまた歩き出した。
駅に着いた私たちは切符を買って、特急列車に乗り込んだ。乗り換えは一回でいい。
列車での旅は久々だ。中学の修学旅行以来? だけど空気は重かった。
いつもはテンションが上がって虚言に磨きがかかるトカゲだったけど、今日はずっと上の空だ。飲み物を飲むときは頻繁にむせるしペットボトルは自分で開けようとしない。よく見たらシャツのボタンも掛け違えている。そしていつになくため息が多かった。
「どうしたの、トカゲ。今日なんか変だよ。やっぱり怒ってる?」
そう尋ねても、返事はない。固く口を閉ざしたまま、窓の外を見ている。髪の毛をいじりながら。
なんか最近多いな。髪の毛触るの。前からこんな感じだったっけ。
ずっと前にもどこかで見たような、思い出せないモヤモヤに包まれた。
肘をついて髪の毛をいじりながら、唇をきゅっと結ぶトカゲを最初に見たのはいつだったか。
私が首を傾げたそのとき、電車はトンネルに入った。
トカゲってビビりだから小さい頃はトンネル大嫌いだったんだよね。暗いの嫌だ、おばけがでるんだって言って。
トカゲの怖がりは治っていない。お化け屋敷は嫌いだし、怪談話は聞こうとしない。だからきっと、くだらない噓ばっかりつくのもほんとは怖がりだからで……。
「……あ」
思い出した。
そうだ、この姿勢は、この顔は。
ホラー映画を見ている時とおんなじだ。
*
目的地の草原までは、予想以上にアップダウンの激しい道のりだった。トカゲは小刻みに休憩を挟むから、その度に私も足を止める。容赦なく降り注ぐ日差しに、じんわりと汗がにじんできた。
「暑いね……」
「俺は沖縄の血が混ざってるから暑くない」
「何言ってんの」
電車の中にいたときより機嫌はマシみたいだ。久しぶりにトカゲは嘘をついた。こいつの両親は熊本生まれ熊本育ちのはず。
小休止を挟みつつ、私たちは黙々と歩いた。そこまで時間はかかっていないはずだ。狭い山道だったからしんどかっただけで。
しばらく歩くと、見えてきた。あそこがきっと目的地だ。細く背の高い草が何本も立っている草原。優しい風に揺れる白っぽい花がクララだろう。オオルリシジミが産卵する花だ。きっとすぐにオオルリシジミも見つかるはず。
……だったのに。
「……なにこれ」
「な、なん……でしょうかねぇ……」
草原の手前には電気柵が設置されていた。注意書きには、この先にある牧場の牛を守るため……と書かれている。これじゃ蝶を探しに行けない。
「おい、瑠璃」
「お、おかしいな……私が見たブログにはこんなこと……」
口元をひくつかせて、トカゲは私を見降ろした。やばいこれ、結構キレてる。
「無駄に歩かせるんじゃねえよ!」
「ご、ごめん……」
「ごめんで済むなら警察いらねえだろ! 俺は警視総監の息子なんだぞ!」
「は? 商社マンと専業主婦の息子でしょ」
よほど腹が立ったのか、トカゲは声を荒げた。申し訳ないとは思うけど、怒りたいのは私だって同じだ。ここにくればいいってネットに書いてあったんだもん!
「俺のこと騙して楽しいかよ!」
「騙してはない!」
だんだん言い合いはヒートアップしていった。なんなんだよこいつ。普段はトカゲの方がいっぱい嘘ついてるだろ!
「ばーか!」
「あほ! 赤点!」
「ガサツ女!」
「ビビリ!」
「チビ!」
「虚言癖!」
お互いの悪口レパートリーが尽きてきて、私たちは肩で息をする。こんなに喧嘩したのはいつぶりだろう。てか、なんで私たちこんなところまできて子供っぽい喧嘩してるんだろう。
顔を真っ赤にしたトカゲと目が合った。私の顔も同じくらい赤いんだろうか。
なんかもう、ほんとに馬鹿みたいだ、私たち。
そう思ったら可笑しさばっかりこみあげてきて、私は吹き出した。つられてトカゲも笑った。それが面白くて、私はお腹を押さえて笑った。
笑い声はどこまでも響いた。高い空にも、柵の向こうに広がる草原にも。
笑い疲れて涙を拭った。もう帰ろう。もう一回リサーチしてリベンジだ。
そう言おうとした瞬間、視界の端を青いものが横切った。
もしかして。
「瑠璃、あれ……」
トカゲと一緒に、電気柵の向こうに目を凝らす。ひらひらと舞う小さな青いもの。淡く輝いているようにも見えるそれは、ああ、間違いない。
「「オオルリシジミだ」」
声が重なって、私たちはまた顔を見合わせる。
「ほんとにいたんだな」
そう言って笑ったトカゲは、またオオルリシジミを見つめた。
それは風に乗るように弱く羽ばたいている。想像よりも小さくて、日の光を透かして光るそれは、空の青と混ざって消えてしまいそうだった。
「……今日、変な態度取ってごめん」
青い蝶から目を離さずに、トカゲはかすれた声で呟く。
「いつもより調子が悪いんだ。ペットボトルのフタ開けるのも、何かを飲み込むのも、シャツのボタン留めるのも……いつもより、下手で」
蝶は白っぽい花にとまった。
私がトカゲの異変に気付いたのは、つい最近のことだ。手に力が入らなくなったり、躓きやすくなったり、嚥下が上手くできなかったり。そして、ずっと何かを怖がっていたり。
ネットでその症状を調べたのは一昨日。だからトカゲの体を難しい病が蝕んでるって知ったのも、一昨日。
思えば去年からトカゲは少し変だった。よくシャーペンを落とすし、ちょっとだけ痩せたような気もする。
だけどトカゲは本当のことを言わないから。だから私は、一昨日まで知らなかったんだ。
トカゲの言っていた「余命三か月」というのはやっぱり嘘だったってこと。そして正しくは__長くて五年。
「ねえ、綺麗だよね。オオルリシジミ」
私の声は震えていた。でも、トカゲは笑った。
「思ったより小さいな。瑠璃とおんなじ」
「……ふざけんな」
「だけど、うん、綺麗だな。瑠璃とおんなじ」
目の前はぼやけてもう何も見えない。ただ緑の中に小さな青が一つだけあった。
「また来ようよ」
私は言った。
「来年の五月も来よう。再来年も」
「うん」
「十年後も、二十年後も」
俯いて、トカゲは諦めたように口を開く。
「うん」
オオルリシジミは羽ばたいた。私たちにその羽を見せつけながら、白い花を後にした。
「ごめんね、トカゲ」
私は笑った。
やっぱり、トカゲは嘘つきだ。