9-8 そんなシチュエーションも見てみたい
さっきまでの取り乱しようはどこへ行ったのか。
めずらしく自分でお茶を淹れてるし、だいぶ正気に戻ったらしい。
「ポチ。すまんな。お腹が空いているのも確かなんだが、色々と思ったようにならないものだから、つい君に甘えてしまった。申し訳ない」
僕が座布団に戻ると、先輩は深々と頭を下げた。
この人の甘えるは噛みつき行為なのか。
子犬みたいな人だな。
「いいですよ。先輩のそういう面が見られたのも楽しいです」
実際、甘えられているのは気がついていたし、むしろ嬉しかったくらいなのだ。
気にしないでいいと笑ってみせたが、彼女はすまなそうな表情のままだ。
「しかし、私はわがままを言いすぎたし、その……痛かったのではないか? 人として間違った事をしてしまったのではないかと思っているんだ」
「まあ、あんまり人は噛みつきませんけど」
僕が言うと、先輩は胸の下で腕組みをして考えこむ。
「……噛んでくれ」
「は?」
この人はいったい何を考えていたのか。
やたら真剣な表情で僕に頼む。
「やはり謝っただけでは私の気がすまない。いや、君に同じ負い目を背負わせて、私の後ろめたさを打ち消そうという話では無いんだ。どれだけ君が痛かったのかを私は知っておく必要がある」
「えーと、噛むのはいいんですが、同じ感じだとかなり痛いと思いますよ?」
そんな目に遭う必要があるとは思えないのだが、彼女は頑なに譲らない。
「ならばこそだ。私は君と同じ痛みが欲しい」
まあ、先輩がそこまで言うのなら、噛んでもいいんだけどさ。
「えーと、腕でいいですか?」
「ふむ。君の好きな所を噛むといい」
そう言われても、別に噛みたくないんだけどな。
好きな所、とか言われても困る。
部品単位で好きな所と嫌いな所があるんじゃないし。
どうやって誤魔化そうかと考えていたら、すこし視線が下がっていたらしい。
先輩は目を丸くして自分の胸元を両手で抑える。
「待ってくれ、ポチ。さすがにそれは違うだろ?」
大変な誤解なのだが、どう否定すればいいのだろう。
それを全く考えなかったと言ったら嘘になるのが辛い所だ。
「えーと、手の小指とかの方がいいですか?」
「それはもっと痛そうだな……」
大真面目な顔で考えることなのか?
普通に考えたら《どっちも嫌》になるだろうに。
「うん。ここで逃げるのが、私のよくないところなのだろう」
そう呟くと彼女は膝立ちになってにじり寄り、僕の目の前に胸を付き出す。
視界いっぱいに先輩の胸が迫る。
「よし、さあ噛んでくれ」
——できるワケねーだろ!
そもそも胸を噛みたいなんて言ってない。
胸を見てたのは認めるけど、そんなことは言ってないんだ。
て言うか、この人、僕が噛まないって確信した上で言ってないか?
ちらっと先輩の顔を見上げると真っ赤になって目を瞑り、歯をくいしばって耐えていた。
……まだ何もしてないんだけどな。
怖いなら、やめりゃいいのに。
「えーと、先輩。今日のお手伝いは、何も報酬がないのでしょうか?」
目の前の胸はとりあえず無視して、とにかく話題を変えてみる。
案の定で先輩は話に乗ってきてくれた。
「うん? 確かにそうだな。執行部の仕事に付き合わせたんだし、何か考えた方がいいのか」
「大したことはしてませんが、何かあると嬉しいです」
よし、話を横道に逸らせた。
このまま、うやむやにしてしまおう。
なんて思ったのに、先輩は大真面目な顔で、
「ふむ。反対側の胸も噛む、ということでどうかね?」
……1ミリも話が逸れてなかったよ。
「それ、ご褒美になってませんから」
「そうなのか?」
意外そうに先輩が聞いてくる。
もしかして、この人の頭の中では《僕が噛みたい》ことになってるのか?
まあね。否定はしませんよ。先輩の胸だし、目の前で揺れてるし。
このまま顔を埋めたいくらいだ。
「えーと、先輩が噛まれるの、クセになったらよくないです」
自分でもよくわかんない助言をしたら、こんなので納得したらしい。
「ふむ。それは困るな。何度も君に『噛んでくれ』と頼むのは恥ずかしすぎる」
「ですよねー」
同意はしたが、全くシチュエーションの想像がつかない。
この人はどこまで本気で言ってるのだろう?
先輩は膝立ちのまま僕の頭に右ひじを置いて、不満そうに言葉を吐き出す。
ますます胸が接近してきた。
「しかし、そうは言っても成り行きでの出来事だったから、私は何の用意もしていないのだよ。今日の私に提供できるものなんて——」
「あのですね。このままハグしてもらっていいですか?」
すこし面倒くさくなってきたので、もう願望そのままを口にしてみた。
話が横道に逸れてくれるのなら、何でもいいや。
目の前の誘惑に負けた、とも言う。
「え? 胸を噛んだポチを抱きしめればいいのか?」
欲望丸出しの要求に、先輩が少しビックリした声で聞いてくる。
ちなみに僕の視界からは胸しか見えないので表情は分からない。
「あの、先輩? なんでそこまで《噛まれる》ことにこだわるんです?」
あんまりしつこいと、そういう趣味でもあるんじゃないかって疑いたくなってくる。
彼女は少し間を置いてから、不安げな声で語り出した。
「私は自分のわがままで君がどれだけ傷ついたのか知っておきたいんだよ。君も分かってると思うが、私は自己中心的な人間なのでな。自分も傷付かないと君の痛みが理解できそうにないんだ」
ちょっと噛み付いただけでずいぶん大げさに考えるんだな。
けっこう受け取り方に誤解があるっていうか。
「えーと、僕は傷ついてませんよ。毎日噛まれたらさすがに困りますが、たまにだったら別に構いません。腕に歯型が付きましたけど、これは《先輩との絆の証》みたいなものかと」
誰彼かまわず噛み付いているわけでもないんだし、この考えはそう間違ってないはずだ。
先輩が僕だけにくれた親愛の印だと思っている。
なのに先輩は悲しげな声で僕に問いかける。
「君は噛んでくれないのか?」
「先輩を痛い目に遭わせるのは嫌なんですよ。悪いことしたと思っているのならその分も含めて、このまま普通に抱きしめてくださいよ。僕はその方が嬉しいです」
「それ、前にもしたろ? 生徒会室で」
「同じ事をもう一度頼んではいけないのでしょうか?」
実際には同じではないんだけどね。
先輩が気がついてないなら、このまま黙って押し切ろう。
「ふむ。まあ君がそうして欲しいなら、そうするよ」
頭の上に置いた右肘をズラして、そっと僕の頭を抱える。
そのまま自分の方に引き寄せようとしたところで、ピタッと動きが止まった。
「なあ、ポチ。もしかして私たちは、はしたない行為をしようとしてないか?」
うん、やっぱり無理があったか。
しかし、ここまで来て諦めるわけにもいかない。
ここは勢いと笑顔でごまかそう。
「今日はクリスマスイブですから大丈夫です」
「なるほど。クリスマスイブなら仕方ないな」
きっぱり断言したら先輩も納得してくれた。
たぶん血糖値が下がって、判断力が低下しているんだろう。
先輩は僕の頭を抱える手に力を入れて引き寄せようとして、また動きが止まる。
「ところでポチ。私はこういうのがよく分からないのだが、どれくらいの時間ハグしてればいいんだ?」
「えーと、1分でお願いします」
ふむ、そうか。と先輩は僕の頭を引き寄せかけて、また動きが止まる。
「なあ、これ私の胸に直接顔が当たるぞ。少し姿勢を変えた方がいいのではないか?」
「そうですか? 僕は気にしませんが」
しれっと言って見たが、今度はごまかされなかった。
少し困ったように僕を見て、言い訳じみた言葉を口にする。
「私が気になるんだよ。君だってこんな胸に抱かれるのは気持ち悪くないか?」
「僕、先輩の胸、好きですよ。先輩の胸ですから大好きです」
本音をそのまま言ったのに、彼女は軽いため息をついた。
少し頰を赤く染めて、照れたような顔で言う。
「そういう事を気軽に言わないでくれ。恥ずかしくなる」
「だって今日はクリスマスイブです。大好きです、先輩」
先輩は意を決したように強く僕の頭を引き寄せた。
真正面から僕の頭を胸に抱いて、ささやくような声で言う。
「ああ、そうだ。クリスマスイブだったな。私も大好きだよ、ポチ」
——ところで。
人間には胸骨ってものがあるんだ。
左右の肋骨を真ん中で繫ぎ止める大事な骨だ。
もちろん先輩にもその骨はある。
言うまでもなく骨だからとても硬い。
んでもって先輩の胸はとても大きくて二つある。
そして左右にある巨大な双丘の真ん中には深い谷があった。
真正面から頭を抱え込まれたものだから、まず僕の鼻が胸骨に当たって押しつぶされる。
そのままの勢いで周辺の肉が顔に迫って来て、まずいことに口も塞がれてしまった。
首を捻ろうにも巨大な双璧に挟まれて身動きが取れない。
先輩は結構な力で僕の頭を抱えているから、体を離すことさえままならない。
……酸素。
酸素が足りない。
誰か酸素を僕にくれ。
ワリと本気で先輩の体にしがみついて呼吸困難な苦しさに耐える。
ハグは1分。
そう、僕が1分を希望したのだ。
余計な事を言うんじゃなかった。
いや5分とか欲張らなかった自分を褒めるべきか。
春に沙織さんが『あんたの胸は凶器だ』と言っていた意味がいま分かった。
1分経って解放された時には、涙目になって深呼吸するハメになっていた。
策士、策に敗れるとはこういうことか。
変な下心なんて持つもんじゃないね。
僕もお腹空きすぎておかしくなってたのかも。
こういうのに僕が慣れてないせいもあるのだろうが。
ただ痛くて苦しくて、何かを楽しむ余裕なんて全くなかった。




